« 続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る- | Main | 松尾芭蕉の生誕の地は2つある?-三重県柘植の里- »

2014.06.04

続々・志賀の都探訪-古の大友郷を巡る-

Kashi (クリックで拡大)
            「琵琶湖周航の歌」の歌碑(滋賀県大津市三保ケ崎)

<志賀の都の四つの寺院>
「琵琶湖周航の歌」の一番の歌詞に出てくる「志賀の都」のことである。前編のウェブログ「続・志賀の都探訪-幻の都『大津京』を掘る-」で、幻の都といわれ、その所在地をめぐって長期間にわたって論争が繰り広げられてきた近江大津宮を見つけ、発掘した担当技師の林 博通先生の著書から、大津市錦織(にしこおり)での近江大津宮の奇跡的な遺跡発見や発掘に至るドラマチックな経緯に触れた。

  • 続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る- 

    近江大津宮の入口にあたると推定される第8地点に、この近江大津宮とともに志賀の都を形作っていた寺院のことにも触れた説明板が立っていて、すぐ横を通る近江神宮へ向かう道路が、かつては近江大津宮の南北中軸道路であり、近江大津宮と同じ時代の遺跡である崇福寺(すうふくじ)跡や南滋賀町廃寺跡につながっているとある。

    Nishikori8chiten1 (クリックで拡大)
             史跡近江大津宮錦織遺跡第8地点の説明板

    志賀の都には近江大津宮とともに、崇福寺と南滋賀町廃寺を含めた4つの寺院が建立されていたという。南から順に、園城寺(おんじょうじ)前身寺院(現在の三井寺)、南志賀町廃寺、崇福寺(すうふくじ)、穴太(あのう)廃寺である。それぞれの寺院跡の発掘調査から、これらの4つの寺院には近江大津宮時代、あるいはその前後する時期の瓦が用いられていることが分かったので、近江大津宮とともに志賀の都を構成していたと推定されている。

     志賀の都(滋賀県文化財保護課資料を改編)(クリックで拡大)
    Shiganomiyakomap1_2つまり、これら4つの寺院は左の地図に示したように、近江大津宮を囲むように建立されているので、4つの寺院は志賀の都の中心であった近江大津宮を守護する役割を担っていたのだろう、と林先生は指摘されている。

    志賀の都は、上記の第8地点に立っている説明板の航空写真からもわかるように、比叡山地と琵琶湖に挟まれた南北に細長い平坦地の上に造られていたと思われるので、これら4つの寺院の位置から志賀の都の範囲が、北は穴太廃寺のある穴太や唐崎付近から、南は園城寺前身寺院のある現在の三井寺付近になると想定されるという。

    ただ地質学的調査からは、近江大津宮時代の湖岸線はもっと山側へ入りこんでいたと推定されており、穴太廃寺や近江大津宮は、湖岸もしくは湿地帯が迫っていた地域に建っていたと推定されるので、実際の滋賀の都は上記説明板の航空写真よりずっと狭かったようである。

    上述の4つの寺院のうち、園城寺(三井寺)と崇福寺跡には9年前にも訪れ、坂本の寺院群とともに以前のウェブログ「志賀の都探訪」で触れた。園城寺についてはこのウェブログでも触れたように、志賀の都時代に創建されたといわれる大友村主寺と呼ばれる前身寺院跡が、瓦の出土状況などから、現在の園城寺の下層に確実に存在すると考えられているらしいが、寺院跡の発掘にまでは至っていないようである。

  • 志賀の都探訪

    また9年前に訪れた滋賀里の崇福寺跡は、志賀山の3か所の尾根にある遺跡のうちの1つだけで、他に2か所あることも分かった。そこで今回はまだ現地探訪していない南滋賀町廃寺と穴太廃寺のある南滋賀と穴太、および滋賀里の志賀山中の3尾根にある崇福寺跡を、志賀の都探訪の仕上げとして、2014年4月10日と5月のゴールデンウィークに訪れてみた。

    <南滋賀・滋賀里・穴太・坂本界隈>
    上図に示されるように、志賀の都の史跡はびわ湖の西岸を走る京阪電鉄石坂線(石山-坂本)やJR湖西線に沿って所在している。京阪石坂線で浜大津から坂本へ向かうと、三井寺(園城寺)、別所(大津市役所や大津市歴史博物館)、皇子山(JR大津京、旧西大津)、近江神宮、南滋賀、滋賀里、穴太(JR唐崎)、松の馬場、坂本(JR比叡山坂本)と駅があり、志賀の都を南端から北端まで縦断していることが分かる。

    ご存知の通り司馬遼太郎の「街道をゆく」は、大津を起点とした「湖西のみち」から始まっているが、まさにこの道である。京都から近江を通って北陸へ抜けるこの道は、奈良時代以降は北陸道と呼ばれて律令時代の七道(他の六道は東海道、東山道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)の1つに数えられた。江戸時代には大津札の辻から敦賀へ向かうこの道は北国海道と呼ばれていた。明治以降は西近江路という呼称が定着している。

    Hokkokukaido
                    穴太から坂本付近の北国海道

    この道をさらに北上すると、堅田、真野、小野、和邇(わに)といった古代の真野郷になり、さらに志賀や高島に至る。真野郷や志賀・高島を通る西近江路については、以前のウェブログ「湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る-」で触れた。今回は古代には大友郷と呼ばれた南滋賀、滋賀里、穴太、坂本界隈を巡ることになる。

  • 湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る-

    <近江大津宮所在地の有力候補だった南滋賀と滋賀里>
    そもそも近江大津宮が、錦織ではなく南滋賀や滋賀里に所在するという説が生まれた原因は、平安時代に書かれた扶桑略記の記述である。この書に、天智7(668)年、天智天皇の勅願により大津宮の乾(いぬい:北西)の方角に崇福寺が建立されたとあることから、志賀寺とか志賀山寺の別名を持つこの崇福寺という寺院の所在地が、近江大津宮の所在地探求の決め手になるとして古くから注目されていた。

    滋賀里から京都へ向かう志賀坂越えの道を少し志賀山中に入ると、伝崇福寺址と伝えられる遺跡があることは知られており、その巽(たつみ:東南)方向に滋賀里や南滋賀が位置することと、実際に滋賀里には宮の内とか蟻の内という地名があることから、近江大津宮は滋賀里にあるという説が生まれた。また南滋賀には、南滋賀町廃寺跡があって近江大津宮と同時代の古瓦が出土することから、ここが近江大津宮ではないかという南滋賀説も生まれた。

    さらに別の手がかりとして、続日本紀の768(延暦5)年に「近江国滋賀郡にはじめて梵釋寺(ぼんしゃくじ)を造る」という記述があり、その後815(弘仁6)年に嵯峨天皇が韓崎(からさき:唐崎)、梵釋寺、崇福寺を遊行した記録があるという。つまり平安時代に桓武天皇が建てた梵釋寺が、志賀の都時代に天智天皇が建てた崇福寺の近くにあることを示唆するので、梵釋寺の所在地も近江大津宮探しに絡むことになる。

    昭和に入り、考古学的実証手法が歴史学の有効な手段として評価されるようになった。考古学者の肥後和男による1928(昭和3)年の調査と、芝田実による1938(昭和13)年の調査の2度にわたり、近江大津宮探索の一環として、南滋賀の南滋賀町廃寺跡と、滋賀里志賀山中の伝崇福寺址の発掘調査が行われた。田辺昭三著の「よみがえる湖都」にその発掘調査の詳細や紆余曲折が記されている。

    これら発掘調査の記録も頭の片隅に置きながら、南滋賀から滋賀里の地を南から北へと訪ねることとする。

    <南滋賀町廃寺跡界隈>
    錦織の近江大津宮遺跡を見た後、近江神宮を抜けて南滋賀地区に入り、ぶらぶら歩いてゆくと南滋賀町廃寺跡公園に至る。4月10日に訪れたときは、まだ桜が散っておらず提灯がぶら下がっていた。琵琶湖が見渡せる絶好の位置に史跡南滋賀町廃寺跡と刻まれた石碑が建っている。

    Minamishigachohaiji
       史跡南滋賀町廃寺跡の石碑             勧学堂礎石

    公園の隣のあまり整備されてない空き地が駐車場になっており、その南側に小高い丘があり石碑が立っているのでよく見ると、勧学堂礎石と刻んであるように読める。丘の上に礎石がどんと座っているので、これがその勧学堂の礎石と思われたが、どこにも説明板がないので詳細は不明である。公園の入り口には国指定史跡南滋賀町廃寺跡と書かれた案内板が立っている。

    この中で大津市教育委員会が発掘調査の結果や崇福寺と梵釋寺との関係も説明している。その説明によればこの寺は崇福寺とも梵釋寺とも考えられていたが、扶桑略記や日本後記の記述から、同時に調査された志賀山中の寺院が崇福寺である妥当性が高いこと、梵釋寺は崇福寺に近接していたと見られることから、この寺院跡は南滋賀町廃寺という逸名の寺院跡になっているとある。

    Minamishigachohaiji (クリックで拡大)
                  南滋賀町廃寺跡の案内板

    案内板の最後に、この寺で使用した蓮華紋方形軒先瓦(通称サソリ瓦)や蓮華紋軒丸瓦を焼いた瓦窯群が300m西方の榿木原(はんのきはら)遺跡で見つかったとあるので、その遺跡を探しに歩いて行くことにしたが、比叡山方向に行くのでかなりの坂道である。

    <榿木原(はんのきはら)遺跡>
    坂道を上って行くと、京都と大津を結ぶ比叡山の山中越の大津側の登り口に達した。山中越は百回くらいは車で往復した道であるので、こんなところに古代の遺跡があるのかと、いささか不審に思って周りを見まわしていると、近年この下方に開通した西大津バイパスを見下ろす防護柵に榿木原遺跡という手書きの看板がかかっているのが見えた。さらに遠くの方に赤屋根の建造物が見える。

    これこれと思って、そこから西大路バイパスの側面に下りて赤屋根の建造物に近づくと、日本最古のサソリ瓦を焼いた登窯と書かれた看板がかかった登窯が見えた。つまり上述の南滋賀町廃寺跡の案内板に見られる蓮華紋方形軒先瓦(通称サソリ瓦)が、この登窯で焼かれたということらしい。登窯の傍まで行くと榿木原遺跡の説明板も立っていた。

    Hannokiharaiseki
           榿木原遺跡の表示         日本最古のサソリ瓦を焼いた登窯
    Hannnokiharasetsumei (クリックで拡大)
                       榿木原遺跡の説明板

    説明板によると、榿木原遺跡は1975(昭和50)年から1978(昭和53)年にわたる3度の発掘調査で近江大津宮時代(662-667)の瓦生産遺跡であることが判明したとある。つまり近江大津宮の発掘調査が1974(昭和49)年から始まり、国の史跡に指定されたのが1979(昭和54)年であるから、榿木原遺跡も同時期に発掘が進んでいたわけで、このような瓦窯が発見されたことは近江大津宮の所在地確定にも寄与したのであろう。

    この遺跡の瓦窯群は、志賀の都時代の登窯が5基、奈良~平安時代の平窯が5基が入り混じって存在していたが、遺存状態の良好な登窯1基はバイパス建設で現地保存が困難なため、そっくり切り取ってここに移して保存したらしい。西大路バイパスを通る車には県外からの水泳やスキーなどのレジャー目的の車が多いが、心して通行して欲しいものである。

    <南滋賀の瓦屋さん>
    南滋賀の町は東は湖畔に近いから低地であるが、京阪電鉄の線路を越えて西に向かうと比叡山地の山裾になるのでかなり坂を上ることになる。従って榿木原遺跡や南滋賀町廃寺跡あたりからは琵琶湖が良く見えるし、南滋賀の駅に向って下って行く途中でも民家の屋根越しに琵琶湖が良く見える。文末に掲げた写真は榿木原遺跡の直ぐ上の山中越の道から撮ったものである。

    周囲はほとんどが住宅であるが、ところどころに歴史を感じさせる民家がある。その一軒の屋根に鬼瓦がいくつも載っている民家を見つけた。側溝の上にも瓦が積み上げてあるので瓦屋さんらしい。場所が場所だけに志賀の都から続く由緒ある瓦屋さんかと思って眺めていると、タイミング良くご主人らしい男性が帰ってこられたのでその旨伺ってみたら、笑いながらそんなもんじゃありません、とのことで、たまたまここで瓦屋をやってるとのことであった。

    Kawayawa
        南滋賀で見かけた瓦屋さん         琵琶湖がみえる南滋賀の町

    <正興寺に梵釋寺奮趾の石碑>
    田辺昭三著「よみがえる湖都」には、「この南滋賀町廃寺の公園の周辺一帯は、もともと寺域内であり、かつて付近の住宅の庭や床下まで調査を行っている。寺域内の住宅には、寺院跡の礎石を石垣や庭石に利用している例もあった。」とある。そして南滋賀廃寺の北限には正興寺があり、門前には「梵釋寺奮趾」の石柱が建っている、ともある。

    そこで正興寺を探して公園の周辺を歩いてみたら、ちょうど山中越からおりてくる道を挟んで、榿木原遺跡の反対側に正興寺という表札の寺院があった。このあたりは6世紀に半島からの渡来人が集住した福王寺古墳地帯であり、紀貫之を祀る福王寺神社がすぐ傍にある。また大伴黒主を祀る大伴神社も傍にあって、国道建設のため昭和48年にこの地域に移転してきたとある。

    ウェブ検索すると、「正興寺は南滋賀廃寺の金堂跡にあり礎石がある」と出ている。門前には梵釋寺の石柱が見あたらなかったが、門を入ってみるとすぐ右手の一角に「梵釋寺奮趾」と刻まれた石碑が、礎石や鬼瓦とともにたしかに安置してあった。ただ田辺氏の著書に出ている写真とはかなり門前の様子が違うので、正興寺自体が新しく建て替えられたのかなと思ったが知識がない。

    Bonshakujisekihi_2
       南滋賀町廃寺跡近くの正興寺           梵釋寺奮趾の石碑 

    前述の南滋賀町廃寺跡案内板に記載されていたように、一時期は梵釋寺が南滋賀廃寺とされたこともあったが現在では否定されているので、この正興寺に梵釋寺奮趾の石碑がなぜ残っているのかは謎なのであろう。そのことに関する説明坂などは見当たらなかった。

    <崇福寺跡へ向かう>
    南滋賀町廃寺跡から左手に西大津バイパスの防音壁を見ながら田園地帯をさらに北へ歩いてゆくと滋賀里に入る。地元の人が百穴川と呼んでいる川沿いに東海自然歩道の志賀坂越えの道を西方の志賀山に入ってゆくと、6世紀ごろから半島からの渡来人が集住したといわれる百穴古墳群遺跡や室町時代に道中安全を祈って建立されたとされる志賀の大仏を経て崇福寺跡に至る。

    Kofunshiganodaibutsu
          百穴古墳遺跡の入り口              志賀の大仏

    <崇福寺は志賀山の3つの尾根に>
    1928(昭和3)年、肥後和男チームによって谷を隔てて南北に並ぶ3つの尾根の伝崇福寺址の発掘調査が行われた結果、北尾根、中央尾根、南尾根の3か所の尾根のそれぞれに伽藍(建物)が造営されていたことが判明し、扶桑略記の崇福寺縁起の記録から、北尾根に弥勒堂、中央尾根に塔と小金堂、南尾根に金堂と講堂が建てられていたと推定された。

    さらに1938(昭和13)年の柴田実チームによる発掘調査で、中央尾根の塔跡の心礎の穴の中に仏舎利に見立てた水晶3粒が納められた仏舎利容器と荘厳具が発掘された。これらは一括して国宝とされ近江神宮が所蔵していることは以前のウェブログ「志賀の都探訪」で触れた。さらにこの調査では北および中央尾根の建物と、南尾根の建物との間に少し方位のずれがあることも判明した。

    Sufukuji (クリックで拡大)
        伝崇福寺址の復元図(大上直樹復元制作)

    つまり、この方位のずれを発見したことによって、北尾根及び中央尾根の建物は創建時の崇福寺の遺構であり、南尾根のそれは後から付け足した建物であることがわかったのである。北尾根と中央尾根から出土する瓦、仏像などの遺物も白鳳期にさかのぼるものがあるので志賀の都時代の創建と推定できるとのことである。現在は、南尾根の建物群は桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釋寺とする説が有力らしい。

    <南尾根に崇福寺奮址の石碑>
    滋賀の大仏を通り過ぎて山道を上がって行くと、東海自然歩道の看板や崇福寺跡の案内板が現れる。道の分岐点に、金堂・塔跡は直進、弥勒堂は右との案内標識がある。直進すると左手に崇福寺跡への案内標識が出てくるのでそこから左の山へ入る坂道を登って行くと、しばらくして急に視界が開けて南尾根の金堂・講堂跡の広場に達する。

    この広場には、金堂・講堂跡などの礎石とともに、9年前にも見た「崇福寺奮址」と刻まれた石碑が柵に囲まれて建っている。広場の入り口に崇福寺跡の案内板が立っており、南尾根の建物の説明に加えて、前述した3つの尾根の建物の特徴と比較、および南尾根の建物は梵釋寺にあてる説が有力等の説明がしてある。さらに崇福寺は平安時代までは隆盛を誇っていたが、延暦寺の山門と寺門の争いに巻き込まれて衰退し、鎌倉時代後期に廃絶したとある。

    Sufukujisouth
         崇福寺南尾根への登り口            崇福寺奮址の石碑
    Sufukujisouthsetsumei (クリックで拡大)
                     南尾根にある崇福寺跡の説明坂

    <中央尾根の小金堂・塔跡と北尾根の弥勒堂跡>
    南尾根からいったん崇福寺跡の標識の場所に戻り、今度は左折せずに直進し谷を渡ってまた山道を上って行くと、中央尾根の小金堂・塔跡の広場に至る。あるいは弥勒堂の方へ向かい、谷を渡って山道を上がっていくと左手に小金堂・塔跡の案内標識が現れるのでそこの急坂を上がって行っても良い。そのまま通り過ぎて行くと、今度は右手に弥勒堂の案内標識が現れるので、ここの坂を上り切れば東尾根の弥勒堂跡の広場へ出る。

    小金堂・塔跡の広場へは4月10日に行ったので、まだヤマザクラが山中にひっそりと咲いており、1300年前もかくやと偲ばせる風情であった。このヤマザクラの傍の塔跡から、76年前の昭和13年に、前述した舎利容器などの国宝が見つかったわけである。その模様が広場の片隅に立っている崇福寺跡の説明坂に、写真とともに詳しく記されている。

    Northcentral
       中央尾根の塔跡に咲くヤマザクラ         北尾根の弥勒堂跡
    Centralsetsumei (クリックで拡大)
       中央尾根の小金堂・塔跡および塔の心礎から発掘された仏舎利の説明板

    田辺氏の著書「よみがえる湖都」には発掘の時の一大事件が記されている。柴田チームで心礎の発掘を行った凄腕の測量技師がついに舎利容器を発見したのだが、金銀の遺物に目がくらんだのか何の記録も残さずに取り出してしまった。さらに一部を私蔵した疑いがかけられ、ことは皇室に関係することから警察や関係者による躍起の捜査が行われ、ついに隠匿していた鏡と銀銭が見つかり事件は一応落着したという。

    林 博通技師の近江大津宮の発見と発掘にも大変なドラマがあったことは前編で触れた通りであるが、それよりも36年前の伝崇福寺址の発掘の時にも、天智天皇の皇室につながる宝物が発見されたが、一部が隠匿され、それを取り戻したという大ドラマがあったわけである。宝探しの小説は多いが、考古学はまさに宝探しのための学問かも知れない(従って隠匿や捏造事件も発生する)。

    <穴太(あのう)界隈>
    志賀の都探訪の仕上に滋賀里のさらに北に位置する穴太の地に入る。以前のウェブログ「志賀の都探訪」にも触れたように、穴太は石垣の町である。今、兵庫県の但馬地区にある天空の城「竹田城」の石垣の修復に、穴太衆の末裔である「栗田建設」の栗田氏が携わっておられるが、穴太積みのルーツは6~7世紀に穴太で横穴式古墳群を築造した渡来人の野づら石の乱積みという技法に遡るという。 

    穴太には近江大津宮よりさらに古い歴史が伝えられている。日本書記巻の第七の景行天皇40条に「近江國に幸(いでま)し、志賀に居(ま)しますこと三歳なりき。こを高穴穂(たかあなほ)の宮と謂ふ。」という記述がある。従って穴太には高穴穂宮趾と、その内裏跡に建つと伝わる高穴穂神社がある。

    しかし高穴穂宮趾は発掘しても存在が確認できておらず、あくまで伝説にとどまっている。穴太で実際に存在が確認されたのは、近江大津宮と密接に関係するとみられる穴太廃寺である。穴太廃寺跡は西大津バイパスの建設工事に先立って発掘調査されたという。穴太散策の最初に穴太廃寺跡を探すこととした。

    <穴太廃寺跡は西大津バイパスの高架の下>
    ウェブで穴太廃寺跡を検索すると、京阪穴太とJR唐崎の間の西大津バイパスの辺りで、どちらかといえばJR唐崎に近い。そこでJR唐崎前に車を置いて西大津バイパス付近を徒歩で探り、何かの表示がないかと見まわすのだが見当たらない。住宅地を抜けると一面雑草に覆われた広い敷地が現れたので、何やら遺跡の匂いを感じて見まわしたところやはり看板がポツンと立っていた。

    Anohaiji_2
       野原にポツンと立っている案内板     高架下の発掘されたと思われる辺り
    Anohaijisetumei (クリックで拡大)
                       穴太廃寺跡の案内板

    付近で農作業をしていた年配の男性に穴太廃寺跡のことを聞いてみたところ、今は案内板以外は何もないが、そのうち史跡公園にするみたいだよと仰っていた。西大路バイパスは当初地面に直接造る計画だったが、穴太廃寺の遺跡の真上なので高架になったそうだよ、とも仰っていた。西大津バイパスを挟んで東西に広がる大きな敷地に遺跡が広がっているらしい。

    案内板には穴太廃寺跡からは2時期の寺院の伽藍が見つかっているとある。すなわち創建時と再建時の2つの伽藍が重複して検出されていて、主軸が異なっているとのことである。再建伽藍の方は錦織の近江大津宮の遺構群とほぼ同じ方位なので、穴太廃寺は志賀の都建設に伴い、急きょ方位を都市計画に合わせて造営し直したものと想定されているらしい。

    <旧北国海道沿いの高穴穂神社>
    穴太廃寺跡を見た後、JR唐崎に戻って車で京阪穴太方面に向かうことにした。西大路バイパスの高架をくぐって穴太に向かう街道に入ると、道幅は狭いが落ち着いた歴史を感じさせる街並みが続く。坂本の日吉馬場まで続く旧北国海道である。途中、左手に高穴穂神社と刻まれた石碑が見えたが、雨も降ってきたのでその日は帰宅し、後日の5月3日に電車で再訪した。

    5月3日は好天に恵まれ、しかも運が良いことに、たまたま高穴穂神社の春の例大祭の日であった。街道沿いの家々は一斉に高穴穂神社奉納の幟と御神燈の提灯を掲げている。小さな広場で可愛らしいお稚児さんがお父さんと並んでこれから祭りに出かけようという雰囲気だったので、写真を撮らせてもらって良いか尋ねたところOKを頂いた。同じ大津市でも新興住宅街では今や見られない光景である。

    Omatsuri
          幟と提灯を掲げた民家             お祭り装束の父子

    高穴穂神社は春の例大祭とあって祭り一色であった。参道には高穴穂神社奉納の幟がひしめきあい、拝殿には奉納された立派なお神輿が飾ってある。境内にもお神輿が置いてあったから、いずれこれを担いで練り歩くのであろう。鳥居横の氏子一同による伝承を記した説明板には、景行天皇が高穴穂宮を設けて3年、成務天皇が61年、仲哀天皇が半年いたと記してある。

    大津市歴史博物館のウェブには、「穴太一丁目にある。祭神は景行(けいこう)天皇。伝えでは景行天皇が高穴穂宮に遷都の後、次の仲哀(ちゅうあい)天皇が先帝の遺徳を偲び宮中に前王宮としてまつったのが始まりという。高穴穂宮は大津で最初の都と伝えられ、本殿の背後には、高穴穂宮の跡碑が建つ。」とあり、成務天皇は入っていない。

    本殿の裏側が穴太の森になっていて、鬱蒼とした森の奥に高穴穂宮趾の石碑が建っている。傍らに元帥伯爵東郷平八郎謹書入と刻んである。景行、成務、仲哀各天皇は架空説もあるから、高穴穂宮が実際に存在したかどうか、真偽はよくわからないということであろう。

    Takaanaho
             高穴穂神社                高穴穂宮趾の石碑

    <崇福寺の旧仏を護る盛安寺>
    高穴穂神社からさらに北へ進むと坂本1丁目に入り、西教寺の末寺である盛安寺に至る。坂本の西教寺は真盛上人が開いた天台真盛宗の総本山であり、以前のウェブログ「志賀の都探訪」でも触れた。盛安寺は、西教寺や日吉大社のある坂本の中心地とはかなり離れているが、穴太積みの壮大な石垣の上に建っており、街道を行く人の目を捉えたに違いない。

    盛安寺には、崇福寺の旧仏とされる十一面観音像が伝わっている。なぜ、いつ頃ここに伝わったのかは不明であるが、住職は、信仰厚い里人らが観音堂を建てて荒廃した崇福寺から移してお守りしたのでは、と仰っているらしい。辻を挟んだ場所に観音菩薩堂があり、以前はここにあったが老朽化のため収蔵庫を建てて、現在はそこに安置してある。この日は運よく扉の開く日だったので間近に拝顔することができ、撮影も可であった。

    Seianjikannon
         天台真盛宗 盛安寺          崇福寺旧仏と伝わる十一面観音
    Kannontoro
             観音菩薩堂                崇福寺と刻まれた灯篭

    さらに盛安寺にはもう一つ崇福寺とのつながりがあった。収蔵庫前の灯篭のさおに「崇福寺」という文字が残っているというのである。左右の灯篭のさおを目を凝らしてみると、向かって右側の灯篭にはたしかに「崇福寺」と文字が刻んであるのが見えた。盛安寺のあるここ穴太と坂本の境界地区は滋賀里の崇福寺からさして遠くはないので、観音様や灯篭を運ぶことは十分可能と思われた。

    <琵琶湖周航の歌の「志賀の都」はどこ?>
    学生時代から琵琶湖周航の歌を良く歌ったので、歌詞1番の♪志賀の都よ いざさらば♪に歌われている「志賀の都」は昔からどんな都だったのか気になっていた。作詞者の小口太郎は1917(大正6)年に、三高ボート部の琵琶湖周航中に今津の宿でこの歌詞を披露し、当時の流行歌(ひつじ草:吉田千秋作曲と後に判明)の節にのせて歌ったのが始まりであったことは、以前のウェブログ「琵琶湖周航」で触れた。

  • 琵琶湖周航

    小口太郎は「志賀の都」を歌詞に入れたときは、どこをイメージしていたのだろうか。♪昇る狭霧や さざなみの♪の次に「志賀の都」が来ているので、「志賀」の枕詞(まくらことば)である「さざなみ」の次に「志賀」をもってくるという至極まっとうな言葉使いなので、昔からの言い伝えを素直に表現していると思われる。となると明治の中頃まで定説であり、明治28年に志賀宮の石碑まで建った錦織近辺をイメージしていたと考えるのが妥当であろう。

    しかし前編で触れたように、地元の郷土史家であった木村一郎が滋賀里説を唱えたのが1901(明治34)年で、歴史学界の大御所の喜田貞吉がそれを支持したのが1910(明治43)年頃である。従って小口太郎の歌詞が世に出た1917(大正6)年頃は、学界ではどちらかというと滋賀里説が優勢であった時期である。小口太郎がイメージした志賀の都はひょっとしたら滋賀里だったかも知れない可能性はあるのである。

    というくだらない疑問を持ったが、素直に考えてみれば、小口太郎がイメージした「志賀の都」は、やはり三高のボート部の艇庫があった大津港(浜大津)近辺であろうと考えるのが妥当という答に思い至った。琵琶湖周航の歌の一番の歌詞の歌碑は、三高の艇庫があった大津港の直ぐ近くの三保ケ崎に建っていると聞いていたので、ここも訪れて見た。少しわかりにくかったが、大津港の北を流れる疎水で隔てられた対岸の林の中にあった。

    Biwakoshukokahi
      一番歌詞「われは湖の子」の歌碑      三高&神陵と書かれた艇庫

    このあたりは観音寺という地区らしく、国道161号線の観音寺の交差点を湖側に行けば右手の林の中に歌碑がある。現地に行って驚いたが、三高&神陵とペンキで書かれた古ぼけた艇庫がまだあったのである。ただ、その下にはヨットクラブと書いてあるので、京大のヨット部が今も使っているのかもしれない。隣に壊れかけた車庫があり、それほど古くはない車が置いてあったので、誰かが車を置いてヨットに乗っていったのかと思われた。

    ここから園城寺(三井寺)は目と鼻の先であり、近江大津宮錦織遺跡も近い。林先生の発掘で遺跡の所在が錦織であることが明らかとなった今、古くからの言い伝えのとおり歌われてきた琵琶湖周航の歌も、結果的に史実の通り歌えているということであり、何となくホッとした。

    ということで、一連の志賀の都探訪は終わった。その後672年に勃発した、大友皇子と大海人皇子の対立による壬申の乱によって志賀の都は壊滅するわけであるが、「大津市に残る壬申の乱伝承の地」については、以前のウェブログで触れた。

  • 大津市に残る壬申の乱伝承の地

    <後日談:お稚児さんの写真が無事届いた!>
    穴太の高穴穂神社の例大祭のあった日に、可愛らしいお稚児さんの写真を撮ったことは前述したが、写真の中にI酒店という看板が写っていたのでネットで確認したら、確かに穴太にI酒店があった。そこで事情を書いて写真をお送りしたら、女性の声で、着きました、とのお電話を頂いた。お稚児さんのそばに座っておられたおばあちゃんとのことであった。

    お稚児さんやおばあちゃんがI酒店の方とは知らなかったが、酒屋さんだとお店に来るお客さんをよくご存知だろうから、写真を見たら写っている方に渡して頂けるかもしれないとの淡い期待でお送りしたのだが、ちょうどその酒屋さんのご家族であったので手間なく届いて幸いであった。

    Photo_2 (クリックで拡大)
           南滋賀の榿木原遺跡の上から望む琵琶湖、対岸に三上山(近江富士)

  • |

    « 続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る- | Main | 松尾芭蕉の生誕の地は2つある?-三重県柘植の里- »

    Comments

    The comments to this entry are closed.