九転十起生-広岡浅子の生涯-
<広岡浅子> NHKの朝ドラ「あさが来た」が人気らしい。朝ドラは見ていないが、ヒロインは広岡浅子という明治時代に活躍した女性実業家がモデルである。九転十起生というのは、広岡浅子のペンネームである。七転び八起きよりさらに厳しい人生を送るという、浅子の覚悟を示しているという。広岡浅子のことは全く知らなかったので、どんな人物なのかを追ってみることにした。
一般にはそれほど知られていなかった広岡浅子という女性に強く惹かれ、「小説 土佐堀川」として世に出したのは古川智映子さんという作家である。1988(昭和63)年に刊行されたが、当初は一部の人々から注目されたものの、時代の陰に隠れて20数年間は日の目を浴びなかった。2015年になってNHKが朝ドラに取り上げ、文庫本も発刊されていま脚光を浴びるようになった。
近くの書店にも、連続テレビ小説「あさが来た」ドラマ原案本として、「小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯」の潮文庫本が積んであったので、まずはこの本を読んで広岡浅子のことを知ろうと一冊購入した。読みだしたところ、その面白さに夢中になってしまい、近年の加齢による読解力低下をものともせず一気に読了してしまった。古川本で広岡浅子の生涯を追ってみよう。
<おてんば娘> 浅子は1849(嘉永2)年に京都油小路出水の三井家に生まれた。三越の祖として有名な伊勢商人の三井高利の11人の子が独立して三井十一家となっていたが、浅子の生まれた出水の三井家は、十男高春の系統である。高春から数えて6代目の高益が浅子の父で、正室に先立たれたあと、継室として三井家に入った貞との間に生まれた。高益が年とってからの娘なので可愛がられた。
浅子はいわゆるおてんばで、遊ぶ時は三井の男の子たちの先頭に立って悪さをするので、他の三井家の人たちからは眉をひそめて見られたらしい。しかし父の高益だけは見方が違っていて、「こいつは大物になる」とかばってくれ、三井家の商いの基盤を築いた女性として、三井家の女性たちが尊敬している先祖の殊法大姉を引き合いに出して浅子に期待をし、男に生まれなかったことを残念がったという。
<大阪の両替商加島屋へ嫁ぐ> 出水三井家は高益の死後、養嫡子の高喜が当主となり、三井の十一家を束ねる大元方に就任した。浅子は義兄である高喜から、商いの知識や、佐幕派、尊王攘夷派、公武合体派が入り乱れる時流の動き、さらには政治を動かしている商品経済の仕組み、幕府からの御用金割り当てによる豪商の財政逼迫などについて学ぶ。高喜は徳川幕府が経済政策を誤ったことを見抜いており、やがて三井は徳川を見限って新政府側につくことになる。
1865(慶応1)年、浅子は大阪一の豪福両替商、加島屋広岡信五郎に嫁ぐ。二歳の時に、すでに加島屋に嫁ぐことが決まっていたからである。三井十一家に生まれた女は必ず加島屋一族に嫁ぐことになっていた。加島屋の当主、正饒(まさあつ)は、「商人の家に、おとなしいだけの女はいらん。根性と才覚のある御寮はんになっておくれ」といって浅子に期待を寄せていたという。同じ時期に異母姉の春も大阪で最も伝統の古い名門両替商天王寺屋五兵衛に嫁いだ。
<時代の荒波> 三井高喜の読み通り、鳥羽伏見の戦いで幕府は敗北し、新政府軍が王政復古を通告し官軍となった。新政府は大阪京都の商人を二条城に集め、軍資金の調達を迫る。これまで御用金や大名貸で幕府側だった上方商人は大ピンチに陥り、新政府の貨幣政策である銀目遣い廃止の影響もあって、倒産する両替商が続出した。加島屋は三井家の紹介で借金をして、遅ればせながら新政府の献金に応じた。
1868(慶応4)年に江戸が東の京と改まり、肺病を発症していた浅子は、借金の返済延期願いのため無理を押して東京へ向かい、紆余曲折を経て何とか使命を達成する。浅子の気力が勝ったのか病気の方も奇跡的に回復し、加島屋再興の期待は次第に浅子の双肩にかかるようになった。後事を託せると安心した義父の正饒は生涯を閉じる。異母姉の春が嫁いだ天王寺屋は倒産し、没落の憂き目にあう。
<炭鉱経営に乗り出す> 新しい商いや加島屋の行方を模索している浅子に、夫の信五郎が遊び仲間から石炭の商いの話を聞いたと告げたのをきっかけに、浅子は真剣に炭鉱事業に目を向け三井高喜にも相談する。高喜は沈着冷静であるが、石炭事業の将来性については認めていた。問題は荒くれ男の坑夫を監督するなどの炭鉱経営が女の浅子でやれるかであったが、浅子の強い意志と高喜の「浅子ならやれるかもしれん」との支えで、売りに出ていた九州筑豊地区の炭鉱を買う。
予期されたように最初は現場の反発や抵抗もあったが、懐にピストルを忍ばせた浅子の捨て身の対応が現場監督者たちの心をつかみ、炭鉱経営が次第に軌道に乗り出した矢先、浅子は懐妊し1876(明治9)年に亀子を出産する。その頃国立銀行条例が改正され、浅子の実家の三井が銀行を創立した。加島屋も銀行創立を目指して準備を進め、炭鉱経営に頼らない体質にしようとしていた。
ところがそこへ炭鉱が爆発したという知らせが届く。浅子はすぐに九州へ行き対応にあたったが、十数人の死者が出た。事故の原因は、儲けを大きくしようとした経営者側の責任にあるとして加島屋が強く指弾された。夫の信五郎と相談の上、賠償と炭鉱復興のために銀行の設立を一時見合わすことにし、浅子は災害の後始末と再開に向けて現場で奮闘する。
<五代友厚の激励> 炭坑の事故、銀行創立の挫折で浅子が苦境に立っていたこの時期に、三井家の菩提寺である京都真如堂で、出水の三井家の始祖三井高春の百五十回忌が営まれた。そこで、東の渋沢栄一、西の五代友厚と称され大阪実業界に君臨していた五代友厚から声をかけられる。その場面を著者の古川智映子さんは次のように描いている。
「へこたれてはあかんで。自分からはじめたことやないか。頑固にやりとおすしかない。仕事は命がけや。死んでも仕事が残る、そういう仕事をせなあかん。御寮はん、気張りや」・・・・・・・・・・「御寮はんは、大阪一の女性実業家やないか。ここが意地の見せどころや。人間腹きめて努力していったら、必ず道は拓けてくるもんや」
「前から一度は加島屋の御寮はんと話してみたいと思うとった。わても歳には勝てんようや。体が弱うなってな」・・・・・「そうやすやすとは死ねん、けど死んでも五代の築いた大阪は残る。そうやろ」・・・・・・・「勝たなあかんで。負けの人生は惨めや。負けたらあかん、他人やない、自分にや」
五代は翌年50年の生涯を閉じる。浅子は五代の一語一語を遺言と受けとめて、彼の死後の二年間をわき目もふらず炭鉱の再興に力を注ぎ、豊富な鉱脈をみつけて炭鉱を拡大し設備も近代的なものに入れ替えた。結果、出炭量が災害前の5倍になり、加島屋の事業は躍進を遂げた。借財も完済し、いよいよ念願の加島銀行創立の資金も都合できるような状態になった。
<渋沢栄一との会見> 浅子には、銀行の創立の前にぜひ会って教えを請いたい人物がいた。銀行の神様と異名をとる渋沢栄一である。浅子の願いに対し、渋沢は来阪の機会をとらえて大阪商法会議所で面会の機会を作ってくれた。そこで渋沢は浅子に、銀行経営で最も重要なことは、金集めではなく信用であり、金は銀行を経営する人間の器量の大きさに従って動くということを教える。
さらに渋沢は、日本の国は今大事な時期で、大きな見地から国益を考えていかねばならず、人間を作ることが大切という。人間をつくるとはどういうことか、との浅子の問いに対し、日本の産業振興のために働いてくれる次代の人材を育成するということであり、具体的に考えて実行に移すつもりだとの、渋沢の返事であった。渋沢のこの構想は、後に東京商法講習所(一橋大学の前身)として実現する。
<加島銀行発足と夫の尼崎紡績社長就任> 1888(明治21)年1月、念願の加島銀行がついに開店の運びになった。本家の広岡久右衛門を継いだ信五郎の弟、正秋が初代頭取に就任し、正秋、信五郎、浅子がそれぞれ出資して、全体の7割の株を持った。銀行が乱立し競争が激化する中で、浅子は女子行員の採用に踏み切り、教養と実務の訓練を行って、加島銀行を女子の人格が認められるような職場にし、加島銀行の評判を高めていった。
この頃、夫の信五郎は、謡曲の仲間たちによる紡績工場建設の発起人の中心人物となっていた。そしてついに信五郎は尼崎紡績の初代社長に就任する。他の紡績会社では英国から外人技師を招聘していたが、法外な金がかかるので信五郎は浅子に相談した。浅子は日本人技師を見つけて経営側にも入って貰うという策を提案し、実行された。尼崎紡績はその後大日本紡績となり、現在のユニチカにつながっている。
<日本女子大学の創立を支援> 女性実業家としての浅子の名声が高まった頃、大口顧客の土倉庄三郎から、成瀬仁蔵という教育者を紹介される。成瀬は梅花女学校の校長であったが、女子の大学をつくろうと考えていて、浅子に協力を求めてきた。最初は多忙を理由に断ったが、彼が置いていった著書「女子教育」を読んで成瀬の考え方に共鳴し、協力を決めた。成瀬が考えもしなかった資金集めに対する浅子の戦略を聞いて、成瀬は加島屋浅子恐るべし、と思ったという。
浅子の戦略は、まず総理大臣の伊藤博文に女子教育の必要性を認識してもらうことであった。12年前に三井銀行の株主総会で総長に任命された高喜が政府の要人を招待したとき、浅子は当時の伊藤博文内務卿と親しく話したことがあり、伊藤も浅子に今後何なりと役に立つことがあれば助力を惜しまないと言ってくれたのである。伊藤総理が賛同すれば、あとはぞろぞろついて来ますやろ、というのが浅子の見立てであった。
この戦略は功を奏し、成瀬は伊藤に直接話をきいてもらうことができ、文部当局の西園寺侯爵と学習院院長の近衛公爵に相談せよとの返答が得られた。二人とも快く賛同し、さらに大隈重信、板垣退助、渋沢栄一へと賛同の人脈が広がっていき、盛大な発起人会が東京では帝国ホテル、大阪では中之島ホテルで開催された。必要な資金集めや立地については紆余曲折があったものの、三井家が東京目白の別荘地を寄贈したため、1901(明治34)年4月、本邦初の女子高等教育機関日本女子大学が開学し、成瀬仁蔵が初代校長となった。
浅子は功労者として日本女子大学の評議員となった。日本女子大学のホームページには、「女子教育に“あさ”を!~広岡浅子~」という表題で、1905(明治38)年に建設中の豊明館前で撮影された評議員の記念写真がアップされている。成瀬仁蔵、広岡浅子、大隈重信、西園寺公望らの姿が写っていて興味深い。
<傷害事件から大同生命の誕生> 浅子には、加島屋再興の体験や苦労話についての原稿執筆や講演の依頼が良く来るようになったが、ある日の中之島公会堂での講演の後、歩いて加島屋へ帰ろうとする浅子が、暴漢に刺されるという事件が起きた。暴漢は昔の両替商仲間で、浅子に借金を申し込んで断られたのを根に持っていたためである。一週間近くも病状が低迷したが、奇跡的に回復した途端に新たな事業を言い出して信五郎を驚かせる。
浅子が言い出したのは生命保険事業のことであった。銀行ラッシュの後、生命保険業務が脚光を浴び、加島屋一族も朝日生命を興していたが赤字であった。浅子は人間の寿命がこれからは延びていくと思い、生命保険業務の将来性を予見したのである。浅子は、2,3社が合併して保険業界の現状をよく認識し、契約内容を刷新すれば、各社単独の時に倍する急伸を見るに違いないと主張した。
加島屋サイドでも最初は合併に反対の声が多かったが、浅子が粘り強く説得し、朝日生命の重役、中川小十郎を交渉役に立てて、当初困難と思われていた3社合併が実現した。朝日生命、北海生命、護国生命の3社である。新社名については、「小異を捨てて大同につく」の故事にのっとって、大同生命という名が選ばれた。浅子が考えた通り、合併によって契約高は躍進し、各社の特長が生かされた豊富な商品品目が可能になった。
大同生命は、現在も大同生命保険株式会社として良く知られた保険会社である。ネットで「大同生命」を検索すると、大同生命の源流-加島屋と広岡浅子というウェブサイトが出てくるので、加島屋の歴史や広岡浅子の生涯が良くわかる。また同社の創業110周年記念アーカイブには、九転十起生-広岡浅子の生涯というウェブサイトがあり、浅子の業績がまとめられている。
<ヴォーリズとの縁> 大同生命が発足した年に、浅子と信五郎の娘、亀子に、子爵一柳家の次男恵三が婿養子として迎えられた。恵三は東京帝国大学法科出の逸材で、加島銀行と大同生命に関与して勤務することになった。恵三の妹が一柳満喜子で、米国留学から帰って、ヴォーリズと知り合い、国際結婚に踏み切ろうとしていた。この頃、尼崎紡績社長、加島銀行頭取、大同生命副社長を務めた夫の信五郎が没する。
浅子は、亀子と恵三のために六甲の麓、芦屋に家を建てることとし、設計を一柳満喜子の婚約者、ヴォーリズに依頼した。男性中心という社会の徳目はやがて崩れていくであろうと考えていた浅子の目には、一柳満喜子とヴォーリズの交際は新鮮に映った。ヴォーリズの態度には、いつもレディ・ファーストの精神があふれていたからである。ヴォーリズについては以前のウェブログ「湖東の近江八幡-八幡掘界隈とヴォーリズ」で触れた。
<女子人材の育成> 時期が少し遡るが、日本女子大学開校の成功に次いで、浅子は個人で女子人材の育成に役立ちたいと考えるようになった。毎月の上京の機会を捉え、小石川の三井邸で勉強会を開くこととし、はじめは5,6人だったメンバーが回を重ねるうちに二十数名に増えた。その中に、亀子の友人で、浅子が見込んだ井上秀がいた。彼女は日本女子大学の一期生となり卒業後、米国に留学した。
時代が流れ、浅子が乳がんの手術をして、またも奇跡的に回復した頃、井上秀が帰国するという知らせが届いた。帰国後は日本女子大学の教授として家政学を教えることも決まっていた。浅子は秀を加えて、御殿場の別荘での夏期講習会の開催を企画する。形式にこだわらず自由な発想と発言で研鑚しあうことを目的とし、寝食を共にして実学を身につける場にしたい、という浅子の考えであった。
この夏期講習会から、日本女子大学初の女性校長となる井上秀、女性参政権獲得に尽力し、戦後は参議院議員を務めた市川房江、女性新聞記者として活躍し、「婦人週報」を創刊した小橋三四子、赤毛のアンの翻訳者としても有名な児童文学作家の村岡花子たちが輩出している。みな「小我(自分のためにしたいこと)に固執せず、真我(社会のために為すべきこと)をみつけなさい」との浅子の言葉に感化を受けたという。
<所感> 古川本には、この後、大同生命の新社屋が土佐堀肥後橋前に建つことになり、その落成式で挨拶をした浅子が控室で倒れて大阪医大付属病院に運ばれ、1919(大正8)年1月14日に数えで71歳の生涯を終えた、とある。浅子の追悼の儀は、東京と大阪とで盛大に営まれた、生前、浅子が執筆していた「家庭週報」では、いち早く広岡浅子追悼号を編集した、ともあり、まさに巨星墜つ、といった感じだったに違いない。
広岡浅子のことは全く知らなかったので、とにかく読了した時点で、明治時代にすごい女性がいたのだと思い知ることになった。古川本の巻末には、作家の宮本輝氏が解説の中で、おそらく、多くの新しい読者が広岡浅子という稀有な女性の生涯を、この「小説 土佐堀川」で知ることになるであろう、と書かれているが、私の場合は、全くその通りであった。
女性の生き方に関心があった著者の古川智映子さんは、20数年前に高群逸枝の「大日本女性人名辞書」の中で広岡浅子の名前を知り、強く惹かれてぜひ小説化したいと願ったと、あとがきに記されている。しかし辞書以外に何の手がかりもなかったが、三井文庫に通って文献を見つけ、大阪や京都に通って関係者から聞き書きし、広岡家にも伺って話をきくことができ、小説の肉付けをふくらませていったとも記されている。従ってこの本は小説の形式をとっているが、綿密な史実の精査の上に書かれている。
我家には、日本歴史学会編の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)があるので、広岡の所を見てみたが、「広岡久右衛門」(正秋のこと)しか出ておらず、「広岡浅子」は出ていない。以前のウェブログで、幸田真音さんの藍色のベンチャーを取り上げたことがあるが、彼女はあとがきの中で、江戸時代の商人の妻が重要な役割を担っていたのはたしかなのに、分厚い過去帳を見ても女や妻女の文字ばかりで、名前すら残されていないと残念がっておられた。
江戸時代からの男社会思想が明治に入っても続いていた中で、広岡浅子のような女性が実際に活躍していて、大阪の産業界はもとより、政府要人にさえその名を知られていたのに、現代にはあまり伝わっておらず、日本歴史学会編の辞典にも出ていないということは、何となく幸田真音さんの無念さに通じるのかもしれない。平成の世になっても未だに日本では、女性活躍とか男女共同参画とか言っているのは、何が足らないのだろうか。
また広岡浅子の、小我と真我の考え方を知ると、平成の現代と、明治の昔とで人の考え方に大きな差があることを感じずにはおられない。すなわち現代では、自分の夢をもちなさい、自分のやりたいことに向かって努力しなさい、ということは特におかしいとは思われないし、むしろ良いことだと思われる。
しかし浅子は「それではあかん」と言いそうである。自分がやりたいと思うことより、社会に対して自分が何ができるかを考えなさい、という思想である。明治時代は浅子に限らず、また男女を問わず世間のために、人様のためにという考え方が強かったように思える。もちろんノーベル賞を受賞した大村先生のように、世の中に役に立つためにをモットーにしている人が今もいることには間違いないが。
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