寂光院と建礼門院
<京都大原へ>
住んでいる滋賀県の良さはいろいろ感じるが、育った地の京都はやはり格別で何かにつけて良く出かけて行く。院長が高校、大学学部で同窓ということもあって、行きつけの眼科医院も京都烏丸の押小路と二条の間にある。2014年12月27日(土)が最終営業日と思い込んで薬をもらいに行ったら、すでに休みに入ったとのことでせっかく京都まで来たのにハタと行先に困ってしまった。
こういう時は京都という街は威力を発揮する。つまり急に空いた時間が出来たときでも、その近傍でいくらでも行くところがあるからである。この時はなぜかとっさに大原を思い出し、久しく訪ねていなかった寂光院に行ってみようかと発想が湧いた。寂光院は何年か前に放火されて焼けてしまい京都では大騒ぎになったが、その後再建されたとの情報を何かで見た記憶もあったからである。
子供の頃は家が叡山電鉄の沿線にあったので八瀬・大原は近く、寂光院には何度も来ているが、前回来たのは何時だろうと思って記憶を辿ったら、1965(昭和40)年の東レ入社時に友人を案内した記憶があるので、それ以来ということになる。今から50年前である。もちろん寂光院が放火される前であり、鄙びた感じの庵の雰囲気であったことを何となく覚えている。
この日は京都市内も寒かったので大原は雪の可能性もあったが、こちらは滋賀ナンバーで冬用タイヤなので特に気に留めることなく大原へ向かった。50年の間に八瀬・大原界隈の道路も整備され、寂光院への道標も分かりやすく出ているので迷うことはない。大原の里へ入り、寂光院へ向かう道を進んで行くと、清々しい山々と大原の里が現れた。
<寂光院への道>
寂光院のある集落の入り口の駐車場に車をおいて15分ほど歩いて行くことにした。車で寂光院の傍まで行けないことはないが、運動不足解消のためである。駐車場の年配の女性の言によると、今朝は雪が降ったらしい。そういえば山々はうっすらと雪化粧をしている。京都市内よりはやはりかなり気温は低いようである。
歩き出して目につくのは三角屋根の民家である。京都の北部は冬は雪が多いので、昔は勾配の急な茅葺きの三角屋根の家がゴロゴロあったと思われる。近年は瓦、トタンやスレートに替わってきているが、三角屋根の形状は保っているところも多い。大原から鯖街道をさらに北行して葛川地区に入ると、三角屋根の民家の集落があることに以前のウェブログ「安曇川と鯖街道」で触れた。
寂光院に近づくにつれ茶店、土産物店、旅館、駐車場などが増えてきて、観光シーズンは人と車でごった返すのであろうが、年末の寒いこの時期とあって閑散としているし、閉店している店も多い。その中で大原山荘という三角屋根の旅館があり、喫茶もやっているのであるが、中を覗くとなんと足湯になっている。大原で温泉が出るとは聞いたことがなかったが、湯元のお宿と銘打っているので沸かし温泉だろうか。
店内には一組のカップルが座って足湯に足をつけてお茶を飲んでいた。写真を撮ってよいか聞いたらOKだったので撮らせてもらった。この地区もおそらく過疎の波にさらされているだろうから、地区の活性化策として人を集めたいはずである。寂光院に頼るだけではなくこのような工夫もしているのであろう。
<寂光院>
昔の記憶が残る石段を登ってゆくと冒頭写真に掲げた「寂光院」と書かれた門に至る。門をくぐると真正面に本堂がある。この本堂は2005(平成17)年6月に再建されたものである。焼失前の本堂は、淀殿の命で片桐且元が慶長年間(1596-1615年)に再興したものであったが、2000(平成12)年5月9日の放火で焼失してしまった。犯人は未逮捕のまま2007(平成19)年5月9日に公訴時効が成立したらしい。
従って今回50年ぶりに見た本堂は、記憶にある以前の鄙びた本堂よりずっと立派で壮麗な感じがしたが、焼失前の本堂の内陣および柱は飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を、改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたものだったとのことなので、以前の本堂にはそのような歴史を感じていたためであろう。焼失後の現在の本堂は古式通りに忠実に復元したものであるという。
寂光院は天台宗の尼寺で、寺伝では594(推古天皇2)年、聖徳太子が父の用明天皇の菩提を弔うため開創したと伝えられ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。ただ、寂光院の草創については明確なことはわかっていないらしい。空海開基説や良忍開基説もあるらしいが、草創伝説よりも平清盛の娘の建礼門院が平家滅亡後隠棲した所であり、「平家物語」ゆかりの寺としての知名度の方が高い。
本堂前西側の庭園には、古びた池、千年の古松、苔むした石、汀(なぎさ)の桜などがあって、「平家物語」灌頂巻の大原御幸に記載がある後白河法皇が詠んだ歌の「池水に汀の桜散りしきて波の花こそ盛りなりけれ」のままであるという。また、樹齢千年の古松は姫小松といい、同じく「平家物語」灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫に咲ける色」と伝わる松であるが、火事のため枯死したという。
鐘楼には「諸行無常の鐘」と案内書きがしてある。いわずとしれた平家物語冒頭の、「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。」からとったものであろう。境内には他に、孤庵という茶室、雪見灯篭、四方正面の池もあり、淀殿、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康らが再興に手を尽くしたことがわかる。一方、宝物殿には焼けた本尊から無事に取りだされた胎内仏が展示してあり、放火という平成の今の時代に入ってからの現代人の愚行が印象づけられる。
本堂と庭園を見た後、さらに西方にある建礼門院が庵を結んでいたと伝えられる庵室跡を見に行った。昼なお暗い感じの杉木立の中に、一画が緑の草で覆われ、御庵室遺蹟と彫られた石碑が建っている。「平家物語」灌頂巻の大原御幸には、1186(文治2)年に後白河法皇がこの庵室を訪問したことが記載され、庵室の様子が事細かに書かれている。
寂光院(1949年頃の撮影)(クリックで拡大)
我家に残っている親父の遺産の1949(昭和24)年発行の日本古典全書(朝日新聞社編刊)の平家物語でこのくだりを読むと、「軒には蔦槿(つたあさがほ)這ひかかり、葱(しのぶ)交じりの忘れ草」、「板の葺目(ふきめ)もまばらにて、時雨も霜も置く露も、漏る月影に争ひて、たまるべしとも見えざりけり。後(うしろ)は山、前は野邊」、「くる人稀なる所なり」といった具合に表現されている。
つまり大原の里にあった寂光院の周囲は、整備された現在の環境からは想像もつかない来る人も稀な山深い僻地であり、朽ち果てたボロボロの草庵で、建礼門院は隠棲の日々を過ごしていたことが偲ばれる。上記の日本古典全書の平家物語には、発行当時の1949(昭和24)年頃に撮影したと思われる寂光院の写真が掲載されている。もちろん平成の放火のずっと前の終戦直後の写真であり、平家物語が描写している建礼門院が住んでいた当時の姿を彷彿させるような写真である。
説明書きには次のように記されている。「寂光院 みどりの山にたちこめる雲の流れ。足もとには岩の絶えまから落ちる水の音。山ほととぎすの一聲のほかには訪なふ人もないといはれた寂光院は、京都大原の西北にある。その草庵は『甍(いらか)破れては霧不断の香を焚き、扉落ちては月常住の燭(ともしび)を桃(かか)ぐ』ほどのさびしさであった。この寫眞は『大原御幸』の條、建禮門院のわびしい住まひのあとを偲ぶもので、向かって左の小さな屋根がその遺跡の尼寺である。(青井竹三郎撮影)」
この尼寺のあった場所が、現在は御庵室遺蹟になっていると思われる。
<建礼門院>
2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」で良く知られたように、建礼門院徳子は平清盛の娘で、入内して高倉天皇の中宮になり、安徳天皇の生母となった女性である。1185(文治1)年、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、やはり大河ドラマに出ていた藤原信西の娘の阿波内侍とともに冒頭写真に掲げたような尼となって寂光院で余生を送った。寂光院の本堂には、建礼門院とともに阿波内侍の像も祀られている。
平家物語の最後を締めくくる灌頂巻は、大原入、大原御幸、六道の三つの段からなっており、壇ノ浦での平家滅亡後の建礼門院徳子の隠棲生活を述べたものである。特に平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院徳子をたずねて、後白河法皇が寂光院を訪れた模様を描写した「大原御幸」の段は、平家物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。
灌頂巻を要約すると以下のようなストーリーとなる。
1185(文治1)年3月、壇ノ浦で安徳天皇とともに入水した建礼門院は、一人助けられて京都吉田の僧坊に送還され落飾した。9月末に憂きことの多い都を離れ、洛北の地大原寂光院に閑居し、夫高倉天皇と我が子安徳天皇および平家一門の菩提を弔う日々を送るようになった。
1186(文治2)年の春、大原寂光院に閑居する建礼門院のもとを後白河法皇が訪れたが、突然の法皇の行幸だったので建礼門院は向かいの翠黛山に花摘みに行って留守であった。その間法皇が見た寂光院と草庵の様子は前述のような哀れをもよおす状況であった。
声をかけると出てきた老尼の阿波内侍に案内を請うて御庵室の中を見た法皇は、一丈四方の仏間と寝所だけという昔の栄華に比べて余りの簡素な生活にただただ落涙するばかりであった。しばらくして花摘みから帰ってきた建礼門院は、はじめ逢うことを拒んだが、阿波内侍に説得されて涙ながらに法皇と対面する。
先帝や御子や平家一門を弔いながらの今の苦境は後世菩提のための喜びであると述べ、六道(注:地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)になぞらえて己が半生を語る建礼門院に、法皇はじめ供のものも涙するばかりであった。
1191(建久2)年2月中旬のころ、建礼門院はこの地で往生の時を迎え、内侍たちに看取られてその生涯をそっと閉じた。
<建礼門院大原西稜>
建礼門院の御陵が寂光院の東隣にあると聞いたので、いったん境内を降りて、隣接する大原西稜へ行く石段を登って行った。「高倉院天皇 中宮 建禮門院大原西稜」と刻まれた石碑が御陵の前に建っていて、隠棲した建礼門院というイメージから想像していたよりはるかに立派な御陵である。出家していたので鳥居の中に五輪塔がある珍しい仏教式御陵ということであるが、宮内庁管轄の御陵で中へ入れないので五輪塔は見られなかった。
御陵はかなり高台にあるので、引き返す時には大原の里が遠望できる。このあたりは大原草生という地区であり、前を流れる川は草生川という名である。御陵を降りて、来た道に戻り、駐車場までぶらぶら歩いて行ったが、それまで降らずに保っていた冬空から時雨がパラパラと降りだしてきた。
平家一門は滅亡後、平家の落武者とか、平家の落人と呼ばれるように、日本各地にひっそりと潜んでしまったというイメージがあり、歴史から消えてしまったような感じをもってしまう。しかし平家の落人の代表的人物ともいえる建礼門院が、現在はこのような立派な御陵に祀られているのを見て、何となくほっとする気持ちが湧いてきたのはなぜだろうか。
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