安土再訪
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安土城天守跡からの展望(昔はびわ湖の内湖に囲まれていた!)
<安土(あづち)>
織田信長が安土城を築いた安土には、2003(平成15)年11月に訪れて、以前のウェブログ「安土散策」に訪問記を綴った。安土は、この当時は滋賀県蒲生郡安土町であったが、現在は滋賀県近江八幡市安土町になっている。この時は、JR安土駅近傍の安土城郭資料館を訪れ、その後は駅から比較的近いセミナリヨ跡や常楽寺界隈を歩いて巡ったので、駅から少し離れたところにある安土城跡や近江風土記の丘の安土城考古博物館や信長の館には行かなかった。いずれ車で行こうと思いながら13年経ってしまった。
安土町の位置(クリックで拡大)
現在の安土は何の変哲もない陸地の上の小さな町であるが、もともとはびわ湖の内湖の大中の湖や小中の湖に接していた湖畔の町であったことを前回の訪問で知り、上述の「安土散策」でも触れた。大中の湖や小中の湖は戦時中の食糧難に伴う食糧増産計画で大部分が戦中から戦後にかけて干拓されて消滅し、現在は小中の湖の一部の西の湖だけが残っている。つまり織田信長が天下統一の地として選んだ安土の地形は太平洋戦争が始まるまでの地形であり、現在の安土の地形からは想像もつかない湖水が豊富な地形であった。
安土町が近江八幡市と合併したのは、8年前の2010(平成22)年のことである。ウィキペディアには、旧安土町には安土町地域自治区が設置され、市章は変更されず、とあるから、合併にあたってはいろいろあったらしい。合併直前には合併反対派の町長が誕生し、さらに住民のリコールにより町議会選挙が行われ、合併反対派が多数を占めたものの合併そのものは無効にならなかった。しかし、合併決定後も、安土町は合併賛成派と反対派に分かれているとあるから、信長が天下統一の地として選んだ安土の住民には特別の思いがあるのだろう。
母体となった近江八幡も歴史豊かな地である。織田信長没後、豊臣秀吉の天下になった1585(天正13)年に甥の豊臣秀次が八幡山に城を築き、その城下町として近江八幡を発展させた。西の湖を経てびわ湖に至る八幡運河を開削したり、信長の楽市楽座思想を実践して商工業を発展させ、近江商人発祥の地にした。また日牟礼八幡宮の火祭りである「左義長まつり」は、秀次が開いた八幡の城下町に安土から移住した人々が始めたものである。これらのことは以前のウェブログ「湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-」で触れた。
<安土城跡>
前回の訪問から13年経った2016年12月3日に安土城跡を訪ねた。平成に入った1989年から20年計画で安土山の発掘調査が進められてきたので、今では麓から山頂の本丸跡や天守跡までの大手道などの参道が整備され、羽柴秀吉、前田利家、徳川家康らの邸跡と伝わる史跡や摠見寺(そうけんじ)の三重塔、二王門(楼門)、信長公本廟などを巡ることができる特別史跡「安土城跡」として一般公開されている。
大手道はかなり急坂なので、入り口で貸してくれる杖をたよりに階段をのぼって行く年配者が多い。往時の武将たちがこの道を昇り降りして毎日登城するのは一仕事であっただろうと同情する。大手道をのぼって行くと左側に伝羽柴秀吉邸跡があり、右側に伝前田利家邸跡と伝徳川家康邸跡があらわれる。伝徳川家康邸跡には1854(安政1)年の火災で焼失した摠見寺の仮本堂が置かれているとパンフレットにある。
大手道とは別の西側からのルートでのぼって行くと、信長が1576(天正4)年に安土城を築城した際、他所より移築して自らの菩提寺としたと伝えられる摠見寺の二王門(楼門)と三重塔があらわれる。二王門と門内に安置されている金剛力士像は甲賀から移されたものであり、三重塔はやはり甲賀の長寿寺から移築したものであると、パンフレットに記載されている。摠見寺は、1582(天正10)年の本能寺の変の後の安土城の焼失の際には幸いにも焼け残ったので、二王門と三重塔は国の重要文化財に指定されている。
摠見寺の本堂は、前述したように安政の火災後は伝徳川家康邸跡に仮本堂として置かれているが、安政の火災までは三重塔の横にあった。現在は摠見寺本堂址と刻まれた石碑が建っているだけであるが、広場になっていてここから見る展望が素晴らしい。干拓されずに残った内湖であろうか、美しい湖畔や湖面に突き出た半島に家が立ち並び、信長が見た景色はかくやと思わせるような展望である。
二王門(楼門) 三重塔
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摠見寺本堂跡広場からの展望
大手道と西側からのルートは合流して一本になり、信長公本廟を経て本丸跡や天主閣跡に向かう。信長公本廟は、本能寺の変後に抬頭してきた羽柴秀吉が、1583(天正11)年2月に信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としたものという。本丸跡は、「信長公記」に天皇を迎えるための御幸の間があったと記載のある御殿跡とのことで、発掘調査により京都御所の清涼殿と酷似した構造になっていたことが判明したらしい。
本丸跡から石段をのぼって行くと、礎石が整然と並んだ天主跡に至る。この部分は天主の穴蔵(地階)にあたり、その上に五層七階(地上6階、地下1階)の大きな天主がそびえていたということである。この天主の五階と六階を復元してスペイン万博で展示された安土城天主の模型が、直ぐ近くの近江風土記の丘の信長の館に展示してある。天主跡の石垣をのぼると展望台になっており、冒頭写真のように近江平野が一望できる。ただし前述したように太平洋戦争前までは、びわ湖の内湖である伊庭内湖や常楽湖に囲まれていたとパンフレットにある。
びわ湖の内湖の干拓が始まった頃に生まれた私には、びわ湖の内湖に囲まれていた安土城跡を見る機会はなかったので、織田信長が安土城からみたであろう景色は自分で想像する以外にない。しかし我々より少し年配の層では、実際に内湖に囲まれた安土城跡を見ている人が多いと思われる。つまり信長の視線で冒頭写真の湖水版を見ていると思われる。その一人は司馬遼太郎であり、「街道をゆく」第24巻には、安土城趾からの景色の変貌について詳細に記述されている。
<司馬遼太郎の「安土城趾と琵琶湖」>
「街道をゆく」第24巻は「近江散歩、奈良散歩」というタイトルであるが、近江散歩の中に「安土城趾と琵琶湖」という章があり、司馬遼太郎が中学生の頃に安土城趾にのぼった経験を思い出しながら、今回「街道をゆく」の取材のためにのぼったところ、天守台趾からの眺望のあまりの変貌に愕然としたという感想と落胆の気持が克明に記されている。その部分を抜粋する。
「はじめて安土城趾の山にのぼったのは中学生のころで、記憶が一枚の水色の写真のように残っている。山が、ひろがってゆく水のなかにあった。(中略) 当時、寺に雲水が何人かいて、そのうちのひとりが、私ども数人の子供をみて、みずから案内をひきうけてくれたのである。(中略) 私はそのころから登りがにがてで、途中、何度か息を入れた。かれは、そのつど、たかだかと声をあげて、『登れ。のぼると美しいものが見られるぞ』と、追い立てた。」
「最高所の天守台趾にまでのぼりつめると、予想しなかったことに、目の前いっぱいに湖がひろがっていた。安土城は、ひろい野のきわまったところにあるため、大手門趾からの感じでは、この山の裏が湖であるなどは、あらかじめ想像していなかった。古い地図でみると、山というより、岬なのである。琵琶湖の内湖である伊庭湖(大中の湖)にむかってつき出ている。この水景のうつくしさが、私の安土城についての基礎的なイメージであった。織田信長という人は、湖と野の境の山上にいたのである。」
「こんども、安土城趾の山頂から、淡海の小波だつ青さを見るのを楽しみにして登った。『上に登ると、真下から湖がひろがっていますよ』と、長谷忠彦氏にも期待させた。登り口の大手門趾付近もむかしに変わっていなかったし、山中の石畳、石段、樹林も変わっていない。(中略) 『山頂では、夕陽が見られるでしょう』 私はつらい息の下で言った。が、のぼりつめて天守台趾に立つと、見わたすかぎり赤っぽい陸地になっていて、湖などどこにもなかった。やられた、とおもった。」
びわ湖の内湖(クリックで拡大)
司馬遼太郎の落胆ぶりが実によくわかる描写である。この後は、終戦直後の食糧難時代ということで行われた国営干拓事業に対する司馬遼太郎の見解が延々と述べてある。食料についての危機意識が時代を動かしていたころの、当初の人力で浅瀬を埋める程度の干拓は司馬遼太郎もやむをえぬとしているが、すでに食糧難の時代ではなくなっていた昭和32年頃からの国の特別会計による大規模干拓事業に対しては、火が消えているのに、その後、十何年も水をかけつづけたと鋭く批判している。
左図は滋賀県立大学のびわ湖の内湖に関する調査報告資料から引用した図である。びわ湖の周囲には、主な内湖として干拓されたものも含めて33の内湖があることがわかるが、これらのうち、13(大中の湖)、14(小中の湖)、15(西の湖)、16(北の庄湖)、17(津田内湖)、18(北沢内湖)、19(水茎内湖)の7つの内湖は現在の近江八幡市に集中している。近江八幡や安土は、まさに湖水の宝庫だった地域といえ、織田信長が天下統一の地として安土を選んだ理由がよくわかる。
しかし黒く塗られた13、14、17、19の近江八幡や安土の内湖は干拓されてしまい、司馬遼太郎がイメージしていた水景のうつくしさは消滅してしまった。大津市の我が家から彦根や長浜へ車で行く場合は、びわ湖沿いに湖周道路を通り、びわ湖の景観を楽しんで行くのであるが、近江八幡を過ぎて安土の大中付近になると陸地が続き、たしかに違和感を感じる。歴史に「もし」はないが、もし干拓という人為的環境破壊がされてなければ、このあたりは素晴らしい水郷地帯なのである。
現在では干拓されなかった15の西の湖が、びわ湖最大の内湖として残っており、ここから豊臣秀次が開削した八幡運河でびわ湖につながっている。遊覧船で西の湖めぐりや、八幡運河の水郷めぐりをすることもできる。しかしこのようなびわ湖の内湖の埋め立ての歴史を知ってしまうと、大中の湖や小中の湖が存在していた戦前の水景を見たかったなあ、と思う気持ちは抑えきれない。司馬遼太郎は、海を干拓するならまだしも、人の生命を養う内陸淡水湖を干拓し水面積を減らしてしまうなど、信じがたいふるまいのようにおもわれた、とも述べている。
<近江風土記の丘>
安土城跡からJRびわ湖線を越えたところに近江風土記の丘がある。ここには滋賀県立安土城考古博物館と安土城天主「信長の館」があり、他にも文芸セミナリヨ(音楽ホール)とか旧安土巡査駐在所とかの文化的施設があって、ちょっとした文化ゾーンになっている。信長好きの人には、「安土散策」で触れた安土駅前の安土城郭資料館、上記の安土城跡、およびここ近江風土記の丘の考古博物館と信長の館がおすすめのコースとなる。
信長の館には、1992(平成4)年のスペイン・セビリア万国博覧会の日本館でメイン展示された、安土城天守の最上部5階と6階部分が常設展示されている。2016年12月24日にここを訪れてみた。万博終了後、復元された原寸大の「天主」を旧安土町が譲り受けて解体修理し、新たに5階部分に、発掘された当時の瓦をもとに再現した「庇屋根」、天人が飛ぶ様を描いた「天井の図」、6階部分に金箔10万枚を使用した「外壁」、金箔の鯱をのせた「大屋根」を取り付けたという。内部には信長が狩野永徳に描かせたという「金碧障壁画」も再現されている。
また信長が、1582(天正10)年に、武田勝頼討伐に功をなした徳川家康や穴山梅雪を安土城にもてなした時の饗応メニューである安土御献立も展示してあって面白い。上の写真の献立は、「続群書類従」にもとづいて、尾州茶屋家16代の妻で東京福祉大学の中島範氏が復元し、茶屋四郎次郎記念学園の教材として活用された後、旧安土町が譲り受けたものと、パンフレットに記載してある。このときの饗応役が明智光秀で、信長から不興を買い、本能寺の変の一因となったことはよく知られている。
<桑實寺(くわのみでら)>
一般的には桑実寺と書かれる。信長ファンなら、「信長公記」に書かれている竹生島事件に出てくるあの寺か、となるかもしれない。1581(天正9)年4月10日、信長が竹生島へ参詣のため羽柴秀吉のいる長浜城に馬で出かけ、船で竹生島に向かった。遠路なのできっとその日は長浜に泊まるだろうと考えた安土城内の女どもが桑実寺にお参りに出かけたところ、その日のうちに信長が戻ったため、留守だった女や、かばった長老が成敗された(惨殺されたとされるが諸説あり)という一件である。
真偽はともかく、桑實寺は近江風土記の丘からすぐの繖山(きぬがさやま)の山中にある。従って安土城跡からもそんなに遠くない。ただし麓からは石段400mをのぼって25分くらいかかる。信長の館を見た後、ここも訪れてみた。車で中腹まで行けるとのことだったので、舗装されていないガタガタの山道を通って行くとたしかに駐車できる広場があった。そこから麓から来る石段の参道に出て、山門をくぐり登ること15分くらいでようやく桑實寺本堂に達する。
桑實寺は天智天皇の勅願寺院として667(白鳳6)年に創建されたと伝えられ、開山は藤原鎌足の長男の定恵(じょうえ)とされる。桑實寺の寺名は、定恵が中国から桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を広めたことによるという。山号の繖山も蚕が口から糸を散らし、繭を懸けることにちなんだとパンフレットに記載されている。そうか、ここは絹に関係する寺なのかと知って、繊維の技術屋を標榜する私にとっては、何となく親近感をいだいたことであった。
現在の桑實寺本堂は南北朝時代に建立されたままの姿なので、重要文化財に指定されている。本尊は薬師如来であるが秘仏になっている。1532(天文1)年には室町幕府12代将軍足利義晴がここに仮の幕府を設置し、1534(天文3)年には近衛家の娘と婚儀を結び、その後京都に入ったという。一時期は荒廃していたが、1576(天正4)年、安土城を築いた織田信長によって保護された。
繖山の桑實寺は薬師如来信仰の祈願道場として栄えた寺で、戦国時代にも全く戦火に関係なく、南北朝時代に建立された本堂がそのまま残っているが、この繖山には室町時代以来近江の南半部を支配した佐々木六角氏の居城の観音寺城があり、その庇護を受けていた観音正寺もあった。1568(永禄11)年、織田信長が観音寺城の佐々木六角氏を攻めて落城させ、数年後には観音正寺も焼き討ちし全焼している。近江の寺院の多くが信長の焼き討ちに遭った中で、信長の保護を受けていた桑實寺は幸運であったといえる。
<所感>
日本の歴史の中で、安土は大変ユニークな町といえるのではないだろうか。現在はJRびわ湖線の沿線に位置するが、新快速も停まらない小さな町である。しかし440年前は日本の首都といってもよいほどの大都市だったのである。このことはルイス・フロイスやアレッサンドロ・ヴァリアーニらにより遠くヨーロッパまで伝えられ、安土は日本のいわば代名詞でもあった。
さらに現在は何の変哲もない陸地の上の平凡な町である。しかし440年前はびわ湖の内湖の大中の湖や小中の湖に囲まれた水郷都市であった。湖と野と山がバランスを保って美しい景観を形作っていた政治の中心地であった。本能寺の変が起きてからは、政治の中心ではなくなったが、水郷地帯の町という形態はずっと昭和にまで維持された。太平洋戦争が終結に差しかかった頃、食糧増産の掛け声とともに水郷地帯の埋め立てがはじまり、陸地の町になってしまって、天が与えた湖と野と山のバランスが崩れた町になってしまった。
一度日本の中心になった町で、政変により政治の中心ではなくなり、その後は小さな町になった例は、飛鳥を始めとしていくつもあると思われるが、街の姿までがすっかり変わったという例はあまりないように思う。司馬遼太郎は、「いまの時代、変えようと思えば、うずうずしている土木資本と土木エネルギーをいつでもひきだすことができる。変えずに堪えていることのほうが、政治的にもむずかしいのである。」と述べている。
本編の「安土再訪」を終わるにあたって、司馬遼太郎のこの言葉が何となく意味あるように思えてきている。
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