« ひな祭り顛末記ー伊藤小坡を知る | Main | 続・虫が視る花の色と姿?! »

2021.08.17

大阪・綿業会館に生きる京都生まれの「泰山タイル」

 Photo_20210815141701 (画像はクリックで拡大)

   泰山タイル(MBS:「京都知新」画面より)

<京都知新>

毎週日曜日の朝6時15分から6時30分までは、必ずMBS(4チャンネル)の「京都知新」を見ている。「温故知新:故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」を標榜して「京都の伝統文化を温ねて新しきを知る」という番組である。つまり過去の遺産だけではなく、京都の伝統文化の上に時代時代の新しさを追求している現役の芸術家、建築家、職人、舞踏家、前衛アーティストらを取り上げて、京都1200年の文化に「新」を発見していく、という内容になっている。いつから見出したのかは定かでないが、2016年から始まっているのでもう5年くらいはずっと見ていると思う。京都育ちなので知っている老舗や料亭なども出てくるので、当方にとっては興味ある番組である。

2020年12月13日の放映は、モザイクタイル作家の池田泰佑氏であった。泰佑氏の祖父の故池田泰山氏は、1917(大正6)年に京都の東九条で泰山製陶所を創業し、大量生産の工業用製品ではなく手作りの建築用装飾タイルを製造した。当時の著名な建築家や施主から「泰山(たいざん)タイル」と呼ばれ美術工芸品として愛されたという。しかしタイルに代わる新建材の普及という時代の流れには逆らえず、泰山製陶所は1973(昭和48)年に閉鎖となったが、泰山タイルの独特の雰囲気が好まれ、今も京都の歌舞練場、祇園会館、1928ビル、進々堂、京セラ美術館などの近代建築に残されており、泰佑氏は泰山タイルの諸技法を使ってモザイクタイル作家として活動されている、という内容であった。

モザイクタイル作家・池田泰佑(MBS京都知新)2020年12月13日放映

<泰山タイル>

京都育ちでありながら「泰山タイル」のことは全く知らなかったので、番組で紹介され場所もよく知っている歌舞練場、祇園会館、進々堂、京セラ美術館などのタイルを見に行こうと思ったが、コロナでなかなか行く機会がなく時間が経ってしまった。2020年12月13日放映の番組が上記のようにネットで見られるようになったので、それぞれのタイルはこれを見て我慢することとし、ネットで泰山タイルのことを少し調べることにした。以前のウェブログ「ラスター彩遊記」や「藍色のベンチャー:幻の湖東焼」で述べたように、全くの焼物音痴であるが、焼物に精魂を傾ける人間活動には興味をひかれるので、まずは池田泰山についてウェブサイトをあたってみた。

 ラスター彩遊記

 藍色のベンチャー:幻の湖東焼

(株)今井建築設計事務所ホームページの「泰山タイルとは」によると、「池田泰山は1891(明治24)年に尾張知多郡(現愛知県阿久比町)に生まれ、1909(明治42)年に京都市陶磁器試験所伝習生として入所して陶磁器の基礎知識を得、大阪工業試験所窯業部技手として奉職、いったん常滑に戻りテラコッタ(注:素焼き彫刻)の技術も学んだ後、再び京都に出て、1917(大正)年に東九条に泰山製陶所を設立した。当初は日用工芸品を製造していたが、健康を崩し療養、回復した後、時代の流れや周囲の協力で建築用装飾品へと移行した」とある。つまり池田泰山はタイルを単なる建築材料としてではなく、装飾性のある美術工芸品として捉え、装飾タイルの独自の技術を追求したということである。

さらに「主な作品としては、昭和の初年より10年までの間、秩父宮邸を始め各宮家の邸宅、東京軍人会館、大阪綿業会館のタイル、大阪南海高島屋新館の集成モザイクタイル、東京帝大医学部新館、東京帝大図書館の陶彫パネル、下村正太郎邸(大丸ヴィラ)、神戸女学院のタイル、東京帝室博物館本焼平瓦ならびに各種鬼瓦、満州国や満鉄の建物にタイルを移出、京都での内容として、先斗町歌舞練場、京都市美術館のタイル、本願寺錦華寮陶彫品がある」とある。ここで、我が老化した頭の中で閃いたことがあった。それは「大阪綿業会館のタイル」というキーワードであった。このタイルは以前、私自身が大阪の綿業会館でこの目で見たことがあるタイルに違いない、ということにつながったのである。従って今回は私が実際に見た大阪・綿業会館の泰山タイルについて、次項に記すことにした。

その後は「1939(昭和14)年に泰山製陶所を株式組織とし、1942(昭和17)年に2代目社長となる池田侊佑が入社し、下関関門トンネル開通記念の集成モザイクや陶彫品の製作をした後は、建築関連の仕事がなくなり金属代用品や日用工芸品を製造していたが、復興のきざしとして1948(昭和23)年になって、国鉄岐阜駅構内壁面に集成モザイク壁画、大阪近鉄百貨店内外装タイルを製造した。同年頃から病に侵され1950(昭和25)年3月に死去する」とある。お孫さんの泰佑氏は1943(昭和18)年京都生まれで、1969~1973(昭和44~48)年には泰山製陶所勤務であったが、上述のように泰山製陶所が閉鎖された後は、京都市工業試験場に勤務され、その後独立して活動されている。作品リストを拝見すると、1998(平成10)年に我が母校の京都洛北高校の同窓会館の入口周りに泰山タイルを使用されたことが分かった。

<大阪・綿業会館>

大阪本町界隈は、明治維新以降日本の産業近代化をリードした繊維産業が集まり一大繊維街を形成していた。いわゆる船場である。大阪は1933(昭和8)年にはイギリスを抜いて綿製品の輸出で世界第一位となり「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。綿業会館は繊維産業発展期の1931(昭和6)年に竣工した。渡邊節と村野藤吾が設計した歴史的建造物で、2003(平成15)年に国の重要文化財に指定された。私が現在所属している日本繊維技術士センターの本部も、この綿業会館のすぐ近くの輸出繊維会館に入っている。輸出繊維会館は1960(昭和35)年に竣工であるが、やはり村野藤吾の設計で1階エレベーターホールの堂本印象の壁画が有名である。村野藤吾は昭和の日本を代表する建築家で1967(昭和42)年に文化勲章を受けている。

Photo_20210815162101Photo_20210815162601S_20210816173801

 綿業会館(大阪市中央区備後町)   日本綿業倶楽部(重要文化財)      1階エントランスの岡常夫氏の銅像

綿業会館は、かつて東洋紡績(株)専務取締役であった岡常夫氏の「日本綿業の進歩発展を図るため」という遺言により、遺族が寄付した100万円と、繊維産業関係者からの寄付50万円を加えた150万円(現在価値約75億円)の資金で建設された。同時期に大阪市民の寄付によって再現された大阪城天守閣の3倍以上の建設費であったという。綿業会館の外観は写真の通り少しレトロな感じのする落ち着いたオフィスビル風であるが、内部は外観からは想像もつかないほど、部屋ごとに異なる様式で設計され、豪華に装飾されている。とりわけジャコビアン様式(イギリスの初期ルネサンス風)で作られた談話室は最も豪華な部屋で、映画やドラマの撮影などによく使われるらしい。

実はここ綿業会館には、8年前の2013年4月12日に、当時勤務していた科学技術振興機構さきがけ研究領域の、関西在住の技術参事仲間と訪れていたのである。仲間の一人が東洋紡出身のKさんで、彼の東洋紡時代の知人が綿業会館の管理者であるという縁で、綿業会館でミーティングを行うとともに館内も案内してもらった。1階エントランスの岡常夫銅像から始まり、VIP会議室、貴賓室、談話室など綿業会館を代表する部屋を見せてもらったのであるが、最も印象に残ったのが上記のジャコビアン様式の談話室であった。豪華な調度品や装飾にあふれた談話室には、歴代の綿業倶楽部会長の写真が飾られていたが、部屋の一角の壁面が見事な装飾タイルで覆われていたのである。

Photo_20210816204301Photo_20210816204401Photo_20210816205101

    綿業会館談話室           談話室の一角のタイル壁面         見事なタイルタペストリー

この見事なタイル壁面は「タイルタペストリー」と呼ばれ、使用されているタイルが「泰山タイル」なのであった。おそらく案内者の方は、京都で作られた泰山タイルということを説明して下さったのだろう、と今になって思うが、この時は泰山タイルの知識は全くなかったので聞き流してしまったと思われ、見事な装飾タイル壁面であったことしか記憶に残っていない。それから8年経った今になって、この見事な装飾タイルと泰山タイルが結びついたので、綿業会館のタイルタペストリーについて調べてみた。

<綿業会館のタイルタペストリーの由来>

「泰山タイル」でネット検索すると多くのウェブサイトが出てくる。それらを見ると、泰山タイルは「京都知新」で紹介された歌舞練場、祇園会館、1928ビル、進々堂、京セラ美術館以外にも現存していることがわかる。京都では島原の「きんせ旅館」や、十条竹田街道の銭湯「別府湯」、兵庫では武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)で見ることが出来るようである。この中で「現代に生きるタイル-京阪神に息づく、タイルのある風景」というウェブサイトがみつかり、その中に大阪・綿業会館を取り上げた記事があった。

現代に生きるタイル というウェブサイトの1は、「往年の華やかな空気をいまに残すタイルタペストリー」という表題で、大坂・綿業会館を取り上げている。一部を引用する。「さまざまなしつらえを持った部屋のなかでもとりわけ目を引くのは、イギリス・ルネッサンス初期のジャコビアン・スタイルでつくられた談話室。その一角には『タイルタペストリー』と呼ばれるタイル壁面がそびえている。使われているのは、泰山製陶所でつくられたタイル約1,000枚。京都の泉涌寺付近の窯で焼かれたと言われている。驚くのは、ここに使われている浮き彫りタイルは、わずか5種類しかないということだ。しかしながら釉薬のかけ方や焼き方で変化をつけることで、多彩でありかつ妖艶な表情を見せてくれる。」

「そんな泰山タイルを約1,000枚も焼き上げるのにはどれほどの工程や努力があったのかは推し量る他ないが、晩年の渡邊(注:上記の綿業会館の設計者)はこう述懐している。⇒ タイルなどは京都の泰山という店が精魂を込めて焼いてくれたものを使い、一枚一枚全体のコンビネーションを考え助手を使わずに私一人でこつこつと仕上げた。これも庄司さん(注:綿業会館の建設委員を務めた庄司乙吉氏で、後に日米綿業会談の日本側代表や大日本紡績連合会会長などを務めた実業家)が私の案を受け入れて下さったためで、ドイツの技師が来て、こんな立派なものが日本で出来るのかと一驚したほどである。ー渡邊節「綿業会館の設計と私」より」

まさに池田泰山が、単なる建材としてのタイルではなく、美術工芸品としても価値があるタイルを目指した理念を、綿業会館設計者の渡邊節がその意をくみ取って助手任せにせず自ら一枚一枚貼っていった姿が目に浮かぶような述懐である。このウェブサイトの筆者も、渡邊自身が「助手も使わず私一人でこつこつと仕上げた」その胸中では、タイルの一枚一枚に釉薬を工夫しながら塗り、精魂込めて焼いてくれた陶工たちへの感謝と、工業製品でもあり、美術工芸品でもあるタイルの特異性を味わっていたのかもしれない、と述べている。

さらにウェブサイトの筆者は、「このように、タイルタペストリーをはじめ今も栄華を伝える綿業会館の豪華絢爛な装飾の数々は、職人や設計者の技術もさることながら、庄司氏はじめ施主である日本綿業倶楽部の、大阪の産業ないしは文化を牽引していく意気込みと、若き設計者を信頼する度量の深さあってこその賜物であったといえるだろう」とも述べている。この指摘には全く同感で、当時の大阪の繊維産業の経営者のこのような意気込みが大阪の産業や文化を牽引し、繊維産業の中心が首都の東京ではなく大阪にあるということにつながっただろうし、若手設計者を信頼する度量が、渡邊節(当時47歳)や村野藤吾(当時40歳)のその後の飛躍の土台になったのだろう、と思える。

<所感>

本来は、京都育ちなのに知らなかった「泰山タイル」について、泰山タイルが現存する建築を訪ねて訪問記を書こうと思っていたが、昨今のコロナ騒動がおさまらず、ワクチン接種後でも感染した例が後を絶たないとなると、気軽に出かける気にもならず、しばらく時間待ちの状況であった。そんな中でネット検索していたら、8年前に見た大阪・綿業会館のタイル壁面と泰山タイルが結びついたので、これなら我がウェブサイトのテーマになるな、と思って、少し手抜きではあるがその経緯を記してみた。

繊維の世界では「タイル」ならぬ「タオル」が一大産業を形成しており、やはり機能性や実用性が重視される工業製品的性格と、色柄・デザイン性が重視される美術工芸品的性格が求められるので、一字違いではあるが、建材のタイルと繊維のタオルの両者は性格的にも共通点があるな、と思いながら本稿を書いていた。ただ装飾タイルである泰山タイルはタオルのような繊維製品というより、ゴブラン織りとか西陣織の錦のような伝統工芸品として繊維の頂点に位置する繊維製品と比べられるような位置づけを狙ったものであったのだろう。それに価値を感じた建築設計者や施主が泰山タイルを採用し、個性的で多様な建築が昭和期に出現したように思う。

上記のMBSの放映で、京セラ美術館のエントランスホールに泰山タイルが敷いてあることを紹介していた。京セラ美術館の学芸員の方が、2020年に京都市美術館をリニューアルして京セラ美術館になった際、玄関とかロビーのようなエリアはあまり新素材を使わず、大理石や泰山タイルなどの80年前の素材をそのまま使用していると仰っていたのが印象に残った。大理石のような天然素材は、時代を超えても安定した素材として使用されるのはうなずけるが、泰山タイルも同様にそのような素材として評価されているようである。

<後日談>

この記事をアップした1週間後の8月24日に、京都市京セラ美術館で開催している上村松園展を見に行った。上述のように京都市美術館から京セラ美術館へのリニューアルにあたって、エントランスには80年前の大理石や泰山タイルをそのまま使用しているとのことだったので、係員の女性に聞いてみたところ、旧エントランスがそのまま保存してありますよ、と教えて下さった。示された方に行ってみると、なるほど何度も来て見覚えのある旧エントランスホールがそのまま保存してあり、大理石や泰山タイルと思しきタイル床が残っていた。80年も使用されているので、かなりすり減ったり退色しているが、今も風格のある床であった。やっと一つ現場探訪が実現できてうれしい気持ちで帰途についた。

Photo_20210824210601

、 

|

« ひな祭り顛末記ー伊藤小坡を知る | Main | 続・虫が視る花の色と姿?! »

Comments

The comments to this entry are closed.