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2020.11.20

水運の父 -角倉了以の足跡をたどる-

 2_20201106162301(写真はすべてクリックで拡大)

 角倉了以(大悲閣千光寺:京都嵐山)

<角倉了以(すみのくらりょうい)>

ウィキペディアには、「角倉了以(すみのくらりょうい:1554(天文23)年~1614(慶長19)年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川(おおいがわ)、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。地元京都では商人としてよりも、琵琶湖疎水の設計者である田辺朔郎とともに『水運の父』として有名である」と出ている。ちなみに田辺朔郎の戒名は「水力院釈了以居士」というから、水利技術者の世界においては、角倉了以は最も偉大な存在であるにちがいない。ご承知の通り大堰川は嵐山を、高瀬川は木屋町を流れる川である。

京都育ちであったから、小学校の遠足や耐寒マラソンで嵯峨や嵐山はおなじみで、中学生になると昆虫採集で保津峡、嵯峨野、嵐山を駆け巡ったので、大堰川(地域によって保津川、桂川と呼ぶ)界隈は自分の庭みたいなものであった。高校生や大学生になると街中へ行くことが多くなり、高瀬川沿いの木屋町、先斗町、五条楽園などをうろうろすることになるので、高瀬川界隈もそうであった。しかし当時はこれらの河川のインフラ構築者が角倉了以であることはほとんど認識がなかった。角倉了以に関心を抱いたのは、司馬遼太郎の「街道をゆく」の第26巻「嵯峨散歩」を読んでである。大悲閣の項に角倉了以の人物像が描かれており、一度その像を追ってみたいと以前から思っていた。

このウェブサイトをいつも覗いてくださるEさんは伏見で語り部をされているが、角倉了以らが海外に出かけて行った日本の大航海時代や、高瀬川による京都や伏見の繁栄に関心をもたれていたので、角倉了以に関するやりとりをしたこともきっかけとなって、その像や事績を追ってみることとした。

<大悲閣千光寺>

司馬遼太郎が「嵯峨散歩」で書いているように、角倉了以は保津川開削工事の犠牲者の霊をとむらうために、稔侍仏の千手観音を大悲閣千光寺に祀り、この寺で亡くなった。大悲閣には角倉了以の木像があるというので、その足跡を追う第一歩として、まずは嵐山の大悲閣千光寺に行ってみることとし、2020年10月19日に久しぶりに嵐山を訪ねた。嵐山にはそれこそ何十回来たかというくらい来ているが、嵐山のシンボルである渡月橋の北岸には亀山公園や天竜寺などの観光資源が集中していて店舗も多く、人力車を引っ張るお兄さん達のよい稼ぎ場になっている。足を延ばせば嵯峨野の落柿舎や小倉山の二尊院にも通じており、渡月橋の北岸は京都の代表的な観光スポットの一つである。

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    嵐山界隈の地図       北岸下流から望む渡月橋と嵐山(大悲閣方面)

大悲閣はこの観光エリアの北岸ではなく対岸の嵐山の中腹にある。大悲閣へ行くために、渡月橋を南へ渡って突き当りを右へ折れ、南岸の狭い道を大堰川の上流に向かって進んで行った。北岸の観光地の嵐山とは打って変わって木々の落葉が道を覆い、ここが嵐山?と感じるほど静寂な別世界となり、人と行き合うこともなくなる。しばらく歩くと川べりに舟が係留され、おでんとかみたらし団子と書いた幟があったので、「やってますか」と聞いたら「どうぞ」と床几へ案内してくれた。「嵯峨散歩」には千鳥ヶ淵という項があって、司馬遼太郎一行が大悲閣からの帰途、千鳥ヶ淵の屋台に立ち寄りおでんを食べた記載があるので、ここでおでんを食べた。

さらに上流へ進んでいくと、大堰川の広々とした川幅が次第に狭くなって渓谷の様相を呈してくる。大堰川の上流は保津川下りで有名な保津峡と呼ばれるから、その峡谷に差し掛かったのであろう。やがて右側に水が淀んでいる美しい河原が現れた。岩場やコンクリ―トの防壁もある。「嵯峨散歩」には、この辺りが千鳥ヶ淵で嵐峡館という料理旅館があり、司馬遼太郎は20年ほど前(注:「嵯峨散歩」の初版が1990年なので今から50年前)に渡月橋から舟でここへ来て泊まったとの記載がある。帰ってからネットで嵐峡館を調べたら、明治の創業だったが5代目社長が急逝して休業中、との2007年の京都新聞記事があった。つまりここ千鳥ヶ淵は、13年前までは嵐峡館へ舟で来る客のための舟着き場で、司馬遼太郎が立ち寄った屋台などもあったのだと思われた。

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   保津川峡谷の千鳥ヶ淵        今は保津川下りの舟が立ち寄る       大悲山千光寺への参道

今は嵐峡館はなく、川沿いの道はここで行きどまりになっていて、左側の大悲閣へ登る参道だけになっている。参道入り口の両側に門柱が立っていて漢字が刻んであるが、断片的にしか読めず意味は分からない。大悲閣への参道はつづら折れになっており、かなり急でちょっとした登山道である。「嵯峨散歩」には、「登り始めたが、やがて石段が途中で遮断されていることを知った。石段が鉄柵ではばまれ、掲示板が出ていた。山上は修理をしているからこれ以上登ってはいけない、という」とある。つまり司馬遼太郎がここへ来たときは、大悲閣が修理中で行けなかったらしい。しかし今日は問題なく登れ、すぐ大悲閣(千光寺)の案内板があった。

京都市作成の案内板には、正しくは嵐山大悲閣千光寺と号する禅寺で、1614(慶長19)年に角倉了以が二尊院の僧、道空了椿を開山として建立したこと、了以は民間貿易の創始者として、南方諸国(主にベトナム)と交易し海外文化の輸入に功績を挙げたこと、国内では保津川、富士川、天竜川、高瀬川等の大小河川を開削し舟運の便益に貢献したこと、晩年はこの地に隠棲し、開削工事に関係した人々の菩提を弔うためこの寺を建てたこと、本堂には了以の稔侍仏であった本尊の「千手観音像」および遺言によって作られた法衣姿の了以の木像が安置されていること、などの記載がある。

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   大悲閣千光寺の案内板         大悲閣入り口の門             鐘楼

つづら折れの参道を少し息を切らしながら登ってゆくと、拝観料400円と張り紙した山寺らしい簡素な門が現れ、その奥に鐘楼があった。ご自由、FREEの張り紙がしてあるので、勝手に撞いても良いらしい。さらに登ってゆくと傾斜がなだらかとなって広場になり、大悲閣千光寺に至った。広場には三つばかりの建物があって犬を連れた先客が2人おられ、一緒に談笑されていた和尚さんらしき方が「ようこそ」と出迎えてくださった。門や鐘楼を見てきたので、大きな寺院風の本堂があるように想像していたのだが、あまり寺院らしくない民家風の建物が本堂になっていて、広場から直接、嵐山大悲閣観音と角倉了以の木像が拝観できるようになっていた。

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  大悲閣の本堂(嵐山大悲閣観音と角倉了以の木像が並んでいる)

冒頭写真の角倉了以は、この木像を近くから撮らせてもらったものである。拡大してみると、法衣を着て石割斧を持ち、片膝を立てて座っている姿である。射るような眼光の鋭さが意志の強い性格を彷彿とさせる。司馬遼太郎は「嵯峨散歩」では写真を見て次のように描写している。「才槌頭で前額部が思い切って発達し、数理や計算の能力に富んでいたろうことが想像できる。両眼はかっと見ひらき、唇は文字どおり『へ』の字にまがり、自分の構想に人がついて来ぬことにかんしゃくでもおこしているような顔つきである。---ぜんたいに独立不羈(ふき)を感じさせるあたりが、京都人にまま見られる典型で、権威や権力につよいだけでなく、そのつよさが習い性になって、ときに人をバカにしていると受けとられかねない。」

「事実、了以の場合、バカにもしていたであろう。角倉家は王城の地で何代もつづいた町衆である。公家や学僧たちを日常見て、世の中にはさほどの人物はいないということを体で知っていたにちがいない。かれらは詩文や典礼には明るくても、あばれる川をおさえつけるという実行力は持ちあわせていなかった。(王侯将相、なにほどのことがあろう)大悲閣の了以は、そんなつらつきである。京都から幾人ものノーベル賞の科学者が出た。このことは、夜郎自大に決してならない環境でありながら、しかも独立不羈であるという伝統と無縁ではなく、了以の心がいかにもそういう意味での京都人の一つのタイプの祖であるような気がする」と、司馬遼太郎は了以を京都人の特性に結びつけて見ているのが面白い。

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     大悲閣別棟の一室           眼下に大堰川、遠くに比叡山が見える

和尚さんに「角倉了以に関心を持ったので来ました」と申し上げたところ、話し好きの和尚さんとみえ、いろいろお話を伺ったり、関係資料のコピーを下さったりして感激した。別棟にも案内していただいたら、仏教に関する資料や地球儀までおいてある一室が展望室のようになっていて、眼下に了以が開削した大堰川が見え、遠くに京都市街や、比叡山、大文字山などの東山連峰が見えるという絶景ポイントになっていた。この景色を見ると、なぜ角倉了以がここに大悲閣千光寺を建て、法衣姿で石割斧を持つ自分の木像を作らせたのか、その理由がわかるような気がした。つまり自分の開削した大堰川の工事関係者の菩提を弔うとともに、舟運の安全を死後もずっと見届けたいという気持ちの表れと思えた。

大堰川の開削は角倉了以と素庵父子の偉業である。丹波国は木材を産するが了以以前は陸路で京へ運ばれた。了以は土木家の目で大堰川の開削が可能とみて、1605(慶長10)年に江戸幕府に上申した。上申は京における第一等の知識人であり徳川家康の信頼も受けていた息子の素庵が行った。司馬遼太郎によれば、「江戸での工作は鬼瓦のような顔つきの了以よりも、温和な知識人である子の素庵のほうが適していたろう」ということになる。工事は1606(慶長11)年に実施され、了以の設計と施工で、川の中の邪魔な岩を綱で引き上げ落として砕いたり、陸から引っ張り上げたり、水面の岩は烈火で焚いてもろくして砕くなどの方法がとられ、わずか5か月で完工した。司馬遼太郎は否定しているが、当時は貴重で高価な火薬を使ったともいわれる。川を通す舟は、かつて了以が備前の吉井川(和気川)で見た「タカセ」と呼ばれる舷(ふなばた)が高く舟底が平たい舟を選んだという。これが後に掘る木屋町の高瀬川の名前の由来になる。

先日、大先輩から子供時代に読みふけったお宝本を見つけたよ、とのことで、1938(昭和13)年発行の「国史美談教訓画蒐」(国史名画刊行会著)の一部を送ってこられた。その中に「奇謀を以て河川を浚渫(しゅんせつ)する角倉了以」という一枚があった。解説文には、「わが国史に残る二大英雄豊臣秀吉、徳川家康と時代を同じうして、しかも槍を握らず刀も抜かずそのなせる功績や四百年後の今日、否恐らく千萬年の後にまで傳わるのは角倉了以、であろう」とある。戦前の日本人の倫理道徳の価値観においても、私財を投じて数々の公共工事を成し遂げた角倉了以の行為は国史に残る美談であり、その公益精神が称えられている。徳川家康は了以の大堰川の成功を知り、富士川や阿倍川の開削を頼んだという。

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 国史美談教訓画蒐に出ている角倉了以(小石原氏蔵)    角倉朱印船絵馬(大悲閣和尚から拝受)

このような大工事に角倉了以は私財を投じた。了以に治水事業に対する天下意識があったとしても、とてつもない財力がなければ出来るものではない。了以は嵐山の天竜寺のあたりで土倉(金融業)と医業を営む角倉一族の吉田家に生まれ、祖父の吉田宗忠の頃から海外貿易にも手を広げて巨富の基礎を築いたという。角倉家の海外貿易については「嵯峨散歩」も触れており、「角倉とは屋号で、天竜寺の僧たちのかかりつけの医者だった時代もあって天竜寺との縁は深かった。天竜寺は京都五山の一つで、室町幕府から対明貿易も官許されていて世に『天竜寺船』と呼ばれた。角倉一族は資本も出し利益の分配にもあずかっただろうし、了以の父、宗桂は天竜寺船に乗って明に行き明で医方を学んだ」とある。

了以が生まれた1554(天文23)年頃は世界が大航海時代を迎えていた時代であり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れたが、豊臣秀吉の交易統制で1592(文禄1)年に朱印状が発行された。角倉船もこの年長崎から渡航している。関が原で勝利した徳川家康は1603(慶長8)年に朱印船制度を実施し、了以もこの年に安南国貿易を始めている。これ以後1636(寛永13)年に鎖国令が出されるまで、朱印船貿易で巨万の富を手にした豪商が生まれた。京都では角倉了以や茶屋四郎次郎が著名である。1634(寛永11)年に清水寺に奉納されたという角倉朱印船の絵馬のコピーを和尚さんからいただいた。記録によれば角倉家の渡航回数は17回を数え、朱印船貿易商人の中で最多だったらしい。

<亀山公園>

ネット記事には亀山公園の角倉了以像がよく出ているので11月4日にも銅像を見に行った。嵐山の渡月橋北岸に位置する亀山公園は、亀山天皇ら3天皇の火葬塚にちなんだ通称らしい。「正確には京都府立嵐山公園の一部である」と、ウィキペディアに出ている。この亀山公園の頂上付近にある展望台は大堰川から標高差が40mほどあるので、了以が開削した保津川峡谷が一望できる。写真を拡大すると対岸の嵐山の切り立った岩場に大悲閣千光寺も見える。亀山公園への登り口付近は保津川下りの終点になっていて、ここで休憩してニシンそばを食べていたら、ちょうど保津川下りの舟がコロナにもめげずほぼ満席の客を乗せて帰ってきた。保津川下りの経験はないが、おそらく船頭さんが開削者の角倉了以のことを話しているのだろうと思った。

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 保津峡(亀山公園の展望台から)      保津川下りの舟         角倉了以の銅像(亀山公園)

亀山公園内に角倉了以の立像がある。嵐山・嵯峨地区としてはまさに郷土の誉れの人物であろう。案内板には「角倉了以翁 銅像 徳川幕府のシンタンク(重要諮問会議)の一員として、若くより招かれ、御朱印船にて安南(今の東南アジア)方面に渡航成功七回、巨額の富を得、これを治水事業に充当する。最初に1606年保津川、大堰川開削、次いで駿河の国(静岡県)、1614年京都市内で高瀬川開削に成功し治水の先覚者となる。京都三大銅像の筆頭である。 2000年夏 角倉了以翁顕彰会」とあり、銅像の傍にも角倉了以の業績を記した銅板が立っている。徳川幕府のシンクタンクという表現が面白い。ちなみに京都三大銅像とは、角倉了以(嵐山)、高山彦九郎(三条京阪)、坂本龍馬(円山公園)だそうである。

<小倉山二尊院>

大悲閣の和尚さんから「了以の墓は二尊院にありますよ」と聞いたので、昔、中学生時代に昆虫採集で何度も行った寺だなと思い出した。二尊院にはヒメジョオンという植物が群生し、キマダラルリツバメというきれいなシジミ蝶が来るので蝶仲間では有名であった。当時は古びた門があって勝手に広い庭に入り、蝶を追っかけまわした記憶しかないが、65年ぶりに来てみると実に立派な寺院になっていて、自分の記憶は全く間違いなのかと思ってしまった。ホームページで歴史を見ると、2016(平成28)年に平成の大改修があったようなので、65年前の面影をたどるのは無理なのかもしれない。

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     小倉山二尊院の総門        角倉了以と素庵父子のお墓       角倉了以の銅像(二尊院)

小倉山二尊院はもちろん由緒ある寺院で、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀り承和年間(834~848)に建てられたが、鎌倉時代初期に藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山の山荘がここではないかという候補になっていて、境内に藤原定家時雨亭跡もある。しかし今日は角倉了以のお墓が目的であるからそちらの詮索はやめて了以のお墓を探した。総門横の受付で貰ったパンフレットに境内図があり、鷹司家墓、三条西家墓、四条家墓、二条家墓など京都の有名貴族の墓と並んで、角倉家墓も記載してあるのですぐに見つかった。「安土・桃山時代の豪商、角倉了以」と書かかれた立札が立っていて四つの墓石がある。了以夫妻、素庵夫妻を祀っているとされる。この左手に角倉一族や了以の実家の吉田家の墓標が立ち並んでおり壮観であった。

ただ大悲閣の和尚さんは、実は素庵の墓は二尊院ではなく、化野(あだしの)の念仏寺にあるのですよ、と仰っていたので、ウェブ検索すると確かにウィキペディアには角倉素庵の本墓は本人の遺言により化野念仏寺にある、と出ていた。それはさておき二尊院にも了以の立像が建てられていた。案内板には「角倉了以翁の業績 京の豪商の家に生誕した了以翁は、徳川家康の政策のもと、朱印船貿易の第一船を出航、以来13年間に渡り、安南国との貿易で蓄財を成した。その私財を投じて保津川、大堰川開削、富士川疏通、天竜川開削、鴨川疏通、高瀬川開削を行い、『水運の父』とよばれる偉業を成した。 墓所 二尊院」と記載してある。大悲閣の木像に比べると、かなり柔和な顔つきであり石割斧も持っていない。

<角倉町>

渡月橋から大堰川北岸を亀山公園とは反対方向に進むと「角倉町(すみのくらちょう)」というバス停がある。その手前に「花のいえ」という公立学校共済組合、嵐山保養所がある。嵐山や大堰川が目の前に迫る風光明媚な保養所であるが、もとは角倉了以の邸宅の一つで、通行料などを徴収した舟番所の跡である。当時のものといわれる離れ座敷「關鳩楼 」が「ごてんの間」として今も利用いただいている、と「花のいえ」のホームページに出ている。角倉了以と素庵父子は、この地にあった邸宅を本拠にして何度も現地調査をし、大堰川開削の計画を立て幕府の許可を得たという。門前に「此 桓武天皇勅営角倉址了以翁邸址 附近 平安初期鋳銭司址」と刻まれた石碑が立っているので相当古い歴史のある地らしい。

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   角倉町バス停    角倉了以邸の跡に立つ「花のいえ」     門前に立つ石碑

<高瀬川>

了以は大堰川開削の翌1607(慶長12)年に富士川(駿河岩渕から甲府府中まで)の疏通に成功した。家康が狂喜したとの記録があるらしい。次いで天竜川に着工したがここは難しく開疏はならなかった。京都へ戻った1610(慶長15)年に、1596(文禄5)年の慶長伏見地震で倒壊した秀吉建立の方広寺大仏殿再興への協力を家康から命じられ、巨材運送のため鴨川水道を完成させた。この水路は鴨川の川底を深くしたもので、伏見から三条大橋の下まで延びていた。しかし当時の鴨川は暴れ川といわれ、上流からの土砂がたまり水位が不安定になって限界があったので、了以・素庵父子は鴨川西岸に鴨川と平行して運河を建設することを請願し、翌1611(慶長16)年着工、1614(慶長19)年に完成した。了以は運河の完成を見届けたかのように、この年の7月に61歳で歿した。

了以父子によって開削された運河は、鴨川の水を二条あたりで分水して取り込み、伏見で宇治川に合流していた。この運河は舟底の平たいタカセ舟を使ったことから「高瀬川」と呼ばれた。これにより大坂からの物資は淀川で伏見まで30石船で運び、伏見で高瀬舟に積み替えて京都まで水路で運べるようになった。「高瀬川の水運」の説明板に記載されているように、当時は川幅が約8mで、二条-伏見間11.1kmを結んでいて、水路に沿って9ヶ所の船入が設置された。この工事のために、土地の買収、補償、年貢の肩代わり、職を失う馬借、車借たちへの補償、造船などで総工費は7万5千両(現在の150億円余り)かかったが、その全ての資金と全ての責任を角倉家が負担したという。竹田村庄屋への誓約状が残っているが、決して幕府の威を借りることなく、全責任を角倉了以が負うと誓約しているという。まさに了以の気概が窺い知れる誓約状である。

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          高瀬川水運の説明板       現在の高瀬川   高瀬川筋明細絵図

現在の高瀬川は、1935(昭和10)年の鴨川大洪水の後、鴨川の大改修が行われたため、人工水路のみそそぎ川を経由して取水し、木屋町通に沿って南へ流れた後は、十条通付近で再び鴨川に放流される淀川水系・普通河川となっている(図は親水紀行HPから転載許可)。了以が開削した当時の取水法は、江戸時代に描かれた「高瀬川筋明細絵図」(京都産業大学図書館蔵)で凡その様子を知ることができる。京都産業大学の鈴木康久教授が水環境研究所の広報誌「水が語るもの」第19号(2019.12発行)に、「京都の水文化(その2)江戸期の舟運~高瀬川が生み出す経済的価値~」として寄稿された記事で紹介された絵図で、鴨川の石積護岸に樋口と樋門が描かれており、直接鴨川から取水していることがわかる。木屋町通が始まる二条通の北側は今も「樋之口町」という地名なので、当時の樋口(取水口)を示す地名かと思える。

また了以は、運河通行料徴収のため鴨川からの取水場所に自らの邸宅を築き、庭園の中を水が抜けるようにした。この庭園は「高瀬川源流庭苑」と呼ばれ、了以の後、明治になって山縣有朋の別荘「第二無鄰菴」になり、現在は大岩亭として「がんこ高瀬川二条苑」の庭園となっている。「がんこ」のこの店はいろんな会合で何回も利用したことがあるが、「庭園は食事をしなくても無料で見せてくれる」と書いたウェブサイトがあったので、11月4日に木屋町にも寄り、ためしに「がんこ」の玄関で「庭を見せてもらえますか」と聞いたら、たしかに「どうぞ」という返事であった。ではということで、玄関から直接庭へ入り、みそそぎ川からの取水口や高瀬川へ向かう流れを見せてもらった。コロナ禍で客足が落ちているのか、店の前でお弁当も売っていた。

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    高瀬川源流庭苑説明板      みそそぎ川からの取水口、水は庭苑から木屋町通を潜って高瀬川に注ぐ

<木屋町筋>

高瀬川沿いに南北に通じている木屋町筋について、ウィキペディアには「角倉了以の高瀬川開削に伴って1611(慶長16)年に二条樵木町(こびきまち)を起点に開通したので、当時は木樵町通と呼ばれていた。江戸時代初期、大坂や伏見から薪炭・木材が高瀬舟に積まれて集まり、材木問屋や材木商が倉庫や店舗を立ち並べようになったため『木屋町』と呼ばれた。江戸時代中期には料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。幕末には勤王の志士たちが密会に利用したため、幕末の史跡や碑があちこちにある。高瀬川沿いの二条・五条間の地域を『木屋町』と通称する」と出ている。何度来たかわからないくらいよく来ている木屋町筋であるが、角倉了以ゆかりの史跡や碑を追ってみようと、11月16日に二条・五条間をあらためて歩いてみた。

木屋町二条の「がんこ高瀬川二条苑」の向かいが高瀬川の起点であるが、その前に鴨川と並行して流れるみそそぎ川から「がんこ」庭園への流入口を見に行った。鴨川にかかる二条大橋から下流を見ると、右側に見えるみそそぎ川が分流している。鴨川へ降りて南へ少し行くと、みそそぎ川からの「がんこ」庭園への流入口があった。上記の高瀬川源流庭苑の取水口の反対側になる。「がんこ」庭園内を通過した流れは木屋町通下の暗渠を潜って高瀬川の起点となる。ここには「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」と刻まれた石碑が建っており、高瀬川の源流は角倉了以の邸宅である、と世間の人々にはうつったであろうことを物語っている。春の桜の季節は特に美しく、多くの観光客が目にする石碑である。 

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    みそそぎ川の分流点       「がんこ」庭園への流入口      高瀬川の起点(角倉氏邸址碑)

高瀬川の起点から木屋町通を南下して直ぐのところに高瀬川一之船入がある。「船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所で、二条から四条の間に100m置きに9ヶ所作られたが、国の史跡に指定されているこの一之船入を除いてすべて埋め立てられている」と案内板に記してある。「史蹟高瀬川一之舩入」と刻まれた石碑と木の間から、船入は高瀬川に対し西方に直角に設けられていることがわかる。一之船入の近くには積み荷を積んだ復元高瀬舟が常時展示してある。二条から四条までの木屋町筋は高瀬川の川縁にも遊歩道が整備されており、南下して行くと、埋め立てられた8つの船入の場所に「船入跡」とか「舟入址」の石碑が立っているので、これらを探しながら歩くのも一興である。「船」、「舟」、「舩」、「跡」、「址」が混在しているが意味はなさそうである。

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    高瀬川一之舩入       復元高瀬舟(2014年4月8日撮影)    二条・四条間の船入跡の石碑

さらに了以の開削工事の遺産を示すものとして、御池橋から少し南下したところに「水の堰止めの石」と刻まれた石碑がある。川を覗きこむとH形の堰止め石が3個一列に並んでいるのが見える。高瀬川の浅い水位の調節のための堰で、水量が不足した場合にはここに板を差し入れて堰止めをし、水位を上げて航行したとのことである。また埋め立てられた船入の中にもまだ当時の面影を残しているところもある。七之舟入跡には、廃止当時まで使っていたと思われる古い高瀬舟が、埋め立てられた船入に食い込むようにして浮かんでおり往時を偲ばせている。往時は大坂からの荷物を積んだ数十艘の高瀬舟を縄でつないで、曳き子と呼ばれる人足たちが高瀬川の船引道から高瀬舟を曳き上げた。最盛時には159艘の高瀬舟と700人もの曳き子がいたという。荷物ではなく罪人を乗せることもあり、昔読んだ森鴎外の「高瀬舟」は、安楽死の罪を問われた罪人の物語である。

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  水位調節のための堰止め石      七之船入に残る高瀬舟       高瀬舟(森鴎外)

木屋町通をさらに南下すると、右手に旧立誠小学校の瀟洒な建物が現れ、高瀬川に面した玄関脇に「角倉了以翁顕彰碑」が建っている。この顕彰碑は高瀬川開削三百七十五年記念として1985(昭和60)年に建てられたということで、見るのは初めてであった。この立誠小学校は、明治の学制創設以前の1869(明治2)年に開校したいわゆる京都の番組小学校の一つだったが、1993(平成5)年に閉校となり、現在は立誠ガーデンヒューリック京都という複合施設になっている。顕彰碑には了以のシンボルともいえる石割斧を持った了以の上半身が刻まれている。何となく漫画チックな顔つきで、彼の成し遂げた偉業を顕彰する碑としては少し物足らない感じがした。大悲閣の、厳しいが慈愛に満ちた表情の了以像が頭にあるのでそう思うのかもしれないが。

 実はこの高瀬川開削工事においても、角倉了以の慈愛ある行動が木屋町の史跡として現在に伝わっているのである。木屋町三条から高瀬川とは反対側の歩道を南下するとすぐ左手に「瑞泉寺(ずいせんじ)という寺がある。晩年の豊臣秀吉は秀頼が生まれたため、後継者に決めていた秀次を謀反の疑いをかけて高野山で自害させ、一族の妻妾子39名を鴨川の三条河原で処刑し殺生塚を築いた。この16年後に高瀬川の開削工事を開始した了以は、荒廃したその「塚」を供養し、立空桂寂を開山として秀次の法名「瑞泉寺殿」に因んで、この地に瑞泉寺を建立したのである。この時期は大坂夏の陣の翌年で「豊臣」側への気配りは禁物であった時節と思われるので、了以のとった倫理的行動は特筆すべきことである。家康の許可は貰っても仕事はすべて自分の責任で行うという了以の気概が、そのような「徳川」に忖度しない行動を可能にしたと感じる。

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 高瀬川開削350年記念顕彰碑     瑞泉寺(木屋町三条)         前関白豊臣秀次公墓(瑞泉寺)

木屋町通は四条を過ぎると、高瀬川の川縁の遊歩道はなくなり、反対側の歩道のみとなる。二条・四条間はほとんど真っ直ぐだった高瀬川は、四条を過ぎると蛇行が始まる。二条・四条間で見られた船入跡のような目立った史跡は見当たらないので、あまりキョロキョロする必要もない。「ぶっこうじばし」と表示された橋のところに、京都市作成の案内板があった。それによると、「開削以来、船の待機や方向転換のための付属施設として『船入』が設けられ、その小規模なものが『船廻し』であった。四条から上流には100メートル置きに船入があったが、四条~五条間では、船頭町、天満町、西橋詰町に船廻しが設けられ、下流の農村部からの農産物の揚場として使用されていた」とあるので、小規模な「船廻し」があったらしいが、その場所を示す標識などは見当たらなかった。木屋町五条に達し「牛若ひろば」で木屋町探訪を終えた。

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  蛇行して五条へ向かう高瀬川      仏光寺橋の案内板       木屋町五条の「牛若ひろば」

<吉田城址(滋賀県豊郷)>

大悲閣の和尚さんは、当方が滋賀県から来たと聞いて、「滋賀県にも角倉了以の関係する碑がありますよ」と仰った。「嵯峨散歩」には、「角倉は屋号らしい。家の本姓は、吉田である。もとは、鎌倉・室町期の近江武士で、近江の吉田に住した。いまも近江鉄道の愛知川(えちがわ)駅と豊郷(とよさと)駅の中間ほどに、吉田という古い集落がある」と出ている。ウィキペディアにも「角倉家の本姓は吉田氏。佐々木氏の分家であるという。もともとは近江国愛知(えち)郡吉田村出身とされ、室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者としてつとめた。・・・同所にある日本酒の酒蔵である岡村本家を経営する岡村家は角倉家の一族である」とあったので、豊郷町吉田の岡村本家の酒蔵を訪ねれば何かあるかも知れないという期待で、2020年10月26日に豊郷町吉田に向かった。

岡村本家のホームページに、名神高速道路の湖東三山スマートICより車で10分とあったので、ICを出た後はナビにまかせた。「このあたりです」と示されたところは駐車場になっていた。入口の小屋の壁に「酒蔵見学会」の張り紙があり、照明灯の柱に「金亀・大星醸造元 株式会社岡村本家」の標識があったので、ここだなと確認できた。誰もいないので聞くこともできず、周囲をキョロキョロ見回していたら、奥の方に石碑らしきものが建っているのが見えたので、ひょっとしたら和尚さんが仰っていた了以に関係する碑かもしれないと思い近寄ってみると、「吉田城址」と刻まれた大きな石碑と、「吉田城縁起」が刻まれた石碑があった。

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   岡村本家の駐車場(豊郷町吉田)          吉田城址と縁起の石碑

吉田城縁起には、「佐々木源氏の一流、佐々木秀義の六男巌秀(いわひで)がこの地に封邑を得て吉田氏を称した」とある。つまり吉田氏は近江の名門、佐々木源氏の流れである。また「城は元亀2年(1571)の宇曽川の戦いで織田信長軍の馬蹄に踏みにじられ焼き討ちにあってあとかたもなく焼き尽くされてしまった」とあるので、信長が近江に進攻し佐々木源氏の流れの六角氏を打ち破った時に、吉田城も壊滅したらしい。さらに「吉田氏は、子々孫々をこの地に地頭として生きのびたが、巌秀の九世孫の徳春の代に京都嵯峨へ退隠して角倉(すみのくら)の家祖となる。江戸時代の豪商角倉了以はその子孫である」とあって、角倉了以のルーツが近江にあることがわかった。

司馬遼太郎も了以のルーツを克明に調べており、「嵯峨散歩」には、「了以の遠祖吉田徳春という者が近江を離れ、足利将軍家に仕え、のちに嵯峨に退き、その曾孫宗桂(注:了以の父)という者が医術をもって知られたとされる。宗桂の家系は、当時、土倉とよばれた金融業をも営んだ。当時の土倉は造り酒屋を兼ねたが、角倉家系もそうであった。地侍から幕臣へ、幕臣から医家、また金融業・酒屋へ、さらには海外貿易業という六つの要素が角倉家に充填していた。言いわすれた。室町期、角倉家は帯をあつかう帯座の座頭職でもあった。とすると、七種である」と記載されている。角倉家の幅広い事業形態が了以や素庵などの人材輩出につながったと言いたげである。

<終わりに>

司馬遼太郎は、「この時代の治水事業は、その人間に天下意識がなければ思いたつものではない。このことは室町幕臣を一時ながらもつとめたという家系意識からくる視野のひろさとまったく無縁というわけではなかろう」と、了以の治水事業への志を分析している。ただ、「そのくせ、出発点の丹波の保津に官許の『角倉役所』を置いて通運料をとり、終点の渡月橋下流には倉敷料をとる役所をおいた。つまりは、もとをとった。帳尻をあわせる感覚は商人のものといっていい」と、一方では了以の商人としての抜け目のなさも指摘している。さらに、「了以における最大の能力は、なんといっても財力であった。かれの治水はむろん私欲から出発したものではなく、天下のためのものであった。従って、工事にはことごとく私財を投じている。それだけの財力がなければならない」と、「志」達成に先立つものの重要性を認めている。

とにかく角倉了以は日本の豪商や事業家の中では、稀有の人物であったように思える。「政商」という言葉がある。ウィキペディアには、「政商とは、政府つまり政治家(政治)や官僚(行政)とのコネや癒着(官民癒着)により、優位に事業を進めた事業家、あるいは企業グループのこと。江戸時代には、御用商人と呼ばれた。戦前日本の財閥はその代表例である」とあり、あまり良いニュアンスではなく、むしろ政治と結託して私利私欲を貪っている事業家という意味合いが強い。角倉了以は、安土桃山時代から江戸時代にかけての政商の典型であったことは間違いない。しかし彼の足跡を追ってみると、世に言われる政商を超えた存在であるように思える。

事業家として朱印船貿易で得た利益を、自分の「治水事業のインフラ構築」という「志」のために投じたが、そのインフラを利用する受益者から使用料を取るという仕組みを考え、子々孫々の時代まで収入が得られる事業にしたことは、当時としては革新的な構想であったと思える。当時の並み居る豪商たちの中でもその構想力・実行力・度量の大きさは抜きんでていたのだろう。しかし角倉了以を稀有の人と感じる理由はそれだけではない。大堰川開削工事の犠牲者の菩提を弔うために大悲閣千光寺を建立したこと、また晩年の秀吉の耄碌の犠牲になった秀次一族の菩提を弔うために、豊臣から徳川への政権移行という微妙な時期にも関わらず、瑞泉寺を建立したことに、了以の人間を思いやる慈悲を感じるからではないかと思う。

 

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