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2021.12.22

湖東の近江商人-伊藤忠と丸紅の祖:伊藤忠兵衛-

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    伊藤忠兵衛記念館(滋賀県犬上郡豊郷町)

<広岡浅子の特別展>

所属している日本繊維技術士センターの繊維講座や講演会で良く使用する大阪本町の大阪産業創造館の地下に、大阪企業家ミュージアムという展示室がある、ここで特別展「広岡浅子と五代友厚・渋沢栄一」が開催されていることを知り、広岡浅子には今も関心を持っているので2021年11月2日に訪れた。大同生命と大阪企業家ミュージアムの共催で、大同生命は広岡浅子が創業の祖でもあるので、この特別展は今NHK大河ドラマ「青天を衝け」で人気の渋沢栄一と五代友厚を脇役にして、広岡浅子に焦点を当てた特別展にしていた。

浅子が嫁いだ大阪の豪商加藤屋広岡家の系図、広岡浅子の業績や年譜のパネルなどで、広岡浅子という偉大な女性実業家が明治・大正期にいたことを紹介するとともに、浅子が設立に関与し多額の寄付をした日本女子大学からの寄付領収証(渋沢栄一の署名入り)や浅子が着用したドレスも展示されていた。また、国立国会図書館所蔵の「大正評判女番附」という資料も展示されていたが、東の横綱に広岡浅子がランクされているので、この時代の広岡浅子の高い知名度がわかる。男社会であった明治・大正時代でも、このような形で女性の活動を社会が評価していたとも思える。

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 日本女子大学からの寄付領収証(大同生命文書)  広岡浅子のドレス    番付

広岡浅子については以前のウェブログでその生涯に触れた。

九転十起生-広岡浅子の生涯-

<大阪企業家ミュージアム>

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この特別展が開催された大阪企業家ミュージアムも、初めての訪問だったので常設展示も見学した。五代友厚が初代会頭を務めた大阪商工会議所が運営し、以下の理念を掲げている。

(1) 大阪は、今日まで数多くの優れた企業家たちを輩出してきた。これら企業家たちは、時代の変化と人々の暮しや社会のニーズを逸早く察知し、果敢なチャレンジ精神とたゆまぬイノベーションで、社会経済の発展や人々の生活向上に大きく貢献するとともに、自立自助の気概をもって自らの社会や街づくりを担ってきた。「企業家精神」は、まさに「民」のまち大阪が誇る文化である。

(2) 一方、あらゆる意味で構造転換を迫られる現在は、まさに変化の時代である。変化の時代こそチャンスの時代であり、そのチャンスを生かすことが企業家の本領である。今こそ大阪の財産であり、DNAともいえる「企業家精神」を思い起こし、変化を友として新たな時代を切り拓くべきである。

(3) 大阪企業家ミュージアムは、企業家たちの高い志、勇気、英知を後世に伝えるとともに、その気概を人々の心に触発することを通じて、企業家精神の高揚、次代を切り拓く人づくり、ひいては、活力ある社会づくりをめざすものである。

この理念の下に105人の大阪の企業家のパネルが、第1ブロック「近代産業都市 大阪の誕生」、第2ブロック「大衆社会の形成」、第3ブロック「豊かな時代の形成」の3つのブロックに分けて展示されている。特に第1ブロックには、明治維新期に大阪経済を再生させた五代友厚を筆頭とし、紡績業など近代繊維産業を興した人物群像も展示されている。

展示されている繊維産業関係者は、大阪を東洋のマンチェスターと呼ばれる街にした松本重太郎・藤田伝三郎・山邊丈夫(東洋紡)、菊池恭三(ユニチカ)、武藤山治・津田信吾(カネボウ)、大原孫三郎・大原總一郎(倉敷紡績)、合成染料を国産化した稲畑勝太郎(稲畑産業)、既製服産業を開花させた樫山純三(オンワード樫山)、スポーツファッションを広めた石本他家男(デサント)、繊維卸から総合商社への道を拓いた初代および2代の伊藤忠兵衛(伊藤忠、丸紅)たちである。上述の広岡浅子のウェブログで、夫、広岡信五郎が尼崎紡績を設立する際、浅子の進言で経営陣に迎え入れた日本人の紡績技師とは菊池恭三のことと思われる。尼崎紡績はその後大日本紡績(ニチボー)になり、さらに日本レイヨンと合併してユニチカになった。

<繊維産業興隆に貢献した近江商人>

この中で滋賀県(近江)出身者は初代と2代の伊藤忠兵衛であるが、初代忠兵衛兄弟はいわゆる近江商人であった。ウィキペディアには、「初代忠兵衛は、五代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。生家は紅長(べんちょう)の屋号で耳付物(みみつきもの)という繊維品の小売をし、また1、2町の田地を自作する手作りの地主でもあった。伊藤家は、この初代伊藤忠兵衛と兄の六代目伊藤長兵衛が、近江湖東の豊郷(とよさと)で1858(安政5)年に近江麻布類の持下り商い(注:近江商人特有の往復商法)を開業し、堺や紀州に行商したのにはじまる。伊藤忠も丸紅もこの年を創業年としている。兄の長兵衛は国元で仕入れに当たり、のちに博多新川端で伊藤長兵衛商店を開業した」

「弟の忠兵衛は、1872(明治5)年に大阪本町二丁目に呉服・太物店をはじめ紅忠(べんちゅう)と称して、麻布類・尾濃織物・関東織物を取り扱った。紅忠と伊藤長兵衛商店の2つが合併・分割を繰り返して現在の伊藤忠と丸紅につながっている。紅忠は開店と同時に店法を定め、利益三分主義をとった。これは、店の純利益は本家納め・本店積立金・店員配当に分かち、これを 5:3:2 の配分率にして『三つ割銀』といった。店員への配当を割くことによって勤労意欲を喚起したもので、これは伝統的な近江商法に拠ったものである。また忠兵衛は浄土真宗の信仰に厚く、津村別院へ熱心に通い、『商売は菩薩の業』と説いて多数の人材を育て、財産を分かつことを商売繁盛の本道としていた」と出ている。

「三方よし=売り手よし、買い手よし、世間よし」の家訓で知られる近江商人には、伊藤忠兵衛と同様、繊維の行商から身を起こして成功し、現代にいたる繊維会社の礎を築いた人物が多い。滋賀県東近江市五個荘にある近江商人博物館のホームページから、繊維産業に関連した近江商人をピックアップしてみた。近江商人は、近江八幡から発した八幡商人、湖西の高島から発した高島商人、蒲生氏郷の城下町日野から発した日野商人、彦根藩のお膝元であった東近江から発した湖東商人(含五箇荘商人)に大別される。

1566(永禄9)  西川甚五郎      山形屋    八幡商人  西川産業

1831(天保2)  飯田新七       高島屋    高島商人  百貨店「高島屋」

1798(寛政10)小林吟右衛門     丁子屋    湖東商人  丁吟 チョーギン 
1858(安政5)  伊藤忠兵衛      紅忠     湖東商人  伊藤忠商事・丸紅
1882(明治15)阿部房次郎    金巾製織   湖東商人  東洋紡 

1700(元禄13)外村與左衛門     外与     五個荘商人 繊維商社「外与」
1812(文化9)  塚本定右衛門     紅屋     五個荘商人、繊維商社ツカモト
1862(文久2)  外村市郎兵衛   外市     五箇荘商人 繊維製品製造卸
1867(慶応3)  塚本喜左衛門   塚喜     五箇荘商人 ツカキ株式会社 
1874(明治7)  市田弥一郎      市田     五個荘商人   京呉服「市田」
1883(明治16)小杉五郎左衛門      小杉産業     五個荘商人   株式会社コスギ
1907(明治40)藤井彦四郎      藤井商店     五個荘商人   スキー毛糸
1946(昭和21)塚本幸一     ワコール   五個荘商人  株式会社ワコール

このように、五個荘、愛知川(えちがわ)、豊郷(とよさと)、彦根といった近江の湖東の麻織物産地から発した近江商人は、伊藤忠兵衛の他にも、市田、ツカモト、外与(とのよ)、チョーギン、東洋紡などの繊維産業の礎を築いた人材が多く輩出しており、日本の近代繊維産業興隆の貢献者ともいえる。江戸時代の湖東商人は麻布原料の青苧(からむし)を東北から近江に持ち帰り、麻織物の生産を湖東の地場産業として発展させたので、近江麻布(まふ)と呼ばれる麻織物の行商から身を起こして豪商になったものが多いという。湖東地方を統治していた彦根藩は、農業の余業としての麻布生産を積極的に振興する政策をとって支援したので、幕末までは彦根藩の財政を湖東商人が支えていた。

今も湖東の東近江市や近江八幡市にはこれらの近江商人の邸宅が記念館や資料館として残されており、以前のウェブログでも何度か触れたことがある。五箇荘の外村邸や藤井彦四郎邸は「てんびんの里」で、近江八幡の近江商人屋敷や西川甚五郎邸は「湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-」で、東近江市小田刈の小林吟右衛門邸は「湖東の近江商人郷土館」で触れた。

てんびんの里  湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ- 湖東の近江商人郷土館 

伊藤忠兵衛は、上述したように繊維卸から伊藤忠商事と丸紅という日本を代表する総合商社への道を切り拓いた近江商人であり、大阪企業家ミュージアムでも大阪の代表的な企業家として取り上げられている。その旧邸は伊藤忠兵衛記念館となって湖東の豊郷(とよさと)町にあるので一度訪れたことがあるが、残念ながら閉館していたのでまだ中を見学できていなかった。今回大阪企業家ミュージアムで伊藤忠兵衛の展示をみたことで改めて行ってみようと思い立ち、2021年12月7日に訪れた。

<伊藤忠兵衛記念館>

豊郷町の初代伊藤忠兵衛の旧邸には大津市の我が家からは国道8号線で1時間弱で行ける。地図で見ると最寄りのJR駅は「河瀬;かわせ」であるが少し離れている。近江鉄道の豊郷駅が近い。昔の中仙道に面していて1882(明治15)年に建てられた。2代目伊藤忠兵衛はここが生家である。冒頭写真に示したように大変落ち着いたむしろ質素な感じのする建物で、実生活では勤勉、質素、倹約をモットーとした近江商人の心意気が伝わってくるような門構えである。

しかし中へ足を踏み入れると広々とした座敷や居間がいくつもあり、庭や離れ、土蔵もあって、以前見学した他の近江商人屋敷同様、充実した生活空間になっている。玄関を入ったところが帳場であるが、その奥に関係企業の名札があり、丸紅株式會社、伊藤忠商事株式會社、呉羽紡績株式會社の名前が表示してある。これらの会社は今も新入社員の教育の一環として、この伊藤忠兵衛記念館を訪れるようである。また小田刈の小林吟右衛門邸にもあったが、ここにも隠居部屋があった。ただ近江商人の隠居は、隠居後もまだまだ役割があって大変忙しく、決して楽隠居ではなかったようである。

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  中仙道に面した伊藤忠兵衛旧邸        帳場 奥に関係企業の名札

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       隠居部屋             土蔵(内部は資料館)

記念館でもらったパンフレットには、初代忠兵衛、2代忠兵衛、初代忠兵衛の夫人である八重の事績や活躍が記載されているので、それを追ってゆくこととする。

<初代伊藤忠兵衛と八重夫人>

初代忠兵衛は1842(天保13)年に繊維品の小売業を営む紅長(べんちょう)の家に生まれ、上述のように15歳で近江麻布の持下がり商いを始めた。足を伸ばした長崎で見た外国貿易の活況に刺激を受けたことが、いち早く貿易業に進出するきっかけになったという。1872(明治5)年、大阪本町に繊維問屋「紅忠(べんちゅう)」を開設し、(1)店員の販売権限と義務の明確化、(2)社内会議制度導入、(3)利益三分主義(本家、店、店員への配当制度)、(4)運送保険の利用、(5)洋式帳簿と学卒の採用、(6)貿易業への進出、という当時としては革新的な近代的経営方針を打ち出した。

忠兵衛が大阪に店を構えた時から豊郷本家では夫人の八重刀自の目覚ましい活躍が始まった。大阪店で使用する米やたばこの選定、味噌や梅干しの漬けこみ、大阪店の布団の持ち帰り・洗濯・仕立て直し、盆・正月の店員の着物の仕立て・下駄の調達などに心遣いするとともに、近江麻布の仕入れを一手に切り回したという。さらに八重刀自の最も重要な仕事は新入店員の教育であり、本店採用の店員を豊郷本家で1か月間、八重刀自自身がじっくりと行儀作法、算盤などの必要な教育をほどこした。入店後に問題を起こした店員も直ちに豊郷本家へ送られ、再教育されるのが常であったとのことである。

初代忠兵衛は1903(明治36)年に61歳で永眠するまでに、伊藤忠本店、伊藤京店、伊藤西店、伊藤糸店、伊藤染色工場の5店の事業を残すとともに、近江銀行、川崎造船所、大阪製紙、金巾製織など十数社の事業にも関係し、郷里の豊郷村の村長も務めたという。記念館の座敷には初代忠兵衛と八重刀自の肖像写真が飾られていた。忠兵衛は56歳の時の写真で、亡くなる5年前であるが大変若々しい姿である。八重夫人は88歳の時の写真であるが、いかにも刀自というにふさわしいしっかりした姿である。103歳の長寿であった。土蔵には忠兵衛が開いた大阪本店関係の多数の図表や資料、遺品が整理されて陳列してある。また八重刀自が使用した半端ではない数の漬物石が土間に今も積んである。

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   初代伊藤忠兵衛と八重夫人        八重夫人が使用した漬物石

<2代伊藤忠兵衛> 

初代忠兵衛が他界した1902(明治36)年、17歳になっていた次男の精一が通夜の席で2代伊藤忠兵衛を襲名した。この後継者指名を行ったのは八重刀自であったという。さらに八重は2代忠兵衛には伊藤各店の役職には就かさず、丁稚小僧扱いで一からたたき上げると公表した。これにより2代忠兵衛は5年間地方回りの下積みを重ね、1909(明治42)年にイギリスに留学した。この時、外国商館を通さず直接イギリスと商売すれば中間利潤がカットされ日本の国益になることに気が付き、この経験が総合商社の原点となったという。また留学中にドイツ、フランスからも織物を仕入れて日本経由で韓国へ輸出するなど、持下がり商法の国際版「総合商社」の3国間貿易の草分けにもなったとのことである。

1910(明治43)年にイギリスから帰国した後は、本格的な国際化に向けて海外の営業拠点造りに奔走する。大正初期には綿布の輸出を柱とし、販路はアフリカ東海岸まで及び、アメリカから紡績機を輸入して1929(昭和4)年には呉羽紡績を設立するなど、着実に業績を拡大していった。その後、「伊藤忠商店」は本家の「紅長」と合併、「丸紅商店」が生まれ、現在の「伊藤忠商事」と「丸紅」へと発展していった。このような経緯を辿ってみると、2代忠兵衛にとっては母の八重刀自が大きな存在であったのだろうと思える。2代忠兵衛の回想録の中に母の思い出があり、「数万点の麻布を1日に発送する時の総指揮から、食事、弁当の準備まで全部母が主宰しておったが、いわゆるケーパブルな人であった」と母の能力の高さを述べているそうである。

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    2代忠兵衛のパネル        呉羽紡績設立(1929)   伊藤忠と丸紅商店の商標(1938)   

<所感>

大阪企業家ミュージアムでの広岡浅子特別展を見に行ったのをきっかけに、湖東の豊郷の伊藤忠兵衛記念館を訪問することになった。幕末から明治・大正の激動期は、どうしても勤王の志士、明治の元勲、立憲国家、自由民権運動など政治の舞台に目を注いでしまいがちであるが、経済人の活動舞台にももっと目を注がなければならない。現在NHKでやっている大河ドラマ「青天を衝け」は、渋沢栄一や五代友厚らの日本の経済界を作った人たちの物語なので、大変良い機会と思い毎週楽しみに見ている。

伊藤忠商事も丸紅も繊維事業とは関りが深いので、我々世代も会社時代はずいぶん両社にお世話になったことがある。その両者は同じルーツを持ち、湖東の近江商人である伊藤忠兵衛に遡ることを今回改めて認識した。しかも一代だけで育て上げたのではなく、初代が事業を創業し国内での基盤を築き、2代が国際化と総合商社化を推し進めて、両社とも今日の日本を代表する商社に育て上げた。初代、2代とも大阪企業家ミュージアムに展示されるという素晴らしい人材だったからこそ、このような成功を招いたのであろうが、記念館に行って詳しい事情を探ると、この成功の裏には初代の夫人である八重刀自が2人の素晴らしさを引き出したのではないかと思える。特に2代伊藤忠兵衛にとっては、まさに母は偉大なりであったのではないか。

 

 

 

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