日台交流の架け橋~八田與一の遺産
八田與一(はったよいち)のことである。八田與一は大正時代の日本統治下の台湾で、台南の嘉南平野を灌漑する烏山頭(うさんとう)ダムを築いた土木技師である。我がおふくろが同時期の台湾育ちであったため、台湾のことをよく話してくれた中で、八田技師のことも聞かされたような気がしている。はっきりと認識したのは、司馬遼太郎の「街道をゆく 40巻 台湾紀行」の「八田與一のこと」の章を読んでからであった。テレビでも時々取り上げられるから知っている人も増えているだろう。
<I君と八田與一>
2016年の年末に、京都大学農芸化学科で同級生だったI君から冒頭写真に示した一冊の本が送られてきた。「生誕130年記念出版 回想の八田與一 家族やゆかりの人の証言でつづる」という題名の北國新聞社出版局が編集した本である。同封の手紙には、「北國新聞社の出版した『回想の八田與一』を同封しました。台湾で大水利事業を指揮した八田與一の身近な人々や、故郷の人々の証言を集めたもので、八田技師の人間像を推し量り、記録に残そうというものです」とある。
また、「18ページ『青年與一、立山に登る』の章は平盛祖父の日記にもとづいて私が書いたものです。また、110ページ資料『釈迦を語った八田技師』では八田與一が仏教を心の拠り所にしていたことが考察されています。ここにも平盛祖父の日記および八田技師から平盛祖父へ送られた手紙が資料として使われています。そのほかにも当家にあった八田関係の写真が何枚も使われています。平盛兄弟と八田與一の交流ぶりがよくわかると思います。ご一読いただければ幸甚です」ともある。
つまりI君の祖父の平盛氏は八田與一と小学校から金沢一中までの同級生で、一緒に立山登山をするなどずっと親交があった仲であった。I君が書いた「青年與一、立山に登る」の項を拝読すると、I家と八田家はともに金沢の大きな農家で、江戸時代からの親戚であったことや、平盛氏の弟君の哲氏は画家であったが、八田與一に招かれて台湾へ渡り、與一が築いた烏山頭(うさんとう)ダムの工事図や、與一の肖像画などを描き、代表作が今も現地の嘉南農田水利会会長室に掲げられていることがわかる。
I君が卒業後入社した会社は、当時は私が入社した会社と同じ繊維系の会社であったが、その後I君の会社は事業の多角化を進めて化学系の会社となった。I君は入社当時から繊維ではなく、大学時代に学んだ生命科学の研究をやっていたので、繊維の研究開発をやっていた私とは仕事上の接点はなかった。一度私が静岡県の三島工場勤務の時に、近くの富士市の研究所にいた彼と一杯やったことを覚えているが、当時は八田與一の話は出なかったと思う。
I君は定年後は金沢に戻り、自宅に叔父君である哲氏のギャラリーを開設され、台湾に比べ日本ではそれほど知られていない八田與一や関係者の業績を世に知らしめる啓蒙活動にも参画されているようである。今回の「回想の八田與一」の出版に協力されたのもその一環であろう。
<八田與一の事績>
八田與一は1886(明治19)年に石川県河北郡花園村で生を受け、尋常小学校、高等小学校、金沢第一中学校、第四高等学校を経て東京帝国大学の土木工学科に入学する。専任教授が広井勇先生で、土木技術者の心構えとして、国民や人類のための工学であるという意識をもつことと、絶対に壊れない構造物をつくる設計力とそのための現場主義という責任感をもつことを、教え子たちに叩き込んだという。
1910(明治43)年に東京帝国大学を卒業した與一は、台湾総督府内務局土木課の技手として就職し台湾に渡った。当初は伝染病予防のための衛生事業に従事し、嘉儀市、台南市、高雄市などの都市上下水道の整備を担当していたが、その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1916(大正5)年から土木課鑑査係となって、台北市の南西に位置する桃園台地の灌漑計画に取り組んだ。その計画が総督府に認められ着工されて、1925(大正14)年に完工した。
桃園大圳(とうえんたいしゅう)と呼ばれるこの水利工事の計画立案で與一は高い評価を得、1917(大正6)年からは、新しい任務を命じられ台湾南部の嘉南平野の調査を開始した。嘉南平野は台湾の中でも屈指の広い面積をもっていたが、灌漑設備が不十分であるためこの地域にある15万ヘクタールの田畑は常に旱魃の危険にさらされていたからである。米の増産のために、急水渓と呼ばれる嘉南平野を流れる川に灌漑用のダムを建設できるかどうかの調査であった。
調査の結果、急水渓は水量不足のため、與一は代案として、同じ嘉南平野を流れる官田渓の水をせき止め、トンネルを建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設し、さらに台湾最大の河川である濁水渓からも取水するという壮大な計画を立案した。この計画による給水量は7万ヘクタールに対応するが、與一は嘉南平野を2つか3つのブロックに分け、1年ごとに給水区域を変えて3年輪作を行い、15万ヘクタールの農民が平等に恩恵を受けるようにするという、周囲を驚かす独創的な提案を行った。
嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれるこの嘉南平野を灌漑する大事業計画は、1920(大正9)年の帝国議会臨時会を通過した。総事業費は4200万円(現在の4000億円程度)で、そのうち3000万円は受益者となる嘉南大圳組合が負担し、残り1200万円が国庫補助となった。このため與一は進んで国家公務員の立場を捨て、この組合付きの技師となり、1930(昭和5)年の完成に至るまで工事を指揮した。工期は当初6年を見込んだが、1923(大正12)年の関東大震災のために国庫補助が途絶え、一時的に事業の進行を縮小したため完成まで10年かかった。
そして総工費5400万円を要した工事は、堰堤の全長が1273m、高さ56m、満水面積1000ヘクタール、有効貯水量1億5000万㎥の大貯水池である烏山頭ダムとして完成し、水路も嘉南平野一帯に1万6千kmにわたってはりめぐらされた。烏山頭ダムは「珊瑚潭」という美称で呼ばれる。2000年代以降も烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、現在ではその大きな役割は1973(昭和48)年に完成した曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダム建設の計画自体も與一によるものであった。
與一が築いた烏山頭ダムは、コンクリートをほとんど使用しないで、粘土、砂、礫を使用するロックフィルダムで、水力で堤体材料を沈積させていくセミ・ハイドロリックフィル工法という手法が採用された。このような大規模な工事にこの工法を採用するのは東洋では初めてのことであったが、ダム先進国のアメリカ視察を行って確信をもち、また周囲の反対を押し切って大型工事機械の購入を行って達成した。近年、このダムと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、烏山頭ダムは現在もしっかり稼働している。
現在の烏山頭ダム(回想の八田與一資料より)
工事完成後、與一一家は台北へ去ったが、嘉南大圳組合は農産物の収量を増やすことに力を注ぎ、與一の構想であった3年輪作給水法の実施に奮闘した。旧来農法に慣れた農民の意識改革の結果、3年後には農産物全体の生産額は嘉南大圳完成前の1400万円から3400万円へと増加した。また想定通り地価の上昇もあり、経済効果として9540万円に達したという。台湾最大の穀倉地帯になった嘉南平野の成功は誰の目にもあきらかになり、八田技師の名は台湾全土に知られるようになった。
1939(昭和14)年、與一は台湾総督府の勅任官技師となり、総督府の技師たちの頂点に立った。しかし太平洋戦争が始まった後の1942(昭和17)年、陸軍の命令によって3人の部下と共に太洋丸に乗船し、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港を出港したが、途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディア号の雷撃を受けて撃沈され、與一も巻き込まれて死亡した。部下の一人は九死に一生を得て生還され、その「遭難の記」を上記の「回想の八田與一」に記されている。
<日台交流の架け橋>
烏山頭ダムが完成した後の1931(昭和6)年、台北へ去る與一との別れを惜しんだダム関係者によって銅像が建立された。與一は最初は固辞したが、偉人らしい胸像や立像ではなく、作業服に地下足袋、ゲートル姿の普段の姿ならということで実現したという。現在は台座に乗せられているが、建立当時は碑文や台座もなく地面に直接設置されたらしい。工事中によく見かけられたように、與一が困難にあたって一人熟考し苦悩する様子を模した銅像になっている。
この銅像は、その後の戦時下の金属類回収令の施行時や、戦後の中華民国政府の蒋介石時代に行われた日本統治時代の記念物破壊の際も、地元嘉南の有志によって守り隠され続け、1981(昭和56)年になって再びダムを見下ろす元の場所に設置されたという。戦前につくられた日本人の銅像としては唯一、今日まで残っているということである。
戦後、早くも1947(昭和22)年に嘉南の人々によって、八田與一技師を弔う第一回の墓前祭が烏山頭で開かれた。この戦後の混乱期には、中華民国政府の方針で留用された日本人技師と台湾の職員たちが、樹木の盗伐や物品の盗難、さらには水泥棒で荒らされたこのダムの復興に力を合わせ、日本人技師が引き揚げたのちも台湾の職員たちによって、嘉南大圳の灌漑と運営を正常な形へと回復していったという。
墓前祭は以後も毎年行われ、日本人がいなくなった烏山頭で、嘉南平野の人々によって八田技師の遺業が戦後ながらく顕彰されてきた。そしてこの墓前祭のことを知り、参列した日本人が、現地の人々が八田技師を深く敬愛しつづけていることに感銘を受け、日本での八田技師顕彰と、八田技師を縁にした日台交流に取り組んでいくことになった。烏山頭には八田與一記念室もでき、今では八田技師の出身地である金沢市と、烏山頭ダムのある台南市が友好交流を行っている。
八田技師のことを紹介する著作も次々に世に出た。1959(昭和34)年には、台湾生まれの邱永漢氏が「台湾の恩人・八田技師」を文藝春秋に発表した。1983(昭和58)年には、台湾高雄市で日本人学校の教諭をしていた古川勝三氏が八田技師のことを知り、台湾で「台湾を愛した日本人」を出版し、その後1989(平成1)年には「台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯」を日本で出版した。古川氏の著書は多くの調査、聞き取りなどを行い八田技師を詳しく紹介したので、この本を通して八田技師を知ることになった人が多く、技師の顕彰に大きな役割を果たしたとのことである。
<司馬遼太郎の八田與一観>
司馬遼太郎もこの古川氏の著書や、「忘れられない人」という八田與一伝を記した台湾人の謝新發氏の本を読んで台湾を訪れている。「街道をゆく 第40巻 台湾紀行」には、「八田與一のこと」と、「珊瑚潭のほとり」という二つの章で八田與一の事績について詳細に触れている。司馬遼太郎は八田與一が、台湾で日本人を超えた存在になっていることに大変感銘を受けたようであり、そのことについて述べているので抜粋してみる。
「謝新發氏の本に、話をもどす。巻中『八田與一とわたしのかかわり』という章があって、それによると謝氏が八田與一の存在を知ったのは、台湾で刊行された『台湾名人伝』による、という。その本は『中華民族傑出人物』の伝記集だそうで、どういうわけか八田與一も中華民族の一員になっている。そこまでかれの生涯が台湾のために役立ったとなれば、在天の霊も瞑するにちがいない。」
「與一の命日は5月8日である。毎年この日には嘉南農田水利会のひとびとによって、墓前祭がいとなまれている。ありがたいことに、故人は国籍・民族を超えた存在になっている。そういう存在は、日本史に何人もいる。近世では、黄檗宗万福寺の開山になった福建うまれの僧隠元(1592~1673)、遠くは唐招提寺をひらいた揚州の僧鑑真(688~763)、あるいは16世紀にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル(1506~52)もそうかもしれない。いずれも宗教を介している。宗教が人類的であるように、土木もしばしばそういう性格を持ってきた。」
「とくに古代がそうだった。当時、ローマ人は、ガリアの地などに行って、奇術のように石造の水利構造や橋梁、道路などをつくった。河川の水を遠くに送って荒蕪の地を麦畑やブドウ畑にした。でなければ、ローマ人がヨーロッパ文明の祖であるかのように讃えられることはなかったろう。」
「この墓は嘉南農田水利会の手で建てられた。それも日本人が台湾から引き揚げてしまった昭和21(1946)年12月15日に、である。台湾は大理石の島といっていいほどにふんだんに大理石がある。しかし墓石は、日本の風習どおりの花崗岩が選ばれた。たれかが、故人の国の風習を思って、わざわざ高雄まで行って見つけてきた、という。墓石の表に『八田與一・外代樹之墓』(外代樹は夫人の名)とあり、裏に、中華民国三十五年と刻まれている。年号をみたとき、三四郎と同世代のこの明治人が、たしかに台湾の土になっていることを感じた。」
<所感>
日本では知る人ぞ知る八田與一なのであろうが、ウィキペディアの「八田與一」には、台湾では中学生向け教科書「認識台湾 歴史編」に八田技師の業績が詳しく紹介されている、とある。2004(平成16)年に来日した李登輝総統は八田の故郷金沢も訪問した、2007(平成19)年には陳水扁総統が八田に対して褒章令を出した、馬永九総統も2008(平成20)年の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭や、2011(平成23)年の「八田與一記念公園」完成式典に参加した、ともある。現代にいたっても八田與一技師はまさに台湾全土の尊敬を勝ち得ているのである。
過去に日本統治を受けた国でありながら、台湾は今なお親日的であるといわれる。私自身も2年前に初めて台湾を訪問してそれを感じたのだが、台湾の親日感情の大きな要因として、八田與一の遺産があるのではないかと思う。I君が前述の「回想の八田與一」で指摘しているように、八田與一の思想は仏教思想に立脚していて、日本人、台湾人の区別なく部下を処遇したことが、現地の人の心をとらえ、今なお感謝していることに結びついているように思える。
また、この大事業に関しては、八田與一の技術者としての力量や信念が素晴らしいことに加え、当時の日本の指導者層がこのような大事業を認可し、八田與一に全てを任せたことにも驚く。このことについて少し調べてみると、1918(大正7)年に米騒動が起きて寺内内閣が倒れ、台湾での米増産が強く求められたという追い風があったことがわかる。したがって日本政府の真の目的は米政策であり、統治地であった台湾のために行ったわけではないともいえる。しかし八田與一の事績はそのような政治的事情を超越した遺産になっている。
南京事件や慰安婦問題でこの時期の日本の行動には批判的な目があり、今なお負の遺産をひきずっているわけであるが、八田與一の大事業を認可し、推進したこともこの時期の日本のとった行動なのである。両遺産とも同じ日本統治の時代に日本人がとった行動の結果なのだが、この差はどこから生じたのであろうか。国際的な行動とはどういうことなのかを考えさせられる課題である。司馬遼太郎なら、日本を超える存在になることだよ、というのかもしれない、などと思った。
私の台湾訪問については、以前のウェブログ「おふくろのふるさと-台北寸見-」で触れた。
このウェブログで、我がおふくろが78歳の時に台湾を訪れて、京都エッセイという同人誌に寄稿したエッセイも紹介した。おふくろは1919(大正8)年から1928(昭和3)年まで台北で育ったので、八田技師の烏山頭ダム建設時期とかなり重なっており、ダムの完成する2年前に帰国している。台湾のことにはそれからも関心を持ち続けていたので、八田與一技師のこともよく知っていたようである。
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