西堀榮三郎記念探検の殿堂
(クリックで拡大)
西堀榮三郎記念探検の殿堂(滋賀県東近江市)
<I氏からお誘い>
東京在住のI氏から、東近江市の西堀榮三郎記念館に行きませんかとお誘いを受けた。滋賀県在住の身でまだ未訪問の記念館であり、高校と大学の大先輩である西堀榮三郎の名前はもちろん良く知っているので、ぜひ行きましょう、ということになった。I氏は毎日新聞のご出身で、現在はフリージャーナリストの立場で毎日新聞社発行の週刊エコノミスト誌に「名門高校の校風と人脈」という連載記事を執筆しておられ、取材で全国の高校を巡っておられるので、各地の史跡にも詳しい方である。
I氏を私に引き合わせてくれたのは昔の勤務先の同期生である。我が親父が朝日新聞に勤めていた縁もあって以後親交を結ばせていただくこととなり、I氏が来滋される機会に近江商人関連施設や草津本陣などの近江の史跡にご一緒している。今回も何度か日程調整を重ねた結果、2017年4月7日に近江八幡駅で待ち合わせて、東近江市の西堀榮三郎記念探検の殿堂へ行くことになった。また今回、I氏の大学同級生のF氏のご尊父が、この探検の殿堂入りされているという縁で、F氏も同行されることになった。
したがって今回のパーティはI氏、F氏、私の3人ということになった。ちなみに私は京都大学農学部の農芸化学科1965(昭和40)年卒であるが、I氏とF氏は農林経済学科1970(昭和45)年卒なので、理系と文系の違いはあっても同じ農学部卒業生ということで、同窓生のパーティということになった。農林経済学科1973(昭和48)年卒には前滋賀県知事の嘉田由紀子さんがおられるので、今回は何となく京都大学農学部にゆかりのある滋賀県東近江市訪問となった。
<西堀榮三郎記念探検の殿堂>
西堀榮三郎記念探検の殿堂は、近江八幡から車で20分くらいの東近江市横溝町というところにある。愛知(えち)川の東側に位置するので、以前は愛知郡湖東町であったが合併で東近江市となった。愛知川の西側に位置する旧神崎郡五箇荘町と並んで、江戸時代後期には湖東商人と呼ばれる近江商人を輩出した地域である。近くの小田苅には近江商人郷土館があり、以前のウェブログ「湖東の近江商人郷土館」で触れた。2015年2月3日にはI氏とこの郷土館を訪問している。
西堀榮三郎の実家もこの地の近江商人であったことから、東近江市が西堀榮三郎の偉業をはじめ近代日本人探検家を顕彰する施設として、平成6年に西堀榮三郎記念探検の殿堂を建てた。探検の殿堂のパンフレットには、「近江商人の流れを継ぐ西堀榮三郎とともに、未知の世界に挑み、人類の知的財産となるレポートを残した日本の探検家を顕彰することで、探検に不可欠な『パイオニア精神』と『創意工夫の心』を21世紀を担う若者に伝え、青少年の探検・探求心の涵養の場とすることを目的として建設されました」とある。
探検の殿堂は冒頭写真に掲げたように広々とした池のほとりに建っており、散策に適した公園になっている。池沿いの桜並木はまだつぼみの段階であったが、満開になれば桜並木越しに探検の殿堂が見えてさぞかしきれいな風景になるのだろうと思えた。園内には、1958(昭和33)年に南極に取り残されたが、奇跡的に生存していた樺太犬のタロとジロの銅像や、西堀榮三郎が愛用していたピッケルの模型なども設置してある。
写真でわかるようにこの探検の殿堂は一風変わったデザインの建物である。探検の殿堂ホームページによると、「外観は西堀榮三郎の大きな人柄を現すように、ゆったりとした船のような形をしています。東西の一部がふくらんでいるのは、西堀の型破りな行動のシンボルで、外壁の打ち放しコンクリートは、探検家の荒削りな未完成さを表現しています」とある。つまり登山家、探検家であるばかりか、技術者として品質管理、原子力、海洋などの色々な分野において探検的精神を貫いて活躍した、型にとらわれない西堀榮三郎の生き方を表現しているらしい。
探検の殿堂へ入館しF氏が自己紹介されたところ、殿堂入りされている探検家のご子息が来られたということで歓待され、Sさんという女性学芸員の方が案内を引き受けてくださった。通常は2階がアートギャラリーになっており、近世以降の日本の著名探検家の絵画が展示されていて、F氏のご尊父も展示されているのであるが、この日は別の展示になっているとのことで、ご尊父が描かれている絵葉書を頂戴した。探検の殿堂ホームページの「西堀榮三郎と探検家たち」のところにはF氏のご尊父のお名前もあり、山脈形成論の実践論的研究をされたと出ている。
藤田和夫像の絵葉書(F氏のご尊父) 西堀榮三郎記念室
1階には西堀榮三郎記念室があり、その多彩な経歴や事績が紹介されている。年譜で辿ってみる。
1903(明治36)年 京都市で縮緬問屋の末っ子として生まれる。
1914(大正3)年 11歳の時、京都南座で白瀬中尉の南極報告を聞き感動
1918(大正7)年 今西錦司らとともに山登りの会を結成。山城30山の登頂を目指す。
1922(大正11)年 19歳の三高生の時、アインシュタイン夫妻を京都、奈良に案内する。
1927(昭和2)年 京大・東大合同スキー合宿で雪山讃歌作詞
1928(昭和3)年 京都帝国大学理学部講師
1934(昭和9)年 京都帝国大学白頭山遠征
1936(昭和11)年 助教授になるも大学を飛び出し東京電機(現東芝)に入社
1939(昭和14)年 アメリカへ留学 アメリカの南極探検者を訪ね歩き資料収集
1944(昭和19)年 真空管「ソラ」の発明
1950(昭和25)年 日科技連が招いたデミング博士の助手として各地の工場指導
1952(昭和27)年 単身ネパールに入国しマナスル登山の許可を得る。
1954(昭和29)年 品質管理普及の功績によりデミング賞本賞受賞
1956(昭和31)年 南極観測隊副隊長に任命 京都大学理学部教授
1957-1958(昭和32-33)年 第一次南極地域観測隊 越冬隊長
1958(昭和33)年 日本原子力研究所理事
1965(昭和40)年 日本原子力船開発事業団理事
1973(昭和48)年 ヤルン・カン遠征隊長として初登頂 勲三等旭日中綬章叙勲
1980(昭和55)年 チョモランマ登頂に成功(総隊長として指揮)
1989(昭和64)年 享年86歳で死去
西堀榮三郎記念室には、これらの経歴や業績を示す多数の写真や資料が展示されている。館内は原則撮影禁止であるが、許可を頂いてSさんに記念撮影してもらった。榮三郎がアインシュタインと並んだ写真を見ていて、まだ駆け出しの三高生の時に、なぜ世界のアインシュタインの案内役を務めることになったのか不思議に思ってSさんに質問したところ、近江商人だった西堀家と貿易商を営んでいた兄がアインシュタイン滞在のスポンサーとなり、英語が出来た榮三郎に案内役が回ってきたようです、という返事であった。
Sさんのお話では、時代が移るにつれ西堀榮三郎を知っている人が少なくなり、また世の中全体に探検精神が希薄になってきているので、ここ探検の殿堂も運営が厳しくなっているとのことである。しかし、「皆、違うからいい。異質だからいい」、「実践こそが一番大事」、「後輩や部下にチャンスを与えることが一番のプレゼント」などの西堀精神を伝える場として、地域に開かれた博物館をめざして、次世代への財産蓄積や人材育成を図っていこうと尽力されていることがよくわかった。
<雪山讃歌>
「雪よ 岩よ われらが宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに」で始まる雪山讃歌(賛歌とも)は、西堀榮三郎の作詞であり、れっきとした著作権登録もされている。ウィキペディアには、1927(昭和2)年に群馬県嬬恋村の鹿沢温泉で、京都帝国大学山岳部の仲間が山岳部の歌を作ろうと話し合い、西堀榮三郎が詩を書いて、当時山岳部で気に入られていたアメリカ民謡の「いとしのクレメンタイン」のメロディーに当てはめたのが始まり、と出ている。著作権登録手続きをしたのは桑原武夫で、このおかげで山岳部の財政が潤ったとも出ている。
我が母校の京都府立洛北高校は京一中の後継高校なので、山岳部もあり京一中の大先輩からの伝統を引き継いでいた。そのためか山岳部の友人と京都の北山を駆け巡っては、大先輩の西堀榮三郎が作詞した雪山讃歌を歌っていたことをよく覚えている。当時はダークダックスがこの歌を取り上げたので、全国の歌声喫茶などで流行っていたと思う。ウィキペディアには、1959(昭和34)年の第10回NHK紅白歌合戦でダークダックスが雪山讃歌を歌唱したと出ている。
<雪山讃歌追加>
このウェブログを読んだ山岳部の友人から早速コメントがあった。雪山讃歌のひき続く歌詞の中に、「煙い小屋でも 黄金の御殿 早く行こうよ 谷間の小屋へ」という歌詞があるが、この小屋は、現在「北山荘」と呼ばれる小屋の前身の「北山の小屋」だそうである。「北山の小屋」は西堀榮三郎が三高時代に、美津濃の展示会終了後に貰って、京都の北山に運び設置した、ということである。その後三高が地代を払わず京一中に譲り、1942(昭和17)年に現在の場所に新築移設されたそうである。「北山荘」には高校時代、私も一、二度訪れているので知っている。
<南極越冬記>
西堀榮三郎は上記のように多彩な経歴や事績をもつマルチ人材であったが、字を書くことがきらいだったそうで著書は少なく、世に出ているものはせいぜい数冊程度である。それも「百の論より一つの証拠-現場研究術」、「創造力-自然と技術の視点から」、「石橋を叩けば渡れない」、「西堀流新製品開発-忍術でもええで」、「ものづくり道」などの持論にもとづく技術論が多く、自分の仕事の成果を誇るような著書はほとんどない。
そんな中で自分の仕事を振り返った著書が一冊だけあり、それが「南極越冬記」(岩波新書)である。知られているように西堀榮三郎は、1956(昭和31)年に南極観測隊の副隊長に任命され、1957~1958(昭和32~33)年に第一次南極地域観測隊の越冬隊長として、10人の越冬隊員とともに南極のオングル島に設けられた昭和基地で越冬した。あとがきには、南極へ行く前から親友の桑原武夫君から帰国後に一書を公刊することと厳命されたので、帰国後桑原武夫君や梅棹忠夫君の応援を得ながら、越冬個人日誌をまとめて何とかこの本が完成した、とある。
本書は、1957年2月15日の「宗谷」との別れから、1958年2月11日に「宗谷」に戻るまでの1年間の越冬記録である。日本人として初めての南極での越冬で、基地の設営、物資の運搬、インフラ(暖房、トイレ、無線など)の構築、雪上車の整備と修理、犬ゾリの意義、ブリザードとの闘い、日常生活、オーロラや宇宙線の観測と研究、食事、娯楽、極地探検旅行、火事の発生、ペンギン、アザラシ、子犬の誕生、などなどの多彩な出来事について記述してあり、創意工夫とパイオニア精神に溢れる西堀哲学を随所にちりばめた興味深い内容になっている。
第一次の西堀越冬隊が引き揚げたあとの昭和基地は、第二次の村山越冬隊が引き継ぐ予定であった。しかし悪天候のため第一次越冬隊員を小型飛行機で「宗谷」へ帰還させるのがやっとで、紆余曲折を経て第二次越冬隊の上陸を断念せざるを得なくなった。このため第二次越冬隊と対面し、引き続き運搬任務を行うはずの樺太犬15頭が、鎖につながれたまま基地に取り残されてしまった。
本書の「最後の日」という項には、「二月二十四日。最後の日である。4:00の船内放送では、天気わるく、再び放送するまでは待機とのことである。やはり駄目だ。船は相当にローリングをやる。朝食に出てみて、波高く、風強く、雲低いので、いよいよあきらめなければならないと思った。----(中略)---- 10:00ごろ、会議で永田隊長から『あきらめよう』と話があった。ついに昭和基地は空き家になった。そして、犬たち!」とある。
<その後の昭和基地>
ウィキペディアによると、翌1959(昭和34)年1月に第三次越冬隊が昭和基地に上陸したところ、15頭のうち、兄弟犬「タロ」と「ジロ」が生存しているのを発見、再会したが、他の13頭は行方不明またはなきがらの状態で発見された。「タロ」は1961(昭和36)年、第四次越冬隊とともに4年半ぶりで日本に帰国し北大植物園で飼育され、1970(昭和45)年に14歳7か月で天寿を全うした。「ジロ」は第四次越冬中に昭和基地で病死した。21世紀現在では生態系保護のため、南極に犬などの外来の生物を持ち込むことは出来なくなっている。
1961(昭和36)年出発の第六次南極地域観測隊は、最初から越冬の予定はなく、昭和基地を閉鎖して帰還した。1962(昭和37)年から1964(昭和39)年までは日本は南極地域観測隊を派遣していない。1965(昭和40)年出発の第七次南極地域観測隊からは、途切れることなく毎年観測隊が派遣され、毎年越冬も行っている。1968(昭和43)年、村山雅美隊長が率いる第九次越冬隊が、日本人として初めて南極点に到達した。2007(平成19)年には南極地域観測50周年記念500円硬貨が発行されたという。
<所感>
京都の学者の特異性(ユニーク、反中央、多様性など)を表す言葉として、「京都学派」という表現がある。一般的には西田幾太郎と田邉元および彼らに師事した哲学者の学派のことを指すが、別に京都大学人文科学研究所を中心とした学際的な研究を特色としたグループも、「京都学派」あるいは、哲学の京都学派と区別して、「新・京都学派」と呼ばれている。東洋史学の貝塚茂樹、中国文学の吉川幸次郎、フランス文学の桑原武夫、生態学から人類学にまたがる今西錦司、生態学・民族学・人類学の梅棹忠夫、哲学の梅原猛らの著名学者のグループである。
西堀榮三郎はこれらの新・京都学派の学者たちと大変親しい仲だったので、私は、西堀榮三郎もこのグループに属する学者であると誤解していた。しかし年譜や事績を振り返ってみると、学者というよりは企業人であった期間が長く、今でいう産学連携を実践した人のようである。特に日本の製造業が世界に冠たる品質管理技術をもっているのは、西堀榮三郎がデミング博士の品質管理の概念を日本企業に普及させたことも大きく貢献していると思われる。
西堀榮三郎は探検精神に富み、「創意工夫」や「パイオニア精神(フロンティアスピリット)」を大事に考えた人であり、我々も会社の人材教育などでこのような考え方を教育された年代である。平成も30年に迫ろうという今、世の中が何となく管理社会的になり、自由奔放さや、型にはまらない行動がややもすると制約を受ける時代になっているように感じる。探検の殿堂で、西堀語録をまとめた「西堀かるた」が発売されていたので購入した。今一度これらのフロンティア精神を振り返ってみるのも必要と感じた。
西堀かるた(西堀榮三郎記念探検の殿堂発行)
(クリックで拡大)
(クリックで拡大)