南禅寺界隈別荘庭園群
<南禅寺>
南禅寺と聞けば、京都の東北部に位置し、付近の蹴上疏水公園や永観堂とともに、桜や紅葉の季節には観光客でごったがえす人気スポットと思い浮かぶ。周辺参道の「順正」などの湯豆腐屋を思い浮かべる人もいるかもしれない。歌舞伎の愛好者には、石川五右衛門の「絶景かな!絶景かな!」という名セリフで知られる「南禅寺山門」(三門)がお馴染みであろう。子供の頃はこの辺りに若王子プールがあり、友達と泳ぎに来たことを覚えている。まだ小中学校にプールが無い時代、琵琶湖疏水の分水路を利用し作られた市民プールであったが、今はないらしい。
現在は大津市に住んでいるが両方の実家が京都市左京区で、今も京都にはよく行くので、蹴上から南禅寺前の交差点に入り天王町へ抜ける白川通を何十年も利用しているものの、横を素通りするだけで、南禅寺のことをくわしく知る機会はほとんどなかった。今回南禅寺界隈について触れることにしたので、まずはウィキペディアを参照して南禅寺の歴史を追って見た。
南禅寺の建立以前、この地には後嵯峨天皇が1264(文永1)年に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。亀山法皇は1291(正応4)年、禅林寺殿を寺にあらため、無関普門(むかんふもん)を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。龍安山禅林禅寺が太平興国南禅禅寺(南禅寺の正式名称)という寺号に改められたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。1313(正和2)年には一山一寧(いっさんいちねい)が、後宇多上皇の懇請に応じ上洛して南禅寺3世となった。1325(正中2)年には夢窓疎石が当寺に住している。
南禅寺方丈 石川五右衛門が登った三門
1334(建武1)年、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、1386(至徳3)年に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために、南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけた。因みに五山制度が定着したのは鎌倉幕府滅亡後の室町初期であり、鎌倉と京都のそれぞれに五山が定められた。度々の改定を経て上述のように足利義満の時に南禅寺を五山の上におき、京五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)と鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)が定められたという。
1467(応仁1)年からの応仁の乱では、市街戦で伽藍をことごとく焼失して再建も思うにまかせなかった。南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって1605(慶長10)年に以心崇伝(金地院崇伝ともいう)が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。南禅寺境内には崇伝が住んだ塔頭である金地院が今も残っており、小堀遠州が作庭した鶴亀の庭や家康を祀る東照宮が拝観できる。
金地院庭園と東照宮の入口 琵琶湖疏水水路閣
明治維新になって南禅寺周辺の環境は大きく変化した。維新後に建設された、南禅寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣は田辺朔郎の設計によるもので、建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがったが、今や京都の風景として定着している。また、維新直後に明治政府が実施した寺院と神社の領地を没収する上地(あげち)令によって、南禅寺も寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛によって疏水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。
つまり明治維新になって、広大な南禅寺の土地の大部分が没収されて民間へ払い下げになったので、時の権力者や財閥など政財界の大物がステータスとして競って南禅寺界隈に別荘を建て、数寄屋建築や庭園に趣向をこらしたということである。南禅寺界隈に政財界の大物の邸宅や別荘があることはもちろん知っていたが、あまり詳しい知識はなかった。昨年その中の1邸を見学する機会があったのでこれらの別荘庭園群に触れてみる。
<南禅寺界隈別荘庭園群>
これらの数々の名庭園は「南禅寺界隈別荘庭園群」と呼ばれ、現在も企業や個人が所有する非公開の私有地になっているので、一般的な京都案内のガイドブックにも載っていないという。知る人ぞ知る存在である。ウィキペディアの「南禅寺界隈別荘」には、明治新政府が召し上げた臨済宗南禅寺の敷地を開発した後に建つ15邸の広大な別荘と出ている。15邸とあるが、記載されているのは次の14邸である。
・碧雲荘(へきうんそう:野村徳七が築造 野村ホールディングスと野村殖産が所有)
・何有荘(かいうそう:稲畑勝太郎の「和楽庵」→大宮庫吉が「何有荘」と命名 現在はオラクルCEOのラリーエルソンが所有)
・對龍山荘(たいりゅうさんそう:伊集院兼常の自邸→市田弥一郎が改築・庭園作庭 現在はニトリホールディングスが所有)
・流響院(りゅうきょういん:塚本與三次の自邸→岩崎小弥太→進駐軍接収→龍村美術館「織寶苑」 現在は真如苑が所有)
・清流亭(せいりゅうてい:塚本與三次の邸 東郷平八郎が「清流亭」と命名。現在は大松株式会社が所有)
・有芳園(ゆうほうえん:住友友純の別邸 現在も住友家が所有)
・真々庵(しんしんあん:染谷寛治の別邸→松下幸之助の別邸 現在もパナソニックが所有)
・無鄰菴(むりんあん:山縣有朋の別邸→1941年に京都市に寄贈 京都市が管理 唯一公開)
・清風荘(せいふうそう:西園寺公望の別邸→1944年に京都帝国大学へ寄贈 現在も京都大学が所有)
・智水庵(ちすいあん:横山隆興の別邸 2018年にZOZOTOWN社長の前澤友作氏が購入したと言われている)
・怡園(いえん:細川護立の別邸→島津藤兵衛→塚本與三次→細川家 現在は京都の企業が所有)
・洛翠(らくすい:藤田小太郎の邸→旧郵政省共済組合→洛翠に運営委託→日本郵政→売却 現在は日本調剤が所有)
・旧上田秋成邸 → 現在は料理旅館「八千代」
・旧寺村助右衛門邸 → 現在は料理旅館「菊水」
これらの14邸のうち、京都大学が迎賓施設として使用している清風荘は今出川通(関田町)にあるので南禅寺からは少し離れている。その他の邸は南禅寺からさほど離れていない範囲にあるので、昔の南禅寺の寺域がいかに広かったが偲ばれる。いずれも通称「植治」と呼ばれる7代目小川治兵衛が作庭した池泉回遊式庭園を有しているが、観光地として常時公開されているのは無鄰菴のみである。その他は全く見られないということではなく、定期あるいは不定期の予約参観に申込み、当選すれば見られる庭園もあるということで、参観した人のウェブサイトも散見される。
碧雲荘 鹿ケ谷通 清流亭 何有荘
旅館「八千代」 旅館「菊水」
別の情報として、京阪電車の沿線お出かけ情報「おけいはん.ねっと」というウェブサイトに、第74回 京の別邸という記事があり、「知られざる京の至宝 南禅寺界隈の別邸」が特集されている。別邸の地図も出ているので、およその所在地はわかる。この地図の中には、上記のウィキペディアに載っていない白河院、桜鶴苑、南禅寺ぎんもんど、が記載されているので、南禅寺界隈別荘群の定義にはいろいろな見方があるのかもしれないが知識がない。これらの3別邸の庭園も7代目小川治兵衛によって作られているので、この点は共通している。
(京阪電車のウェブサイトから)
さらに別の情報として、「Amadeusの京都のおすすめ」というウェブサイトがあり、南禅寺別荘散策シリーズが記載されている。上記のウィキペディアと京阪電車のウェブサイトに記載されていない別荘として、和輪庵(京セラのゲストハウス)、ウェスティン都ホテル佳水園、順正書院、源鳳院(旧洛陽荘)、大安苑の4邸があがっている。まことに京都は奥深い街といえよう。
<對龍山荘・庭園の見学会に参加>
所属している京都のクラブから、2018年11月22日に對龍山荘の見学会を催しますという案内が来たので、南禅寺界隈の別荘の雰囲気を味わえる良い機会と思い早々に申し込んだ。普段は非公開の庭園なので、定員15人の申込み枠はあっという間に満員になったらしい。南禅寺交差点近くの京都市国際交流会館に集合して對龍山荘に向かった。南禅寺参道に入れば八千代があり、通り過ぎてすぐに右へ曲がれば別荘地になり、左手に對龍山荘が現われる。右手には菊水があり、2邸が向かい合っている。
名勝對龍山荘庭園と刻まれた石碑が立っているが、普段は非公開で閉ざされている表門から入場し、書院の広い座敷に通されて年配の男性から對龍山荘の説明や見学に際しての注意事項を聞いた。座敷からはガラス戸越しに見事な庭園が望めるが、このガラスは明治時代にドイツから運ばれたもので、割ると大変なことになるのでくれぐれも注意して下さい、という言葉が印象に残った。古い建物で時々見るガラスで、厚みむらがありガラス越しに見る景色が何となくマイルドに見えて、確かに趣を感じる。現在、ここはニトリの保養所になっているので、説明された男性は保養所の管理人ということであった。
對龍山荘は、1896(明治29)年に薩摩藩出身の伊集院兼常が建てた別荘が基になっている。後に、1901(明治34)年に彦根出身の京呉服商、初代市田弥一郎が譲り受け、改修して「對龍山荘」と命名し、庭園は7代目小川治兵衛(通称植治)が池泉回遊式で作庭した。広大な敷地には、池や流水、滝石組、水車小屋、茶室などが設けられ、芝生広場も設けられていて茶会や園遊会が行えるようになっている。2001年までは呉服会社の市田が所有していたが、不動産投資会社に売却され、2010年からニトリホールディングスの所有になっている。
オーナーの蒐集品が飾られているニトリ美術館や茶室などがある建物内は撮影禁止で、池泉回遊式の見事な庭園は撮影はしても良いが、SNSなどへの投稿はご遠慮ください、とのことであったので、配られた對龍山荘庭園のパンフレットの写真をアップするにとどめる。ちょうどこの時期、パンフレットの庭園写真と同様紅葉がまだ残り、晩秋の大変綺麗な庭園であったことはお察しいただけると思う。2018年4月28日のNHKテレビのブラタモリで、京都東山をテーマにここ對龍山荘の庭園を取り上げていたので、見た方もおられるかもしれない。
對龍山荘の表門 庭園(パンフレットから)
<所感>
對龍山荘の基となる別荘を築いた伊集院兼常は、薩摩藩出身の建築官僚で、退職後は大成建設の前身である大日本土木会社の社長を務めた人で、造園や数寄屋建築に堪能であったという。對龍山荘の庭園も、市田弥一郎の所有となった時に、伊集院兼常が作庭したものを基に小川治兵衛が作り直したとされている。また南禅寺界隈別荘群の嚆矢である無鄰菴を1895(明治28)年に建てた山縣有朋は、良く知られているように長州藩出身の軍政家で、琵琶湖疏水工事を認可した内務大臣、完工時には第3代内閣総理大臣であり、造園と建築についても一目置かれる見識をもっていたという。
無鄰菴に関するいくつかのウェブサイトによれば、南禅寺界隈に別荘群ができた背景には、東山山麓一帯を別荘地として発展させようという当時の政財界の動きがあったという。明治初期の廃仏毀釈の流れで寺領の上地を余儀なくされた南禅寺の土地が国有地となって、琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、1890(明治25)年に1期工事が竣工した。当初は疏水の水力を利用した一大工業地帯を作る計画があったが、国外から水力発電の技術が導入され、隔たった場所への送電も可能になったため、京都市や京都府は東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を打ち出したとのことである。
つまり南禅寺界隈の別荘群は、そのような行政の動きに関与あるいは熟知していた山縣有朋をはじめとする建築や庭園に造詣の深い政財界の大物たちが作り上げた別荘群といえる。現代の感覚では官民の癒着ではないかと感じる面もあるが、文化の伝承や自然環境保存という面もあり功罪半ばというところだろうか。しかし当時の感覚でも琵琶湖疏水の別荘庭園への引き入れに関しては問題があったらしく、ウィキペディアの無鄰菴には次のような記載がある。「無鄰菴に疏水を引き込む際、"防火用水"の名目が使われている。琵琶湖疏水の建設には多額の税金がかけられているため、京都市としては"庭園のため"では許可出来なかったためである。」
The comments to this entry are closed.
Comments