おふくろのふるさと-台北寸見-
<台北への旅行>
台北は我がおふくろが育った地である。1919(大正8)年から1928(昭和3年)まで、5歳から16歳まで住んだので、いわば台北がおふくろの故郷といってよい。おふくろは1993(平成5)年、78歳の時に従弟と一緒に65年ぶりに台北を再訪した。帰国してから少女時代のことや現代の台北について、思い出や感想を後に掲げるエッセイに綴っている。
そのエッセイを読んでいたから、自分も一度台北に行って見たいと思っていたが、ずっと台湾には縁がなかったところ、今年の5月、所属している日本繊維技術士センターの講演会に講師としてお招きした日本繊維機械学会不織布研究会のY先生から、今年の秋に台北で紡織展があるので一緒に行きませんかとお誘いを受けた。これはちょうど良い機会と思い日本繊維機械学会の視察ツアーに参加を申し込んだ。
学会の視察ツアーなので、出発日と帰国日も含めた10月15-17日の3日間で、2014年度台北紡織展(TITAS)視察以外に、台湾企業2社への訪問および台湾紡織産業総合研究所との技術交流会が組まれており、その合間に観光をするという結構忙しいツアーである。参加者は学会事務局と通訳も含めて12名であった。
2014年10月15日10時に関西国際空港を出発し、1時間の時差はあるが昼前にはもう台湾の桃園空港に到着である。日本の国内と大して変わらない近さである。到着ロビーに「中華民国入境」と書いたWelcome Boardが目につく。そうか、ここは台湾で、大陸の中華人民共和国とは違うのだという意識が改めて湧き起ってくる。迎えのバスが来るまでの間に、台湾通のメンバーから「タピオカ・ティー」を教えてもらい味わったが、なかなか良い味であった。
<台湾企業を訪問>
最初の訪問先は不織布製品を製造している敏成股份有限公司(Mytrex社)である。ここはメルトブロー方式による不織布を製造し、マスク、フィルター、保温綿などの不織布製品や、病院用のメディカル製品を作っている。日本から繊維機械学会のメンバーが来るということで大歓迎され、お土産に大きな袋に入った布団をプレゼントされたのには皆驚いてしまった。中に入っている綿がこの会社の製品である。
Mytrex社は1990年に設立された台湾ではトップのメルトブロー不織布メーカーであり、6つの製造ラインをもっているが、口金は日本の化繊ノズル社製を使用していると言っていたので日本の技術をベースにしているようである。本ツアーには日本のメルトブロー不織布メーカーからも参加していたので、この分野の全体状況や、台湾製品の位置づけなど教えてもらった。
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団長のご挨拶 敏成股份有限公司(Mytrex社)
2番目の訪問先は、当初の予定には入っていなかったが、メンバーの中の伊藤忠システックの方が現地事務所と折衝して急遽訪問先に追加となった美國微覺視檢測技術公司(Wintriss社)である。ここは米国Wintriss Engineering社の台湾社で自動光学表面検査設備を製造販売しており、不織布、フィルム、金属板、紙などのシート表面の欠点検査システムを開発している。
ここではなぜか台湾の人気歌手と思われる夏米雅の「我!?」というCDをお土産にもらった。光学技術に強い会社であるから、CD製造技術とも何か関係しているのかもしれないが説明を聞き漏らしてしまった。
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美國微覺視檢測技術公司(Wintriss社) お土産のCD
<台北紡織展>
2日目は今回の主目的である台北紡織展(TITAS;Taipei Innovative Textile Application Show)の視察である。台湾で最大の紡織品国際見本市で、繊維、糸、織物、編物、不織布、アパレルテキスタイル、産業用繊維製品、ファッション製品、インテリア製品、装飾製品、デザイン用ソフトウェア(CAD/CAM)、紡織機械、プリント装置、検査・試験機器などが、300近くの企業から出展されている。
遠東紡、台湾プラスチックなどの台湾の著名大企業を含む多数の台湾企業や、台湾御牧(みまき)、台湾東洋紡、田島ミシンなどの日台合弁企業からの出展に加えて、日本の双日ファッションや群馬県桐生市からの出展もあった。特に桐生市からは、森秀織物、朝倉製布、アート、フジレースの4社が出展され、桐生織、絹織物、加工剤、資材織物などを展示されていたので、ブースで名刺交換しいろいろお話を伺った。
TITAS入口 台プラグループのブース
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田島ミシンのブース 群馬県桐生市のブース
<台湾紡織産業総合研究所との技術交流会>
3日目は新北市にある、繊維関係では唯一の公的研究機関の財團法人台湾紡織産業総合研究所(TTRI:Taiwan Textile Research Institute)との技術交流会であった。TTRIは繊維関連研究の指導的な役割を果たしている研究所で、不織布技術開発チームも有している。紡織や染色加工の工場も別の場所にあり、全体で400名いるとのことであった。
ここもメルトブロー不織布技術を基幹技術としており、環境配慮型や複合型の機能性不織布を開発している。将来的にはフィルター分野を充実させたいそうで、2016年には世界フィルター会議を台湾で開催するとのことである。また公的機関なので検査評価設備や人工気象室も備えており、評価機関としての役割も大きいらしく、ここのお墨付きを貰って販売促進する企業が多いようである。
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TTRI玄関前のモニュメント 台湾紡織産業総合研究所(TTRI)
不織布技術に関する専門的な質疑応答や議論もあり、日本の高い技術に学びたいという意欲が感じられた交流会であった。台湾における公的研究機関として、繊維関係の人材育成の役割も担っているようである。
<台北の街>
宿泊したホテルは中山区林森北路にあり、台北の地図で見るとちょうど真ん中あたりである。交差点を隔てた真向かいに景福宮という寺院があったので、16日朝の散歩で立ち寄ってみた。日本の寺院とは全く異質の、装飾の多い、華美な感じのする寺院である。ウェブ検索では1875年に建立された福徳正神を祀った宮とある。福徳神とは人々が住んでいる場所や自然に対する信仰心の象徴である生活の守護神であるらしい。
ウェブの説明によると、台湾で最も古い時期に建てられた土地公廟のひとつであり、建設当時は水田や竹林が残り、農耕用の牛馬が闊歩する自然色豊かな場所だったが、周辺が市街地として発展し、1951年に最初の改健が行われ、次いで2001年の改健で現在の姿になったとある。つまりこのあたりは昔は農村だったと思われる。
今はこのあたりは完全に市街地である。付近を歩いてみると実にバイクが多い。バスのガイドさんが、日本と違って台北の道路はガードレールがないんですよ、と説明され確かにその通りであるが、多数並んだバイクがガードレールの役割を果たしているようにも思える。
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バイクがガードレールの役割? 中山國小のモザイクの壁
林森北路を歩いて行くと中山國小という小学校があった。おふくろが小学校から台北だったことを思い出し、しばらく登校してくる子供たちや、中山國小導護老師と背中に書かれたチョッキを着ている先生方を眺めていた。当時は日本の統治時代であるから今と中味はすっかり変わっているのだろうが、送りに来る親の様子や、校門で迎える先生たちの姿は今の日本の小学校と変わらない。
<台北101と国立故宮博物院>
現在の台北で必見の場所というと、台北101と故宮博物院だとガイドさんから聞いた。台北101は2004年に世界一の超高層ビルとして竣工したが、今では世界4位らしい。高さが509mで地上101階まであるので名前はこれに由来し、エレベーターの昇降速度も世界一を誇ったが、これは今でも保っているとのことである。ただし東芝製のエレベーターなので日本の技術が使用されている。
最上階まで上がるエレベーターは待ち行列が出来ていてそれほど時間がなかったので、このビルの1階にある鼎泰豊(ディン・タイ・ファン)という小籠包(しょうろんぽう)の美味しい店に入り、各種の小籠包を味わった。ただメンバーの一人が抜け駆けして最上階まで上がってちゃんと時間内に降りて来たので、それは残念ということになったが後の祭りである。
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台北101(超高層ビル) 国立故宮博物院
台北101での小籠包ランチ後、通訳のYさんが故宮博物院に行くと仰ったので良い機会なので連れて行ってもらった。ウィキペディアによると、故宮博物院は、1924年に北洋軍閥の一人である馮玉祥が溥儀を紫禁城宮殿から退去させ、1925年10月10日に宮殿内で清朝が持っていた美術品などを一般公開したのが始まりである、とある。つまり故宮博物院の故郷は紫禁城である。
しかし、その後の日本軍の華北派遣により、蒋介石の国民政府は博物院の所蔵品を南方へ疎開させ、上海経由で南京市に運び故宮博物院南京分院を設立したが、1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきたために、所蔵品は再び運び出されて四川省の巴県・峨嵋山・楽山の3カ所に避難させられた。
第二次世界大戦後、運び出された所蔵品は再び南京・北京に戻されたが、国共内戦が激化するにつれて中華民国政府の形勢が不利になったため、1948年の秋に中華民国政府は故宮博物院から約3割の所蔵品を精選して台北へと運んだ。これによって誕生したのが台北市の國立故宮博物院であり、現在故宮博物院の所蔵品は北京と台北の2カ所に別れて展示されている。一部は、現在も南京博物院に保管されている。
このような歴史を辿ると故宮博物院の宝物は、まさに日中戦争や国共内戦の戦火をくぐって生き残ってきたものであることがわかる。その戦争の一環に日本も加わっていたということを考えると、単純に宝物を見るだけでなく、そのような歴史にも思いを馳せなければいけないだろうと思った。
また、ウィキペディアには、台北の博物院は、1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命における文化財の組織的破壊から、貴重な歴史的遺産を保護するという役割を担ったが、同時に中華民国政府が中国 (China) の唯一合法的な政府であることの象徴と、日本の統治から離脱したばかりの台湾において中華ナショナリズムを強調するための装置としても中華民国政府に利用されていた、との説明もある。
<中正紀念堂と龍山寺(りゅうざんじ)>
そしてその中華民国政府の中心人物が蒋介石である。ツアー最終日は、台湾紡織産業総合研究所との技術交流会の後、コンビニで買ったサンドイッチやおにぎりをバスの中で食べながら、中正紀念堂と龍山寺を観光し空港に向かうという行程が組まれていた。中正紀念堂は、1975(昭和50)年に死去した中華民国の初代総統である蒋介石の顕彰施設である。
良く知られている通り、台湾にはもともとの住人で日本統治時代を経験した本省人と、戦後、蒋介石とともに大陸から渡ってきた外省人との間に確執があった。蒋介石は外省人にとっては偉人であるが、本省人にはそうではない時代があった。「中正紀念堂の壁は大理石で、銅像は蒋介石です。」と説明したら、「蒋介石ってどんな石ですか?」という質問があった、との笑い話をガイドさんが紹介してくれたが、ひょっとしたらガイドさんは本省人系なのかなとふと思った。
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蒋介石を顕彰する中正紀念堂 台北最古の龍山寺
龍山寺は台北市内で最古の寺院であり、台北101、故宮博物院、中正紀念堂と並ぶ台北市の「四大外国人観光地」であるらしい。本尊は観世音菩薩であるが、道教や儒教などの様々な宗教と習合しており、孔子や関羽など、祀られている神は大小合わせて100以上に及ぶという。日本は明治時期に廃仏毀釈という愚策を行い神仏を分離したが、もともとは万物に魂が宿るという神仏習合の国であったし、宗教的に大らかなところは似ているのかもしれない。
<台北の夜>
台北は夜市が有名ということで2日目の夜に皆で出かけた。日本のお祭りのときの夜店と同じで、食べ物屋や遊技場が密集していて台北庶民パワーの源泉を感じる賑わいである。しかもお祭りの時だけではなく、毎日がこの状態というから驚きである。日本でいうと、上野から秋葉原にかけて賑わうアメ横みたいな感じというところか。
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賑わう台北の夜市 食材がたくさん並ぶ夜店
案内してくれた伊藤忠グループ現地企業勤務の台湾女性のHさんから、台北の人は共働きが多いので外食はよくするが、ビールやお酒はほとんど飲まないと聞いてびっくり。集団で屋台のテーブルを囲んでビールや紹興酒を飲んでいるのは日本人のグループが多いとのことで、今日は皆さんとゆっくりビールが飲めて嬉しいですと仰っていたが、会社の帰りにちょっと一杯という習慣は台北にはないようである。
<親近感のある台北>
ともあれ台北3日間の旅はあっという間に終わり、台湾の近さを実感した旅であった。私にとっては初めての台湾であったが親近感の持てる国であった。一つの理由はおふくろが育った地なので、台北の街を歩いている人たちに何となく親しみを感じた面もある。
今から20年ほど前に、78歳にはなっていたがまだ健在だったおふくろが、育った故郷である台北を65年ぶりに訪れて、京都エッセイという同人誌に紀行記を寄せた。シャープの「書院」というワープロを70歳を過ぎてからマスターし、縦書きの原稿用紙に俳句やエッセイを打っていたので、当時の70歳代としては珍しい存在だったようである。この2年後の1995(平成7)年に他界したから、おふくろは人生の最後に良い旅をしたと思う。
そのおふくろの訪台記を紹介して本編を終わる。
=========「京都エッセイ 1994年6月号 センチメンタルジャーニー台北」============
<故郷をみつけた>
わたしは故郷を持たない者だと、思い続けて今まで来た。地縁血縁あたたかい自分のふるさとというものを、心いっぱいに持っている人が羨ましくないことはないが、何も持たないのもさばさばして自由でまたいいではないかと、などと居直った気持ちで暮らしてきた。したがって、わたしは何処に住んでも旅先にいるような、何時引っ越そうが土地や家に執着すること無しで過ごしてきた。
多分それは、父の勤務にしたがって、少女時代を植民地で過ごしたせいかと思う。以後、生涯の大方を日本に居ながら、一種の異邦人に似た気持ちから抜けきれない。 先日、わたしは、子供のときわが家で一緒に暮らした弟同様の従弟と旅行することになって、台湾の台北を訪ねてきた。台北は、大正八年から昭和三年、わたしが五歳から十六歳まで住んだところだ。数えてみると六十五年も昔のことになる。今は外国である。
戦争が間に挟まったので、日本人はみんな引き揚げて、戦後の混乱のなかで消息も失われた、戦前、日本に留学して来ていた台湾人も同じで、住所を知る方法も無い。知人は一人も居ない。わたしの心のなかで異郷となってしまっていた台北を訪ねたいと思ったのは、生涯も終わりに近づいてきた感傷ということだろうか。そういえば年々、過去が胸のなかでひろがって来る。
台北に着いて見れば、案の定、様変わりである。この地も高度成長経済とやらで、市街は膨張し、道路が四通八達、昔、青々とひろがっていた郊外の田圃など見ることはできなくなっている。かなり辺鄙だった地帯まで、夜は電光燦然、家や商店で埋まっている。道には車が満ち溢れている。そしてお定まりの交通渋滞だ。人口もずいぶん増えていて、すこし前の日本人のように皆忙しい。
そして、この街はわたしから見て、すこし趣味が悪くなった。日本統治時代からの建物もべたべた赤や青の上塗りで極彩色になっている。大陸から来た権力者の威光を示す為の建物など巨大過ぎて感心しない。でも、考えてみれば、当たり前だ。日本も似たようなもんだ。浦島さんのように嘆くのは間違いというものである。後戻りは誰もできないのだから。
昔住んで居た家のあたりへ行ってみた。当時「大正街」といった一条から九条まで通りのある閑静な住宅街の三条通りだった。勿論今そのままである筈はない。しかし通りは残っていて住宅やマンションが建っている。父の勤めていた華南銀行のクラブのあった所に、同じ銀行の社宅をみつけた。ここいらに小川があったっけ、ブランコのあった小さな公園はどこだろう、と思った途端、パアッとカメラのフラッシュがたかれたように思い出が絵になって押し寄せて、わたしは胸が詰まった。立ち尽くすばかりだった。
不審気に見て居た六十代とみえる台湾婦人に、昔この辺に住んでいた、と話しかけると現在のこの街の様子をこまごまと説明して、戦争中の日本人の苦労や、その子供たちが大かた結核で死んで、ほんとうに可哀相だった、などと話した。あなたは戦争のはじまる前に日本へ帰ってよかった、と喜んでくれた。この年代の台湾人は日本語を自由にしゃべる。
日本統治中のこの人たちに苦労もあっただろうに、そのことは口にせず、今も日本の小説が好きでよく読む、と話した。中国の小説は面白くないそうである。そして二人で「戦争はいやだ」と同時に声が出て、それから何となく笑い合った。親愛の情に国籍はない。
ほど近い所にある、わたしが入学して卒業した小学校も三年生まで通った女学校も建物は昔のままでしっかりとある。わたしはそのたびに胸が詰まった。お下げの髪をぴんぴん撥ねて駆けている生徒たちはわたしを先輩とは知らないだろう。
夏を過ごした北投の温泉宿は、今も台北駐在の日本人に愛されているという。建物に昔の面影が残っている。生死を知るよすがはないが、わたしと同年輩でよくふざけ合ったこの宿の息子たちが、その辺で遊ぶ子供たちとかさなった。わたしはタイムマシーンで少女に変身したようだった。
同行の旅行社の林素梅女史は、終わり頃には、わたしのことを人に「日本人だけど、台湾人よ」と変な紹介をした。知った人達は、この地にもう一人も居ないけれど、山も川もちっとも変わらない。東支那海に向いた青い遠浅の海岸に立てば、すっぽりとわたしを包んだ南国の空気はあたたかく甘い。この安らかさは!そうだったのか、此処がわたしの故郷だったんだ。おだやかな十二月の風の中で、ひとりわたしは頷いていた。(1993年12月)
<陳さん>
海外旅行は旅行社のツア―を利用するのが、一番安上がりと聞いたので、わたしたち二人の台北行は三泊四日、添乗員無しのフリープランというのを契約して出掛けた。フリーと言ってもツア―なので、中の半日だけは現地の旅行社のガイドによる観光の予定が組まれている。古いお寺や新しい建築物や、それに土産物店にも案内されるのである。
ちょうどこの日のツアーは私たち二人だけだったので、運転手と年配の男性ガイド付きのハイヤーで至極快適だった。「十人でもお客様。二人でもお客様」とガイド氏は言う。陳さんという名だ。
蒋介石の偉業を記念する忠正紀念堂や、民国革命や日中戦争などで命を落とした三十万余の霊を祭った国民革命忠烈祠は巨大で、以前台湾には無かった大陸中国的建築物である。一時間ごとに行われる衛兵交替の儀式が日本の観光客に人気があるのだそうだ。衛兵は立って居るとき微動だもしないので人形かと思って触ってみる者がいると、陳さんはおもしろそうに笑った。
陳さんがその衛兵交替だけを見せて、建物の中の過去の戦いの資料の展示などを案内しなかったのは、何だったんだろう。と今になって気になっている。単に観光の時間の問題だったのだとは思うが、私は昔、台湾神社(日清戦争後、台湾割譲に不満分子を平定するため派遣された軍隊の司令官北白川宮を祭神としていた。今は勿論無い)の前で拝礼する日本人を、傍で、無関心にけろりと見ていた台湾人を思い出した。おなじように日本の観光客は衛兵交替だけにしか関心をもたないことを彼は知っていたのかもしれない。
台湾は数年前までは大陸と臨戦態勢だったから道路は四通八達ひろびろとしている。当然車が多い。市中で道路の端を埋めて不法駐車の列ができていることに気が付いて、私がそれを呟いたとき、陳さんは、「蒋介石が、大陸から連れて来た連中を食わせるためですよ。そいつどもに駐車の所場代を取ることを許可してるんです。」そして、「チャンコロ奴!」と、吐き出すように言ったのである。
私は思いがけない言葉にショックを受けた。「チャンコロ」。以前、無知で傲慢な日本人が支那人や台湾人を呼んだ侮蔑語ではないか。それを、同じ漢民族どうしで、今、使うとは!わたしは察した。日中戦争が終わった時、台湾の人たちは独立の夢を実現させたかったのであろう。それなのに、意に反して、大陸から乗り込んできた蒋介石政権に押さえ付けられていることの不本意さを私は思い遣った。
先住系台湾人を別にして、戦前から台湾に本籍を置き定住している本省人と呼ばれる人々と、日本敗戦後中国各地から台湾に移住した外省人と呼ばれる人々とは不仲だと聞く。差別、言論抑圧、利権もからんで、本省人の不満が爆発した一九四七年の二・二八事件のことは私も聞いていた。蒋介石政権に弾圧されて万にものぼる死傷者が出たという。本当のところは未だに正確でないと聞いた。
考えてみれば、戒厳令が解けたのはここ数年のことで、四十年間も戒厳令下にあったのだ。世界でも例が無いのではないか。「暴動があったそうですね」 私が話しかけると、「知っていましたか」と陳さんは顔をやわらげた。「総統も副総統も今は台湾の方だそうですね」、「軍部を握れてないから同じことです」と陳さんは絶望的な口調だった。ひょっとして彼は独立運動に関係した人だったかもしれない。
陳さんは日本語が達者だ。「土産物店にお連れしますが、買いたくないなら買わないでいいのですよ。これも私の仕事でね。宮仕えでね」とくりかえしながら、薬種店や百貨店などに案内した。三国志の関羽を祭った行天宮は、昔も今も変わらず、繁盛していた。供華の玉蘭を陳さんがくれたので、私は胸につけた。いかにも南国の華らしい強烈な芳香がした。(1993年12月)
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