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2016.11.23

近江雁皮紙に学ぶ

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「成子紙工房」4代目紙匠 成子哲郎氏  (和紙体験講座の配布資料から)

<雁皮紙> 雁皮紙(がんぴし)のことである。ウィキペディアで「雁皮紙」を検索すると次のような記述がある。
「雁皮紙(がんぴし)は、ジンチョウゲ科の植物である雁皮(がんぴ)から作られる和紙である。雁皮の成育は遅く栽培が難しいため、雁皮紙には野生のものの樹皮が用いられる。古代では斐紙や肥紙と呼ばれ、その美しさと風格から紙の王と評されることもある。繊維は細く短いので緻密で緊密な紙となり、紙肌は滑らかで、薄いクリーム色の自然色(鳥の子色)と独特の好ましい光沢を有している。丈夫で虫の害にも強いので、古来、貴重な文書や金札に用いられた。日本の羊皮紙と呼ばれることもある。」

「しかし、厚い雁皮紙は漉(す)きにくく、水分を多量に吸収すると収縮して、紙面に小じわを生じる特性があるために太字用としては不適とされ、かな料紙・写経用紙・手紙などの細字用として使われるのが一般的である。平安時代には、厚さによって厚様(葉)・中様・薄様といわれ、やや厚目の雁皮紙を鳥の子紙といって、越前産が最上とされた。近世以降は、厚さを問わず雁皮紙のことを鳥の子紙と呼ぶようになり、雁皮の不足から楮(こうぞ)や三椏(みつまた)を混ぜたものもある。以前は謄写版原紙用紙の原料として大量に使用されていたが、複写機が普及して以来急激にその使用量が減少した。」

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    雁皮紙             近江鳥の子和紙

つまり雁皮紙は同じ和紙でも、楮や三椏から作られる和紙とは異なった趣があり、薄くて表面が滑らかで、いわば女性的で豊かな表情をもつ和紙で、かつ耐久性があるので保存用に適した紙とされている。専門的なことは知識がないが、雁皮の繊維は、楮や三椏の繊維と比べて細く、長さも楮が10mm以上あるのに対し、雁皮は3~5mmと短いようである。このためきめの細かい薄手の和紙になると思われる。

<大津市桐生の雁皮紙:なるこ和紙> 我家の近くの大津市桐生の地に、文政年間に越前から製紙法が伝わったとされる近江雁皮紙の手すきの技を継承する「成子紙工房」があることは、以前のウェブログ「大津市桐生の里」で触れた。

大津市桐生の里

かつて桐生の辺りは、水質が紙作りに適し水量も豊かで、付近の山野には原料の雁皮が多く自生し、しかも消費地である京都に近いことなどから、紙すきが行われた。1847(弘化4)年に成子佐二右衛門がこの地で成子紙工房を開始し、なるこ和紙の祖となった。大正年間には最盛期を迎え、西陣織に使われる金銀張りの地紙は、全国一の生産量であったという。またなるこ和紙は、「宣命紙」という名で、宮内省へ経文用紙、歌会用色紙、短冊を納めていて、戦後まで宮内庁御用達となっていた。

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   桐生を流れる草津川          成子紙工房

昭和30年頃には、雁皮紙の特質を活かして、信貴山縁起絵巻や平家納経等の国宝級古文化財の修理用紙も多く特漉(す)きされた。さらに、昭和45年、大阪での万国博覧会開催を記念して、5千年後に残すタイムカプセルの、「現代人間絵巻」の収納絵巻用紙として、なるこ和紙が選定され、大阪城の一画に埋められているという。成子紙工房3代目の成子佐一郎氏と、奥様の成子ちか氏は滋賀県の無形文化財に認定された。

現在は、4代目の紙匠・成子哲郎氏が成子紙工房を引き継がれ、和紙文化の伝統継承と手すき和紙体験学習の普及を目指して、NPO法人日本手すき和紙支援協会を立ち上げて、若手育成や社会貢献を図っておられる。前述した「大津市桐生の里」でも触れたように、ずっと以前から地元の小学校の卒業式前に、卒業を控えた6年生の生徒に自分の卒業証書の用紙をすいてもらうという協力をされている。また同氏は、手すき和紙職人で組織する全国手すき和紙連合会の会長も務められた。

<「近江雁皮紙に学ぶ」和紙体験講座に参加> 2016年10月14日に我家の近くの大津市役所青山支所で、「近江雁皮紙に学ぶ」というテーマで、和紙の体験講座が開かれるとの案内が大津市の広報に載り、講師が成子紙工房の成子哲郎氏とあったので、近江の雁皮紙を学ぶ良い機会と思って参加を申し込んだ。大津市内のいろいろな地域の文化を住民に紹介する、「おおつ学びのマルシェ」と名付けられた市民向けの文化講座の一環であり、今回は青山支所が主催して桐生の近江雁皮紙を取り上げたということである。

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  「近江雁皮紙に学ぶ」和紙体験講座

当日参加してみると、参加者23名のうち男性はわずか2名であることにまず驚いた。平日の金曜日であったから、もちろん年配の参加者が多いだろうことは予想しており、男性と女性が半々くらいかなと思っていたが、圧倒的に女性優位の文化講座で、見事に予想が外れた。もちろんテーマにもよるのであろうが、このような文化講座に対する女性の向学心の強さが垣間見えた感じがした。

講座では、まず「おおつ学びのマルシェ」を担当されている大津市の職員の方から趣旨説明があり、青山支所長の挨拶と成子哲郎氏の紹介の後、成子哲郎氏によるなるこ和紙のお話があった。近年では日本古来の伝統的な製法による和紙は、小規模な家内工業的施設によるものがほとんどのため、原料生産も含め生産者の減少や後継者難の問題があるので、成子氏は和紙の復権を目指して、手すき和紙文化を守るための国会議員連盟を立ち上げるなど多様な活動をされている。

手すき和紙体験実習は職人の谷氏の指導で行われた。あらかじめ雁皮やのりなどが分散された和紙原料液の入った槽が会場に持ち込まれ、われわれはスクリーンが貼りつけられた木枠で紙すきを体験する。原料液をすくって木枠を前後左右に振って原料の雁皮を均一にするわけであるが、なかなか谷氏のお手本のようにはスムースにはいかない。それでも何とか全員が紙すきと色付けを体験し、谷氏が全員分を重ねて水を絞り、工房へ持ち帰って乾燥した後、後日作品を受け取るということであった。

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    色付けの指導を受けているところ   後日戻ってきた我が作品

2週間後に青山支所で受け取った我が作品は、写真のような色紙用の厚手の和紙に仕上がっていた。色付けは適当に色素液をかけただけなので狙いがはっきりせず、美的センスに欠けているがまあやむなしと諦める。紙の両面の表面を観察すると、たしかにきめが細かいことが素人でもよくわかり、雁皮紙の特徴を感じることが出来た。

<成子哲郎氏と面談> 手すき実習の自分の順番が来るまでの間に、傍におられた成子哲郎氏に自己紹介して、以前桐生の工房に伺って、手すきされている現場を見学させて頂いたこともお話しした。当方が繊維会社出身で、同じ繊維状物質である紙にも興味を持っているらしいと思われたのか、いろいろなお話をして下さり、繊維と紙についての四方山話で弾んでしまった。炭素繊維もすいたことがありますよ、と仰ったので、あんな針金のような繊維でも紙になるのかと思った。

私の大学時代の同級生に、化粧品会社に入社して、使用済の紙から色素を抜いて紙を再使用可能にする脱墨剤の研究をやっている間に、和紙の魅力に取りつかれて、紙の文化とリサイクルをテーマにした「紙はよみがえる」という本を出版したO君がいます、と申し上げたら、お名前はよく知っているので一度お会いしたい、ぜひ紹介してください、と成子氏からご依頼をうけた。

<O君> O君は京大農芸化学科で同級生の化学者であるが、会社在職中から古代遺跡や考古学にも関心を持って幅広い活動をしていた多彩な人材であった。紙についても、脱墨剤のテーマから和紙そのものに興味を抱き、和紙の歴史やリサイクル原料という面に視点をあて、「紙はよみがえる-日本文化と紙のリサイクル」や、「くわんこんし 還魂紙 -歴史にみる紙のリサイクル-」 という著書を発刊されているので、成子氏もO君のことをご存じだったようである。

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   O君の紙のリサイクルに関する著書

O君はこれらの著書で、日本では紙のリサイクルが平安時代から行われていたことが、「日本三代実録」のような古代文献から読み取れることを述べている。「日本三大実録」の仁和二(886)年十月の条には、正二位藤原多美子が亡くなったことが記されていて、彼女は生前、清和天皇の女御であったが、清和天皇が崩御されたとき、それまでいただいた手紙を集めて再生して紙とし、法華経を書写した、という記述があるが、O君はこれを、墨で書かれた手紙を集め、水中でバラバラにし、再び紙にすき返して写経用の料紙としたと推測している。

つまりすき返しという紙のリサイクルが文献に現れた最初の例らしいが、O君はさらに、正倉院文書にもすき返しを示唆する文書もあるという。そうなると日本の紙のリサイクルの歴史は奈良時代にまで遡ることになる。また小野小町にちなんだ能に、「草子洗小町(そうしあらいこまち)」という演目があるが、この能は紙から墨を抜く、つまり脱墨がテーマになっているとのことで、このような紙のリサイクルにまつわる歴史上の逸話や事象をこれらの著書で紹介し、和紙がいかに日本文化に密着した素材であるかを我々に教えてくれている。

<O君と成子紙工房を訪問> 和紙体験講座の後、早速O君に連絡を取って仔細を話したところ、成子さんは「鳥の子紙」のすき手として著名な方です、私の方からご挨拶しなければならない方です、ぜひアレンジして欲しい、との希望であった。O君の希望を成子さんにお伝えしたところ、工房への訪問を快諾して下さり、日程調整の結果、2016年11月15日に二人でお伺いすることになった。

当日は、成子紙匠と、O君という和紙の専門家の対談ということになり、私は聞き役という立場であったが、横から聞いていても和紙に対する二人の情熱が良く感じられる対談であった。成子氏はいかにして和紙作りという伝統技法を現代に活かし、将来につなげていくかということを真剣に考えておられることがよくわかった。単に今まで通りのことをやっているだけでは伝統文化は守れない。変化する経済環境やモノづくりの環境などの周辺要素にうまく対応して、伝統技法に活用して行かないと文化は守れないということを仰っていた。

工房も見学させていただき、いろいろと苦心されて作られた製紙設備を拝見した。ちょうど地元の小学生が自分の卒業証書用にすいた紙が学校ごとに束ねてあり、大津市の小学校になるこ和紙の卒業証書が根付いているようであった。たしかに子供たちにモノづくりの楽しさと思い出を与える良い企画である。和紙体験講座で配布された資料の中に、「千四百年の無形の資産を未来のあなたへ 伝統和紙文化と手すき体験学習 半世紀後も色あせないあなたの卒業証書」という資料があり、体験学習風景が紹介されているので引用する。

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    20年続いている小学6年生の卒業証書用手すき体験学習風景

<手すき和紙の課題> 成子氏のお話を伺って、手すき和紙のいろいろな課題が理解できた。手すき和紙は、明治時代に洋紙が輸入され日本で製造されるまでは、日本で使われるすべての紙の需要をまかなってきた。日本の郵便制度が出来たときの切手用紙は手すき和紙であったという。しかし3年ほどで洋紙にとってかわられ、学校の教科書もしかりで、手すき和紙から洋紙へと需要が移っていった。大量生産、安価、均一性という紙のニーズに合致して、洋紙が主役となっていったのである。

しかし洋紙が普及しても、例えば障子紙のように適度な遮光性や外気を取り込んで湿度を調整するといった和紙の優れた機能は代替できないので、和紙産業はそれなりの大きな地位を保っていた。ところが、ここへ登場したのが機械すきの和紙であった。洋紙と同じように機械の得意とする生産性や価格面で優位に立った機械すき和紙は、産業用和紙の分野を取り込んだため、手すき和紙にとっては大きな痛手となって手すき和紙は年々減少の一途をたどったものの、手すき和紙で満たすことのできない残りの需要は、やむを得ず機械すき和紙が対応しているという。

つまり日本の和紙の世界は、手すき和紙と機械すき和紙が共存共栄しているという実態らしい。従って、手すき和紙の課題は、需要が極端に減少したということではなく、供給が需要に追いつかないことにあるという。その理由は、成子氏が和紙体験講座で指摘されていたように後継者不足ということである。この後継者対策こそ今の手すき和紙業界にとって最大の問題点であると、全国手すき和紙連合会のホームページにも出ている。

全国の多くの紙すきは家内工業なので、手すきの技術を後継者に教育するという仕組みがないのが後継者不足の一因でもあるらしい。成子紙工房では前述の谷氏という職人がおられる。大津市の和紙体験講座で、谷さんはどうして紙すき職人を志されたのか、という質問があったとき、谷氏は、何かの伝統技術に携わりたいという希望をもっていて、成子紙工房を紹介されたのがきっかけだった、と答えられていた。昨今、手すき和紙に価値を見出して、この道を志す若者が増えてきたように思われると連合会のホームページにあるので、期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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