2004.01.03

安土散策

azuchi_castle.jpg
          幻の安土城

「歴史上の人物で、もっと長生きしてくれたら日本のために良かったのにと思われる人は?」と問われると、かなりの人が織田信長と坂本竜馬を挙げるにちがいない。私も、特に織田信長は為政者であって革新思想に富み、軍事、経済、文化、国際化の全てに渡って当時の日本人の常識を越え、今で言うグローバルな考え方をしていた人物と思われるだけに、惜しかったなあと思う1人である。

滋賀県蒲生郡安土町は織田信長が天下統一の拠点に選んだ地なので、ここも滋賀県に居を構えたからには関心ある場所である。20年ほど前に安土城址から観音寺城址をハイキングしたことはあったが、安土の町中は行ったことがなかったので2003年11月に再訪してみた。

JR安土駅は新快速も停車しない小さな駅であるが、駅南広場に城郭資料館があり、冒頭図のような八角形の天主をした安土城の1/20復元模型が展示してある。安土城は有名な割には残された正確な資料に乏しく、漸く近年になってその全貌の解明が進捗中で、少し前のNHKの報道でもやっていたようにCGによる復元調査や安土山の発掘調査が続いている。安土山の発掘調査は1989年(平成元年)から開始され20年計画で進められている。

安土駅から少し離れた近江風土記の丘に、20年前にはなかった信長館が出来、スペイン万博に展示された復元天主(5,6階部分)が保存してある。近江風土記の丘にはこの他考古博物館もある。

町中の史跡としては、1581年にイタリア人宣教師オルガンチノが織田信長の許可を得て建てた、日本最初のキリシタン神学校セミナリヨ跡が有名である。行ってみると確かに景色の美しかったであろう雰囲気の場所であるが、今は碑のある公園になっている。

Seminariyo.jpg
                     セミナリヨ跡

安土の町は安土城の城下町なので、城郭資料館の小母さんに古い町並みとかは残ってないのと聞いたら、古い町並みというのはあまり残っていないが、織田信長時代から続く旧家が現存していると教えてくれた。そのご子孫が今も住んでおられると聞いてびっくり!セミナリヨ跡の直ぐ近くにあり、門が横向きについていて、室町~安土桃山時代の建築様式を彷彿させる雰囲気だったが、当方は全く知識がないのでとりあえず無断でパチリと撮らせて貰った。表札もかかっていて420年後の現在もご子孫が住んでおられるらしい。

Kyuka.jpg
            織田信長時代から続いていると聞いた旧家

また信長が相撲をとらせたことで有名な常楽寺という寺を見ようと思って、常楽寺という地域に行き地元の川で大根を洗っていた小母さんに、「常楽寺はどこですか?」と聞いたら、そういう寺はなくて、常楽寺というのは地域の名前で、その中に寺は4本(ホンと聞こえた、字が違うかも)あると言われた。信長の時代は4つの寺が一つに纏まっていたのかなと思ったが、これも知識がないので不明のままで帰った。これも現地探訪で分かったことである。

azuchi_town.jpg
        安土の町並み             常楽寺地域にあった寺

しかし織田信長が目をつけた当時の安土の地形や環境は、今の安土の地形や環境とは全く様相を異にしていたようである。安土町のホームページを見ると、「かって、この地は琵琶湖の内湖である、大中の湖、小中の湖などに接していたが、戦前戦後の食糧難に伴う食糧増産計画に基き大部分が干拓されて消滅し、現在は僅か小中の湖の一部の西の湖だけとなっている。」とあった。すなわち織田信長の頃から戦前までは、湖畔の町安土であったのが、今や干拓地の上に乗っかった昔の面影の全くない町になってしまったということらしい。

食糧増産という掛け声には当時は抗せなかったのであろうが、信長が目をつけた安土の自然条件や美しさが失われたことは間違いないようである。有明海では平成の今になっても同じような闘争が残っているが。


2004.01.03 in 旅行・地域 | 固定リンク | コメント (0)

2003.12.26

てんびんの里

tenbin.JPG
     近江商人の行商姿

<てんびんの里>
滋賀県神崎郡五個荘町は近江商人発祥の地として知られる。五個荘町は「てんびんの里」というニックネームをつけて、町を挙げて近江商人の屋敷や史跡保存に努めている。滋賀県に居を構えたからには一度は行って見たいと思っていた場所であったが、2003年10月26日に訪れることが出来た。金堂地区、宮荘地区、竜田地区、川並・塚本地区の主に4箇所で町並みや史跡を保存している。

このうち金堂地区には、奈良時代前期に創建された金堂寺廃寺跡や大城神社等の史跡、江戸時代初期大和郡山藩の金堂陣屋跡などが現存し、さらに江戸後期~昭和の有力近江商人だった外村家の邸宅や、戦前まで百貨店王と呼ばれた三中井一族の中江正次の邸宅がある近江商人屋敷の町並みが保存されている。「筏」三部作で昭和31年に野間文芸賞を受けた作家の外村繁はこの地で生れ、生家が外村繁文学館になっている。

ooshiro_jinjya.jpg
       大城神社(西暦621年金堂寺の護法鎮守のため造営とある)

tonomura_uhei.jpg
             近江商人屋敷(旧外村宇兵衛邸)

sigeruakindo.jpg
    外村繁の生家(外村繁文学館)     あきんど大正館(旧中江正次邸)

宮荘地区には、「スキー毛糸」で知られた藤井株式会社の創業者である藤井彦四郎の邸宅を保存した、歴史民俗資料館がある。総面積8155㎡の敷地に池泉廻遊式大庭園があり、館内には近江商人が行商に用いた道中合羽、旅笠、天秤棒、矢立、腰巾着などが展示されている。

fujii_hikoshirou.jpg
           歴史民俗資料館入口と庭園(旧藤井彦四郎邸)

rekishi_siryoukan.jpg
              歴史資料館内部(旧藤井彦四郎邸)

<近江商人のルーツと定義>
五個荘町のホームページには、江戸時代から活躍する近江商人のルーツを、中世に湖上経由の若狭街道通商権を持っていた五箇商人と、伊勢方面への八風・千草街道通商権を持っていた四本商人(山越商人ともいう)を兼ねていた小幡商人であるとしている。

別の著書では、戦国末期の高島商人(上記の五箇商人の一つと思われる)、江戸初期(17世紀)の八幡商人、18世紀(江戸中期)の日野商人、19世紀(江戸末期)の湖東商人を近江商人の類型としている。明治以降に人材を輩出した五個荘の近江商人は、湖東商人に入るのであろうか。

高島商人は浅井家滅亡後京都へ逃れ、大阪夏の陣で南部候の兵站を預ったことから盛岡に移った。八幡商人には、北海道移民への物資供給の商いから始まり松前藩領を基点に活動したグループと、江戸城形成の時に江戸へ出て大店を開いたグループに分かれる。日野商人は、1590年に蒲生氏郷が日野周辺の塗椀職人を城下に集めたが、日野衆は蒲生氏の松坂転封や会津若松転封に追従して移動、漆器の技術を伝えたことから、元禄頃から北関東を拠点とする日野椀や薬を売る商人として活躍した。湖東商人は幕藩体制の崩壊により彦根藩から一斉に出現し、北五個荘、愛知川、豊郷、彦根といった麻織物産地を舞台に近江商人の仲間入りをし、明治以降に活躍した商人が多い。

すなわち近江商人とは、湖東の比較的狭い地域から全国規模で外へ出て行った商人を指し、地元の商人は近江商人とはいわない。その活動範囲は、当時としては常識をはるかに越えていたものだったのだろう。

ohmishonin.jpg
     近江商人の出身地域          江戸時代の出店分布図

<司馬遼太郎の近江商人観>
司馬遼太郎の名作「菜の花の沖」は北前船を操る高田屋嘉兵衛の物語であるが、第3巻の中で、秋田で建造した辰悦丸を受け取りに行く場面で、近江商人のことが詳しく書かれている。以下はその略抜粋である。

・近江人は遠い時代から、出羽や北陸の貢租米を琵琶湖で扱っているうちに、商品が広域で動くのを体で知り、やがて遠隔地に物を持って行けば別趣の価値が出ると言うことを知ったのに違いない。

・豊臣期から江戸初期にかけて松前へわたってきた近江商人は、近江武士の出身である者が多かった。初期の彼らは対等に近い姿勢で松前藩の大身の者に接したであろう。「自然物を吟味して遠くへ送れば商品になるのです」と、教えたのも彼らであった。

・「私どもが御場所を請け負いましょう」と商人たちが言ったころから場所の生産が上がり多くが商品化された。「場所請負人」は「場所持ち」の武士に運上金を払う。武士は寝ていて金がとれるようになった。そういうぐあいにして、江戸初期、松前藩の経済の骨格が出来た。

すなわち司馬遼太郎は近江商人を商品経済の担い手として把握し、その後の江戸時代の米本位経済が商品経済によって崩れて行く一方の推進役と見ている。さらにこの小説では、悪名高い松前藩政によるアイヌ(採集経済の担い手)の没落や、南部藩における農民(米経済の担い手)の農奴化に怒りをもった安藤昌益の出現などにも触れており、近江商人が持ち込んだ仕組みが政治と資本の癒着を作った原因として冷静に見ている。

しかし罪もあれば功もある。近江商人の家訓、「しまつして、きばる」、「利は余沢、三方よし」、「奢れる者必久しからず」、「富を好しとし其徳を施せ」、「陰徳善事」などは、商売の道を武士道と同じように精神的に高めたわけであり、そこに近江商人の功績が認められるのではないかと感じた。

<代表的な近江商人>
西川甚五郎    山形屋   八幡商人、「ふとんの西川」の基
外村與左衛門  外与     五個荘商人、繊維商社「外与」 
中井源左衛門  十一屋   日野商人、世界初の複式簿記考案
飯田新七     高島屋   高島商人、百貨店「高島屋」の基
塚本定右衛門  紅屋     五個荘商人、繊維商社ツカモト株式会社
市田弥一郎    市田     五個荘商人、京呉服市田株式会社
藤井彦四郎    スキー毛糸 五個荘商人、藤井株式会社
伊藤忠兵衛    丸紅     湖東商人、伊藤忠商事、丸紅の基
小杉五郎左衛門 小杉産業  五個荘商人
塚本幸一     ワコール  五個荘商人

<近江商人の企業>
商社・・・・・伊藤忠商事、丸紅、トーメン
百貨店・・・高島屋、大丸、西武
紡績・・・・・日清紡、東洋紡
その他・・・日本生命、ヤンマーディーゼル、西武グループ

2003.12.26 in 旅行・地域 | 固定リンク | コメント (0)