« 寂光院と建礼門院 | Main | 虫が視る花の色と姿?! »

2015.05.08

雪は天から送られた手紙-中谷宇吉郎-

Photo
     中谷宇吉郎 雪の科学館(石川県加賀市片山津)

<中谷宇吉郎を輩出した片山津>
石川県加賀市の片山津(かたやまづ)には、家族がメンバーになっているリゾート施設があるのでしばしば訪れる。以前のウェブログ「加賀の赤瓦屋根」および「続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷-」では、加賀地方の赤瓦屋根について触れた。前者のウェブログには、加賀市内の大聖寺(だいしょうじ)にある石川県九谷焼美術館、山の下寺院群の全昌寺や実性院、および大聖寺藩の前田家廟所を、雪の中に訪問したことを記している。

  • 加賀の赤瓦屋根
  • 続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷

    「雪」というと、片山津は雪に大変縁が深い町である。北陸地方なので冬に雪が降るということもあるが、そういうことではない。日本を代表する科学者の一人で、偉大な雪の研究者である中谷宇吉郎(なかやうきちろう)博士を生んだ町だからである。片山津には中谷宇吉郎博士の雪や氷についての研究の功績を記念し、その研究経過や成果を展示する中谷宇吉郎 雪の科学館がある。大聖寺で生まれた著名な作家で登山家の、深田久弥とともに郷土の偉人である。

    今年も3月29日から31日にかけて片山津を訪問したので、帰途についた31日に雪の科学館に立ち寄り、冒頭の写真を撮影した。今回は中へは入らなかったが、これまで2度ほど館内を見学し、中谷宇吉郎博士のひととなりゾーン、「雪の結晶」ゾーン、「氷の結晶」ゾーン、「グリーンランド・ハワイ」ゾーン、「世界の中の宇吉郎」ゾーンの各展示を見て、博士のひととなりや研究業績に触れたことがある。

    今回の片山津行をきっかけに中谷宇吉郎博士の像に触れて見ることにした。

    <科学の方法>
    Photo_3私が昭和40(1965)年に入社した会社では、同室の先輩が京都洛北高校の同窓生であったことから親しくなり、会社生活や研究開発の進め方についていろいろアドバイスを頂いた。その時に、これは良い本だよ、と言って読むことを勧められたのが、中谷宇吉郎著の「科学の方法」(岩波新書)であった。昭和33(1958)年に初版が発行されたもので、科学の本質を一般向けにわかりやすく解説した名著である。

    目次を拾うと、科学の限界、科学の本質、測定の精度、質量とエネルギー、解ける問題と解けない問題、物質の科学と生命の科学、科学と数学、定性的と定量的、実験、理論、科学における人間的要素、といった項目になっている。科学や技術を志す者にとっては常識として知っておかねばならない重要な項目が、適切な事例とともに平易に解説されている。

    この時代、科学が非常に進歩して、人工衛星が飛んだり人工頭脳のような機械ができたりしたために、科学ブームがおこり、科学万能主義的な考え方が一部の風潮になったりしていた。この書はそのような風潮をいましめ、科学を正確に理解するための啓蒙書として発刊されたように思われる。この書が書かれてもう60年近く経過しているが、今読み直しても全く違和感を感じない内容である。中谷宇吉郎博士はこの書を書いて4年後に他界されたが、原発事故やSTAP問題が起ったりして科学の危機が叫ばれている科学技術の現状をどのように感じられているのか知りたい気になる。


    <生い立ち>
    Photo_2中谷宇吉郎は明治33(1900)年に片山津で生まれ、学齢期になると母方の親戚に預けられ大聖寺で小学校生活を送った。父の宇一郎は呉服と雑貨を営む家業の一方、九谷焼に熱中していて、宇吉郎をいずれ九谷焼の陶工に育てたかったらしく、そのため小学校を出たら小松の工業学校の窯業科に入れるつもりだったらしい。小学校時代には宇吉郎を九谷焼の名工のもとに英語を習いに通わせたり、全昌寺の和尚のもとへ習字を習いに行かせたという。

    しかし宇吉郎が小学校を卒業すると一週間も経たないうちに父が急逝した。宇吉郎は工業学校の方はやめて県立小松中学校に進み、次いで金沢の第四高等学校を経て、東京帝国大学物理学科に入学することになる。父宇一郎がずっと健在であれば、宇吉郎は偉大な物理学者ではなく、九谷焼の名工になっていたかもしれないというエピソードである。ちなみに関西の実業家鳥居信治郎(寿屋サントリーの始祖)が、高校大学を通じて宇吉郎の学資の援助をしてくれたという。

    大学二年の時に寺田寅彦と出会い、その教えを受けて実験物理学を志すようになり、卒業後は理化学研究所で寺田研究室の助手となった。寺田寅彦はよく知られているように、物理学者でありながら文豪夏目漱石の弟子となり、随筆家としても名声が高かった。このような学風が宇吉郎の研究姿勢にも大きな影響を与えたと思われ、宇吉郎が優れた随筆を多数書いていることも寺田寅彦の影響と思われる。

    <研究業績>
    宇吉郎は、昭和3(1928)年にイギリスのキングス・カレッジ・ロンドンに留学し帰国後、昭和5(1930)年に北海道帝国大学理学部の助教授となり、昭和6(1931)年に長波長X線の発生に関する論文により、京都帝国大学で理学博士号を受ける。北海道帝国大学の教授となった昭和7(1932)年頃から雪の結晶の研究を始める。この研究の引き金になったのは前年に米国で発刊されたベントレイの雪の結晶の写真集とされる。

    宇吉郎自身札幌に住んで、北海道で降る雪は故郷の石川県で降る雪よりもずっと綺麗な結晶形をもっていることに気づいており、学問として雪の結晶を扱うことにしたと思われる。北海道は雪の結晶の種類には極めて恵まれていて、世界中で知られているほとんどの結晶の型が見られたという。十勝岳の山小屋で数年観測した結果、これらの雪の結晶の形状の違いを分類して名称をつけることができた。

    Photo_9
              雪の結晶分類図(クリックで拡大)

    昭和11(1936)年には大学内の理学部北に建設していた低温実験室が完成し、人工雪の製作に世界で初めて成功した。さらに気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明するためのナカヤ・ダイヤグラムを作り、地上に降ってくる雪の結晶を見れば、その結晶が発生し、成長してくる上空の気象条件が分かるようになった。このことを宇吉郎は「雪は天から送られた手紙である」と表現している。この研究業績に対して昭和16(1941)年の帝国学士院賞が授与された。

    この年には、宇吉郎が作った低温実験室を母体として、日本の北大では低温科学研究所が創立されていたが、米国ではこのような研究所はまだなかったという。太平洋戦争が終わり世の中が落ち着きだした昭和27(1952)年に、日本の低温科学研究所を参考にして、米国イリノイ州ウィルメットに雪氷凍土研究所が設立され、宇吉郎は招かれてここで2年間研究員を務め、氷単結晶の研究を行っている。ここでは氷の単結晶を用いて、氷を曲げる研究を行っている。

    さらに宇吉郎は、昭和32(1957)年から米国雪氷凍土研究所のチームに加わって、グリーンランドの氷冠(ひょうかん)の調査を行った。氷床に積もっている2000m以上もある氷冠は何万年もの間に降り積もった雪が、その自重の圧力を受けて氷に変わったものであり、掘削してコア氷を取りだせば太古の氷を得ることが出来るのである。宇吉郎はこの年から4年続けてグリーンランドに出かけているが、次第に健康を害し癌のため昭和37(1962)年に他界した。

    <科学映画のプロダクション設立>
    宇吉郎は学問一筋という学者ではなかったらしく、自分の研究を含め科学を一般の人々に分かりやすく伝えるための随筆をよくするとともに、科学映画の製作にも携わっている。昭和23(1948)年には日本映画社の協力により科学映画「霧の華」と「大雪山の雪」を完成させ、この時の映画会社のスタッフとともに、翌年、中谷研究室プロダクションを立ち上げたという。このプロダクションは後に岩波映画製作所となった。

    <肝臓ジストマの体験者>
    Photo朝日新聞社に勤めていた我が親父は中谷宇吉郎博士から話を伺う機会があったらしく、私が子供の頃に、「中谷先生はなあ、肝臓ジストマに罹られたことがあるんだよ。」と話してくれたことを記憶している。それ以来肝臓ジストマという病気を認識し、この名前を聞くと中谷博士を思い浮かべるようになった。この話は本当で、雪の科学館発行の「中谷宇吉郎雪の物語」に、武見太郎医師が「中谷君と病気」という題で追想文を記している。

    「中谷君と私との交友は彼の大患をもって始まる。当時私は慶大内科の無給助手だった。寄生虫学の小泉丹教授が私の研究室に見えて、『一寸わけのある患者を頼む。どうせ助かるものではない。〇〇教授と××教授が腸結核末期という一致した診断だから君にあとを任せる』という言いつけである。・・・・・両教授は東大、北大の高名な教授で私などは口も利けない大家であった。」

    「数日後に小泉教授は岩波茂雄さんと共に中谷君をつれて来られた。顔面蒼白、痩せ衰えて夏だと云うのに毛のシャツ二枚重ねであった。眼は鋭く、異様に光って、話す口調は元気こそないが、病歴の要を得た正確さに私はまず驚かされた。彼の語った病歴の中で、彼は高名の二教授の診断に対して、物理学者として未だ満足していないことを静かに語った。恐るべき患者であることを私は直観した。」

    「私の第一回の診断は内科医として型通りの全くふだんと変わらない方法で行われた。中谷君は試験官であり、私は受験生と云う立場にいたことは彼の眼で判った。簡単な打診、聴診、触診にも物理学のあることは医師は大抵忘れている。ところが彼は寺田寅彦先生の物理学的教養で今日まで自分のかかる医師を片っ端から診断してきたのである。」

    「病気の方は次第に解明されて、結核性のものでないことは確定出来たし、肝臓ジストマが沢山いることも判り、他に腸内寄生虫も発見され、それ等の治療の順序も決めることが出来た。全身の衰弱がひどいので、肝ジストマの駆除に使うアンチモン剤の使用は小泉教授から慎重にやれと云われたが、これも成功した。次第に全症状が消退した。そして全身状態もよくなったことは勿論である。」

    後にケンカ太郎と異名をとり、日本医師会の大ボスとなって、政治家に強力な医師特権を認めさせた武見太郎の追想文なので、大変興味深い。武見太郎をして畏敬させた中谷博士の人間性が良く偲ばれる追想文である。

    <徳川夢声との対談>
    我家に朝日新聞社発行の「問答有用」という9冊組のシリーズ本が、親父の遺産として残っている。日本の元祖マルチタレントと言われる徳川夢声が、各界の著名人と対談して、週刊朝日の人気連載となったものを、昭和27(1952)年から9冊の単行本シリーズとして発刊されたもので、そのⅠに中谷宇吉郎博士が登場する。

    Photo_4
        「問答有用」夢声対談集(クリックで拡大)

    対談を読んでみると、徳川夢声の洒脱な質問と、中谷博士の分かりやすい軽妙な答えの応酬で面白い対談になっている。昭和27(1952)年頃の日本は、前年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、やっと米軍による占領時代を脱した時期であるが、対談の中では、アメリカ何するものぞ、という気概も見られて、当時の日本人に勇気を与えてくれたように思える。一部を抜粋する。

    夢声「雪や霜、あるいは寒冷現象というようなものを御専攻になった経路、動機というようなことから・・・。」

    中谷「わたくしはロンドンのキングス・カレッジで、リチャードソンという、ノーベル賞をもらった人について、今の原子力物理学のはじめのようなことをやっていたんです。帰ってから札幌へいったんですが、札幌には、当時ガラス管一本ない。エボナイトの板なんていったって、知らないんです。もう二十二、三年前ですがね。」

    夢声「札幌ってところは、ある意味では東京よりハイカラなところのように、あたくしどもかんがえていましたけどねェ。」

    中谷「ああいうものは、理科系統の学校の研究所がなければ、ほとんどないもんですからね。私は札幌へ帰ってからロンドンでやっていた仕事を続けようと思ったが、全然手が出ない。それで仕方なしに雪の研究を始めたんです。(笑)こいつなら材料は幾らでもあるし、しかもタダ・・・。(笑)」

    夢声「それは意外な理由でしたな、札幌にガラス・パイプなかりしために、雪の研究が始まったというのは。」

    中谷「この研究なら、なんにも機械は要らないんです。ただ顕微鏡一台あればいいんですからね。」

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    夢声「早川雪洲が十五年ぶりかでハリウッドにいったんですな。スター連中が集まってカクテル・パーティをやってくれたそうです。さぞにぎやかな会だろうと思って、いってみると、いやに静かなんですって。雪洲に向かって『お前は仏教信者か』ってきいた。雪洲は若い時分はお寺にいたことがあるんです。彼もホラを吹きますからね、『おれは禅の専門家である』といったんです。みんなとりまいて雪洲の禅の講義を聞こうということになった。『万有は無なり』てなことをいったんですな。みんな感心したそうです。」

    中谷「なぜそういうものが、現在のアメリカでさかんになってきたかというと、アメリカであんなに科学が進歩しても、人間は幸福にならないということがわかってきたからなんです。」

    夢声「電気冷蔵庫があり、自動車があり、テレヴィジョンがあって、いったい何が不幸なのかってえと、これだけで幸福というのはおかしいって気がしてきていると思うんです。現在の科学がタッチしない面に、何かがあるだろうというんでね。」

    中谷「日本人は、自動車や電気冷蔵庫を持つことがうらやましいといいますけどね。これは飛んでもない盲点があるんですね。いまの日本にいて、そういうものがあれば便利だが、アメリカでそんなものを持っていてもちっとも便利じゃない。ただ。これがなけりゃ生きていけないという、生活必需品であるだけなんです。日本にああいうものが普及するころは、もう便利でもなんでもないようになってる時でしょうね。」

    夢声「普及するまでは、あれは幸福の幻影を与えてくれますからな、決して無意味じゃないですね。(笑)」

    中谷「向うへいったら、その幻影さえも味わえないんです。」

    <所感>
    中谷宇吉郎博士は明治33年生まれであるから、我が親父より2歳年上である。我が親父もそうであったが明治生まれの人々には、どこか気骨というものが備わっていたような気がする。良い意味での頑固と言っても良いであろう。病気になって医者に診てもらうのに、従順な患者ではなくその医者を逆に診断しているという武見太郎の見方は、明治生まれの典型的な頑固さによるのかもしれない。

    中谷博士は原子力物理学を志しイギリスへ留学したが、帰国してみると実験に必要な器具が揃わず、やむを得ずお金のいらない雪の研究に向かったというのは、半分は本当で半分は誇張かも知れない。アメリカのベントレイというアマチュアが、50年をかけて雪の結晶の多彩さや美しさを顕微鏡写真に撮り続けた、雪の結晶写真集に魅せられたともされているからである。

    昭和27年頃の日本は米国の物質文明の豊かさに圧倒され、3種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)を購入することが夢であった。しかし対談中の中谷博士の言でもわかるように、豊かな電化製品をもつことは必ずしも幸福につながるものではなく、むしろ精神的な豊かさが幸福には必要なのだということを主張されている。

    物質文明の豊かさを結果として期待する世間の科学への認識が、そんなことではない、科学には本質的な限界があるということを中谷博士は強く感じ、前述の「科学の方法」を始めとする多数の科学随筆や科学映画を作られたのであろう。逝去後、半世紀を経た今の時代は、まさに科学では解決できない問題が多発している。


  • |

    « 寂光院と建礼門院 | Main | 虫が視る花の色と姿?! »

    Comments

    The comments to this entry are closed.