インドのグリーン・ファーザー 杉山龍丸
<杉山龍丸を知る>
前々編で「ダショー・ニシオカ ブータン農業の父」を発信したときに貴重なコメントを頂戴した。「ブータン農業の父を拝読させていただきました。人生をかけて異国に奉仕したのは気高い精神の賜物で、並みの人間に出来ることではありません。西岡さんはまだ組織や国の支援を受けていただけに救いがありますが、杉山龍丸さんのように国からもいかなる組織からの支援もなしに私財(一説に140億円)を投げ打ってインドの緑化に人生をかけ、インドではグリーン・ファーザーという称号を受けているにもかかわらず日本では知る人もないケースもあります。」
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つまり日本ではあまり知られていないが、インドの緑化に貢献した杉山龍丸という日本人がいることを教えてくださったのである。しかも彼は国や組織の支援を受けず、私財を投げ打ってインドのために尽くしたという。杉山龍丸のことは知らなかったので早速ネットで検索してみたところ、ウィキペディアを始め多数の記事がヒットしてきた。
それらによると、杉山龍丸は1919(大正8)年に福岡で生まれ、植林によりインドの砂漠化を防いだので、インドのグリーン・ファーザーと呼ばれ、祖父の夢をインドで実現したとある。祖父は政財界のフィクサーともいわれた杉山茂丸で、アジアの自立を標榜していたので、孫の龍丸がインドの緑化という形で祖父の夢を実現したということらしい。父は作家の夢野久作である。夢野久作の名前は知っていたが、作品は読んだことはない。
さらに調べていくと、杉山龍丸のご子息の杉山満丸氏が「グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑に変えた日本人・杉山龍丸の軌跡」という著書を出版されていることが分かったので、早速購入して杉山龍丸の人となりや事績を追ってみることにした。
<祖父の夢 アジアはアジア人の手で>
杉山龍丸の祖父・茂丸は1864(元治1)年に福岡の黒田藩士の家に生まれた。やがて明治維新となり杉山家は帰農するが、茂丸が21歳の時、薩長政府が堕落しているとの情報で伊藤博文を暗殺しようと上京するものの、かえって伊藤博文に「国家のために自分を大切に」と諭されたという。坂本龍馬が勝海舟を最初は暗殺しようと訪れたが、かえって海舟の持論に共鳴し以後弟子になったことと似ている。
その後茂丸は同じ黒田藩士の頭山満の玄洋社の活動に共鳴し良き関係を築く。頭山満は明治政府のやり方を批判し、民衆の権利を守れと主張した、いわゆる民権活動家で当時の政治家から恐れられる存在になった人物である。余談であるが、我が父方の曾祖父が黒田藩士で頭山満と親交があったらしく、遠縁につながっており、頭山満の書や手紙が我家にも残っている。お前も赤ん坊の時に頭山さんに会ったことがあるぞ、と父母から聞かされていた。
茂丸は伊藤博文を始め明治の実力者たちに信頼され、相談役のような地位となりフィクサーと呼ばれる所以となったが、大正、昭和に移るにつれ、政府の中国政策に反対するようになる。特に日本が満州国を作ったことを批判したので、政府から危険分子と見られるようになったらしい。「アジアはアジア人自身で立て。他国が侵略してはならない」というのが茂丸の信条で、当時イギリスからの独立を目指していたインドのボースが日本に亡命してきた時には、政府の意向に反して頭山とともにこれをかくまったという。
<杉山農園>
龍丸の父・泰道(夢野久作)は1889(明治23)年に生まれ、文学や美術に興味をもち、政治活動に熱中する茂丸に反発していた。しかし「これからはアジアの時代だ。国の基盤は農業だ。アジアの各国が独立した後、農業の指導者が必要となる。アジアの若き農業指導者を養成するために一大農園を作りたい。資金は出すので土地を購入してほしい」という茂丸の夢に感動し、彼の頼みを引き受けて一人で福岡郊外香椎の地で土地の買い上げに奔走し、立花山麓に4万坪の土地を手に入れて「杉山農園」とした。
泰道は1919(大正8)年、30歳の時にこの農園に夢久庵を作って作家活動に入った。この年に龍丸が生まれている。龍丸はこの杉山農園で祖父や父から農業の大切さを教え込まれ、3歳で鋤(すき)を持たされながら育った。しかし龍丸が16歳になった1935(昭和10)年に祖父・茂丸が脳溢血で死去し、翌年には父・泰道が同じく脳溢血で帰らぬ人となってしまった。時代は日中戦争、太平洋戦争へと突入していく。
龍丸は中学卒業後、陸軍士官学校に入り、卒業後陸軍航空技術学校に進み、その後飛行整備隊長として満州や東南アジアでの戦闘に参加した。敗戦間近の時期にはフィリピン基地の整備隊長として悲しみのうちに特攻隊を送り出している。自らも重傷を負って終戦を迎えたが、龍丸はこの時期に残したメモや記録をもとに、命の尊さを踏みにじっていた日本軍の愚かさや、ただ自爆するだけの特攻隊の戦術の愚かさを、後年「幻の戦闘機隊」という手記に書き綴ったという。
<インドとの関わり>
戦後、龍丸は厚生省援護局で、死亡した兵士の記録を留守家族に知らせる仕事や、戦死した部下の家族を全国に尋ね、冥福を祈る旅をする。生活の糧を得るために上京して秋葉原で店を開いていたある日、僧侶になった陸軍士官学校同級生に会う。彼は、インドを解放しようと立ち上がったガンジーに共鳴し、農業開発の分野でガンジーを支援したいと言って、龍丸に資金提供を迫った。このことが機縁になって、龍丸のところにガンジーの弟子たちが訪ねてくるようになる。
龍丸は、インドの青年たちに農業を始め、伝統工芸などさまざまな分野での専門職を学ばせインドへ帰した。この活動がインドのネール首相に伝わり、1955(昭和30)年にはネール首相から特使が派遣され、感謝と今後の支援要請があったため、龍丸は国際文化福祉協会を設立する。1961(昭和36)年にはインドのマハラストラ州で行われたガンジー翁の弟子たちの大会に招かれ、初めてインドに渡った。主催者のネール首相とデサイ副首相が龍丸を大歓迎したという。
<インドへの提言>
インドは1947(昭和22)年にイギリスから独立した。ネールはガンジーとともに独立運動をたたかい、独立後最初の首相になったが、ガンジーは独立の翌年暗殺された。龍丸は、この旅行でガンジー翁の住まいの跡や仕事場、治療施設を備えたガンジー塾を訪ね、すっかりインドへの愛を感じるようになっていた。この後、龍丸はパンジャーブ州のピラト総督から招かれ、「インドを豊かにするにはどうしたらよいか。日本との違いの最も大きいものは何か」との問いを受ける。
龍丸は「日本では山や野に植林が行われているが、インドでは古代文明以来、森の木を切り倒してきた」と答え、「森林がなくなったことで、大地の水がなくなり、地面が乾燥し砂漠化した」と指摘した。さらに「今インドに必要なのは植林である」と提言し、どんな木を植えたら良いかとの問いには、「ユーカリが良い」と答えた。ユーカリは根が深く伸び、乾燥している土地の底に流れる水を吸収し、しかも成長が早いことを、オーストラリアの砂漠の状況から知っていたからである。
ピラト総督のどこに植えればよいかとの問いにも、すでにパンジャーブ州の大地の様子や農業の実態を調べていた龍丸は、「デリーからアンバラを通り、アムリッツァル市へ走っている国際道路沿いが良い」と提案した。国際道路のデリーからアムリッツァル市までの470km間はヒマラヤ山脈と並行して続いているので、ヒマラヤ山脈に降った雨はこの国際道路の下に潜っている。ここにユーカリを植えると木の根が地下に壁を作り保水できるようになるという龍丸の考えであった。
<ユーカリの奇跡>
ピラト総督は早速国際道路にユーカリを植える事業にのりだし、龍丸に指導を依頼した。ところが、この2年後の1963(昭和63)年にインドに大飢饉が起り、3年間で500万人が餓死するという事態が発生した。龍丸はインド全域に及んだ餓死者の続出は森林が何世紀もの間になくなったのが原因と考えた。アショカ王朝時代のレンガ作りやイスラム王朝時代のモスク建設は森林をなくしてしまった。これを救うには一刻も早く木を植え森をつくらねばならない。龍丸は、祖父と父が残してくれた4万坪の杉山農園を切り売りして資金を作るという決断を下した。
一方パンジャーブ州では龍丸が提案したユーカリの苗木作りが進みだし、少しづつではあるが国際道路沿いの植林が始まった。龍丸は現地の村人たちに植林の重要さや、街路樹以外のユーカリは売れば利益が出るなどのメリットを説明し、農民の協力を得ていった。始めのうちは日本人がどうしてインドまで来て植林を手伝うのかいぶかっていたが、次第に龍丸の熱意を感じていったという。数年が経ち、国際道路沿いに植えたユーカリの木は見事に成長し、しかもユーカリを植えた地方の土地が、それまでとは違ってきていることが明らかとなった。
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国際道路に続くユーカリ並木(杉山満丸本から)
つまり龍丸の思った通り、今まで枯れていた土地にユーカリを植えることによって、周囲に水が蓄えられ、作物が育つ土壌に変化してきたのである。このことは1973(昭和48)年に宇宙衛星ランドサットが撮影したパンジャーブ州の写真ではっきりと確かめられたという。デリーからアムリッツァルまでの国際道路のユーカリを植えたところから100キロ四方にあった枯れた河(ワジ)がなくなっているという事実であった。ユーカリが砂漠の土を、水分を含んだ土地に変えていったのである。
さらに龍丸はインドで苦労をともにしている仲間に、ユーカリを植えた地域で稲を作りたいと提案した。そして生長が早いとされる台湾の蓬莱米を育てることにした。蓬莱米の種の台湾からの入手は、龍丸が、かつて孫文を支援した茂丸の孫ということで可能になったという。そして仲間の農業試験場で蓬莱米の作付けに成功し、収穫できた事実は農民を驚かせた。こうしてパンジャーブ州の国際道路の周囲の土地では、稲、馬鈴薯、麦の三毛作が可能になり、今ではパンジャーブ州はインド一の穀倉地帯になっている。
<シュワリックの丘の土砂崩落を止める>
パンジャーブ州の国際道路のユーカリ植樹が成功したのを見て、パンジャーブ州政府が最も頭を悩ましていたヒマラヤ山脈の南に続くシュワリックの丘の土砂崩れによる砂漠化を、何とか食い止める方法がないかと龍丸に聞いてきた。すでに世界の著名な学者たちがこの丘を見て、とても無理とさじを投げて帰ってしまった後であった。龍丸は世界の砂漠の原因は人類が長い時間をかけて森を伐採しつくした結果だという考えであったから、現地調査を行って苔や微生物が生きているところは土砂の崩落が止まっているという重要な事実を発見した。
そこで龍丸は、インドでは土の栄養分を吸収するため農耕に害があるとされているが、砂漠地帯に生えているサダバールという木を採ってきて砂漠の斜面に挿し木をし、根を張ったところにユーカリを植樹していくという方法を編み出した。多くの人々は砂漠には水がないから植物などできるわけがないと否定的であったが、龍丸は砂漠地帯にもほんのわずかだが水があり、その水を長い根で吸い上げれば緑化できると考えたわけである。シュワリックの丘にもやがてユーカリが根を張り、緑の風が渡るのを見たインドの人々は驚き、龍丸に拍手をおくったという。
<国際砂漠会議での発表>
1984(昭和59)年に、オーストラリアのアデレード大学で行われた第2回国際砂漠会議に、龍丸は国際文化福祉協会理事長という肩書で一人で出席して、インドでの植林事業の成果を詳しく発表している。主催国のオーストラリアを始め、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ各国、アジアの砂漠の専門学者など46か国、500名が参加した大会議であった。龍丸は冒頭に次のような演説を行ったという。
「私たち人類は、近代文明を作り、自然を克服したと考えている。しかし本当に自然を克服したのであろうか。そこに砂漠化の問題があるように思う。この砂漠緑化の問題は、自然の中に一本、樹を植えることに始まる。誰でもできるし、具体化できることである。人間は、食糧、酸素、水が無ければ生きられない。それらは、樹、植物によって培養され、作られている。それらの自然の恵みに応ずることを忘れて、人間として生きられるのであろうか?」
そして、パンジャーブ州の総督に国際道路の沿線にユーカリの植樹を提案し、1962~1964(昭和37~39)年までの間に苗木を作り、1964~1972(昭和39~47)年の間にデリー、アンバラ、アムリッツァルまでの合計470kmに4m間隔でユーカリの植林が行われたこと、その結果その植林帯周辺の2kmにおける地帯で蓬莱米の栽培に成功し、三毛作ができるまでになったことなど、植林によって砂漠化が減って緑が回復していった事実を、宇宙衛星ランドサットの写真によって説明し、各国の学者から称賛を受けたという。
しかしこの会議に出席するにあたっては、龍丸には旅費が工面できなかったという。すでに杉山農園の土地は最後の1千坪を売り払って事業につぎ込み、家も売り借家住まいであった。この会議への協力を日本政府にも頼んだが、時の政府は「役人でもない学者でもない一民間人が国際会議に出席するのはやめてほしい」との返答であったらしい。しかし龍丸の熱意を知った友人が50万円を出してくれて、ようやくオーストラリアへ行くことができた、と著者の満丸氏は記している。
<グリーン・ファーザー>
龍丸はさらに夢を持っていて、デリーから北西へ約2千km行ったところに広がるタール砂漠の緑化を目指していたという。龍丸の考えによればその砂漠を緑の平原に変えていくことは可能だった。このことは日本の新聞でも報道され、世界も注目していたらしい。しかし龍丸は祖父と父と同じく脳溢血に倒れ、1988(昭和63)年に69歳で生涯を終えた。著者の満丸氏が病床にある龍丸の介抱をしているとき、龍丸の目から涙がこぼれ、砂漠の緑化をやり遂げられなかったことを悔しがっているようであった、と述べておられる。
この本は、龍丸のご子息である杉山満丸氏が、九州朝日放送の企画で、俳優の田中健氏と一緒に、杉山龍丸の足跡をたどる旅をされたことがベースになっている。満丸氏が、龍丸がユーカリの苗木作りや蓬莱米の栽培に成功した農業試験場の中にある農業プラントを訪れた際には、農業試験場の皆から口をそろえてこう言われたという。「このプラントの完成がインドの緑化事業を大きく前進させたのです。タツマル・スギヤマは緑のガンジーさんです。インドの独立の父はガンジーさん。インドの緑の父はスギヤマさん。あなたのお父さんはグリーン・ファーザーです」
<所感>
杉山龍丸については、弊ウェブログへのコメントを頂戴するまで全く知らなかったが、明治時代のような昔の人ではなく、昭和時代という、我々の年代ともある程度重なる比較的近い時代の人なので、この時代に日本にこんな人物がいたことを知って大変感銘を受けた。特に我家にも縁がある九州の黒田藩士の末裔ということで、何となく親近感も抱き、その像を追うことに興味が湧いたこともある。一本気、逞しい、勇ましいなどのポジティブなイメージがある、いわゆる九州男児を地でいったような人に思える。
龍丸の、祖父や父から引き継いだ杉山農園をすべてインドの緑化に捧げるという決断は、杉山農園が出来た経緯や、祖父と父の意志を知らない人には驚きであるが、ご子息である満丸氏はこの著書の中で、「杉山農園の四万坪の土地はなくなってしまったけれど、全財産はなくなったけれど、ここにこうして生まれ変わっている!」と書かれている。それは龍丸が指導して植樹をし、現在では緑の里になっているスクラマジーラという村を訪れて、村の風景を見た時の感想である。
龍丸の最終目標は地球の砂漠を緑に変えることであったが、その夢は果たせなかった。しかしインドの人々に緑の尊さを植え付けることには成功し、4万坪の杉山農園が今やインドで緑の里として蘇ったともいえる。読了して清々しさを感じる著書であった。
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