松尾芭蕉の生誕の地は2つある?-三重県柘植の里-
<柘植駅>
「つげ」と読む。大学時代からの友人に柘植(つげ)さんがいるので自然に覚えてしまったが、初めての人には読みにくいかもしれない。京都駅から草津線を経由する柘植行のJRが出ているが家内は最初は読めなかったと言っていた。柘植は三重県伊賀市にある。以前は伊賀町柘植であったが、合併で伊賀市になった。中学生の頃、国鉄柘植駅の駅員さんに親切にしてもらったので国鉄シンパになったくだりは、以前のウェブログ「昆蟲放談」で触れた。
2014年5月13日に、以前勤めた会社の皆さんと四日市で飲む機会があったので、我家のある南草津→草津→柘植→亀山→四日市という、JR東海道線、草津線、関西本線を乗り継ぐ、中学生の時以来の経路を利用して四日市へ行った。柘植は草津線の終点であり、大阪と名古屋をつなぐ関西本線の途中駅でもある。中学生の時の記憶をたどってあちこち写真を撮っていたら亀山行に乗り遅れ、次は1時間後ということであった。
しかたがないので駅舎からいったん出て、向かいの創業明治23年と看板に書いてある中村屋という食堂に入って時間待ちをした。食堂の女性店主に、60年ぶりの柘植です、と話したら歓迎して下さり、関西本線の昔の写真集など見せて頂いた。またここは松尾芭蕉ゆかりの地なんですよと教えて頂いたので、では明日、四日市の帰りにまた来ます、といって四日市へ向かった。
<柘植の里探訪>
翌日の5月14日、四日市からの帰途、予定通り柘植で途中下車してまた中村屋さんに行き昼食を頂いた後、柘植の里を探訪することにした。中村屋さんから付近の地図を貰ったので、これを見ながらの探訪となった。目指すは松尾芭蕉ゆかりの万寿寺や芭蕉公園であるが、この地図の中に松尾芭蕉翁生誕宅址碑という表示を見てオヤと思った。なぜなら松尾芭蕉の生家は伊賀上野の赤坂町というところにあり、以前立ち寄ったことがあるからである。
伊賀上野の松尾芭蕉の生家には2007年2月11日に訪れており、以前のウェブログ「伊賀市上野に残る武家屋敷-入交家住宅-」で触れている。冒頭写真の左側は、その時に撮影した伊賀上野の松尾芭蕉の生家の写真である。ここ柘植の里にも生誕宅址があるとはどうなっているのだろうという疑問がわいてきた。伊賀上野の方は以前は上野市赤坂であったが、合併で柘植と同じく伊賀市になっている。つまり現在の伊賀市の中に、2つの芭蕉誕生の地があることになる。
<都美恵神社と徳永寺>
その疑問はともかく、地図に従って柘植の里の探訪を開始した。芭蕉ゆかりの地に行くまでに都美恵神社があるので、まずここを目指した。途中行き交う人もなく、店もほとんどないので聞き歩くわけにもいかない。少し方向を間違ったりしながらたどり着いたところ、鳥居から本殿までずいぶん距離のある立派な神社であるのに驚いた。
由緒書には、起源は古く2,3世紀以前ではないかと書いてある。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記の記載からわかるとのことで、この神社のもとの名は穴石(穴師)神社または石上明神ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、1644(寛永21)年の大洪水により1646(正保3)年に今の地に移されたとある。都美恵は柘植の古語であり伊勢神宮とも関係しているらしい。
柘植の古社;都美恵神社 徳川家康ゆかりの徳永寺
都美恵神社を後にして、芭蕉ゆかりの地に向かう途中、徳川家康ゆかりのお寺という看板があったので、矢印の方向に入ってみると、近くの山裾に徳永寺という寺があった。田園の中に落ち着いた雰囲気で建っている寺で、由緒には、本能寺の変で、堺にいた徳川家康が伊賀越えをして三河に帰ろうとしたときに、ここにたどり着き、時の住職が家康一行に休息の場を提供したので、後年家康から恩賞として寺領を下賜されたとある。
いがまちガイドマップには、横光利一文学碑や横光公園も出ていて、横光利一が柘植出身であることが分かるが、今回は松尾芭蕉に絞ったので行かなかった。また歴史資料館もあると出ているので、伊賀忍者のことや徳川家康の伊賀越えのことも展示してあるのかもしれない。
<松尾芭蕉の菩提寺;萬寿寺>
松尾芭蕉は伊賀上野で生まれ、終焉の地は大阪御堂筋で、墓は遺言により近江膳所の義仲寺にあるという我が常識は、柘植の里に来るとまるで通じない。柘植の里には松尾芭蕉の菩提寺である萬寿寺があり、その境内に墓もある。萬寿寺や芭蕉公園に行く坂道のふもとには、芭蕉翁生誕の地という案内板があって次のように記されている。
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
ということで、まずは松尾家の菩提寺である萬寿寺に向かう。萬寿寺は坂の中腹にあり立派な寺院である。門の横に積み重なった墓標があり目を引く。本堂の横の桃青殿と書かれた説明坂には、翁の菩提寺である萬寿寺には古くから「桃青殿」をしつらえて翁の木像と位牌を安置し住持が日々供養していたとある。「桃青殿」は本堂内にあるとも書いてあったが中ヘは入らなかった。
桃青殿の説明坂の下の方に芭蕉の墓と書いた矢印があったので、その方向に行ってみたところ芭蕉の墓碑があった。傍に立っている説明坂には、「芭蕉の祖は福地である。翁の墓碑は福地伊予守宗隆の祈願寺であった長福寺(現在の萬寿寺)境内の生家である松尾家の墓場に残され、明治末期に石の垣をめぐらし荘重にしつらえたのである。」とある。
芭蕉の墓碑には文字が彫ってあるが、かなり風化して見えない。上の説明坂には、「翁の碑は『芭蕉翁桃青庵主』と刻まれ、側面には元禄七年十月十二日としるされている。」とある。つまり元禄時代に彫られた芭蕉の墓碑が、ここ萬寿寺にずっと引き継がれてきたことになる。膳所の義仲寺との関係はどうなっているのだろうと思ったが問いかける人もいなかった。
<福地城と芭蕉公園>
萬寿寺の前の道をさらに上がって行くと、広場が現れ芭蕉翁生誕360年記念モニュメントがあって、付近一帯が俳句公園になっている。そこから山へ上がる道があるが、そこに福地城跡の標識と芭蕉公園の標識が建っていた。坂道を上がって行くと、古の福地城の立派な石垣と新緑に囲まれた道なので、大変静かで落ち着いた雰囲気でオゾン効果満点の環境である。
上り口にあった福地城跡の説明坂には、福地城は伊賀随一の中世の城郭であり、城主は福地伊予守宗隆で、日置、北村とともに柘植三方と呼ばれた当地方の国人であり、芭蕉翁の先祖は福地氏の一族であるので、この城跡を芭蕉公園と名付け、句碑および生誕碑を建てて後世にとどめることにした、という意味のことが記されている。
石垣に沿って山道を上りきると、視界が開けツツジの咲いた芭蕉公園が現れる。あちこちに句碑が建っており、さすがに芭蕉公園にふさわしい一角である。1910(明治43)年に出来た公園とのことで、中央には臍(へそ)の句碑が建っている。これは伊賀上野の生家前にも建っていた、「古里や 臍のをに泣く としのくれ」という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだといわれる句のことと思われる。
そして極めつけは芭蕉翁生誕之地と刻まれた立派な石碑である。おそらく伊賀上野と柘植とで、松尾芭蕉の本当の生誕地については論争があるのであろう。藤堂高虎のお膝下で大きな城下町である伊賀上野に対して、ここ柘植の里が所属する伊賀町は松尾家の本拠地であるという自負があるだろうから、芭蕉の出生地については譲れないという思いがあるのかも知れない。
探訪に出る前に、中村屋の女性店主に芭蕉は伊賀上野で生まれたのだと思ってました、と申し上げたら、芭蕉は柘植で生まれたのですが、生まれて直ぐ、赤子の間に上野に連れていかれたそうですよ、と仰っていた。柘植ではこの説が一般的なのであろう。といって伊賀上野に行ったときはこんな論争があるとは露知らなかったから、上野の人がどう言ってるのかは分からない。
<芭蕉翁誕生宅阯碑を探す>
ということで、今回の探訪の最大のスポットになった芭蕉の誕生宅阯碑を探しに行く。地図では簡単であるが結構分かりにくく、庭木の手入れをされていた男性に教えてもらってようやくたどり着いた。冒頭写真の右側に示したように、そんなにたて込んでいない住宅地の路地の一角の広場に石碑や立看板が建っていて、電柱に「芭蕉生誕宅阯碑ココ」と掲示がしてあったのですぐに分かった。
立看板の片方は、石碑の由来や芭蕉の先祖と父の業績を示す説明坂になっており、「この碑は当家の裏庭にあったのをここに移した」と書いてある。かなり古そうな石碑で、碑には「芭蕉翁誕生宅阯」と刻んであるので、芭蕉が有名になった後、ここが生誕地であることを示すために作られたのかもしれない。
芭蕉翁誕生宅阯への案内板 芭蕉翁誕生宅阯石碑
(クリックで拡大)
芭蕉翁誕生宅阯説明坂
<松尾芭蕉の生誕の地>
帰ってからウィキペディアで松尾芭蕉の生誕の地を調べてみたら、「伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 」とある。
つまり中村屋の女性店主の見解はほぼあたっていて、柘植の人たちは芭蕉誕生が先だと考えているということであろう。一つ勉強したなと思っていたら、2014年7月10日発行の日本経済新聞「にっぽん途中下車」というコラムに、櫻井寛さんというフォトジャーナリストが「忍者電車で芭蕉の故郷へ」という記事を書いておられるのを見つけた。同じ経験をされていたので面白く拝読した。一部を引用する。
「今年は松尾芭蕉翁生誕から370年。生誕の地、伊賀市では様々な記念事業が行われている。そこで生誕の地を訪ねる旅に出ることにした。ところが生誕の地は、同じ伊賀市内でも旧上野市の赤坂説と旧伊賀町の柘植説の2説あることがわかった。もちろん両方とも行ってみたい。」
「芭蕉公園に向かうと『芭蕉翁生誕之地』の石碑が建っていた。公園に隣接する万寿寺は松尾家の菩提寺で、そこから500メートルほど先の集落には松尾家が現存し、『芭蕉翁誕生宅址』碑があった。松尾家の住人はあいにく不在だったが、通りかかったご老人に話を聞けば、『芭蕉さんが生まれたんはここ伊賀町柘植。上野市の家は修行の場よ。』と、きっぱり言われた。」
「忍者列車に揺られること7分で上野市駅に。2004年11月1日に上野市は伊賀町などと合併し伊賀市となったが、駅名は上野市のままである。駅頭の芭蕉翁像を拝みつつ赤坂町の生家へと向かう。建物は改変を余儀なくされていたが、格子構えの町家の軒先に『芭蕉翁誕生之地』碑があった。柘植との違いは「生誕」と「誕生」のみ。」
なお、松尾芭蕉の墓についても少し調べてみたが、滋賀県大津市膳所の義仲寺以外に、終焉の地である大阪には弟子たちにより四天王寺、浄春寺、円成院、梅旧禅院に建てられたとある。松尾家の菩提寺である萬寿寺には、松尾家の関係者や一族によって墓碑が建てられたのであろう。
<日本の原風景の残る関西本線>
ところで、中学生の時に乗った関西本線柘植ー亀山間はもちろんSLの時代で単線運転であったが、今でも気動車にかわっているものの単線運転なので、1時間に一本くらいのペースである。この区間の景色を車窓から見ていると、とても60年間の歳月が経過したとは思えず、日本の原風景が通り過ぎてゆくので、しばし時を忘れてしまうほどである。
5月14日に亀山から柘植までの間、車窓から景色をパチパチ撮ったので、以下にその一部を掲載して本篇を終わる。
関西本線(亀山-関間) 関西本線(関-加太間)
関西本線(加太) 関西本線(加太ー柘植間)
関西本線(柘植近くの大杣湖) 関西本線(柘植の手前)
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