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2016.07.09

続・鎌倉を垣間見るの記

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               鎌倉文学館(鎌倉市長谷)

2016年7月2日に北鎌倉の円覚寺松嶺院で行われた法事に参列した。2012年7月7日にも同じ場所での法事に参列したので4年ぶりの鎌倉である。前回はまだ科学技術振興機構に勤務している時で、たまたま葉山の総研大の研究者訪問の翌日が法事だったので、江ノ電由比ガ浜駅近くの鎌倉別邸ソサエティに一泊し、由比ガ浜海岸や若宮大路、鎌倉駅西口のウォーナー顕彰碑を垣間見て、円覚寺に行ったことを以前のウェブログ「鎌倉を垣間見るの記」で触れた。

  • 鎌倉を垣間見るの記

    今回は法事の当日に大津市の自宅を出発したので、北鎌倉での法事終了後に鎌倉へ移動し、前回同様、由比ガ浜の鎌倉別邸ソサエティに一泊して、また鎌倉を探訪することにした。鎌倉別邸ソサエティは由比ガ浜にあるが、地図で見ると長谷に隣接しており、大仏や長谷寺も近く、またすぐ近くに鎌倉文学館や吉屋信子記念館もあることがわかったので、このあたりを散策することに決めた。

    <由比ガ浜海岸再訪>
    梅雨が明けたのかこの日から急に暑くなってきたので、北鎌倉での法事が終了した後、鎌倉別邸ソサエティに早々にチェックインして軽装に着替え、まずは由比ガ浜ビーチを再訪した。見える眺めは4年前と変わっていなかったが、この日は風が強かったので白波が音を立てて寄せていて、普段は滋賀県の比較的温和なびわ湖を眺めている我が目には、太平洋に連なる相模湾の荒々しい雰囲気が伝わってくる。

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           由比ガ浜ビーチ              トンビが弁当を狙っている?

    由比ガ浜からは、昭和の戦前まで人骨がたくさん出たので、東京大学人類学教室の鈴木尚教授が調べたところ、これらは新田義貞の鎌倉攻めのときの戦死者のものに違いないとの結論になった、という話が司馬遼太郎の「街道をゆく」第42巻「三浦半島記」に記されていることは、上述の「鎌倉を垣間見るの記」で触れた。今、目の前で水と戯れている若者たちは、ここが昔戦場であったとは想像もしないだろうななどと思いながら、ぼんやりと白波を眺めていた。

    <鎌倉大仏>
    60年前の京都の中学校の修学旅行は関東旅行であった。静岡の登呂遺跡、富士五湖巡り、鎌倉、最後に東京といったコースであったように記憶している。鎌倉は他の有名寺院などにも行ったのかどうかは全く記憶がないが、大仏に行ったことだけははっきり覚えている。従って大仏様とは60年ぶりの再会である。実は2日に由比ガ浜ビーチへ行ったあと、大仏と長谷寺にも足を伸ばしたのだが、夕方の4時半を過ぎていて入場できなかったので、3日の朝に改めて訪れた。

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            高徳院の山門                   鎌倉大仏

    関西で大仏というとまず奈良東大寺の大仏が思い浮かぶが、関東ではこの鎌倉高徳院の大仏が代表なのであろう。東大寺や飛鳥寺の大仏は、大仏殿の建物の中に鎮座しているのに、この鎌倉の大仏は屋外に露座している。関西では大仏殿を建てるが、開放的な関東では大仏殿を建てないのだろうかと、少しいぶかしく思ってウィキペディアを覗いてみると、その由来が記されてあった。

    「大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000 - 2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。」

    「室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は『無堂宇而露坐』であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている。平成12年から13年(2000 - 2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった。」とあるので、もともとは大仏殿の中に鎮座していたが大仏殿が倒壊し、室町時代以降大仏殿は再建されなかったということがわかる。

    露座となり荒廃が進んだ大仏の修復と寺院の再興を図ったのは、江戸・増上寺の祐天上人であり、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)のことであったこともウィキペディアに出ている。境内には、「中興祐天大僧正二百年御遠忌報恩記念」と刻まれた石碑が建っているので、高徳院では祐天上人を中興の祖として敬っているのであろう。

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       中興の祖 祐天上人の記念碑           与謝野晶子の歌碑

    境内の観月堂の傍には、有名な与謝野晶子の鎌倉大仏を詠んだ歌「かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」の歌碑が建っている。釈迦牟尼は本来お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)のことをいい、鎌倉大仏は釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来なので、晶子が間違ったのか、あるいは歌にすると阿弥陀如来ではゴロが悪かったのであろうかと指摘しているウェブサイトもある。

    <長谷寺>
    大仏から5分ほど歩くと長谷寺がある。関西では長谷寺と聞くと、「あぁ、牡丹の名所ですね。」が挨拶代わりになる。しかし牡丹で有名な長谷寺は奈良県桜井市の長谷寺である。ここ鎌倉の長谷寺は、花としてはアジサイが有名であるらしい。長谷観音とも呼ばれ、本尊は十一面観音立像である。境内の見晴らし台や、裏山の散策路を少し上った山腹からは由比ガ浜や鎌倉の海が一望できる。

    山門の傍の案内板には、「開山の徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけたクスノキから、二体の観音像が造られました。一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体は衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後三浦半島に流れ着いた観音像を遷して建立されたのが長谷寺です。」とあるので、大和長谷寺と鎌倉長谷寺は本尊のルーツが同じという縁があるらしい。

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            長谷寺山門                  長谷寺観音堂と阿弥陀堂
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        アジサイの咲く眺望散策路           由比ガ浜や相模湾を一望

    境内にはこの他、鐘楼、地蔵堂、弁天堂、弁天窟、大黒堂、書院などがあり、訪れる場所に事欠かない。また明治時代に「瀧口入道」を著して、文芸評論家、思想家として有名になったが、31歳という若さで早逝した高山樗牛が、ここ長谷寺に一時期住んだらしく、「高山樗牛ここに住む」と刻まれた石碑もある。

    <鎌倉文学館>
    長谷寺から由比ガ浜大通りを鎌倉別邸ソサエティの方へ戻ってくると、文学館前という交差点があるので、山手の方に左折すれば鎌倉文学館の入口に至る。案内板が設置してあり、加賀百万石藩主の系譜である前田侯爵家が明治23(1890)年頃この土地を手に入れて和風の鎌倉別邸としたが、明治43(1910)年に焼失、洋風に再建、さらに改築されて、昭和11(1936)年に現在の姿になったと紹介してある。

    その後、昭和58(1983)年に鎌倉市へ寄贈され、昭和60(1985)年に鎌倉文学館として開館した。鬱蒼とした林間の坂を上がって行くと、中門があって入場券売り場がある。近頃多く見られる自動券売機ではなく、年配の男性が受付をされていたので、鎌倉別邸時代から続く門番の小屋を利用しているのかもしれない。さらに坂を上がってトンネルをくぐると、瀟洒な洋館の鎌倉文学館の玄関が現われる。

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        トンネルをくぐって文学館へ            鎌倉文学館の玄関

    文学館の内部は写真撮影不可だったので紹介できないが、鎌倉が気に入って鎌倉に居を構えて活躍し、鎌倉文士とよばれた、川端康成、大佛次郎、里見弴、久米正雄、小林秀雄、吉屋信子などの作家や、逗留や滞在した鎌倉ゆかりの作家、歌人、詩人、俳人、翻訳家、脚本家たちの著書、原稿、愛用品などが常設展示してある。この日は階下で萩原朔太郎生誕130年の特別展示をやっていた。

    鎌倉という地は、12世紀に鎌倉幕府が開かれた歴史ある古都なので、知らず知らずのうちに文化的な魅力が発信され、文化人たちがその匂いを嗅ぎつけ集まったのだろうということは容易に想像できる。日本の最大の古都であり続けた京都は別格としても、志賀直哉を中心に文化人のサロンができた古の都奈良と、鎌倉文士が集まった武士の都鎌倉とは、文化人に好まれたという点でよく似ている気がする。

    鎌倉文学館の前庭は広大な芝生になっていて、前庭からみる文学館は冒頭写真に掲げたように、大変美しい姿をしている。文学館のしおりには、外観はハーフティンバーを基調とする洋風と、切妻屋根と深い軒出などの和風が混在する独特なデザインである、と説明してある。前庭にはバラ園もあり、バラ園から文学館を見ると、赤いバラと文学館の屋根の青い瓦がよくマッチしている。

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       洋風と和風が混在する文学館          バラ園から文学館を望む

    蛇足であるが、鎌倉文学館が旧前田侯爵家の鎌倉別邸であったということを知ったので、宿泊した鎌倉別邸ソサエティの名前のルーツがわかった。なぜわざわざ別邸という名前がついているのかと以前思ったことがあったが、前田侯爵家の鎌倉別邸からとったものと思われる。

    <吉屋信子記念館>
    ソサエティで貰った地図を見ると、鎌倉文学館のすぐ近くに吉屋信子記念館があると出ているので、付近を探してみたところ、由比ガ浜大通りの長谷東町のバス停を少し入ったところにあった。吉屋信子は昭和19(1944)年から鎌倉大仏近くの別荘に疎開し、一度東京に移ったが、昭和37(1962)年にここ長谷の地に新居を建て、没年の昭和48(1973)年まで住んだ。死後鎌倉市に寄贈され、吉屋信子記念館になっている。

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            吉屋信子記念館

    せっかく探し当てた吉屋信子記念館であったが、残念ながら7~9月は閉館ということで中へは入れなかった。鎌倉市教育委員会の案内板には、「自分の得たものは社会に還元し、住居は記念館のような形で残してほしい」という吉屋信子さんの遺志により土地・建物が寄贈されたこと、晩年を飾る歴史小説「徳川の婦人たち」、「続徳川の婦人たち」、「女人平家」はここで執筆されたこと、などが記されている。

    <大佛次郎の大佛の由来>
    子供の頃、家の本棚に並んでいた本の背表紙に、大佛次郎という名前が書いてある何冊かの本になぜか強い印象をもっていた。大佛という名前が奈良の大仏を彷彿させ、どんな人なのだろうと子供心に思ったのかもしれない。それらの本には、朝日新聞社の出版局に勤めていた我が親父宛に自筆のサインがしてあるので、現在も親父の遺産として保管している。

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            我が家に残る大佛次郎の著書とサイン

    今回鎌倉を再訪して、大佛次郎は大正13(1924)年頃、鎌倉大仏の裏手に住んでいた時に、大佛次郎というペンネームを使い、これが彼の終生のペンネームとなったということを知った。つまり子供の頃、何となく奈良の大仏をイメージさせると感じていた大佛次郎の名前であったが、奈良ではなくて鎌倉の大仏に由来するものであった。しかもウィキペディアの鎌倉大仏には次のような記載もある。

    「鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の『おさらぎ』という地名であった。そのため、鎌倉大仏にかぎっては『大仏』と書いて『おさらぎ』と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には『大仏』と書いて『おさらぎ』と読む姓がある。」

    これで子供の頃からの疑問がひとつ解消した。

    <鎌倉を愛した大佛次郎>
    大佛次郎は横浜出身で、港の見える丘公園に記念館があるが、ペンネームに鎌倉大仏由来の名前を使っただけあって、鎌倉をこよなく愛したらしい。ウィキペディアには次のような記載もある。

    「宅地開発ブームが鎌倉に押し寄せ、1964年(昭和39年)には鎌倉の聖域である鶴岡八幡宮裏山・通称御谷までが開発されそうになった時、地元の住民と一緒に、古都としての景観と自然を守ろう運動を起こした。そして、全国的な運動を展開し、小林秀雄、今日出海、永井龍男、鈴木大拙、中村光夫、川端康成、横山隆一、伊東深水、鏑木清方などのそうそうたる著名文化人と幅広い市民の協力を得ることが出来た。」

    「この中から、鎌倉の貴重な自然と歴史的環境は市民自らの手で守らなければならないという機運が生まれ、財団法人鎌倉風致保存会が1964年(昭和39年)12月に誕生した。その設立発起人となり、また、初代理事に就任し、風致保存会の設立に大きな貢献をした。鎌倉風致保存会の精神的母体となった英国のナショナル・トラストの日本への紹介者ともなった。」

    「1966年(昭和41年)には、これをきっかけに超党派の議員立法によって『古都保存法』が制定され、同年6月に御谷山林1.5ヘクタールの買収に成功。このことで、鎌倉風致保存会は日本のナショナル・トラスト第1号といわれるようになった。」

    バブル期の金権主義を嫌い、土建万能による自然環境破壊に危機感を抱いた司馬遼太郎の理念については、以前のウェブログ「琵琶湖周航」で触れたが、司馬遼太郎と同様の理念を、大佛次郎ももっていたようである。

  • 琵琶湖周航

    <追加:中国からの渡来銭でできた鎌倉大仏>
    この記事を見た友人から、鎌倉大仏の素材は中国銭であったとする貴重な資料の紹介があった。友人は京都雲ケ畑の山中で古銭を拾い調べたところ、中国北宋(10世紀初~12世紀初)からの輸入銭であることをつきとめ、当時の中国銭が大量に輸入された状況や、銭貨としてばかりでなく、銅原料として鎌倉大仏など銅製品の製造にも使用されたとの状況をその著書で述べている。

    鎌倉大仏が中国銭から造られたという研究を紹介した2008年6月12日の朝日新聞記事も送ってこられた。それによると、別府大学のグループが銅製の経筒の研究を進めた中で、1150年頃を境に銅の原産地が国産から中国産に一斉に切り替わったことが判明した。これが大量の中国銭輸入と関係することがわかり、この輸入銭の研究が鎌倉大仏とむすびついた。

    つまり国家事業だった奈良の大仏は、国産銅でまかなえたが、平安末期以降、鎌倉時代には国産銅が不足しており、13世紀に民間主導で建立された鎌倉大仏は、大量に輸入されていた中国銭の銅を使用したということらしい。科学分析により中国銭と鎌倉大仏の成分も一致したとのことで、研究者は、国内で実は新しい銅山が見つかっていたという記録でもない限り、大仏は中国銭が材料と考えていいでしょうと、見ているそうである。


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