2017.05.10

西堀榮三郎記念探検の殿堂

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   西堀榮三郎記念探検の殿堂(滋賀県東近江市)

<I氏からお誘い>
東京在住のI氏から、東近江市の西堀榮三郎記念館に行きませんかとお誘いを受けた。滋賀県在住の身でまだ未訪問の記念館であり、高校と大学の大先輩である西堀榮三郎の名前はもちろん良く知っているので、ぜひ行きましょう、ということになった。I氏は毎日新聞のご出身で、現在はフリージャーナリストの立場で毎日新聞社発行の週刊エコノミスト誌に「名門高校の校風と人脈」という連載記事を執筆しておられ、取材で全国の高校を巡っておられるので、各地の史跡にも詳しい方である。

I氏を私に引き合わせてくれたのは昔の勤務先の同期生である。我が親父が朝日新聞に勤めていた縁もあって以後親交を結ばせていただくこととなり、I氏が来滋される機会に近江商人関連施設や草津本陣などの近江の史跡にご一緒している。今回も何度か日程調整を重ねた結果、2017年4月7日に近江八幡駅で待ち合わせて、東近江市の西堀榮三郎記念探検の殿堂へ行くことになった。また今回、I氏の大学同級生のF氏のご尊父が、この探検の殿堂入りされているという縁で、F氏も同行されることになった。

したがって今回のパーティはI氏、F氏、私の3人ということになった。ちなみに私は京都大学農学部の農芸化学科1965(昭和40)年卒であるが、I氏とF氏は農林経済学科1970(昭和45)年卒なので、理系と文系の違いはあっても同じ農学部卒業生ということで、同窓生のパーティということになった。農林経済学科1973(昭和48)年卒には前滋賀県知事の嘉田由紀子さんがおられるので、今回は何となく京都大学農学部にゆかりのある滋賀県東近江市訪問となった。

<西堀榮三郎記念探検の殿堂>
西堀榮三郎記念探検の殿堂は、近江八幡から車で20分くらいの東近江市横溝町というところにある。愛知(えち)川の東側に位置するので、以前は愛知郡湖東町であったが合併で東近江市となった。愛知川の西側に位置する旧神崎郡五箇荘町と並んで、江戸時代後期には湖東商人と呼ばれる近江商人を輩出した地域である。近くの小田苅には近江商人郷土館があり、以前のウェブログ「湖東の近江商人郷土館」で触れた。2015年2月3日にはI氏とこの郷土館を訪問している。

  • 湖東の近江商人郷土館

    西堀榮三郎の実家もこの地の近江商人であったことから、東近江市が西堀榮三郎の偉業をはじめ近代日本人探検家を顕彰する施設として、平成6年に西堀榮三郎記念探検の殿堂を建てた。探検の殿堂のパンフレットには、「近江商人の流れを継ぐ西堀榮三郎とともに、未知の世界に挑み、人類の知的財産となるレポートを残した日本の探検家を顕彰することで、探検に不可欠な『パイオニア精神』と『創意工夫の心』を21世紀を担う若者に伝え、青少年の探検・探求心の涵養の場とすることを目的として建設されました」とある。

    探検の殿堂は冒頭写真に掲げたように広々とした池のほとりに建っており、散策に適した公園になっている。池沿いの桜並木はまだつぼみの段階であったが、満開になれば桜並木越しに探検の殿堂が見えてさぞかしきれいな風景になるのだろうと思えた。園内には、1958(昭和33)年に南極に取り残されたが、奇跡的に生存していた樺太犬のタロとジロの銅像や、西堀榮三郎が愛用していたピッケルの模型なども設置してある。

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          樺太犬のタロとジロ              愛用のピッケルの模型

    写真でわかるようにこの探検の殿堂は一風変わったデザインの建物である。探検の殿堂ホームページによると、「外観は西堀榮三郎の大きな人柄を現すように、ゆったりとした船のような形をしています。東西の一部がふくらんでいるのは、西堀の型破りな行動のシンボルで、外壁の打ち放しコンクリートは、探検家の荒削りな未完成さを表現しています」とある。つまり登山家、探検家であるばかりか、技術者として品質管理、原子力、海洋などの色々な分野において探検的精神を貫いて活躍した、型にとらわれない西堀榮三郎の生き方を表現しているらしい。

    探検の殿堂へ入館しF氏が自己紹介されたところ、殿堂入りされている探検家のご子息が来られたということで歓待され、Sさんという女性学芸員の方が案内を引き受けてくださった。通常は2階がアートギャラリーになっており、近世以降の日本の著名探検家の絵画が展示されていて、F氏のご尊父も展示されているのであるが、この日は別の展示になっているとのことで、ご尊父が描かれている絵葉書を頂戴した。探検の殿堂ホームページの「西堀榮三郎と探検家たち」のところにはF氏のご尊父のお名前もあり、山脈形成論の実践論的研究をされたと出ている。

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      藤田和夫像の絵葉書(F氏のご尊父)         西堀榮三郎記念室
              
    1階には西堀榮三郎記念室があり、その多彩な経歴や事績が紹介されている。年譜で辿ってみる。
    1903(明治36)年 京都市で縮緬問屋の末っ子として生まれる。
    1914(大正3)年  11歳の時、京都南座で白瀬中尉の南極報告を聞き感動
    1918(大正7)年  今西錦司らとともに山登りの会を結成。山城30山の登頂を目指す。
    1922(大正11)年 19歳の三高生の時、アインシュタイン夫妻を京都、奈良に案内する。
    1927(昭和2)年  京大・東大合同スキー合宿で雪山讃歌作詞
    1928(昭和3)年  京都帝国大学理学部講師
    1934(昭和9)年  京都帝国大学白頭山遠征
    1936(昭和11)年 助教授になるも大学を飛び出し東京電機(現東芝)に入社
    1939(昭和14)年 アメリカへ留学 アメリカの南極探検者を訪ね歩き資料収集
    1944(昭和19)年 真空管「ソラ」の発明
    1950(昭和25)年 日科技連が招いたデミング博士の助手として各地の工場指導
    1952(昭和27)年 単身ネパールに入国しマナスル登山の許可を得る。
    1954(昭和29)年 品質管理普及の功績によりデミング賞本賞受賞
    1956(昭和31)年 南極観測隊副隊長に任命 京都大学理学部教授
    1957-1958(昭和32-33)年 第一次南極地域観測隊 越冬隊長
    1958(昭和33)年 日本原子力研究所理事
    1965(昭和40)年 日本原子力船開発事業団理事
    1973(昭和48)年 ヤルン・カン遠征隊長として初登頂 勲三等旭日中綬章叙勲
    1980(昭和55)年 チョモランマ登頂に成功(総隊長として指揮)
    1989(昭和64)年 享年86歳で死去

    西堀榮三郎記念室には、これらの経歴や業績を示す多数の写真や資料が展示されている。館内は原則撮影禁止であるが、許可を頂いてSさんに記念撮影してもらった。榮三郎がアインシュタインと並んだ写真を見ていて、まだ駆け出しの三高生の時に、なぜ世界のアインシュタインの案内役を務めることになったのか不思議に思ってSさんに質問したところ、近江商人だった西堀家と貿易商を営んでいた兄がアインシュタイン滞在のスポンサーとなり、英語が出来た榮三郎に案内役が回ってきたようです、という返事であった。

    Sさんのお話では、時代が移るにつれ西堀榮三郎を知っている人が少なくなり、また世の中全体に探検精神が希薄になってきているので、ここ探検の殿堂も運営が厳しくなっているとのことである。しかし、「皆、違うからいい。異質だからいい」、「実践こそが一番大事」、「後輩や部下にチャンスを与えることが一番のプレゼント」などの西堀精神を伝える場として、地域に開かれた博物館をめざして、次世代への財産蓄積や人材育成を図っていこうと尽力されていることがよくわかった。

    <雪山讃歌>
    「雪よ 岩よ われらが宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに」で始まる雪山讃歌(賛歌とも)は、西堀榮三郎の作詞であり、れっきとした著作権登録もされている。ウィキペディアには、1927(昭和2)年に群馬県嬬恋村の鹿沢温泉で、京都帝国大学山岳部の仲間が山岳部の歌を作ろうと話し合い、西堀榮三郎が詩を書いて、当時山岳部で気に入られていたアメリカ民謡の「いとしのクレメンタイン」のメロディーに当てはめたのが始まり、と出ている。著作権登録手続きをしたのは桑原武夫で、このおかげで山岳部の財政が潤ったとも出ている。

    我が母校の京都府立洛北高校は京一中の後継高校なので、山岳部もあり京一中の大先輩からの伝統を引き継いでいた。そのためか山岳部の友人と京都の北山を駆け巡っては、大先輩の西堀榮三郎が作詞した雪山讃歌を歌っていたことをよく覚えている。当時はダークダックスがこの歌を取り上げたので、全国の歌声喫茶などで流行っていたと思う。ウィキペディアには、1959(昭和34)年の第10回NHK紅白歌合戦でダークダックスが雪山讃歌を歌唱したと出ている。

    <雪山讃歌追加>
    このウェブログを読んだ山岳部の友人から早速コメントがあった。雪山讃歌のひき続く歌詞の中に、「煙い小屋でも 黄金の御殿 早く行こうよ 谷間の小屋へ」という歌詞があるが、この小屋は、現在「北山荘」と呼ばれる小屋の前身の「北山の小屋」だそうである。「北山の小屋」は西堀榮三郎が三高時代に、美津濃の展示会終了後に貰って、京都の北山に運び設置した、ということである。その後三高が地代を払わず京一中に譲り、1942(昭和17)年に現在の場所に新築移設されたそうである。「北山荘」には高校時代、私も一、二度訪れているので知っている。

    <南極越冬記>
    Photo西堀榮三郎は上記のように多彩な経歴や事績をもつマルチ人材であったが、字を書くことがきらいだったそうで著書は少なく、世に出ているものはせいぜい数冊程度である。それも「百の論より一つの証拠-現場研究術」、「創造力-自然と技術の視点から」、「石橋を叩けば渡れない」、「西堀流新製品開発-忍術でもええで」、「ものづくり道」などの持論にもとづく技術論が多く、自分の仕事の成果を誇るような著書はほとんどない。

    そんな中で自分の仕事を振り返った著書が一冊だけあり、それが「南極越冬記」(岩波新書)である。知られているように西堀榮三郎は、1956(昭和31)年に南極観測隊の副隊長に任命され、1957~1958(昭和32~33)年に第一次南極地域観測隊の越冬隊長として、10人の越冬隊員とともに南極のオングル島に設けられた昭和基地で越冬した。あとがきには、南極へ行く前から親友の桑原武夫君から帰国後に一書を公刊することと厳命されたので、帰国後桑原武夫君や梅棹忠夫君の応援を得ながら、越冬個人日誌をまとめて何とかこの本が完成した、とある。

    本書は、1957年2月15日の「宗谷」との別れから、1958年2月11日に「宗谷」に戻るまでの1年間の越冬記録である。日本人として初めての南極での越冬で、基地の設営、物資の運搬、インフラ(暖房、トイレ、無線など)の構築、雪上車の整備と修理、犬ゾリの意義、ブリザードとの闘い、日常生活、オーロラや宇宙線の観測と研究、食事、娯楽、極地探検旅行、火事の発生、ペンギン、アザラシ、子犬の誕生、などなどの多彩な出来事について記述してあり、創意工夫とパイオニア精神に溢れる西堀哲学を随所にちりばめた興味深い内容になっている。

    第一次の西堀越冬隊が引き揚げたあとの昭和基地は、第二次の村山越冬隊が引き継ぐ予定であった。しかし悪天候のため第一次越冬隊員を小型飛行機で「宗谷」へ帰還させるのがやっとで、紆余曲折を経て第二次越冬隊の上陸を断念せざるを得なくなった。このため第二次越冬隊と対面し、引き続き運搬任務を行うはずの樺太犬15頭が、鎖につながれたまま基地に取り残されてしまった。

    本書の「最後の日」という項には、「二月二十四日。最後の日である。4:00の船内放送では、天気わるく、再び放送するまでは待機とのことである。やはり駄目だ。船は相当にローリングをやる。朝食に出てみて、波高く、風強く、雲低いので、いよいよあきらめなければならないと思った。----(中略)---- 10:00ごろ、会議で永田隊長から『あきらめよう』と話があった。ついに昭和基地は空き家になった。そして、犬たち!」とある。

    <その後の昭和基地>
    ウィキペディアによると、翌1959(昭和34)年1月に第三次越冬隊が昭和基地に上陸したところ、15頭のうち、兄弟犬「タロ」と「ジロ」が生存しているのを発見、再会したが、他の13頭は行方不明またはなきがらの状態で発見された。「タロ」は1961(昭和36)年、第四次越冬隊とともに4年半ぶりで日本に帰国し北大植物園で飼育され、1970(昭和45)年に14歳7か月で天寿を全うした。「ジロ」は第四次越冬中に昭和基地で病死した。21世紀現在では生態系保護のため、南極に犬などの外来の生物を持ち込むことは出来なくなっている。

    1961(昭和36)年出発の第六次南極地域観測隊は、最初から越冬の予定はなく、昭和基地を閉鎖して帰還した。1962(昭和37)年から1964(昭和39)年までは日本は南極地域観測隊を派遣していない。1965(昭和40)年出発の第七次南極地域観測隊からは、途切れることなく毎年観測隊が派遣され、毎年越冬も行っている。1968(昭和43)年、村山雅美隊長が率いる第九次越冬隊が、日本人として初めて南極点に到達した。2007(平成19)年には南極地域観測50周年記念500円硬貨が発行されたという。

    <所感>
    京都の学者の特異性(ユニーク、反中央、多様性など)を表す言葉として、「京都学派」という表現がある。一般的には西田幾太郎と田邉元および彼らに師事した哲学者の学派のことを指すが、別に京都大学人文科学研究所を中心とした学際的な研究を特色としたグループも、「京都学派」あるいは、哲学の京都学派と区別して、「新・京都学派」と呼ばれている。東洋史学の貝塚茂樹、中国文学の吉川幸次郎、フランス文学の桑原武夫、生態学から人類学にまたがる今西錦司、生態学・民族学・人類学の梅棹忠夫、哲学の梅原猛らの著名学者のグループである。

    西堀榮三郎はこれらの新・京都学派の学者たちと大変親しい仲だったので、私は、西堀榮三郎もこのグループに属する学者であると誤解していた。しかし年譜や事績を振り返ってみると、学者というよりは企業人であった期間が長く、今でいう産学連携を実践した人のようである。特に日本の製造業が世界に冠たる品質管理技術をもっているのは、西堀榮三郎がデミング博士の品質管理の概念を日本企業に普及させたことも大きく貢献していると思われる。

    西堀榮三郎は探検精神に富み、「創意工夫」や「パイオニア精神(フロンティアスピリット)」を大事に考えた人であり、我々も会社の人材教育などでこのような考え方を教育された年代である。平成も30年に迫ろうという今、世の中が何となく管理社会的になり、自由奔放さや、型にはまらない行動がややもすると制約を受ける時代になっているように感じる。探検の殿堂で、西堀語録をまとめた「西堀かるた」が発売されていたので購入した。今一度これらのフロンティア精神を振り返ってみるのも必要と感じた。

            西堀かるた(西堀榮三郎記念探検の殿堂発行)
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    2015.08.31

    虫が視る花の色と姿?!

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                むしのめ写真集

    <むしのめ写真集>
    ここ2,3年の間に、高校や大学の同級生、会社の同期生などの親しかった友人が何人も亡くなった。もう古希を過ぎた年代なので、昔ならいつ亡くなってもおかしくない歳なのだが、日本人男性の平均寿命が80歳になった現在ではまだ早逝であり、残念なことこの上ない。皆それぞれの人生を歩み、それぞれの足跡を残しているわけであるが、中には残した足跡が後継者に引き継がれて、さらに大きく育っているというような羨ましいケースもある。

    そういう例として特に思い出に残るのが、京都洛北高校と京都大学農芸化学科の両方で同級だったF君のことである。2013年5月、東京へ出張中に彼の訃報を知り、最終日の予定をキャンセルして京都での告別式に参列した。会場には「虫が視る花の色と姿?! むしのめ」と表題の記された冒頭の写真集が飾ってあった。F君が晩年、趣味も兼ねて精魂を傾けていた紫外線下で撮影した種々の花の写真集で、2007年7月に発行されたものである。

    「はじめに」には、「地球上には、太陽からさまざまな光線が降り注いでいます。植物は、その光線を利用して光合成し有機物質を作り、人間をはじめとする動物たちに食べ物を与えてくれます。太陽光線には可視光線だけでなく、遺伝子に損傷を与える紫外線も含まれています。動けない植物は、その紫外線にどのように対処しているのでしょうか。その紫外線を照射して、暗室で花の写真を撮ってみました。写真を見ながら、花の役割や機能を考えてみてください。」とあって、単なる花の写真集ではないことがわかる。

    可視光線下と紫外線下で撮影された花の写真を、写真集から少し引用させていただく。可視光線下での写真は通常我々が目にする花の姿であるが、紫外線下で撮影された花は、まるで夜空に浮かぶ花火のように美しく光っており、一見同じ花とは思えないことがわかる。

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    Himawari
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    つまり我々人間が可視光線の下で視ている花を、暗室で紫外線を照射して見ると、花粉や雄しべ、雌しべなどが部分的に光って見え、すごく幻想的な写真が撮れることをF君は見つけたのであった。さらに彼は単なる写真好きではなく、なぜ花が紫外線の下ではこのように見えるのかについて科学的な考察を行い、大変説得性のある仮説を提唱したのであった。その仮説はこの写真集の「おわりに」に述べられている。

    <紫外線下で花が光る仮説>
    「いろんな花の写真を楽しんで頂けたでしょうか。植物も見る角度を変えると不思議な世界が広がります。なぜこのような姿を見せるのでしょうか?」

    「太陽から降り注ぐ光線のうちで、人間の眼に視えない紫外線は遺伝子の本体であるDNAを破壊するエネルギーを持っています。DNAを含んでいる植物の花粉は受粉を容易にするために花びらから飛び出しています。また花びらはパラボラアンテナの形をしており太陽光を花粉のところに集める役割をつとめています。ですから、花粉は紫外線にさらされています。」

    「健全に子孫を残すためには、紫外線の害から花粉内のDNAを守る必要があります。その一つの方法として、花粉あるいは葯(やく)の表面で紫外線を吸収しそのエネルギーを利用して蛍光を発し、紫外線の害作用を除去するようになったと考えることができます。」

    「また、花には植物が作った蜜がたまっています。昆虫がその蜜を見つけるためには、花粉のありかを見つけることで容易になります。多くの昆虫は花粉を見つけるために、その蛍光現象を利用するようになったことは理にかなっていると考えられます。」

    「その能力を利用して、モンシロチョウは、その羽が紫外線を反射するか吸収するかによって、雌雄を見分けているのではないでしょうか。昆虫が視る花の色と姿が写真と同じであるとは言えませんが、人間が視ているものと異なることが容易に想像できます。」

    つまり彼は、花の一部が紫外線により蛍光を発していて、その理由は、内部にあるDNAのような大切な遺伝子を紫外線から守るためということと、蛍光現象を感知する能力のある昆虫を呼び寄せて、受粉を容易にするためということの、一石二鳥の戦略であるという仮説を述べている。

    <虫が視る花?!「虫の目」植物図鑑>
    実は、F君は2007年4月14日の我々のクラス会で、この「虫が視る花の色と姿?!」の話をしたのである。その時、場所を移動しない植物が生き残るために極めて合理的な知恵と、うまい仕組みを持っているという、その仮説の面白さに大変強い印象を受けた。ただF君は、僕はもうリタイヤの身だから、きれいな花の写真を撮ることに専念し、メカニズムの解明は若い人に託すよ、と言っていた。

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            F君                  クラス会出席メンバー

    その言葉通り、F君は紫外線下でのこのような幻想的な花の写真に魅入られ、京都薬科大学附属薬用植物園の協力の下に次々と色々な花の写真を撮影し、京都や大阪で何度か虫の目写真展を開催された。私も写真好きの友人や高校・大学の同級生、および所属する日本繊維技術士センターの会員にも知らせて、彼の貴重な作品展を見に行った。

    そして彼は、ついに600種を超える花について、それぞれ可視光線下と紫外線下での花の色と姿を比較できる写真を、インターネットのホームページに公開したのである。彼はそれを、【虫が視る花?!「虫の目」植物図鑑~ 紫外線照射写真で見る花の姿と彩 ~】と名付けて、世界に一つしかないユニークな植物図鑑としても使用出来るようにした。

  • 虫が視る花?!「虫の目」植物図鑑~ 紫外線照射写真で見る花の姿と彩 ~

    このホームページは2013(平成25)年3月9日の更新で終わっている。F君が5月に逝去されたからである。彼の逝去から2年余り経った現在も、このホームページはちゃんと開設されていて、花の植物図鑑として立派に機能している。一見するとわかるように、F君の斬新なアイデアと優れた写真技術が盛り込まれた素晴らしいホームページである。彼が2年前に書いたお知らせはそのまま残っている。

    「当ホームページの構築は3月9日の更新でほぼ完成しましたが、今後さらに写真を整理して追加・更新していく予定です。平成25年3月9日現在、アーティチョークからワルナスビまで アイウエオ順に六百種余りの花の写真 (可視光線と紫外線を別々に照射して撮影) を掲載しています。現在、第59ページまで作成しました。1ページには十~十数種の花の写真を載せています。【植物名索引】あるいは【写真第1ページ】のボタンをクリックしてみてください。」

    <遺作写真展>
    2013年8月に、F君がこれまで撮影した数々の花の写真を展示する遺作写真展(第2回むしのめ展)が、京都府立植物園で開催された。農芸化学の同級生数人と一緒に伺ったところ、この遺作展開催に尽力された京都大学農学研究科のH先生から、蛍光物質が見つかり化学構造もほぼ同定出来たというお話を伺い、良かったなあ、という気持とともに、F君の着眼の凄さに改めて感心した。

    さらに2014年8月にも、第3回むしのめ展が京都府立植物園で開催された。この時の遺作展では、京都大学生態学研究センターのT先生が、「葉っぱのかおりの生態学から見る生き物ネットワーク」という特別講演をされた。会場でF君の奥様とH先生にもお会いすることができ、H先生からはF君の仮説の検証が実験的には達成出来たとの嬉しいお話を伺った。

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        2013年8月18日むしの目展          2014年8月17日むしの目展

    <所 感>
    日本では、四季を通じて何らかの花が咲いていて、季節感を得ることができるし、花の美しさに感動することが出来る。しかも多年生の植物は毎年同じ時期に開花し、我々人間を楽しませてくれる。しかし、一見何事もなく咲いている花の裏面では、場所を移動しない植物が生き残るために巧みな知恵や仕組みを働かせていることに驚かざるを得ない。

    私などは、きれいな花や面白い形の花を見ると、デジカメで撮影してFacebookに投稿するくらいが関の山であるが、F君は、紫外線を照射して花の写真を撮ることによって、花の美しさの裏に隠れた、知られざる幻想的なもう一つの花の世界があることを、我々に知らせてくれた。さらにその学術的な意味についても、これまでだれも思いつかなかった大変説得性のある仮説を提唱した。

    彼の逝去後に、H先生を始めとする後継の研究者の皆さんが、彼の仮説の検証に取り組まれ、研究成果に結びつけようとされていることは、高校と大学でF君と同級だった私にとっては感動的である。


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    2015.05.08

    雪は天から送られた手紙-中谷宇吉郎-

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         中谷宇吉郎 雪の科学館(石川県加賀市片山津)

    <中谷宇吉郎を輩出した片山津>
    石川県加賀市の片山津(かたやまづ)には、家族がメンバーになっているリゾート施設があるのでしばしば訪れる。以前のウェブログ「加賀の赤瓦屋根」および「続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷-」では、加賀地方の赤瓦屋根について触れた。前者のウェブログには、加賀市内の大聖寺(だいしょうじ)にある石川県九谷焼美術館、山の下寺院群の全昌寺や実性院、および大聖寺藩の前田家廟所を、雪の中に訪問したことを記している。

  • 加賀の赤瓦屋根
  • 続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷

    「雪」というと、片山津は雪に大変縁が深い町である。北陸地方なので冬に雪が降るということもあるが、そういうことではない。日本を代表する科学者の一人で、偉大な雪の研究者である中谷宇吉郎(なかやうきちろう)博士を生んだ町だからである。片山津には中谷宇吉郎博士の雪や氷についての研究の功績を記念し、その研究経過や成果を展示する中谷宇吉郎 雪の科学館がある。大聖寺で生まれた著名な作家で登山家の、深田久弥とともに郷土の偉人である。

    今年も3月29日から31日にかけて片山津を訪問したので、帰途についた31日に雪の科学館に立ち寄り、冒頭の写真を撮影した。今回は中へは入らなかったが、これまで2度ほど館内を見学し、中谷宇吉郎博士のひととなりゾーン、「雪の結晶」ゾーン、「氷の結晶」ゾーン、「グリーンランド・ハワイ」ゾーン、「世界の中の宇吉郎」ゾーンの各展示を見て、博士のひととなりや研究業績に触れたことがある。

    今回の片山津行をきっかけに中谷宇吉郎博士の像に触れて見ることにした。

    <科学の方法>
    Photo_3私が昭和40(1965)年に入社した会社では、同室の先輩が京都洛北高校の同窓生であったことから親しくなり、会社生活や研究開発の進め方についていろいろアドバイスを頂いた。その時に、これは良い本だよ、と言って読むことを勧められたのが、中谷宇吉郎著の「科学の方法」(岩波新書)であった。昭和33(1958)年に初版が発行されたもので、科学の本質を一般向けにわかりやすく解説した名著である。

    目次を拾うと、科学の限界、科学の本質、測定の精度、質量とエネルギー、解ける問題と解けない問題、物質の科学と生命の科学、科学と数学、定性的と定量的、実験、理論、科学における人間的要素、といった項目になっている。科学や技術を志す者にとっては常識として知っておかねばならない重要な項目が、適切な事例とともに平易に解説されている。

    この時代、科学が非常に進歩して、人工衛星が飛んだり人工頭脳のような機械ができたりしたために、科学ブームがおこり、科学万能主義的な考え方が一部の風潮になったりしていた。この書はそのような風潮をいましめ、科学を正確に理解するための啓蒙書として発刊されたように思われる。この書が書かれてもう60年近く経過しているが、今読み直しても全く違和感を感じない内容である。中谷宇吉郎博士はこの書を書いて4年後に他界されたが、原発事故やSTAP問題が起ったりして科学の危機が叫ばれている科学技術の現状をどのように感じられているのか知りたい気になる。


    <生い立ち>
    Photo_2中谷宇吉郎は明治33(1900)年に片山津で生まれ、学齢期になると母方の親戚に預けられ大聖寺で小学校生活を送った。父の宇一郎は呉服と雑貨を営む家業の一方、九谷焼に熱中していて、宇吉郎をいずれ九谷焼の陶工に育てたかったらしく、そのため小学校を出たら小松の工業学校の窯業科に入れるつもりだったらしい。小学校時代には宇吉郎を九谷焼の名工のもとに英語を習いに通わせたり、全昌寺の和尚のもとへ習字を習いに行かせたという。

    しかし宇吉郎が小学校を卒業すると一週間も経たないうちに父が急逝した。宇吉郎は工業学校の方はやめて県立小松中学校に進み、次いで金沢の第四高等学校を経て、東京帝国大学物理学科に入学することになる。父宇一郎がずっと健在であれば、宇吉郎は偉大な物理学者ではなく、九谷焼の名工になっていたかもしれないというエピソードである。ちなみに関西の実業家鳥居信治郎(寿屋サントリーの始祖)が、高校大学を通じて宇吉郎の学資の援助をしてくれたという。

    大学二年の時に寺田寅彦と出会い、その教えを受けて実験物理学を志すようになり、卒業後は理化学研究所で寺田研究室の助手となった。寺田寅彦はよく知られているように、物理学者でありながら文豪夏目漱石の弟子となり、随筆家としても名声が高かった。このような学風が宇吉郎の研究姿勢にも大きな影響を与えたと思われ、宇吉郎が優れた随筆を多数書いていることも寺田寅彦の影響と思われる。

    <研究業績>
    宇吉郎は、昭和3(1928)年にイギリスのキングス・カレッジ・ロンドンに留学し帰国後、昭和5(1930)年に北海道帝国大学理学部の助教授となり、昭和6(1931)年に長波長X線の発生に関する論文により、京都帝国大学で理学博士号を受ける。北海道帝国大学の教授となった昭和7(1932)年頃から雪の結晶の研究を始める。この研究の引き金になったのは前年に米国で発刊されたベントレイの雪の結晶の写真集とされる。

    宇吉郎自身札幌に住んで、北海道で降る雪は故郷の石川県で降る雪よりもずっと綺麗な結晶形をもっていることに気づいており、学問として雪の結晶を扱うことにしたと思われる。北海道は雪の結晶の種類には極めて恵まれていて、世界中で知られているほとんどの結晶の型が見られたという。十勝岳の山小屋で数年観測した結果、これらの雪の結晶の形状の違いを分類して名称をつけることができた。

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              雪の結晶分類図(クリックで拡大)

    昭和11(1936)年には大学内の理学部北に建設していた低温実験室が完成し、人工雪の製作に世界で初めて成功した。さらに気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明するためのナカヤ・ダイヤグラムを作り、地上に降ってくる雪の結晶を見れば、その結晶が発生し、成長してくる上空の気象条件が分かるようになった。このことを宇吉郎は「雪は天から送られた手紙である」と表現している。この研究業績に対して昭和16(1941)年の帝国学士院賞が授与された。

    この年には、宇吉郎が作った低温実験室を母体として、日本の北大では低温科学研究所が創立されていたが、米国ではこのような研究所はまだなかったという。太平洋戦争が終わり世の中が落ち着きだした昭和27(1952)年に、日本の低温科学研究所を参考にして、米国イリノイ州ウィルメットに雪氷凍土研究所が設立され、宇吉郎は招かれてここで2年間研究員を務め、氷単結晶の研究を行っている。ここでは氷の単結晶を用いて、氷を曲げる研究を行っている。

    さらに宇吉郎は、昭和32(1957)年から米国雪氷凍土研究所のチームに加わって、グリーンランドの氷冠(ひょうかん)の調査を行った。氷床に積もっている2000m以上もある氷冠は何万年もの間に降り積もった雪が、その自重の圧力を受けて氷に変わったものであり、掘削してコア氷を取りだせば太古の氷を得ることが出来るのである。宇吉郎はこの年から4年続けてグリーンランドに出かけているが、次第に健康を害し癌のため昭和37(1962)年に他界した。

    <科学映画のプロダクション設立>
    宇吉郎は学問一筋という学者ではなかったらしく、自分の研究を含め科学を一般の人々に分かりやすく伝えるための随筆をよくするとともに、科学映画の製作にも携わっている。昭和23(1948)年には日本映画社の協力により科学映画「霧の華」と「大雪山の雪」を完成させ、この時の映画会社のスタッフとともに、翌年、中谷研究室プロダクションを立ち上げたという。このプロダクションは後に岩波映画製作所となった。

    <肝臓ジストマの体験者>
    Photo朝日新聞社に勤めていた我が親父は中谷宇吉郎博士から話を伺う機会があったらしく、私が子供の頃に、「中谷先生はなあ、肝臓ジストマに罹られたことがあるんだよ。」と話してくれたことを記憶している。それ以来肝臓ジストマという病気を認識し、この名前を聞くと中谷博士を思い浮かべるようになった。この話は本当で、雪の科学館発行の「中谷宇吉郎雪の物語」に、武見太郎医師が「中谷君と病気」という題で追想文を記している。

    「中谷君と私との交友は彼の大患をもって始まる。当時私は慶大内科の無給助手だった。寄生虫学の小泉丹教授が私の研究室に見えて、『一寸わけのある患者を頼む。どうせ助かるものではない。〇〇教授と××教授が腸結核末期という一致した診断だから君にあとを任せる』という言いつけである。・・・・・両教授は東大、北大の高名な教授で私などは口も利けない大家であった。」

    「数日後に小泉教授は岩波茂雄さんと共に中谷君をつれて来られた。顔面蒼白、痩せ衰えて夏だと云うのに毛のシャツ二枚重ねであった。眼は鋭く、異様に光って、話す口調は元気こそないが、病歴の要を得た正確さに私はまず驚かされた。彼の語った病歴の中で、彼は高名の二教授の診断に対して、物理学者として未だ満足していないことを静かに語った。恐るべき患者であることを私は直観した。」

    「私の第一回の診断は内科医として型通りの全くふだんと変わらない方法で行われた。中谷君は試験官であり、私は受験生と云う立場にいたことは彼の眼で判った。簡単な打診、聴診、触診にも物理学のあることは医師は大抵忘れている。ところが彼は寺田寅彦先生の物理学的教養で今日まで自分のかかる医師を片っ端から診断してきたのである。」

    「病気の方は次第に解明されて、結核性のものでないことは確定出来たし、肝臓ジストマが沢山いることも判り、他に腸内寄生虫も発見され、それ等の治療の順序も決めることが出来た。全身の衰弱がひどいので、肝ジストマの駆除に使うアンチモン剤の使用は小泉教授から慎重にやれと云われたが、これも成功した。次第に全症状が消退した。そして全身状態もよくなったことは勿論である。」

    後にケンカ太郎と異名をとり、日本医師会の大ボスとなって、政治家に強力な医師特権を認めさせた武見太郎の追想文なので、大変興味深い。武見太郎をして畏敬させた中谷博士の人間性が良く偲ばれる追想文である。

    <徳川夢声との対談>
    我家に朝日新聞社発行の「問答有用」という9冊組のシリーズ本が、親父の遺産として残っている。日本の元祖マルチタレントと言われる徳川夢声が、各界の著名人と対談して、週刊朝日の人気連載となったものを、昭和27(1952)年から9冊の単行本シリーズとして発刊されたもので、そのⅠに中谷宇吉郎博士が登場する。

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        「問答有用」夢声対談集(クリックで拡大)

    対談を読んでみると、徳川夢声の洒脱な質問と、中谷博士の分かりやすい軽妙な答えの応酬で面白い対談になっている。昭和27(1952)年頃の日本は、前年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、やっと米軍による占領時代を脱した時期であるが、対談の中では、アメリカ何するものぞ、という気概も見られて、当時の日本人に勇気を与えてくれたように思える。一部を抜粋する。

    夢声「雪や霜、あるいは寒冷現象というようなものを御専攻になった経路、動機というようなことから・・・。」

    中谷「わたくしはロンドンのキングス・カレッジで、リチャードソンという、ノーベル賞をもらった人について、今の原子力物理学のはじめのようなことをやっていたんです。帰ってから札幌へいったんですが、札幌には、当時ガラス管一本ない。エボナイトの板なんていったって、知らないんです。もう二十二、三年前ですがね。」

    夢声「札幌ってところは、ある意味では東京よりハイカラなところのように、あたくしどもかんがえていましたけどねェ。」

    中谷「ああいうものは、理科系統の学校の研究所がなければ、ほとんどないもんですからね。私は札幌へ帰ってからロンドンでやっていた仕事を続けようと思ったが、全然手が出ない。それで仕方なしに雪の研究を始めたんです。(笑)こいつなら材料は幾らでもあるし、しかもタダ・・・。(笑)」

    夢声「それは意外な理由でしたな、札幌にガラス・パイプなかりしために、雪の研究が始まったというのは。」

    中谷「この研究なら、なんにも機械は要らないんです。ただ顕微鏡一台あればいいんですからね。」

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    夢声「早川雪洲が十五年ぶりかでハリウッドにいったんですな。スター連中が集まってカクテル・パーティをやってくれたそうです。さぞにぎやかな会だろうと思って、いってみると、いやに静かなんですって。雪洲に向かって『お前は仏教信者か』ってきいた。雪洲は若い時分はお寺にいたことがあるんです。彼もホラを吹きますからね、『おれは禅の専門家である』といったんです。みんなとりまいて雪洲の禅の講義を聞こうということになった。『万有は無なり』てなことをいったんですな。みんな感心したそうです。」

    中谷「なぜそういうものが、現在のアメリカでさかんになってきたかというと、アメリカであんなに科学が進歩しても、人間は幸福にならないということがわかってきたからなんです。」

    夢声「電気冷蔵庫があり、自動車があり、テレヴィジョンがあって、いったい何が不幸なのかってえと、これだけで幸福というのはおかしいって気がしてきていると思うんです。現在の科学がタッチしない面に、何かがあるだろうというんでね。」

    中谷「日本人は、自動車や電気冷蔵庫を持つことがうらやましいといいますけどね。これは飛んでもない盲点があるんですね。いまの日本にいて、そういうものがあれば便利だが、アメリカでそんなものを持っていてもちっとも便利じゃない。ただ。これがなけりゃ生きていけないという、生活必需品であるだけなんです。日本にああいうものが普及するころは、もう便利でもなんでもないようになってる時でしょうね。」

    夢声「普及するまでは、あれは幸福の幻影を与えてくれますからな、決して無意味じゃないですね。(笑)」

    中谷「向うへいったら、その幻影さえも味わえないんです。」

    <所感>
    中谷宇吉郎博士は明治33年生まれであるから、我が親父より2歳年上である。我が親父もそうであったが明治生まれの人々には、どこか気骨というものが備わっていたような気がする。良い意味での頑固と言っても良いであろう。病気になって医者に診てもらうのに、従順な患者ではなくその医者を逆に診断しているという武見太郎の見方は、明治生まれの典型的な頑固さによるのかもしれない。

    中谷博士は原子力物理学を志しイギリスへ留学したが、帰国してみると実験に必要な器具が揃わず、やむを得ずお金のいらない雪の研究に向かったというのは、半分は本当で半分は誇張かも知れない。アメリカのベントレイというアマチュアが、50年をかけて雪の結晶の多彩さや美しさを顕微鏡写真に撮り続けた、雪の結晶写真集に魅せられたともされているからである。

    昭和27年頃の日本は米国の物質文明の豊かさに圧倒され、3種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)を購入することが夢であった。しかし対談中の中谷博士の言でもわかるように、豊かな電化製品をもつことは必ずしも幸福につながるものではなく、むしろ精神的な豊かさが幸福には必要なのだということを主張されている。

    物質文明の豊かさを結果として期待する世間の科学への認識が、そんなことではない、科学には本質的な限界があるということを中谷博士は強く感じ、前述の「科学の方法」を始めとする多数の科学随筆や科学映画を作られたのであろう。逝去後、半世紀を経た今の時代は、まさに科学では解決できない問題が多発している。


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    2012.01.08

    日本の研究は「はやぶさ」だけではない!

    Photosystem_2(JSTさきがけHP)

    <2011年科学技術の10大トピックス>
    科学の世界ではネイチャー誌とサイエンス誌がトップジャーナルとして有名である。分野によっては違いもあるが、生命科学の世界ではこれらのジャーナルに論文が載ると一流と認められるので、弊害論もないではないが、ネイチャー、サイエンスへの論文掲載が研究者の目標にもなっている。

    昨年末にサイエンス誌が、Breakthrough of the Year, 2011として10大トピックスを選んだ。この中に日本の研究成果が2つ選ばれたので、NHKテレビや読売他の新聞紙上でも紹介されご存知の方も多いと思う。日本の1つ目の研究成果は「はやぶさ」であり、小惑星イトカワからのサンプルリターンに成功し、地球で発見される隕石の起源がイトカワと一致していることを証明したので、サイエンス誌が選んだのも頷ける。

    「はやぶさ」の陰で目立たなかったかも知れないが、2つ目の研究成果は、光合成に必須のタンパク質である光化学系Ⅱ複合体(PhotosystemⅡ)の構造が日本の研究者(岡山大 沈 建仁教授、大阪市大 神谷信夫教授ら)により決定されたという基礎的な研究成果であり、世界が注目する日本の研究は「はやぶさ」だけではないよ、という強力なメッセージをサイエンス誌が発信してくれることになった。

    新聞紙上等では、光合成を行う葉緑体のタンパク質複合体の構造を解明し、太陽の光エネルギーを化学エネルギーに変換するPhotosystem Ⅱという仕組みを明らかにしたもので、燃料電池用の水素を作り出す技術に繋がり、クリーンエネルギー実現の一歩になる、などと解説されている。

    <光合成タンパク質複合体(光化学系Ⅱ複合体)の研究>
    実はこの研究は2002年10月から2006年3月まで、科学技術振興機構(JST)のさきがけ「生体分子の形と機能」研究領域で行われていたので、2004年4月からこの研究領域のお世話役をしていた私にとっては、今回のニュースは大変感慨深いものであった。

    この研究を行っていたさきがけ研究者が岡山大学の沈 建仁教授であり、2002年の採択時は「生体光エネルギー変換の分子機構ー光化学系Ⅱ複合体の構造と機能の解明及びその応用」という研究課題であった。2006年のさきがけ研究終了後も共同研究者の神谷信夫教授とともに粘り強くこの研究を進められ、2011年の今回の成果に漕ぎつけられたものである。

    9年前のさきがけの研究課題には、冒頭の複雑な構造の光化学系Ⅱ複合体のイメージ図が掲げられ、「本研究では、X線結晶構造解析を主な手段として、光化学系Ⅱ複合体の立体構造を原子レベルで解析し、その機能を解明し、太陽光エネルギーの新しい利用法の開発を目指します。」とある。

    このX線結晶構造解析による原子レベルの立体構造解析というのが、光化学系Ⅱ複合体の場合には超難物なのである。原子レベルでタンパク質の立体構造を決めるためには、解像度の高いX線回折画像が要求されるので、高い分解能をもつ高純度のタンパク質結晶をいかにして得るかが決め手となる。

    ところが光化学系Ⅱ複合体は、細胞膜を貫通して膜の内外にまたがって存在する17種類以上の膜タンパク質が巨大な複合体を形成しているので、精製して純度の高い結晶にすることが極めて難しい。また膜タンパク質は親水性部分と疎水性部分を併せ持っているので、これも結晶化しにくさに輪をかける要因となる。

    従ってこの研究は精製・結晶化を繰り返す戦いであった。岡山大学の沈教授の研究室に何度か伺ったが、いつも結晶化の苦心談をお聞きすることが多かった。当初は分解能が4Åレベルであったがさきがけ研究で3Åまで向上させたので、2006年3月のさきがけ研究終了時には、研究総括の郷 信広先生は「脚光を浴びる大成果ではないが粘り強さが感激的」と評価されていた。

    それからさらに5年経ってその粘り強さが実を結んで、分解能は1.9Åと飛躍的に向上し、論文が2011年4月にネイチャー誌に掲載され、今回、サイエンス誌に「はやぶさ」と並んで注目される大成果になった。この成果により、光化学系Ⅱ複合体で酸素発生の触媒の役割を果たすマンガンクラスターの組織が精密に解析され、光合成の基本的なメカニズムが明らかになった。

    Science_2
       はやぶさ(JAXAホームページ)     光化学Ⅱ複合体(JSTさきがけHP)

    <注目される光合成の研究>
    1年前の2011年1月30日の日本経済新聞Sunday Nikkei欄に、「人工光合成 英知集める」という表題で、2010年度ノーベル化学賞を受賞された根岸英一米パデュー大学教授が、人知を結集して人工光合成の実現を目指そうと呼びかけ、関心を集めているという記事が出ていた。

    金属触媒を利用する新しい反応を開発して、植物の光合成と同様、太陽光を使って水と炭酸ガスから、人工的に化学原料やエネルギーに変えれば、地球温暖化で悪者になっている炭酸ガスの有効利用にもなるとの、根岸教授の提唱である。

    さらに1年経った2012年1月8日の同じく日本経済新聞のSunday Nikkei欄に、「光合成まね 太陽光資源」という表題で、その後の研究開発の最前線がレビューされている。その中には、2011年になって豊田中央研究所が水と炭酸ガスからギ酸を合成し、人工光合成の再現に世界で初めて成功したとある。

    1969年に東京大学の本多健一教授と藤嶋昭氏が酸化チタン光触媒(本多・藤嶋効果)を発見して以来、日本はこの分野でトップを走っているので、今回の光化学系Ⅱ複合体の解明という基礎研究の成果も、さらに日本の人工光合成技術力のアップに貢献するに違いない。

    ただ日本経済新聞の記事によれば、海外でも日本を追い上げる動きが活発で、米エネルギー省の大型投資や中国、韓国の研究強化が目立つようである。原発事故という科学技術のマイナス要因が日本の科学技術行政を混乱させているが、光合成の研究では海外各国に逆転されることのないよう、しっかりサポートしていきたいものである。

    <後日談:本研究成果が2012年度朝日賞に!>
    2013年の正月早々に朝日新聞社の社長から封書が届いた。朝日賞とか大佛次郎賞贈呈式と書いてあり身に覚えがないのでびっくり。中に受賞者のご希望で招待状をお届けしましたと書いたカードがあった。

    朝日賞受賞者に岡山大学沈建仁教授と大阪市大の神谷信夫教授のお名前があった。業績名は「光合成における水分解・酸素発生の分子機構の解明」である。つまり、お2人は本研究成果で2012年度の朝日賞を受賞されることになり、沈建仁先生のご配慮で、私まで招待して頂いたためと判明した。

    Asahisho
        沈建仁教授への朝日賞贈呈         沈建仁教授の受賞スピーチ

    大変光栄なことなので、2013年1月31日に東京の帝国ホテルで開催された2012年度朝日賞贈呈式に参加させて頂いた。600人が出席するという盛大な贈呈式であった。


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    2010.08.15

    光るクラゲとフグの毒

    Owankurage_4
            オワンクラゲ
    名古屋港水族館ホームページから使用許可)

    昨年は日本人のノーベル賞受賞はなかったが、2008年には4人もの日本人(素粒子物理学の南部、益川、小林各先生と、生命科学の下村先生)が受賞されて、日本中が沸いたことは未だ記憶に新しい。ただ私にとっては、素粒子の南部、益川、小林各博士の受賞よりも、オワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP:Green Fluorescent Protein)を発見した下村 脩博士の受賞の方がはるかにインパクトが強かった。

    というのは、2004年から携わっている科学技術振興機構のさきがけ研究で、GFPを駆使している研究者がおられ、特許出願のお手伝いや関係論文の調査を行ったことがあるのでGFPに馴染みがあったからである。しかしGFPの発見者が日本人の下村博士であることは知らなかったので、2008年のノーベル賞発表の時は、自分の知り合いが受賞したように興奮してしまった。

    Hikarukurage_2そんなことでGFPにはずっと関心をもっていたら、つい最近育土社から、クラゲの光に魅せられた科学者たちの活動を描いた「光るクラゲ」(ピエリボン+グルーバー著、滋賀陽子訳)が発刊された。早速購入して読んでいると、タイミングが良いというか、先月(2010年7月)の日本経済新聞の「私の履歴書」に下村 脩博士が執筆されるという幸運が重なり、改めてノーベル賞研究の全貌を知ることができた。

    以前のウェブログ「カイコ蛾の性フェロモン」や「みどりの香り」で触れたように、弊出身研究室も天然物有機化学を扱っていたので、下村博士の履歴書に出て来る恩師の中には、当方の卒業研究に関係した大先生のお名前もあって、45年前の卒研時代のあれこれを思い出した。。

  • カイコ蛾の性フェロモン  みどりの香り

    以下は「光るクラゲ」や下村博士の「私の履歴書」を読んでの雑感である。

    <なぜGFPがノーベル賞に?>
    GFPは発光生物であるオワンクラゲの発光体である。しかし発光生物と言えばホタルの方が馴染みがあり、ルシフェリンという発光体が知られている。ルシフェリンの発光現象は19世紀後半に、フランスのデュポワがヒカリコメツキムシで見出したという。なぜ新しく発見されたGFPがノーベル賞の対象になったのだろうか。

    下村博士のノーベル化学賞受賞を報ずる2008年10月9日の日本経済新聞には、下村博士が見つけた蛍光タンパク質(GFP)は、細胞や体内の様々なタンパク質の働きを簡単に追跡して観察することを可能にして、がんや糖尿病などの解明や治療薬の開発に不可欠な基盤技術になり、生命科学に革命をもたらした成果である、と紹介してある。

    私は先のさきがけ研究者のお手伝いの経験から、共同受賞者のマーティン・チャルフィー教授がGFPを初めて生きた細胞の中で光らせることに成功し、ロジャー・チェン教授が緑色(GFP)以外の赤色(RFP)、黄色(YFP)、青色(CFP)等の蛍光タンパク質を作り出してマーカータンパク質とし、GFPが生命科学の研究を画期的に飛躍させたことは知っていた。

    つまり1990年代になって生命科学や医療分野の研究に画期的な進歩をもたらしたGFP応用研究をノーベル賞委員会が高く評価し、そのもとを辿れば1961年の下村博士のGFP発見に行き着くので3人の受賞を決めたのであろう。いずれノーベル賞候補になるのではと期待される山中伸弥教授のiPS細胞の研究にも、GFPが使用されている。

    <GFPは副産物>
    新聞やテレビの報道では、下村博士が家族の協力も得てオワンクラゲをたくさん集めて苦労の末、発光体のGFPを発見したというストーリーになるが、そんな生易しい話ではない。ご本人の履歴書からは、GFPはむしろ追求していた発光体の副産物として発見したものであり、まさにセレンディピティであったことが良くわかる。

    下村博士が渡米しオワンクラゲの研究を開始した1960年当時の生物発光の常識は、ホタルと同様ルシフェリンがルシフェラーゼという酵素と反応して光るというものであった。従ってプリンストン大学のジョンソン教授はオワンクラゲからルシフェリンを抽出するために、優れた抽出技術をもつ下村博士を米国に招いたと思われる。

    というのは、下村博士は1955年に名古屋大学の平田義正教授の研究室で研究生となり、ウミホタルの発光物質であるルシフェリンの抽出と結晶化という、当時の生物発光の最先端であったプリンストン大学でも達成出来ていなかった難題を与えられたが、1956年に見事に抽出・結晶化に成功されたからである。

    が、下村博士はオワンクラゲの発光は常識にあてはまらない新規なメカニズムであることを直感し、その解明を目指したため、目論見が外れたジョンソン教授と一時期気まずいことになってしまった。逆にいえば、ルシフェリン以外の生物発光は考えられなかった時代であったともいえる。

    結局、下村博士はオワンクラゲの発光はカルシウムによって起こることを突き止められた。テレビの報道では、オワンクラゲの抽出液を流しに捨てると流しが青く光る場面を何度も見せてくれたので、GFPが光ったと誤解されやすいが、これは抽出液の中の発光体が海水中のカルシウムにより発光したもので、イクオリンと命名された。つまり本命は「イクオリン」という発光タンパク質であった。

    しかし下村博士は、クラゲは緑色に光るのに抽出したイクオリンは青く光ることが気になっていたところ、イクオリンの精製中に緑の蛍光を放つ物質も微量発見したので、ついでに精製してためておいたと述べられている。これがまさにGFPであったが、1961年のこの時点では単に副産物に過ぎなかった。

    <イクオリンの発光の仕組み解明>
    カルシウムセンサーとして注目を浴びだしたイクオリンの発光の仕組み解明のため、下村博士は1965年に再び渡米された。基礎実験で青い蛍光を出す物質を見つけたが、この物質の構造を突き止めるためには大量のクラゲが必要であった。このため1967年から家族も総出で、5年かけて延べ25万匹のクラゲを採ったと述べられている。

    イクオリンの真ん中にセレンテラジン
    Aequorin1972年にイクオリンの発光体の構造が判明したが、この構造は思いがけないことに下村博士が10数年前、名古屋大学の研究生時代にウミホタルの発光物質ルシフェリンの1種として命名した「セレンテラジン」であったという。つまりイクオリンは球状のタンパク質であるが、その真ん中にセレンテラジンが入っているという構造である。

    イクオリンはカルシウムが結合すると変形して、中のセレンテラジンが分解して発光し、その後セレンテラジンを加えると元に戻るという。まるでバッテリーのような働きをする、このようなタンパク質は見たことがなかったし、ウミホタルのルシフェリンの構造を知らなかったらイクオリンの発光の仕組み解明も進まなかっただろう、と述懐されている。

    <オワンクラゲの緑色発光の謎を解く>
    このようにイクオリンは使い道もあり仕組み解明の意義もあったが、GFPは当初何の使い道もなかった。しかし下村博士は、オワンクラゲの発光は緑色でありイクオリンが出す青色とは異なるので、緑色のGFPがクラゲの発光のカギを握っていると考えてこの謎解きに挑戦された。つまりここからがノーベル賞ワークの心髄である。

    1974年に、イクオリンのそばにGFPがあると、イクオリンがカルシウムによって青色に発光しようとする時、そのエネルギーがGFPに移り、GFPが緑色に光ることが証明できた。しかしGFPが蛍光を出す仕組みそのものの解明はそこからで、ためておいたクラゲ20万匹分にあたるGFPを使用して発色団の化学構造を調べ、1979年にとうとうGFPの発色団の正体を突き止めることに成功された。

    GFP(ウィキペディアから)
    Gfpこの決め手になったのもウミホタルのルシフェリン研究の知見であったらしい。GFPの発色団の光吸収性が、下村博士が20年前に合成した化合物とそっくりだったことを手がかりに、GFP内部にあると推定される化合物を合成して、実際のGFPから得られたものと比較すると特性が完全に一致し、発色団の正体が分かったということである。

    下村博士は、1979年のこのGFP発色団の発見がGFPの本当の発見といえる、と述べておられる。最初の副産物としてのGFPの発見から18年目にして、その全貌が分かったということであろう。その後は報道にある通り、GFPは1994年のマーティン・チャルフィー教授と、ロジャー・チェン教授の成果に結びついて行く。

    また1974年に証明されたイクオリンからGFPへのエネルギー移動は、その後、蛍光共鳴エネルギー移動(FRET:Fluorescent Resonance Energy Transfer)法として発展し、ロジャー・チェン教授が作り出した緑色以外の蛍光タンパク質との組み合わせで、生きた生物内のカルシウム動態をモニターできるようになり、生理学研究に革命をもたらした。

    <平田義正教授>
    上記のように下村博士のGFPの発見と発光メカニズムの解明には、平田義正教授から与えられたウミホタル・ルシフェリンの抽出と結晶化の研究が大きく貢献していることがわかる。しかもウミホタル・ルシフェリンの化学構造は10年後の1965年に、やはり平田教授門下の大学院生、岸義人氏が解明したと履歴書に述べられている。

    1955年に若き下村青年が内地留学するために、長崎時代の恩師であった安永峻五教授とともに名古屋大学の江上不二夫教授を訪問したが運悪く不在で、たまたま挨拶に立ち寄った平田義正教授から、自分の所に来ませんかと誘いを受け、その後の下村博士の人生が決まったいきさつは履歴書に詳しい。

    履歴書を拝読していると、平田義正教授は、乾燥ウミホタルからルシフェリンを抽出・結晶化するテーマは成功するかどうか分らないので、学位目的の学生にはやらせられないのです、と説明されたという。つまり平田先生は無名で学位もなかった下村青年に一人前の科学者になるための試練を与えたと思われると共に、下村青年のただならぬ素質を見抜かれていたようにも思われる。

    実は平田義正教授と聞くと、私にも1つの思い出がある。

    <フグ毒「テトロドトキシン」>
    私は1964 年の夏に卒業研究のテーマを貰った。フグ毒のテトロドトキシンの化学合成を目指すための基礎になる研究テーマであった。このテーマが名古屋大学の平田義正教授と関係していたのである。

    この年、第3回国際天然物化学会議が京都で開催され、最も注目を浴びたのがフグ毒テトロドトキシンの化学構造決定の発表であった。しかもその構造決定は日米の3大学で達成され、この会議で3人が同時に発表し結果が一致した、という歴史的な事件だったらしい。その3人は米国ハーバード大学のウッドワード博士、東京大学の津田恭介博士、そして名古屋大学の平田義正博士であった。

    Ttx_2フグ毒「テトロドトキシン」は左図のようなかご型の構造をしている。何となくお祭りにかつぐお神輿の形にも見える。毒性は青酸カリの1000倍以上といわれ、わずか2mg摂取すると人間は死ぬという。

    化学構造が決定されたら、次はその化合物を合成する段階に入る。当然3博士はテトロドトキシンの合成に向かわれるだろうが、そこへ割って入ろうというのが我が出身研究室の方針だったようで、私はまずその先兵であったらしい。従って平田義正先生のお名前を存じていたわけである。

    しかし私は1965年3月に卒業し会社人間となったので、テトロドトキシンは頭から消えてしまった。

    <テトロドトキシンとの再会>
    その後2001年に会社をリタイヤし、2004年から科学技術振興機構(JST)のさきがけ研究のお世話役を努めることになった。2005年になって、さきがけ基礎研究最前線というJSTの機関紙とウェブサイトに、フグ毒テトロドトキシンを合成「ノーベル賞受賞者もあきらめた難物」というトピックスが掲載された。

    なんと40年経ってテトロドトキシンがやっと構造決定されたのかと大変驚き、1964年当時では、有機合成技術では右に出るものはないと言われ、絶対的に本命視されていたウッドワード博士もあきらめたのだということがわかった。

    記事を読むと、下村博士も名前を挙げておられた名古屋大学平田門下の岸義人博士が、1972年にラセミ体(立体構造が光学異性体のDL混合体)の合成に成功されたが、今回も同じくその流れをくむ名古屋大学のさきがけ研究者、西川俊夫博士が天然フグ毒と同じ立体構造のL体の不斉合成に成功されたのであった。

    同じさきがけ研究関係者ということで早速お祝いと40年前の弊体験を申し上げたら、丁重なお返事と関係の資料をお送り頂いた。平田義正先生は残念ながら2000年にご逝去されていたが、研究課題の設定は絶えず10年先を見て、人のやれないことに注目しなさい、がモットーであったらしい。西川博士の合成法も10年かかったそうである。

    <基礎研究は大切である>
    今、科学技術振興機構(JST)に勤務していると、独立行政法人の事業仕分けや無駄削減の動きがひしひしと伝わってくる。しかしこれは今に始まったわけではなく、JSTでは小泉改革の時代からどんどん間接費削減を実施してきており、マスコミが今やたらに報道しているほど目新しいことではない。

    無駄削減や天下り経費根絶はどんどんやるべきであるが、今の政権になって色々な基礎研究の中味の無駄にまで政治が口出しする傾向があることに反発を覚えている。基礎研究の中味が無駄であるかどうかは誰も分らないことで、最初から役に立つことが分っている研究にしか資金が出なかったら、下村博士のノーベル賞は生まれていない。

    これは不思議だ、何故だろう?とか、何故こんな美しいものがあるのだろう?という素朴な疑問が、基礎研究の原点である。その疑問が強いほど最先端の研究が生まれ、推進されるのであろう。何故一番でないといけないのですか?という議員の質問に役人はうまく答えられなかったが、ハヤブサが見事に答えてくれ、一旦削減された後継機の予算も復活した。

    JSTのさきがけ研究のお世話役として日本の科学技術行政に多少携わっている者としては、基礎研究は大切であるということを痛感している。平田先生ではないが、20~30年先に芽が出るかもしれない基礎的な研究課題を日本は率先してサポートしていきたいものである。

    下村博士は受賞後の長崎訪問時の講演会で、大学生や中高生からの多くの質問に答えられていた。その中で印象に残った質疑応答があった。
    (質問) オワンクラゲは何故光るのですか?
    (答え) それは難しい。クラゲに聞いてください。(会場爆笑)
    基礎研究の精神はここにありという気がした。

    車通勤しているので、NHKラジオの夏休み子供科学電話相談を今年は良く聞いたが、3歳から小6までの子供が実に素朴な疑問をぶつけてきて、答える先生方も大変苦労されたり、良くこんな疑問が出たと感心されたりしている。納得のいく答えを貰った子供たちはきっと将来の科学者に育つのであろう。

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    2006.08.05

    みどりの香り

    Midori_1
    畑中顯和著 「みどりの香り」
      丸善(2005.11.30発行)

    繊維技術士仲間からe-Shop「技術士の店」を立ち上げたとアナウンスされたので、早速覗いてみたところ、店長日記のところに、武居三吉-畑中顯和と研究者が続いている「緑の香り」薬剤に凝っていて、自分の水虫にも塗り、繊維製品にも適用して販売しているとの記事があった。

  • 技術士の店
  • 武居三吉先生(故人)と畑中顯和先生は、京都大学農学研究科で師弟のご関係にあり、お二人の足かけ70年以上にわたる壮大な香りの研究の成果が「緑の香り」に結実していることは、後輩にあたる弊方としては良く存じているので、その成果を我が技術士仲間が繊維製品に活用していることは些か喜びであった。

    畑中先生には随分昔ではあるが一度お目にかかったことがあり、「みどりの香り-青葉アルコールの秘密」(中公新書)という著書も頂いていたので、早速、「緑の香り」を応用した繊維製品のことをお知らせしたところ、今冬開催されるシンポジウムの案内とともに、冒頭の写真に掲げた近著「みどりの香り-植物の偉大なる知恵」をお送り頂いた。

    絶版となった1988年刊行の中公新書版も改めて読み直し、その後の17年間の研究進展が豊富に盛り込まれた近著を拝読して、研究するということはこういうことだったのか、という一種の凄さを感じ、大変感銘を受けた。今、生体分子の構造や機能を解明するという、生命科学のさきがけ研究を進めている若手研究者をサポートしているので、この本に記されている畑中先生の歩まれた道が、彼らがこれから進む道とダブって見え一々共鳴した。

    最近、アロマセラピーとかアロマコロジーという言葉も一般的になり、香りの効果を謳った製品が巷にあふれているが、中には眉唾技術やいい加減な製品もあるように思える。サイエンスに根ざした畑中先生の著書から本物のみどりの香りに触れてみたい。

    Biwakobunkazone
                  滋賀県大津市琵琶湖文化ゾーンの新緑

    <青葉アルデヒドの発見>
    新緑の香りや樹木の香りに感じられる青臭い香りがどのようなものか知りたい、という至極当然の疑問は、化学の国ドイツで19世紀末に始まったらしい。ゲッチンゲン大学の植物学者が、青臭い物質を対象とする、植物細胞中のアルデヒド様の性質を持つ物質に関してという研究論文を、1881(明治14)年に出したとのことである。

    この植物学者から色々相談を受けていた化学者クルチウスは、ハイデルベルグ大学に移ってから助手のフランケンとともに、この物質の構造決定の実験に入った。ハイデルベルグの町を流れるネッカー川の道沿いに茂る潅木類を集めては抽出を繰り返し、ついに1912(大正1)年に青臭い香りの基となる物質を発見し、「青葉アルデヒド」と名づけた。

    余談になるが、1989(平成1)年に繊維機械学会主催の産業用繊維見本市訪問ツアーに参加したときに、ハイデルベルグの町も訪れた。ネッカー川の流れる大変美しい町である。ハイデルベルグ大学は、我が出身研究室ゆかりの大学であることは承知していたので、UNIVERSITATの金文字のついた玄関前で記念撮影をした。

    Hyderberg
        ハイデルベルグの町中を流れるネッカー川          大学玄関

    <青葉アルコールの発見>
    上記のように20世紀初頭に青臭い香りの成分がドイツで発見されたが、みどりの香りは洋の東西を問わず研究者の探究心を捉えた。日本では、昭和の初めに理化学研究所から京都帝大農学部へ着任され、ハイデルベルグ大学へ留学もされた武居三吉先生が、京都の茶処宇治の産業発展の意義もあって、緑茶の香りの本格的な研究を取り上げられた。

    そして宇治茶の生葉3トンから、僅かな量の青臭い香りの本体であるアルコールを発見され、クルチウスの「青葉アルデヒド」にならって「青葉アルコール」と名づけられた。1933(昭和8)年のことで、ドイツでの青葉アルデヒドの発見から20年余り経っているが、今度はアルデヒドではなく、アルコールが発見されたわけである。

    しかし、お茶の生葉から青葉アルコールの抽出を行うと、青葉アルデヒドも得られるのである。しかも量的には青葉アルコールのほうが多く含まれるので、クルチウス達が何故アルコールを発見出来なかったのだろうという疑問はあるそうだが、今となっては確かめようもない90年以上も前の話だと畑中先生は述べられている。

    Chabatake_1
          日本の美 茶畑

    <みどりの香りの全貌解明>
    クルチウスと武居先生の研究から、青葉アルデヒドも青葉アルコールも炭素原子を6個もち、炭素原子同士の結合の1箇所は2重結合であることが分かった。しかし当時はIR(赤外スペクトル)やGC(ガスクロマト)などの分析機器はなく、2重結合をはさむ水素原子の幾何構造(シス体かトランス体か)までは決定できず、1940(昭和15)年頃には世界を巻き込んだ大論争があったらしい。

    しかも、緑葉の中でどのような経路をたどって青葉アルデヒドや青葉アルコールが形成されるのかは皆目分からず、クルチウスも武居先生も1921年と1938年のそれぞれの論文の中で、みどりの香りの発現の仕組みを知りたいと、執拗に夢を語っておられるとのことである。

    このような背景の中で、戦争で中断されていた緑茶の香りの研究を、1957(昭和32)年から畑中顯和先生が引き継がれた。当時は高槻にあった京都大学化学研究所(通称:化研)で研究を進められ、みどりの香りのエポックメーキングとなる重要な発見をされたが、1968(昭和43)年に山口大学の新設の農芸化学科に迎えられることになった。

    通常はここで茶の香りの研究が終わるか、選手交代となる訳であるが、山口県の産業構造改革事業に茶が取り上げられていたという幸運があり、武居先生の了解もあって、みどりの香りの研究の舞台は山口大学の畑中研究室に移った。山口大学は最新鋭のIRとGCを準備して迎えたとのことである。

    京大化研時代と、1994(平成6)年に退官されるまでの山口大学時代の通算40年に及ぶ畑中先生の研究で、みどりの香りの全貌が明らかになった。

    <みどりの香りは複合の香り>
    クルチウスと武居先生によって発見された青葉アルデヒドと青葉アルコールはみどりの香りの主成分であるが、この二つだけで構成されているのではない。畑中先生は茶の生葉から、青葉アルコールと青葉アルデヒドの異性体である、兄弟、姉妹、甥姪にあたるみどりの香りの成分を、次々と明らかにされた。

    Seibun

    これら8つの化合物はそれぞれが揮発性なので香りを発するが、1つ1つの香りはまったく異なり、各々が独特の香りをもつ。1980年頃、全ての化合物を発見した段階で、これら複合の香りを「みどりの香り」と呼ぶようになったとのことである。

    <みどりの香りの発現の仕組み>
    では、みどりの香りは緑葉の中でどういう仕組みで発現するのであろうか。炭素が6つの化合物なので、当初は、植物の構成分子として広く存在する炭素数6のグルコース等との関連を予測し、緑葉の炭酸同化作用の中間体として形成されるのではないかと推定されていたらしい。

    しかし畑中先生の研究で、実際は緑葉で光合成を行う葉緑体膜を構成する脂質が、酵素の作用で分解して炭素数18のリノレン酸やリノール酸となり、別の酵素の働きで過酸化物となる。さらに、別の酵素の働きで二つの化合物に開裂し、炭素数6のみどりの香り成分と炭素数12の治傷ホルモン誘発成分ができるという、まさに想定外の仕組みであることが分かった。

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    そして、この仕組みは、新緑の季節、夏、冬のような気温変化、葉が傷ついたとき、外敵の侵入、などの色々な環境変化に対応して、酵素の活性が変化することによって、これら香り成分の発現濃度や組成のバランスを変えることも明らかになった。場所を移動しない植物が生き延びるために見事な仕組みを形成しているわけである。

    畑中先生は、これら青葉アルコールや青葉アルデヒドの効率の良い合成法にも挑戦し、幾何異性体も含めて全ての香りの成分の合成にも成功された。殆どの工程が初めての実験で、危険な物質を取り扱うので、その間の苦労は大変なものであったらしい。現在ではこの方法を基に、青葉アルコールが日本ゼオン、信越化学で、青葉アルデヒドがチッソで工業生産され、世界一の生産量であるらしい。ここにも日本の隠れた世界No.1があった。

    <みどりの香りの役割>
    リノレン酸やリノール酸は人間にとって必須脂肪酸であると理科で習ったが、これらは植物しか生産できない。人間は食事することで野菜から直接、あるいは魚介類などから間接に摂取している。これらの脂肪酸から産まれるみどりの香りは、人間のリフレッシュ、快適性、免疫増進に効果があり、また白癬菌や大腸菌等の病原菌に対する殺菌作用があることも分かってきた。

    みどりの香りの効能を最大限に活用している動物は昆虫である。蟻は青葉アルデヒドや青葉アルコールを植物から摂取して、その濃度や組成比を変えて、通信、警報、攻撃などのフェロモンとして利用しているとのことである。カイコ蛾の性フェロモンについてはこのウェブログでも以前触れたことがあるが、やはりアルコールであった。

  • カイコ蛾の性フェロモン
  • カメ虫はその悪臭で嫌われる昆虫No.1であるが、彼らは植物の茎から汁を吸い、青葉アルデヒドや青葉アルコールを摂取し貯えている。一匹でも潰そうものなら家中が悪臭で溢れるが、その主成分は青葉アルデヒドとのことである。ただしカメ虫の名誉のために付け加えると、全ての種が悪臭を発するのではなく、濃度の関係か芳香組もいるとのことである。

    またカイコが桑の葉しか食べない理由も科学的に研究され、青葉アルコールと青葉アルデヒドがその起因であることが分かったが、桑の葉が青葉アルコールと青葉アルデヒドの濃度や組成比を微妙に調整して、特有のみどりの香りを発し、カイコが桑と識別するシグナルとなっているらしい。

    畑中先生の著書には最近の研究課題として、みどりの香りと脳機能の研究が挙げられている。弊方も名前だけは知っている脳関係の科学者や、生化学、医学、分子生物学、心理学の専門家が集まった、「みどりの香りのノーブルフォーラム研究会」が立ち上がり、みどりの香りの効能についての学際的な研究が始まっている。

    <日本で最初の化学論文は茶の研究であった!>
    緑茶の香りの研究から始まったみどりの香りの研究は、香りの成分や、香りの生成経路が明らかにされ、さらに周辺学問の発展も加わって、その機能や人間の脳への影響などの生理的研究にまで進展している。この間、緑茶以外の紅茶やきゅうりの香りについても詳しい研究が進められ、思いがけない科学的ドラマがあったこともこの著書に記されている。

    ところで、武居先生が茶の香りの研究を始められるにあたって、茶に関する研究論文を探されたところ、1880(明治13)年2月に発刊された我が国最初の化学論文誌「東京化學會誌」の第1号の最初の論文が茶の研究であったというエピソードが紹介されている。従って茶の研究は1世紀、100年を超える歴史があるという。

    そこで、我が勤務先が今年3月に立ち上げたJournal@rchive(ジャーナルアーカイブ)というサイトで、この論文を検索したところズバリ見つかった。理学士高山甚太郎の「日本製茶の分析説」という論文である。タテ書きで漢字カタカナ体であり、今見るとなかなか威厳がある。

  • ジャーナルアーカイブ
  • Kagakukaishi(クリックで拡大)
        東京化學會誌         
       Vol.1 (1880) pp.1-18
       日本製茶の分析説

    <日本茶の製造工程>
    また、我が勤務先がサイエンスチャンネルという科学技術の番組を放映しているが、THE MAKINGというシリーズがあって、その中に「日本茶ができるまで」というビデオがある。いかにみどりの香りを壊さずに、香りの高い日本茶を作るかの工夫がされており、その製造工程が良く分かる。

  • サイエンスチャンネル「日本茶ができるまで」
  • 茶の香りや味は入れ方で大きく異なることは良く感じることであり、同じ茶葉を使用しても上手な人がいれると本当に美味しく、リフレッシュするように思える。その裏にはこのようなサイエンスがあることも知ってみると楽しい。

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    2005.01.02

    カイコ蛾の性フェロモン

    kaikoga
    カイコ蛾のメスに誘われるオス(京都大学西岡教授資料)

    <性フェロモン>
    人間の男性には、女性の発する脂粉の香りや香水の香りに魅かれて女性を感じたり、夜の巷へ繰り出す習性がある。これは人間に与えられた嗅覚のお陰である。しかし男性が感じているのは、脂粉や香水の匂いであって、女性そのものの匂いではない。もし女性が脂粉や香水をつけていなければ、人間は目で見て女性と判断するしかない(従って騙される男もいる)。

    ところが、犬の場合は女性すなわちメスの匂いを鋭敏に嗅ぎ分けて、愛をささやく。つまり嗅覚が女性認識の道具である。このような嗅覚世界の代表は昆虫であると昔習った。今でも記憶しているが、カイコ蛾のメスが発する物質は、10のマイナス12乗ガンマあれば、2km離れたオスのカイコ蛾を誘い寄せると聞いて、ヘーと思ったものである。40年前の記憶なので数字が正確かどうかは自信がない。このようなメスがオスを誘引する物質を性フェロモンという。

    <性フェロモンの正体>
    カイコ蛾のメスが持つ性フェロモンの正体はとっくの昔(1959年)に解明され、「ボンビコール」と名付けられたアルコールであることが分かっている。解明したドイツの化学者は、当時はまだ絹の国であった日本からカイコの蛹を輸入してメス蛾を羽化させ、そのお腹から性フェロモンを抽出して正体をつきとめた。抽出に使ったメス蛾の数は50万頭と、途方もない数だったらしい。

    絹の国日本の当時の科学者達は、同じ敗戦国であるドイツの化学者のカイコを材料としたこのような大発見に、賞賛とともに残念な気持も持ったということである。

    それはさておき、カイコ蛾のオスはそのような性フェロモンを感じる超鋭敏なセンサーを持っている。ところがこのセンサーがどういうものかは、分かっていなかったのである。そのセンサーをずっと追求していた研究者が日本にいた。

    <センサーの正体の発見>
    2004年11月16日の朝のNHKテレビや新聞は、性フェロモンを感じるオス蛾のセンサー遺伝子が見つかったと報道した。発見者は今度は日本の化学者で、京都大学農学研究科の西岡孝明教授のグループである。ボンビコールの発見から45年間経って、やっとセンサーの正体が解明されたわけである。

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        2004年11月16日付日本経済新聞


    <化学生態学>
    この研究分野はケミカルエコロジー(化学生態学)といい、生物の行動を化学の目で理解しようとする学問である。不祥事件で評判の悪いNHKが、地球上の生物の不思議な行動を取り扱った素晴らしい番組を毎週放映しているので、受信料支払いはやめずに見ているが、そのバックグランドとなる学問である。

    エコロジーという言葉は、最近は環境を表すキーワードになっているが、もともとは生態という意味である。環境汚染物質が生態系を乱すということから、環境保全や維持のこともエコロジーと表現することになったのであろう。

    発見者の西岡孝明教授はこの分野に新しい手法を取り入れて、遺伝子レベルでその正体を解明された。弊方と同じ研究室のご出身でよく存じており、今回のプレス発表の原稿も見せていただいた。冒頭の写真はその資料から拝借したものである。

    <カイコ蛾が超鋭敏なセンサーをもつ理由>
    ここで一つの疑問があった。超微量の性フェロモンと超鋭敏なセンサーの関係が解明されたことは分かったが、カイコ蛾はなぜこんな超鋭敏なセンサーを持つのかという疑問である。何もそこまで鋭敏でなくても種の保存は可能なのではないか。しかしそこには超鋭敏でなければならないちゃんとした理由があった。

    西岡教授から頂いた資料には、カイコのメスは蛹から羽化して蛾になった後、約1週間でその一生を終えるとある。その短い期間にオスと出会って交尾をし産卵しなければならない。しかし野生の蛾の存在密度は極めて低い。蛾にとっては世間は広く、同じ種類のオスとメスが出会うことは奇跡に近い。

    そこで神様が、メスに性フェロモンという武器を与え、オスに超鋭敏なセンサーを与えて、1週間の生存期間の間にオスとメスの出会いを実現させる仕組みを作ったというわけである。つまりカイコ蛾オスのセンサーは極めて鋭敏でないと種の絶滅につながるので、鋭敏でなくてはいけない理由が立派に存在するのである。

    <生物多様性>
    このような自然界の巧妙な仕組みにはただただ驚くことが多い。多くの生物が共存するための知恵が何億年にもわたって積み重ねられてきた結果である。人間の都合でこのような仕組みを壊すことはやめたいものである。そういう考え方は世界にも広まっている。

    国際的には1992年に生物多様性条約が作成され、地球サミット期間中に日本を含む157カ国が署名したとのことである。日本の環境省においても、1995年10月に生物多様性国家戦略が策定され、2002年3月には新・生物多様性国家戦略が策定されている。

       


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    2004.04.03

    布地の味-風合い-

    <なぜ日本女性は海外ブランド衣料を買うのか?>
    繊維の世界にいると、消費者が衣服を買う場合、何が決定的な要因になるのだろう、と良く議論になる。近年、ファーストリテイリング(ユニクロ)が超有名になり、一時期は入場するのに車の渋滞が起こるほどであった。ということは、価格は決定的な要因の一つであることは間違いない。

    然らば安ければよいのか、ということになると、そうではないと、ユニクロを含めた繊維関係者は思っている。衣服は嗜好品と良く似ており、消費者が期待している品質があって、かつそれに見合うと思えるよりは価格が安い場合に、初めて買うという行動に移るのであろう。

    seni-market.jpg

    上の表のように、繊維市場は、安物の市場ももちろん大きいが、付加価値の高いものも結構売れる市場なのである。この衣服の付加価値という言葉は曖昧である。いわゆるファッション製品では、一見して判断できる、デザインとか色などの外観的な要素とともに、触って分かる布地の性質が、品質の重要な要因になると思われる。

    ところが、この市場は欧米の有名デザイナーのブランド品に席巻されていて、メイドインジャパンの出番が少ないのが残念なところである。日本の衣服にも品質の素晴らしいものが多いと思うのに、多くの日本女性は、海外の有名ブランド品を買ってしまうのは何故だろうか。
                
    <布地の味とは?>
    名刀の切れ味、かみそりの剃り味、ハンドルの切れ味などと並んで、焼物の味、布地の味といった、人間の感性に訴える「味」という表現を、我々日本人は良く使う。海外ブランド品が日本女性に買われるというのは、この布地の味が、魅力的なのかもしれない。

    布地の味とは何をいうのだろうか。辞書を引くと「味」にはうまみ、面白み、趣といった意味がある。そういえば愛用のオーバーに味を感じることがある。確かに自分の身体によく馴染んだ衣服は捨てるに捨てられない趣を感じるものである。お馴染みのスヌーピーの漫画で、ライナス(記憶違いかも知れないが)という男の子が自分の気に入ったマフラーをいつも持ち歩き、片時も離さないという場面があった。彼のマフラーもきっと味があるに違いない。

    布地の世界では、このような得も言われぬ味のことを「風合い」と呼んでいる。愛用のオーバーもライナスのマフラーも、使っている人が風合いが良いと感じているのである。では、風合いの正体は何なのだろうか。風合いの「風」は風味とか風情などの「風」と同じ使い方であるが、この「風」を辞書で引くと、趣とか味わいのある様子とある。もともと風と味とは同じ意味があって「風合い」は「味わい」に通じるらしい。両方とも人間の感覚で感じる心理現象であり、科学的にはなかなか解明しにくい問題である。

    <布地の味と食べ物の味はどう違うのか?>
    「ぬめり」、「しゃり」、「こし」、「はり」、「ふくらみ」は、布地の基本風合いを示す表現で、京都大学の川端季雄先生をヘッドとする日本繊維機械学会の風合い計量と規格化研究委員会で定義されたものである。風合いというと我々素人は、すぐに「ソフト」とか「しなやか」といった表現を思い浮かべるが、これらは専門的には基本風合いではなく、基本風合いの合わさったものと考えられている。

    風合いは手触りによる感覚(触覚)を指すのであるが、一つの感覚を指すのではなく、上記にあげられたいくつもの感覚を指す。風合いが良いといっても、何の特性を良いと判断しているのかは簡単ではない。この辺は食べ物の味が美味しさという一つの感覚で判断できるのに比べて、風合い判断の複雑な点である。

    食べ物に対する味覚は、多少の個人差はあるものの共通した感覚なので、味の良し悪しはわりと客観的に判断できる。社会常識としても、パリの星のたくさんついたレストランや吉兆の料理、あるいは新鮮な料理をまずいと感じることは異常とされる。しかし味覚は人により好き嫌いがあること、また体調や雰囲気のような環境条件によって大きく変わることもよく経験することであり、多分に心理的要素が関係することも間違いない。このあたりは味の科学的解明の上で難しいところであろう。

    fashion.JPG
    (繊維の知識 国際出版研究所から)

    <風合いの本質は何だろう?>
    風合いの場合も、人により好き嫌いがある点や気候や気分などの環境条件により、感覚が左右される点は味覚と同じであるが、基本的に一つの感覚で判断出来ないところがわかりにくい点である。風合いの場合は、手触りによる布地の刺激を脳に伝えて、感覚(触覚)を引き出す。すなわち手触りによる布地の形態や物性という刺激に対して、風合いという心理現象が引き起こされる。

    この手触りという動作が実は曲者なのである。手で触るという動作は単純ではなく、布地に対し撫でる、掴む、握る、摘む、引っ張る、押し付ける、挟む、等のいろんな動作が含まれ、手といっても指先もあり掌もある。しかもこれらの動作によって感じている特性は同じではない。かたさや柔らかさだけでなく、なめらかさ、のびやすさ、暖かみ、戻り易さ、跳ね返り性、強さ、などのいくつかの性質を一度に感じて、総合的感覚として風合いを認識しているのである。このため風合いは、味に対する美味しさのような一つの特性では言い表せない。

    しかしこの手触りという動作は、実は布地の色々な力学的特性を測定しているとも言えるのである。その力学的特性を分離して評価することが出来れば、風合い感覚の定量的把握と、布地の風合い制御が可能になり、お客の好む風合い設計が可能になる。

    前述の風合い計量と規格化研究委員会では、引っ張り、曲げ、剪断、圧縮、表面(摩擦、粗さ)、厚さ・重さの6つの特性で風合い感覚を定量化する、KESと呼ばれる評価方法を考案し、力学量と風合い間の変換式を得、例えば、風合いの定量判定や、絹と木綿の風合い特性の違いの定量判別などを可能にしている。このように複雑な風合いも、かなり定量的に扱えるようになってきている。

    <風合いは触覚だけか?>
    さらに風合いでは、仕立てやすいとか身体にフィットしやすいとかの、衣服材料に適合出来るかという性能面も重視される。柔らかいだけでは縫えないし、着てもすぐに型崩れする。こしとかはりはこの面からも必要な風合いである。食べ物の味では、栄養があるとか消化が良いとかの性能面は無関係であり、この点では相違する。

    風合いの定義に視覚的要素は入るのだろうか。布や衣服を購入する時は、確かに手触りによる判断は大きな要素であるが、むしろ視覚による判断も大きい。実際、布地の表面状態、光沢さらには色合いや、衣服の場合はデザインといった要素が重要な判断基準になっている。風合いに個人の嗜好で左右されやすい色合いやデザイン感覚まで含めることは適当でないと思われるが、表面状態、光沢といった布地の本質に対する視覚的要素は、手触りを主体とする評価と切り離せないので、一般的には風合いの中に含まれるようである。

    <風合いの感受性は民族で異なる?>
    風合いに対する感受性は民族性によっても差があると思われる。わが国では、合成繊維の高度な加工技術により、ふくらみやしゃり感のある「新合繊」と呼ばれるような、高付加価値繊維が発達してきたが、欧米では高付加価値繊維はそれほど発達していない。この理由としてわび、さびのような微妙な感覚を大事にしてきたわが民族は、風合いに対する感受性が高く、新しい風合い感覚の布地に対するニーズが、欧米民族より強いためではないかと推測している。

    “エクセーヌ”という東レの人工スエードが、発売後34年目に入っているが、衣料用途では、わが国では薄くて柔らかい、いわばぬめりとふくらみに富むタイプが好まれていたのに対し、海外(特に米、独)では軽いがしっかりした風合いの、いわばこしとはりのあるタイプが求められることが多かった。ここにも風合いに対する民族的な感受性の差が見られる。

    実際のところ感覚がモノをいう心理的要素の強い世界であり、科学的に十分解明されていない分野であるが、日本の衣服も、日本の女性にどんどん買って貰えるような「味」を持たねばならないのであろう。

    日本には和服文化という、それこそ「味」が重要な要素を占める衣服文化がある。子供の頃に和服の文化を学んだ日本人デザイナーが、世界のファッション界に斬新なデザインを提供して活躍している。子供の頃に日本文化の良さをもっと体感することが、衣服の提供者にとっても、消費者にとっても良いことではなかろうか。

    fashio-wafuku.JPG   
             (繊維の知識 国際出版研究所から)                             

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    2004.02.01

    中村修二教授、勝訴!

    昨日(2004年1月31日)の日本経済新聞は、第一面に「青色LED訴訟」の東京地裁判決に関し、「発明対価200億円命令」「請求の全額 認定は600億円」「中村氏、貢献50%」という見出しで、米カリフォルニア大サンタバーバラ校中村修二教授の勝訴を報じた。

    電子材料の世界では、大変有名な中村修二教授の青色発光ダイオードの発明に対し、日亜化学は中村教授の在職中に特許報奨金2万円しか支払っていない。しかし中村教授は、その発明の大変大きな価値や海外での反響の大きさから、日亜化学の研究者に対する処遇が極めて不当であると感じ、自分の特許で会社が恩恵を受けた利益を算出し、200億円を支払うよう訴訟を起こされた。

    また米国での体験で、日本の企業や社会が独創的な研究者の成果に対し、正当な評価をしないことに問題を感じ、その意味でも一石を投じようとされたものである。裁判はさらに最高裁まで行くと思われるので、最終結果はまだ分からないが、今回の判決は創造性や個性を大事にしてこなかった日本の社会に対し、画期的な判断をしたといえるだろう。

    2002年9月4日に開催された日本分析学会の特別講演会で中村修二教授の講演を聞き、その内容をメモしていたので、以下に紹介する。中村修二教授の業績や考え方がよく分かる。

    ==============================

    中村修二教授講演骨子「青色発光デバイスの研究を振り返って-日米比較-」

    (1)大学受験が日本のガン! 
     自分は偏差値が悪かったため徳島大電子工学科を受けた。日本の受験制度は小学生の頃に持っている夢を実現できるような勉強が不可能な制度になっている。日本の若い人に元気が無いのは受験合格を目指すため嫌いな科目も勉強して疲れきり、受かった途端に目標をなくし自信をなくすことにある。

    大学受験をなくし誰でも入れるようにするが、入学後は厳しく教育し卒業が難しいという状態になれば、本当にその勉強が好きな人が残り創造的研究が生まれる。そこを落伍してもまた好きなところへ行くことが簡単に出来れば、切り替え後2、3年は混乱しても市場原理が働き直ぐに落ち着く。

    (2)発光ダイオードの開発
     教授から地元ベンチャーの日亜化学を紹介され、開発課(課長と自分だけ)に入りガリウム-リン系発光ダイオードの開発をスタートした。お金が無いので自分で電気炉を自作し、後の研究にずいぶん役に立った。開発に成功し自分で売りに行ったが、誉めてはくれるが小さい企業から買ってもメリットがないとの理由で売れなかった。

     次いでガリウム-砒素系と赤色発光ダイオードを開発したが同様の結果で、10年間に3つの新製品を開発したのに周囲からは非難の的であった。会社の指示でやって開発に成功したのに×をつけられとうとう切れた。今後は会社のためでなく自分の好きなことをやると決め、当時の夢であった青色発光ダイオードをやることにした。もちろん周囲は大反対であった。

    (3)社長への直訴
     首を覚悟で上司を飛ばして社長に掛け合いに行った。ここらがベンチャーの良いところである。ところが創業者の社長は「良いよ」と一言。5億円の資金もアメリカ留学もOKをくれた。当時創業者の開発した蛍光体が軌道にのり利益が出ていたことと、次のタネに社長だけは理解があり自分が3つ開発したことを理解してくれていた。

    (4)アメリカ留学
     フロリダ大学へ留学したが、博士号を持っていないことで、レベルの低い同僚からエンジニア扱いをされ頭に来た。論文を書いてあいつらを見返してやると思ったが、日亜のような小企業では論文発表は禁止だった。しかし禁止を無視して書くことを決意し帰国後青色の開発を開始した。

    (5)青色発光ダイオードの開発
     当時青色の可能性としてセレン化亜鉛と窒化ガリウムがあったが、セレン化亜鉛の方が良い結晶が出来、関係論文も多かった。論文書きたさに論文の出ていない窒化ガリウムを取り上げた。結晶を成長させるMOCVDを2億円で買って貰っ たが、全く駄目で窒化ガリウムはさすがに難しかった。そこでこの装置の改造を自分で始め、午前中改造、午後反応というサイクルを1年半続け、品質的には世界一のものが出来た。

    (6)論文提出
     禁止は無視することにし、まず自分の部下の若手に特許を出させ、その後論文を 出した。反応装置が良いからその後も実験を重ねる度に世界一のものが続発し、どんどん論文が出た。しかし2年後大手のS社、M社から論文の内容について営業に問い合わせがありばれた。会社の許可無く論文をだすなという指示書が出たが、製品化に成功した。

    (7)人生の方向転換
     会社での地位も上がりハンコ押しに追われだしたので惚けると思った。色々オファーが来ていたが、会社をやめる自信が無く逡巡していた。しかし娘の意見で決断した。結局サンタバーバラ校に決めた。

    (8)日米の研究事情比較
     米国の工学部の教授は一言で言って金もうけに徹している。ベンチャーを起こしコンサルティング料で稼ぐし、コンサルティング出来ることが能力のある証となる。これに対し日本では今は少し緩和されたが、コンサルティング料を貰えば収賄で刑務所行きである。

     日本では研究者や学者はどんなに成果を上げても、お金のことを言うと良くないととられる。また米国は直ぐに転職するので良くないととる見方もあるが、違う仕事をやって自分の進歩や能力を把握する機会と捉えている。日本も転職して自分の能力の輪を広げるということが当たり前になればリストラは恐くない。

     ノーベル賞の白川先生は定年後は農業でもやろうかとされていた。同時受賞の米国の先生はベンチャーを起こしてデュポン社に売り、導電性のコンサルティングを続けている。白川先生にも導電性の研究を続けて頂けるような社会が望ましいのではないか。

    =================================

    以上が骨子であった。この講演から汲み取れるように、日亜化学の創業者社長は中村教授の非凡な能力を認め、小さなベンチャー企業として次代のタネを産むことを期待していたことは、中村教授も認めている。日亜化学の内情は知らないが、今回の問題は、次の経営者が中村教授の業績や研究者としての優秀な性格を、正当に評価・把握しなかったことから、発したのではないだろうか。

    TVで経営側の意見として、莫大な投資をしている企業の中での発明には、報償額には歯止めがないと困るというような発言をされていた。しかし今回の判決は、小企業の貧弱な研究環境の中で世界的な発明をしたということが重い事実であり、大企業の整った環境下での職務発明とは全く違うと強調している。

    この裁判官はまともな感覚の持ち主であるという感じを持った。

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    2004.01.26

    伊能忠敬と間宮林蔵

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         伊能忠敬             間宮林蔵
             (記念館パンフレットから)

    やはり千葉県姉ヶ崎に住んでいた時の話題である。全県千葉という地図帳を開けると、目ぼしい施設が茨城県も含め赤字で記入してある。その中で伊能忠敬記念館(千葉県佐原市)と間宮林蔵記念館(茨城県伊奈町)に目が留った。2人ともまだ科学知識の乏しかった江戸時代に、地理学者・測量家として活躍し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献したことは知っていたので、是非行ってみたいと思った。

    特に伊能忠敬は商人として大成功したのに、50歳で隠居して好きな天文地理を勉強し、日本地図作成の大業を成し遂げた、いわばリタイア組の鑑みたいな人である。2002年9月14日に佐原の伊能忠敬記念館、10月13日に伊奈町の間宮林蔵記念館と相次いで訪れた。佐原には2003年3月15日にも町並みの写真を撮りに寄った。

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    <佐原の町並み>
    伊能忠敬記念館のある佐原までは、姉ヶ崎からは国道51号線をただただ真っ直ぐ行けば佐倉、成田を通って2時間くらいで十分行ける。佐原から少し行くと利根川を渡って鹿嶋アントラーズの本拠鹿嶋に行くが、利根川の手前である。

    佐原の街に入り、伊能忠敬記念館を探し当てたところ、まず周囲の環境に驚いた。丁度、京都祇園の白川とか、木屋町の高瀬川を彷彿させる、小野川という川沿いに古い町並みがきれいに保存してあり、重要伝統的建造物保存地区になっているのである。またその付近には江戸時代から続いていると思われる店構えの商店や、赤レンガ作りの三菱館が現在も営業を続けている。

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      江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれた            小野川

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                       小野川沿いの町並み

    伊能忠敬旧宅がこの川沿いに保存されており、以前はこの奥の建物が記念館であったが手狭になったため、現在の記念館は川を隔てた反対側に建てられている。個人的には新しい記念館より旧宅の奥の方が雰囲気があって良いと感じたが、これは仕方があるまい。

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            伊能忠敬旧宅                    中庭

    <伊能忠敬記念館>
    中はもちろん伊能忠敬の世紀の偉業、大日本沿海輿地全図の作成の基礎となった伊能図の展示が主体である。伊能家の商売を発展させた50歳までの佐原時代コーナー、江戸へ出て勉強を始め55歳から71歳まで10回に及ぶ全国測量行脚の時代コーナー、伊能図の完成コーナー、地図の世界コーナーに分かれている。

    伊能忠敬は1745年に現在の九十九里町で生まれ、17歳の時に佐原の伊能家に入った。1794年に隠居が認められ翌年から江戸へ移った。大阪の天文暦学者、麻田剛立の塾から江戸幕府天文方になった19歳年下の高橋至時に弟子入りし、西洋暦学を学び天体観測や測量学に通じた。

    転機は1800年の奥州・蝦夷地測量であった。私費も投じて半年の測量を行い地図を作成して幕府に贈呈した。この地図の完成度の高さに幕府が驚き、全国測量を命じられた。1801年に第2次(関東・奥州)、1802年に第3次(出羽・越後)、1803年に第4次(東海・北陸)と測量を行ったが、恩師の高橋至時が39歳で早逝した。

    その後伊能忠敬は正式の幕吏として登用され、1805~6年に第5次(近畿・中国)、1808~9年に第6次(四国・大和)、1809~11年に第7次(九州)、1811~14年に第8次(九州・中国・中部)と測量を行った。1815年の第9次(伊豆)には不参加だったが、1816年の第10次(江戸)で測量行脚が終わり、地図を幕府に上程したのが最後の仕事で、1818年に73歳で江戸で没した。遺言で高橋至時の墓の隣に葬られたとのこと。

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           伊能忠敬記念館         伊能忠敬と高橋至時の墓(浅草源空寺)
                                  (さわらWebサイトより)

    その後、2007年3月に浅草源空寺の伊能忠敬の墓所を訪れ、このウェブログの「伊能忠敬の墓所-浅草源空寺」で触れた。

  • 伊能忠敬の墓所-浅草源空寺-
  • <間宮林蔵記念館>
    間宮林蔵記念館のある伊奈町には、姉ヶ崎からだと国道16号線を柏まで行き、ここで国道6号線に入って我孫子、取手を経て藤代町から伊奈町へ入ると、やはり2時間ほどで行ける。記念館のある上平柳地区は本当にのどかな田園地帯で、まさに江戸時代の農村に来たかという雰囲気で実に良い。林蔵の生家が移築され記念館に隣接している。近くの専称寺には林蔵のお墓があった。

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             間宮林蔵記念館                   間宮林蔵生家
                                   (伊奈町ホームページから)

    間宮林蔵と伊能忠敬の接点は、1800年の第1次測量で伊能忠敬が蝦夷地へ行った時の函館である。司馬遼太郎の「菜の花の沖」第5巻には、「林蔵」という章があり、林蔵は函館で伊能忠敬に会い、伊能式の測量術の手ほどきをうけていた、とある。

    間宮林蔵記念館で貰ったパンフレットの年譜には、1800年に函館で伊能忠敬と師弟の約を結ぶ、と記載されている。また、1811年の秋に伊能忠敬から緯度測定法を学ぶ、とあり、1818年には伊能忠敬の死に会する、ともあるから、2人の交友は師弟としてずっと続いていたのだろう。

    間宮林蔵は現在の伊奈町に生まれ、1799年に初めて蝦夷地に渡り、1806年にはエトロフ島に渡っている。1808年からカラフト探検を命ぜられ、1809年に間宮海峡を発見した。土地の首長と清国にまで渡って、帰国後「東韃地方紀行」を幕府に提出する。1812年には松前の獄舎に捕えられたゴローニンと会っている。ゴローニンはその著「日本幽囚記」で林蔵のことを書いている。

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         間宮林蔵の樺太探検コース
      (間宮林蔵の世界へようこそウェブサイトから)

    1819年から蝦夷地内部の測量に従事し1822年に終えている。伊能忠敬の世紀の偉業、「大日本沿海輿地全図」の北海道の大半や樺太部分は、間宮林蔵の測量に負っている。1826年には江戸でシーボルトと会い、その後シーボルトから荷物を送られたが勘定奉行に差し出したため、1828年にシーボルト事件が発覚する。

    この事件では、伊能忠敬の死後に「大日本沿海輿地全図」の製作を指導して完成させた幕府天文方で、忠敬の恩師高橋至時の嫡子、高橋景保が国禁を犯したとして投獄され獄死したので、おそらく間宮林蔵にとっても思わぬ展開になったのではなかろうか。何故、高橋景保が伊能図をシーボルトに渡したのかについては当方に知識がない。ただ1832年にシーボルトがドイツで発刊した著書「日本」の中で、伊能図や間宮海峡の名前を世界に紹介したので、日本人の優れた技術が世界に知られる端緒となった。

    間宮林蔵は、その後も隠密として幕府に貢献し、密貿易の摘発などしたらしいが、1844年に江戸で65歳で死去した。林蔵はシーボルト事件の密告者として不遇であったとされた時代もあったらしいが、そうではなく長年に渡る蝦夷地探検の実績や、その行動力と探検精神を幕府が認めていた、と間宮家縁者のご子孫がホームページを開いて、林蔵の足跡を紹介されている。

    <大日本沿海輿地全図>
    大日本沿海輿地全図は伊能忠敬の没後3年にして1821年に完成した。日本では東京国立博物館に明治期の模写図がある。残念ながら、幕府に上程された正本や伊能家旧蔵の副本は、皇居火災や関東大震災で焼失したため、現代に残るものはこのような転写図らしい。仏や米など海外でも見つかっているが、幕末に持ち出されたとか、旧日本軍が模写したものが渡ったとかしたらしい。

    伊能忠敬が作成した地図を見れば見るほど、良くこんな細かい作業を測定器や分析器、あるいは印刷機のまだ発達していない時代にやり遂げたなあ、とただただ感心するのみである。地図という機能を持った作品であることは言うまでもないが、色彩や筆による地名の記入が一見装飾のようにも見え、第一級の芸術作品にも見える。

    しかも、まだ測量技術が発達していなかった時代に製作された地図としては、驚くべき正確さであり、航空写真により作成される現代の地図と、さして違わない精度を持っていると言うことも、世紀の偉業と言われる所以であろう。伊能図が、シーボルトを始めペリーやハリスに日本を見下させず、その後の正常な開国に繋げたともいえよう。

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           伊能図(東京、横浜近辺)        伊能図(橙色)と現代図(緑色)の比較
       (伊能忠敬研究会ホームページより)         (さわらWebサイトより)

    <司馬遼太郎の間宮林蔵観>
    前述の「菜の花の沖」には、司馬遼太郎氏描くところの間宮林蔵像が出ている。その部分を抜粋する。いかにも隠密が出来そうな性格のように書かれている。現代の植村直己氏のような極地探検家タイプであったのだろうか。

    「かれは、自分一個ですべて完結していた。のち、稀代の地理的探検家として後世に知られるこの男は、測量もでき、政治情勢、風俗、民情を見る眼力もあり、観察した事物を報告しうる文章力と画才をもっていた。

    どんな環境でも眠ることができたし、食べ物を自然の中から採集して餓えをしのぐこともできた。また、仲間がいなくてもすこしも淋しくなく、むしろ孤独であるほうが目的を達成するのに都合がいいと思っていたし、人間関係に気くばりをしたり、心をわずらわしたりする感覚に欠けていた。」

    <伊能忠敬より古い地図があった!>
    2004年1月4日付日本経済新聞の美の美面に、「琉球の宝物」という表題で「琉球国之図」が紹介された。リードには「伊能忠敬のものよりも古い精密な地図が沖縄にあった。琉球王室の尚家に長く秘蔵されてきた琉球国之図である。南海の王国として栄えた琉球には、そんな知られざる宝物が眠っている。」と記載されている。

    この「琉球国之図」が作られたのは1796年で、伊能忠敬の第一次調査が始まる4年前なので、測量は伊能忠敬の60年前に始まったことになる。そんなに早く忠敬の技術と変わらない高度な測量技術が琉球にはあった。これは、時の宰相、蔡温が中国在勤時に中国に伝わっていた西洋の測量技術を学び、琉球へ持ち帰って独自のものにアレンジしたことによるという。

    この図の一部にプルシャンブルー(べろ藍と呼ばれる欧州生れの人工顔料)が用いられている。欧州生れのこの顔料を日本で最初に使ったのは葛飾北斎とされるが、その30年前に琉球では地図に用いられていたということである。

    以前NHKの大河ドラマで「琉球の風」が放映され、谷村新司のテーマ曲が良かったことを覚えているが、その裏にこういう事実もあったということは興味深い。

    高橋至時は、伊能忠敬が中国暦法に通じているのを知り、いきなり西洋暦法から教えたという。蘭学を通して日本に入ってきた西洋暦法と、中国を経て琉球へ入ってきた西洋暦法が、18世紀末から19世紀初頭にかけて東洋の国、琉球と日本で国図製作に適用されたわけである。

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