ひな祭り顛末記ー伊藤小坡を知る
我が家のおひな様 署名と落款
<掛け軸のおひな様>
我が家には双方の親から伝わるひな人形と、立ちびなを描いた掛け軸がある。今年もひな祭りが近づいてきたので、箱から出して冒頭写真のようにひな人形を玄関に、掛け軸を床の間に飾った。ひな人形の方は母の遺品として一度京都の人形屋さんで修理をしてもらったので、大正期のものでしょうと教えてもらっていた。掛け軸の方は義母さんから伝わったもので、今回初めて床の間に飾ってみたのだが、とても可愛らしく描かれた立ちびなであり、魅力的なおひな様である。ふと、この掛け軸のおひな様を書いたのは誰だろうという疑問がかすめた。
男びなと女びなの並べ方は、京都や関西の一部では向かって右側が男びなで左側が女びなであるが、関東ではこの逆であることはよく知られており、もちろん我が家は京都方式を踏襲している。掛け軸のおひな様も京都方式なので、このおひな様を描いた画家は京都の人なのかな、と思いつつ、おひな様の下に書いてある署名や落款を見たのだが、これが読めないのである。「小」と「女」や落款の「登」は読めるので、「登」という名前をもつ女性が書いたのかなとは思えるが、あとはお手上げである。そこで思いついたのが、Facebookにこの写真を投稿し友人から教えてもらうというアイデアであった。我が友人には絵を描く方もいるし、書家の方もいる。
2月24日の夕方に、この写真をつけて「読めないのでご存じの方教えてください」とFacebookに投稿したところ、すぐに京都山科にお住いの書家のHさんから返事があり、「小坡かくだと思います。有名な画家です。伊藤小坡、伊勢の人でググってみて下さい。いとうしょうはです」というコメントをいただいた。つまり署名は、「小坡女畫く」であり、画家は伊藤小坡という女性であることが判明した。Hさんに感謝しつつ、伊藤小坡をウェブサイトで検索してみた。
<伊藤小坡>
ウィキペディアには、「伊藤小坡(いとうしょうは)は、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877(明治10)年4月24日-1968(昭和43)年1月7日、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家」と出ている。つまり冒頭写真の落款に「登」という字が見えたが、本名の「佐登」が押してあったということである。「宇治土公」という苗字も珍しい難読苗字であるが、伊勢のこのあたりは宇治山田と呼ばれており、父君が猿田彦神社の宮司なので、宇治というこの地域に関係する苗字なのであろう。
伊藤小坡は1898(明治31)年に画家になることを決意し京都に出た。1905(明治38)年に同門の伊藤鷺城と結婚し、長女、次女、三女を儲け、1915(大正4)年に第9回文展にて「製作の前」が初入選で三等賞を受賞した。ウィキペディアには、「これにより上村松園に次ぐ女性画家として一躍脚光を浴び、1917(大正6)年には貞明皇后の御前で揮毫を行うなど画家として、また妻としても充実した生活を送る。----大正という時代にあって、家庭に入り家事や子育てに勤しながら絵を描き続けることには大変な苦労があったと思われる。しかしながら小坡はそれをものともせず、逆に男性作家や家庭を持たない女性では気付くことのできない視点を取り上げることによって、現代に生きる我々が見ても親しみを感じることができる日常風俗を描写することができたのである」とあるので、このウィキペディアの記述者は伊藤小坡にぞっこん惚れ込んでいるようである。
文展入選の年に師の谷口香嶠が没した後は独立して創作を続け、1921(大正10)年に第3回帝展に入選した「琵琶記」がフランス政府の買上となったりしたが、1928(昭和3)年に尊敬していた竹内栖鳳が主宰する竹丈会に入り、上村松園と同門になった。その後は51歳、53歳で帝展入選、54歳で帝展無鑑査、65歳で新文展無鑑査、80歳で歴史風俗展招待と画歴を重ね、90歳で京都で没した。ウィキペディアには、「小坡の画業を語るとき、明治大正期の日常風俗を主題にした作品と、昭和期の歴史風俗や物語を主題にした作品とに大別することができる」とある。
私が5歳で東京から京都に来たのが1946(昭和21)年で、24歳で社会人になって京都を出たのが1965(昭和40)年であるから、この時期には伊藤小坡は晩年とはいえ京都在住の日本画家として高名であったのに、京都にいながら私が知らなかったということであり、不明を恥じるしかない。
<伊藤小坡美術館>
「伊藤小坡」をネット検索すると、ウィキペディアとともに「伊藤小坡美術館/猿田彦神社(三重県伊勢市)」も出てくる。なるほど伊勢に伊藤小坡の美術館があるのだとわかり位置を確かめると、伊勢自動車道の伊勢西ICのすぐ近くである。ということは、車で自宅そばの草津田上ICから新名神➔東名阪➔伊勢自動車道と走ればドアtoドアで美術館まで行け、このコロナ禍でも全く心配ないではないかと思いついたので、早速2月25日に出かけた。我が家から片道130kmほど、亀山からは四日市と反対方向に走るので道も空いており、1時間半で到着した。美術館は猿田彦神社の手前を左折して少し坂を上がったところにある。
伊藤小坡美術館(三重県伊勢市) 美術館横の日本庭園
伊藤小坡美術館は伊勢の伝統的な土蔵をイメージした静かな佇まいにしてあるとのことで、落ち着いた雰囲気の美術館である。入館料は300円と書いてあったが、JAF割引で200円になった。展示室が2室と学習室があり、手前の展示室ではウィキペディアのいう日常風俗を主体とした作品や下絵などが展示してあり、親しみが持てる雰囲気である。我が家の立ちびなの絵もここにあればしっくり来るのかなと思えた。奥の主展示室には歴史風俗や物語を主題にした大作が並んでおり、ベンチもあってゆっくり鑑賞できる。女性を描いた作品がほとんどで、どこかで見た気がする絵(例えば山内一豊の妻)もあった。
第9回文展に入選し出世作となった「製作の前」も展示してあったが、絵をかく前の下調べで数冊の本をひろげながら構想を練っている、黒い和服姿の本人を描いていて、非常に印象に残る絵であった。何かを成し遂げたい前の準備の大切さと、大変さを訴えているようで共感が持てる。館内の撮影は禁止なので、入場券(鶴ヶ岡の舞)とパンフレット(伊賀のつぼね)の表紙の絵を示すが、非常に繊細なタッチで優しさを感じる絵である。また色遣いのすばらしさは素人でも感じることができる。
伊賀のつぼね 鶴ヶ岡の舞
美術館の横には小さな日本庭園がしつらえてあり、伊藤小坡の絵を楽しんだ後、庭石や樹木のある庭と伊勢の山々の遠景を望むことができる。この日は快晴であったので、庭と樹木と山が青空と調和してきれいに見えたことであった。
<猿田彦神社>
伊藤小坡の実家は美術館の隣にある猿田彦神社であり、この美術館も猿田彦神社が経営しているようである。美術館を辞した後、猿田彦神社にもお参りした。案内板には、主神は猿田彦大神で、相殿が猿田彦大神の御裔の大田命であると出ている。伊勢という土地柄、天孫降臨の神話につながる歴史をもっている神社である。
猿田彦神社主殿 猿田彦神社の案内板
猿田彦神社のホームページには、神社の歴史・由緒が載っており、古事記や日本書紀に出てくる天孫降臨の神話と深く関係することや、宇治土公家の由緒や役割もわかるので、以下に引用してみる。
「天孫降臨を啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をご案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である『伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上』の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。
そして神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公宮司家の祖先で猿田彦大神の裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。そのため宇治土公家はその後、神宮において代々『玉串大内人(たまぐしおおうちんど)』という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。
当社は猿田彦大神の子孫である宇治土公家が代々宮司を務める神社です」
<所感>
つまり伊藤小坡は、天孫降臨や伊勢神宮の創立にかかわった日本の名家といっても良い宇治土公家に生まれ、幼少の時から古典文学、茶の湯、柔術を習い、14歳頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始め、郷土画家の磯部百麟に師事して絵を習い、21歳の時に画家になることを決意して京都へ出た。京都では京都市立美術工芸学校教授の荒木矩から漢字と国語を、漢学者の巌本範治から漢字を学んでいる、とのことなので、生まれながらの環境で得た素養と、本人の優れた才能に加えて、当時の日本人としての一流の教養を身につけた素晴らしい画家だったのだろうと思われる。
我々の時代(昭和29年頃)、京都の公立小学校の修学旅行は伊勢旅行が一般的であった。ただ私の通った京都学芸大附属京都小学校は国立で、マッカーサー進駐軍の政策のモルモット教育を受けた世代であったためか、修学旅行はなぜか伊勢ではなく小豆島であった。もし公立の小学校に通っていれば修学旅行でお伊勢さんに行き、伊勢出身の有名な画家が京都にいることを教えてもらったかもしれないのに、などと、この年まで伊藤小坡という素晴らしい画家を知らなかった言い訳にしている。
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