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2018.12.17

豊岡散見

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              田結(たい)の朝焼け(兵庫県豊岡市)

<豊岡で同窓会>
2007年から2013年まで6年間続いた科学技術振興機構さきがけ「生命現象の革新モデルと展開」研究領域が、終了後5年目を迎えたので、領域懇話会という同窓会を兵庫県の豊岡で開催することになった。幹事役の研究者が豊岡市の公的機関で教育指導している縁もあって、豊岡の地で行うことになったものである。豊岡市からもこの開催にいろいろと協力をいただき、加陽(かや)湿地、田結(たい)湿地、玄武洞、コウノトリの郷などの見学や、出石(いずし)永楽館と田結集会所での研究発表会開催で大変お世話になった。

実は豊岡は我家のルーツに関係している。1995(平成7)年に他界したお袋は、晩年我家のルーツを探ることに熱心であった。連れ合い(我が父)の家系は元々はM姓であり、福岡がルーツであるが、連れ合いの先代がY姓の女性の養子となり、続いて連れ合いもその養子となったため我家はY姓になっている。従ってお袋はY姓の女性が何者かということに関心を持ち、古い戸籍を取り寄せたり、関係する役所にも問い合わせ、ついにこの女性が豊岡出身であることを突きとめたのである。.

そんなこともあって、今回の豊岡での同窓会は初めて我家のルーツの地を踏むという機会にもなり、2018年12月2日に大津市の我家を出発し、2泊3日の日程で上述のように豊岡を巡る旅となった。大津から豊岡までは、京都で山陰線の特急に乗れば2時間半ほどで着くのでさして遠くはない。普段はあまり利用しない山陰線なので、保津川、桂川、福知山城などの車窓の景色を眺めながら豊岡に向かった。

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          保津峡                      福知山城

<カバンのまち 豊岡>
豊岡の地場産業はカバン産業である。「豊岡鞄(かばん)オフィシャルサイト」というウェブサイトを覗くと、豊岡のカバンの歴史が出ている。それによると、712(和銅5)年の古事記に新羅の王子とされる天日槍命(あめのひぼこ)によって柳細工の技術が伝えられたと書かれており、豊岡のカバンのルーツは、その柳細工で作られたカゴと言われているとある。天日槍は朝鮮系渡来人集団を指し、播磨→近江→若狭→但馬と遍歴して出石族となったという説もあるので、豊岡カバンのルーツは相当古い。

奈良時代には豊岡で作られた「柳筥」が正倉院に上納されているという。1473(文明5)年の「応仁記」には、柳行李が商品として売買されていた記述があるので、この時期から地場産業としてコリヤナギを使った杞柳(きりゅう)細工が発展したと思われ、江戸時代には豊岡藩の独占取扱商品として柳行李の生産が盛んになった。特に1668(寛文8)年に丹後から移封された京極高盛が、柳の栽培と柳行李の製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したという。コリヤナギは水辺に栽培されるので、この地での杞柳産業の発展は湿地の多かった豊岡盆地の地形とも関係するらしい。

この杞柳産業をベースに大正末期から昭和にかけてカバンが製造されはじめ、柳行李の販売網に乗って急速に発展し、豊岡の主要産業になったという。現在では、皮革、合成皮革、人工皮革などを用いた高級カバンが生産され、全国的にも大きなシェアを占めている。豊岡の街を歩いていると、カバンの装飾を施したバスが走っていて目を引く。また豊岡の商店街の一角に、カバン産業と商店街が協力して2005(平成17)年から「カバン ストリート」を発足させ、地場の産業と商店街の活性化を図っている。

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  かばんのまち 豊岡(全但バス)          カバン ストリート

<コウノトリの野生復帰事業を推進するまち 豊岡>
また、豊岡はコウノトリの野生復帰に熱心なことで知られている。かつての日本にはコウノトリが普通に生息していたが、昭和30年代以降、圃場整備や河川改修によって湿地が姿を消したことや、農薬の使用による生息環境の悪化が進み、1971(昭和46)年に豊岡を最後に日本の野生コウノトリが絶滅した。豊岡でも盆地を流れる円山川や支流はもともとは曲がりくねっていて洪水の起きやすい湿地の多い地形であったが、これらの河川の直線化などの洪水対策で、湿地が減少したこともコウノトリ絶滅の一因であったらしい。

豊岡では1965(昭和40)年にコウノトリの人工飼育場を完成させてコウノトリの人工飼育に取り組み、1985(昭和60)年には旧ソビエトから幼鳥を受贈し、1989(平成1)年になって初のヒナが誕生した。以後毎年繁殖に成功し、2005(平成17)年になって試験放鳥を開始した。2007(平成19)年には放鳥したコウノトリのペアが産卵し、無事にヒナが誕生、巣立ちした。日本の自然界で実に46年ぶりにコウノトリが巣立ったということである。その後順調に野外のコウノトリが増加し、放鳥から12年経った2017(平成29)年には、野外のコウノトリが100羽を突破したという。

今回の同窓会の目玉の一つは、豊岡市内にあるコウノトリの郷公園の見学であった。この公園は1999(平成11)年に開設され、コウノトリ文化館や兵庫県立大学自然・環境科学研究所の建物が建っている。園内に公開ケージがあり、柵の外から飼育されているコウノトリを見ることができる。公開ケージで見ることができるコウノトリは羽が切ってあり、柵を越えて飛び出すことはないとの解説であった。園内には非公開エリアがあって、飼育ゾーンが設けられ、コウノトリの野生復帰をサポートしている。

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        兵庫県立大学                 飼育コウノトリ
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       野外の人工巣塔           コウノトリのペアが巣を作っている

公園の近くの田園にはコウノトリのための人工巣塔が建っている。我々が到着した時には運よくコウノトリのペアが巣塔の上にいたので、遠くからではあるが野外のコウノトリが作った巣を見ることができた。春になると産卵して雌雄が交代で抱卵し、4月から5月に孵化してヒナが生まれるという。この後も雌雄が交代でヒナを抱いて温め餌を運ぶので、コウノトリの餌となるカエル、メダカ、ドジョウ、ヘビなどの確保のためにどうしても湿地が必要となる。このため豊岡では、コウノトリが飛来して餌をとることができる湿地の創出や整備に力を入れている。

豊岡のコウノトリの生息地となる湿地としては、戸島湿地、加陽(かや)湿地、田結(たい)湿地などがあるが、今回、加陽湿地と田結湿地を見学した。加陽湿地は国土交通省の自然再生事業により、出石川と円山川の合流点付近に創出された約15ヘクタールの大規模湿地である。加陽水辺公園として交流館が建てられていて、環境体験学習、企業のボランティア活動、ツーリズム、農業体験等のフィールドとして活用されている。湿地環境の維持管理は地域と国と市が協力して行っているとのことである。

田結湿地は豊岡の北部に所在する城崎温泉の近くにある。12月3日は田結の民宿に宿泊したので、4日の朝に冒頭写真のような朝焼けの下に田結湿地を見学した。「円山川下流域鳥獣保護区 特別保護地区」の標識や、「鳥見庵」と称する観察小屋が建っていた。円山川下流域・周辺水田は、市民、団体、企業、行政などが関わりながら、失われた生態系の再生と、コウノトリとの共生活動が行われているため、これらの活動が認められ、2012(平成24)年に国際的に重要な湿地として、ラムサール条約に登録されたということである。

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         加陽湿地                   田結湿地の鳥見庵

<出石の芝居小屋で研究発表会>
今回の同窓会は終了後5年間の研究進捗発表が主目的である。この発表会を豊岡市の協力を得て、出石(いずし)の永楽館で行うことになった。出石は現在は豊岡市出石町であるが、もとは出石藩という豊岡藩とは別の独立した藩であった。前述したように古事記や日本書紀にもその名が出ている歴史のある町で、新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)が垂仁天皇3年に渡来してこの地を拓いたと伝えられ、天日槍の宝物である「出石小刀」が、この地の名前の由来になったといわれている。

出石永楽館は、1901(明治34)年に開館した近畿最古の芝居小屋であり、、歌舞伎をはじめ新派劇や寄席などが上演され、但馬地方の大衆文化の中心として大変栄えたが、1964(昭和39)年に閉館した。しかし、長年の復元に向けた活動を経て、2008(平成20)年に大改修が行われ復活した。現在も歌舞伎、寄席、音楽、講演、映画、演劇などで現役で活躍中である。芝居小屋らしく桟敷席であり、レトロな看板や落書きも閉館当時のままま残されている。高峰秀子がモデルになっている看板などもあり年配者には懐かしく面白い。

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    出石永楽館(パンフレットから)         桟敷席で研究発表を聴講

芝居小屋が研究発表会場ということで、どんな雰囲気になるのか楽しみであったが、大変スムースに進行し良い発表会となった。研究者にとってもこのようなレトロな感じがする芝居小屋での発表は初めてということで、普段は教室や講演会場で発表し慣れている皆さんであるが、桟敷席の聴衆を前にして新鮮な気分になったようである。発表を聴く方も普段の椅子席とは違い桟敷席なので、何となく寛いだ気分になり、発表者が舞台俳優のように見えたことであった。

<そば処 出石>
出石は「皿そば」で知られており、発表会当日の昼食は永楽館近くの甚兵衛という皿そば屋で食べた。永楽館でもらった出石皿そば食べ歩き公式ガイドというパンフレットを見ると、出石町内に40軒を超える皿そば屋が並んでいるのに驚く。食べ歩きのスタンプラリーが出来るので、それぞれの皿そば屋が繁盛しているようであり、その集客力はすごいものと感心した。出石皿そばは、1706(宝永3)年の国替えにより信州上田から来た仙石氏が、信州のそば職人を連れてきたことが始まりらしい。

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      甚兵衛の出石皿そば                出石城址

甚兵衛から出てくると、正面の山にお城が見えた。パンフレットを見ると有子山の出石城址である。ウィキペディアによると、江戸時代は出石藩の藩庁であり、小出氏、松平氏、仙石氏の居城であったが、明治の愚策、廃城令で取り壊された。来るときのバス車窓から見えた辰鼓楼という時計台や、堀、石垣などは現存し、櫓や門が復元され観光地となっているとあるので、我々が見たお城は復元された櫓であるらしい。パンフレットにはこの他にも、桂小五郎や川崎尚之助ゆかりの地などいろいろな史跡が出ているので、歴史豊かな町であることがわかる。

<多様性のある豊岡>
実質2日間の短い豊岡訪問であったが、幹事役の研究者の素晴らしい企画のおかげで、カバンのまちの豊岡、加陽湿地、城下町の出石、田結湿地、玄武洞など広い範囲を知ることができ、豊岡が非常に多様性に富んだ地域であるという印象を受けた。江戸時代には豊岡藩と出石藩に分かれて統治されていた地域なので、それぞれの藩の文化や個性が継承されて、今も多様な形で残っているのかもしれない、などと考えながら帰途についた。

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