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2014.10.13

一休さん

Photo_2京都府京田辺市のシンボルは一休さんである。一休宗純が晩年を過ごした酬恩庵(しゅうおんあん、通称一休寺と呼ばれる)が京田辺市内に所在するので、街のシンボルとなっている。京田辺市は一休さんをあしらったグッズを作って希望者に配っている。左の写真は一休さんの貯金箱で、京田辺市役所の方から頂いたものである。

一休の生涯や思想については、司馬遼太郎「街道をゆく 第34巻 大徳寺散歩」に詳しい。江戸初期に書かれた「一休咄」で庶民の人気者になり、現代でもなおアニメになったりして世界中の子供に親しまれている。司馬遼太郎は、一休が開祖の大徳寺真珠庵塔主の山田宗敏氏から、「世界でいちばん有名な日本人は一休さんかも知れませんよ」と言われてもっともだと思ったらしい。

一休は、全く型破りの「風狂の人」として知られ、女犯、放蕩など禅僧としては禁じられていることも意に介さなかったらしい。森侍者(しんじしゃ)という恋人が生涯身辺にいたし、詩文集「狂雲集」では、室町時代の西洞院あたりの娼家のことが、彼の放蕩のおかげでよく分かるそうである。

司馬遼太郎の大徳寺散歩の中には、「一休は80歳を越えたとき、『遺誡』を書いて弟子たちに示した。要するに、『おれのまねをするな』ということであった。バーにもゆくな、娼家にもゆくな、もしそんなことをするやつは『仏法の盗賊』であり、『わが門の怨敵』でもあるぞ、というのである。」というくだりがあって、そのような一休の風変わりな人物像が紹介されている。

一休は修行時代を近江堅田の祥瑞寺(しょうずいじ)で過ごしたので、以前のウェブログ「“湖族の郷”堅田散策」の中で、司馬遼太郎の「大徳寺散歩」に出ている一休像に触れた。

  • “湖族の郷”堅田散策

    <酬恩庵(一休寺)>
    2007年から2013年まで、京田辺市の同志社大学京田辺キャンパスにある産学インキュベーション施設(D-egg)に通っていたので、その近くにある一休寺には何度か訪れた。元は臨済宗の高僧、大應国師が建てた妙勝寺が戦火で荒廃していたのを、1456(康正2)年に一休が63歳の時再興し、酬恩庵と命名した禅寺であると案内板に出ている。禅寺らしい落ち着いて静かな雰囲気の寺である。

    酬恩庵の総門をくぐると、苔に囲まれた石畳の参道が続き、両脇には楓やツツジが植えられて風情のあるアプローチである。2、3度訪れたが、いずれも新緑と真夏の時期であったので、緑が美しかったという印象しか残っていない。紅葉の季節はまた素晴らしいものと思われる。

    Photo_6 (図はクリックで拡大)
             酬恩庵総門                   酬恩庵参道

    参道を進んで行くと一休禅師の墓所がある。後小松天皇の皇子とされる一休は、1481(文明13)年に88歳で酬恩庵で生涯を終えた。従って墓所は宮内庁の管理になっていて、門扉には菊花の御紋が打ってあるので、一休さんの墓所が御陵墓としての扱いを受けているという事情を知らないと驚くかもしれない。

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            一休の墓所              一休は後小松天皇の皇子

    一休寺の境内図を見ると、一休墓所の隣に虎丘庵という建物があるが、通常は中へ入れないようである。一休が74歳の時に応仁の乱を避けて、京都東山の麓から移築したものとある。周囲の庭園は、一休に入門して侘茶の作法を完成させ、日本茶道の創始者となった村田珠光が作ったものと伝えられている。珠光の作法を受け継いだのが千利休である。

    虎丘庵の横の門からは大きな檜皮葺の屋根が見えるが、これが方丈である。方丈は、江戸時代の1650(慶安3)年に、加賀三代藩主の前田利常が大阪夏の陣で大阪に向かう途中、酬恩庵に参詣して一休禅師への崇敬の念を起こすとともに、その荒廃を嘆いて再興に乗り出し寄進したという。

    方丈は南側、東側、北側の三方が庭園となっている。南庭は白砂が敷き詰められ、一休墓所の宗純王廟と虎丘庵を背景にした借景庭園であるが、北庭は巨石や石組のある江戸初期の枯山水庭園であり、石川丈山、松花堂明乗、佐川田喜六の合作とされている。南庭は、広い方丈の縁側に腰掛けてゆっくりと見ることが出来る、

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           方丈庭園 南庭                 方丈庭園 北庭

    方丈を出て、さらに参道を進むと、本堂と記された唐風の門をくぐって本堂に至る。本堂横の案内板には「重要文化財 酬恩庵本堂 1450年建立」とあるが、酬恩庵のホームページには、当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物で、1429年から1441年の永享年間に室町幕府六代将軍足利義教公の帰依により建立されたとある。訪れたときは参道の楓の新緑が見事な季節であった。

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       目の覚めるような新緑の参道              酬恩庵本堂

    本堂の裏手が散策路になっており、一休さんの銅像や、掃除をしている少年時代の一休さんの像などが配置してある。散策路を進んで行くと、道に橋がかかっていて、「このはしわたるな」と書いた看板が傍に立っていた。いわずとしれた一休さんの頓智を示した橋である。私も一休さんに習って堂々と橋の真ん中を渡って行ったことであった。

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           一休さんの銅像               「このはしわたるな!」

    <一休さんと堅田>
    (クリックで拡大)
    Photo_89年前の2005年に、前述のウェブログ「“湖族の郷”堅田散策」をアップしてから、堅田の湖族の郷資料館の館長さん宛にお礼を兼ねてコピーをお送りしたところ、しばらくしてから左の写真に掲げた「一休さんと堅田」という小冊子が湖族の郷資料館から送られてきた。「贈呈」と朱書されており、弊ウェブログに対するお返しと思われた。堅田商工会の「一休さんのくに」プロジェクト委員会が、一休和尚の年譜や狂雲集、さらに一休関係の専門書をベースに監修され発行されたものであった。

    感激して拝読したところ、一休さんの生涯が、京の都時代、堅田の修行時代、その後の時代、に分けて記述してあって、大変わかりやすくまとめてあるので大いに参考になった。司馬遼太郎の「大徳寺散歩」である程度知識を得ていたが、さらにそれより詳細な記述になっているので、一休さんの生涯が良く把握できた。いずれ何かの機会に取り上げたいと考えていたが、今回がその機会と思うので一休の生涯に触れてみたい。

    <一休が生きた時代>
    一休が生まれた1394(応永1)年は、1336(延元1・建武3)年に後醍醐天皇が開いた吉野の南朝と、足利尊氏が光明天皇を即位させて京都に開いた北朝とが合一した1392(元中8・明徳3)年の2年後であった。この時は後小松天皇の御代で、足利三代将軍義満が室町幕府の基盤を築いた時期である。従って一休は室町時代を生き、1467(応仁1)年から1477(文明9)年まで続いた応仁の乱を経て、1481(文明13)年に88歳で示寂した。

    司馬遼太郎も室町時代について、「一休が生きた室町時代そのものが異常で、私どもの想像力ですぐさま手ざわりできるような時代ではない。室町といえば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から興っているのである。その点では、華麗このうえもなく、もし日本史に室町時代をもたなかったなら、私どもの文化はごくつまらないものになっていたろう。」と、感想を述べている。

    また、「一休が四、五歳のとき足利義満を中心とする『北山文化』の象徴というべき金閣がつくられ、彼が88年という長い生涯を閉じた翌年に、足利義政が主宰する『東山文化』の象徴としての銀閣が着工された。一休その人も、画家曾我蛇足や、茶道の創始者といわれる村田珠光、また猿楽の金春禅竹らの芸術の成立に強い影響を与えた。」と述べ、一休自身も室町文化の担い手であったと見ている。

    Photo_3 (クリックで拡大)
           一休さんを慕った文化人

    <京の都の一休さん>
    一休の母、伊予局(藤原氏・花山院某の娘)は後小松天皇の側室となって身籠ったが、南朝方の子孫であったため周囲から嫉妬を受け、宮廷を出て奥嵯峨の地蔵院で出産し千菊丸と名付けたという。北朝方からの追及を避けるため、物心ついた6歳のころに京都安国寺に預けられ、「周建」として僧侶の修行を始めた。このころから機知にとんだ受け答えで人気者になり、前述の橋を渡る話もこのころに生まれたらしい。

    この時代、禅の世界も家柄血筋自慢、出世主義の横行で最悪の環境だったらしく、失望した周建は17歳の時に純禅を求めて西山西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんおうそうい)和尚のもとにうつる。難修業を経て20歳の時、謙翁和尚から「宗純」という道号を与えられた。いわば免許皆伝である。翌年に謙翁和尚がなくなり、宗純は非常なショックを受ける。

    葬儀後、ショック状態になった宗純は、京都清水寺から峠を越えて大津へとさまよい、石山寺を経て瀬田橋のあたりで瀬田川に身を投げようとした。しかしこのとき男が現れ宗純を抱きとめて自殺は未遂に終わった。この男は宗純を心配した母の使いの者であったらしい。宗純は奥嵯峨の母のもとへいったん帰って自分を取り戻し、翌年再び禅道に身をゆだねようと嵯峨を後にしたという。

    <堅田の一休さん>
    Photo22歳の宗純が目指したのは、前述のウェブログ「“湖族の郷”堅田散策」で触れたとおり、堅田の祥瑞庵(しょうずいあん、今の祥瑞寺)の華叟宗曇(かそうそうどん、大徳寺散歩では、けそうそうどん)和尚である。華叟和尚は無欲清貧を貫く当代随一の禅僧と謳われ、謙翁和尚と同じく華美な都の禅寺を嫌ったという。宗純が漁船に寝泊まりしながら粘り強く入門を願ったという理由もこのへんにあると思われる。

    宗純はここで44歳まで修行することになるが、25歳の時平家物語の語りを聴いて華叟和尚から与えられていた公案を解き、悟りを開いたという。この時、「有漏地(うろじ)より無漏地(むろじ)へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」と詠んだところ、華叟和尚から「一休」と書かれた書を贈られた。宗純の新しい道号「一休」が誕生したわけである。左の写真が華叟和尚が宗純に与えた書で、実物が酬恩庵に残されているらしい。

    大悟して我が道を行くことに自信を得た一休は、その後、堅田と京を行ったり来たりし、病を得た華叟和尚のお供をしたりして独自の宗風をふりまいたという。

    <父、後小松天皇との対面>
    一休が父の後小松天皇と初めて会ったのは34歳の時であったという。年譜に記されているそうである。
    「1427(応永34)年 師(一休のこと)34歳。後小松帝は神器を称光帝に授けられてから後は、御心を特に師に寄せられ、特に愛せられた。それで時々召され奉答せしめられたが、帝は席から乗り出して熱心に仏道を問い、禅の話をかわされ、大いに御心にかなった。」

    後小松天皇は1412(応永19)年に称光天皇に譲位しているから、この時は上皇であったと思われる。40歳の時の記述もあるそうで、後小松帝の崩御の数日前に一休が召され、先朝の書籍や名人の草書、あるいは飛白(墨のかすれ書)を取り出して、一休に「自分はこれらの物や法の宝と共にいる」といって渡したという。余分なものはもたない一休も、これらの品は手離すことがなかったらしい。ただ母についての記述は年譜にはないという。

    一休と後小松帝が対面した頃には、師の華叟和尚はすでに湖北塩津の高源院に移っていて、一休が35歳の時になくなったという。華叟和尚は堅田へ来る前は、近江浅井郡の禅興庵に住んでいたので、終焉の地として湖北を選んだのだろうといわれている。(注:大徳寺散歩では、祥瑞寺の前身が禅興庵となっているが、本冊子では禅興庵は湖北にあり、祥瑞寺の前身は祥瑞庵である。)

    堅田での華叟和尚の葬儀の後、一休は修行を共にした皆とも別れて、13年を過ごした堅田を離れ、各地を巡り歩く放浪の旅に出ることになる。

    <その後の一休さん>
    1440(永享12) 40歳 大徳寺で華叟和尚の十三回忌をいとなむ。
    1442(嘉吉 2)  49歳 山城国譲羽(ゆずりは)山中の民家を尸陀寺(しだじ)とする。
    1455(康正 1)  62歳 「自戒集」を著し、兄弟子養叟を批判する。
    1456(康正 2)  63歳 山城国薪(たきぎ)村(京都府京田辺市)の妙勝寺を修復し、
                  大應国師の木像を安置する。近くに酬恩庵を建てる。
                  (注:現在の酬恩庵の案内板では、酬恩庵の前身が妙勝寺である。)
    1460(寛正 1)  67歳 大徳寺で華叟和尚三十三回忌をいとなむ。
    1461(寛正 2)  68歳 本願寺でいとなまれた親鸞二百回忌で初めて蓮如(46歳)と会い
                  意気投合する。
    1467(応仁 1) 74歳 応仁の乱を避けて酬恩庵で過ごすようになる。
    1468(応仁 2) 75歳 酬恩庵で森女(しんじょ、森侍者のこと)と暮らし始める。
    1469(文明 1) 76歳 応仁の乱の戦火が酬恩庵にも及びはじめたため、住吉大社の
                  松栖庵(しょうせいあん)に移り住む。
    1474(文明 6) 81歳 後土御門天皇より大徳寺仏法の中興の祖として大徳寺四十八世住持
                  となるよう詔勅が下るが、応仁の乱後の堂塔の再建には力を注いだ
                  ものの、ほとんど寺には住まず、酬恩庵にもどる。
    1480(文明12) 87歳 自作の詩をまとめた「狂雲集」を著す。
                  弟子の墨齊が彫った木像に、自分の髪とひげをぬいてうえる。
    1481(文明13) 88歳 病気が悪化、11月21日卯の刻(午前5-7時)弟子や森女にみとられ
                  酬恩庵で示寂。

    <風狂の禅僧:一休さん>
    反骨の僧、破戒と風狂の僧、宗教界の異端児などと呼ばれ、あまりその内面が知られていない一休禅師は、また頓智の一休さんとして、アニメで世界の子供に親しまれるという面白い人物である。京都と堅田で過ごした前半生の一休さんは、流行や権威に迎合し華美な禅を競う当時の仏教の堕落に怒りをぶつけ、純粋の禅を求めて謙翁和尚や華叟和尚という人生の師に巡り合うという、まさに極めて清廉潔白で純粋な行動をとってきた。

    しかし、そこで悟りを開いた一休さんは、後半生ではまるで自由人のようにふるまい、型破りの行動をし、権力におごる者やそれにへつらう者に鋭い批判を浴びせかけるという、反骨的な行動をとるようになる。しかもユーモアやインテリジェンスにあふれている一方、禅僧に禁じられている破戒行動もとるなど、常人にはなかなか理解できない人物である。

    諸説はあるが、後小松天皇のご落胤であったことを信じるとして、そのような身分であったために、特に後半生はその意識を昇華させてしまうための自己意識との闘いでもあったのだろうか。その葛藤の中に割り込んだのが、恋人である森女(しんじょ)との交流だったのかもしれない。

    Photo_2
       一休さん(酬恩庵蔵)        一休さんと森女(一休さんと堅田から)

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