続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る-
(図はクリックで拡大)
近江大津宮錦織遺跡の説明板(滋賀県大津市錦織2丁目)
<幻の大津京>
以前のウェブログ「幻の大津京」で、JR湖西線の駅名になった「大津京」という呼び方は古代文献にはなく、日本書紀などでは「近江大津宮(おうみのおおつのみや)」や「近江京(おうみのみやこ)」が用いられているのみで、大津京という呼称は明治になってからの造語であり、学術的には正しくないと習ったことを紹介した。
また、京(きょう)という言葉は、学術的には律令政治の下で造営された条坊制の区画(碁盤の目)をもつ都と定義されており、歴史的には持統天皇の藤原京以降とされていることや、明治の歴史学者である喜田貞吉が近江の都にも条坊制区画が存在したであろうと考え「大津京」と呼んだものの、条坊制区画の遺構は見つかっていないので現在では「京」とは呼べないとされていることを学んだ。
ただJR湖西線の駅名変更については学者間の論争はあったものの、結果的には、町おこしや地域振興の一環であるという理由で「大津京」が通り、JRの「西大津」駅は2008(平成20)年3月から「大津京」駅に改名された。ウィキペディアには、「大津京駅への改称は地元自治体を中心とした請願の結果行われたが、大津京という語が歴史学的に不適切であるとの指摘が研究者などからなされている。」との注書もついている。
<志賀の都>
JR湖西線の駅名を大津京に改称したいという運動があったとは露知らなかった2005年に、琵琶湖周航の歌にもある古の志賀の都に関心を抱き、上代には古市(ふるち)郷、錦部(にしこり)郷、大友郷と呼ばれていた、今の大津市西南部の石山から坂本あたりまでの地域を巡り、以前のウェブログ「志賀の都探訪」で触れた。当時の西大津駅近くの錦織(にしこおり)2丁目付近で発掘された近江大津宮の遺構史跡も探訪した。
1974(昭和49)年にこの近江大津宮遺構を発見し、直接発掘に携わられたのが、当時の滋賀県教育委員会文化財保護課の林 博通技師であった。上述のウェブログ「幻の大津京」の中で、昨年7月、鈴木靖将さんという大津市在住の日本画家が開いた「壬申の乱と風」という個展を見に行き、その時会場で名刺交換した滋賀県立大学名誉教授で琵琶湖博物館特別研究員の林 博通先生のことに触れたが、その方である。
林 博通先生は上記「幻の大津京」のウェブログでも触れたように大津京駅への改名を支持された方だが、長年その存在が予想されながら確認出来なかった近江大津宮の遺構を発見し、その発掘を担当され、宮の構造を明らかにされた方でもある。いわば志賀の都に関しては第一人者であるのでその見解も知りたかったが、先日県立図書館で「幻の都 大津京を掘る」(林 博通著 2005年9月発刊 学生社)という著書を見つけたので早速拝読した。
ちなみに林先生は近江大津宮の発掘に関係した著書を何冊も出されているが、すべて「大津京」という言葉を使用されている。本書でも書名に「大津京」を使っておられ、「大津京」の呼称に関しては、私が学んだ上記の学界における定義を述べられたうえで、さらに以下の記述がある。
「現在一般に用いられる『大津京』という呼称はおそらく明治以降の研究史のなかで、『大津宮』が平城京や平安京のごとく条坊制を備えていたと考えたために、いつとはなしにそうよばれるようになったものと思われる。のちにも少しふれるが、『大津宮』の条坊制の有無についてはまだ明らかではなく、本書では主に内裏・朝堂院を核とする政治的中枢部を『宮』、条坊制の有無に関係なく、『宮』の周辺部で、宮と深くかかわりあう施設や王族・貴族官人たちが集住したとみられる一定のまとまりのある範囲を、近江の都という意味も含めて『大津京』とよぶことを、最初に申しあげておきたい。」
門外漢の私には、琵琶湖周航の歌にある「志賀の都」がしっくりくるのでこれでいくこととする。
<志賀の都の研究史>
志賀の都は、この近江大津宮を中心とした近江京(おうみのみやこ)とか大津京と呼ばれる都のことであり、天智天皇が667年に造営したが672年の壬申の乱で廃された6年足らずの都であった。田辺昭三著「よみがえる湖都」には林 博通技師の近江大津宮遺構発見に至るまでの志賀の都の研究史が詳しく紹介されている。
日本書記の天智6(667)年3月19日の条に「都を近江に遷す」という記事があることから、都が近江に存在したことがわかるわけであるが、近江のどこかは記載がないので、後日その所在を巡って多くの人々が論争することになる。
飛鳥の地から突如都が近江に遷されたのはこのように天智6年(667)年であったが、5年後に勃発した壬申の乱によって廃都となり、672年に都は再び飛鳥の地に戻って天武朝となる。さらに690年には持統朝となって694年に本格的な都とされる藤原京が造営される。
大津市内には、今も壬申の乱の伝承の地が残っているので、以前のウェブログ「大津市に残る壬申の乱伝承の地」で触れた。
壬申の乱で近江大津宮が廃された後、この地を訪れた柿本人麻呂が大津宮の荒廃を嘆いて作った長歌が、万葉集巻1-29に載っていることはよく知られている。
「玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和(やまと)を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)離(ざか)る 夷(ひな)にはあれど 石(いわ)走る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(さざなみ)の 大津(おほつ)の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめらぎ)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁(しげ)く生いたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも」
柿本人麻呂は、690年に即位した持統天皇の時代に活躍したといわれるから、672年に近江大津宮が廃された後、それほど経っていない時期に宮がすでに荒廃していたことを示す歌といわれる。なお、柿本人麻呂については、梅原 猛先生の「水底の歌」に触発されて、島根県石見地方の益田市の人麻呂生誕の地や終焉の地を訪れたことがあり、以前のウェブログ「石見の柿本人麿ゆかりの地」で触れた。
万葉集の柿本人麻呂の長歌に歌われた近江大津宮は、その後、平安時代末期に編纂された日本紀略や扶桑略記、さらに聖徳太子伝暦、今昔物語集、帝王編年記等の古代、中世の史書においても記載があるが、その所在は近江八景の1つにもなっている粟津ではないかとの説が多かったらしい。
1734(享保19)年に近江膳所(ぜぜ)藩の儒学者だった寒川辰清は、実際に現地を踏査して近江国の地誌をまとめた「近江輿地誌略」という一書を著した。その中の大津旧都の項で、彼は近江大津宮の所在について触れていて、「錦織(にしこおり)村の内に御所跡と号する地あり。是大津都の跡なりといふ。」と記しているので、少なくとも享保以前から錦織村との言い伝えがあったことがわかるという。
この書をきっかけに錦織説が有力となり、明治に入っても1892(明治24)年発行の「近江名跡案内記」に、「大津宮旧址 錦織村ノ内ニ御所跡ト云フテ方二町余ノ地アリ」と出ていて、この頃までは錦織説が支配的だったことがうかがえる。1896(明治28)年には、当時の大津市長であった西村文四郎の奔走によって、錦織御所ノ内の一角に「志賀宮址碑」が建った。この碑は現在でも見ることが出来る。2014年4月10日に9年ぶりとなるが、志賀宮址碑を再訪してみた。
9年前にこの石碑を見たときは刻まれた字は風化して読めずその由緒は分からなかったが、今回はこの著書を読んだおかげで建立経緯や素性を知ることができ、明治28年建立の志賀宮址碑であることが分かった。その横に9年前にはなかった石碑が座っているのでよく見たところ、前述の万葉集巻1-29の「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」という、柿本人麻呂の有名な近江鎮魂歌といわれる長歌が彫ってあって、淡海万葉(おうみまんよう)の会が建てた歌碑であった。
明治28年建立の志賀宮址碑 9年前はなかった柿本人麻呂の歌碑
その後、1901(明治34)年に郷土史家の木村一郎が「大津皇宮御趾尊重保存資料」を発表し、従来の説とは全く異なる滋賀里説を提唱した。その理由は今昔物語集、元亨釈書、三井寺寺門伝記補録等の文献に、大津宮西北の滋賀山中大形谷に崇福寺(すうふくじ)を建てたという記載があり、その位置関係から宮の位置は滋賀里になるということであり、木村は宮の所在地から京域の推定まで行ったという。これ以来、近江大津宮所在地論争が本格的になった。
この木村一郎の見解は、当時歴史学者としてゆるぎない地位を得ていた喜田貞吉が注目するところとなり、1910(明治43)年に喜田は「大津京遷都考」の中で木村説を評価したので、広く学界に受け入れられることとなった。上記のウェブログ「幻の大津京」で、喜田貞吉が志賀の都にも条坊制区画が存在したであろうと考え「大津京」という用語を用いたことに触れたが、その人である。
その一方滋賀里説にも疑問が出始め、近江大津宮との位置関係でしばしば文献資料に現れる天智天皇勅願の崇福寺(すうふくじ)や、桓武天皇勅願の梵釈寺(ぼんしゃくじ)の所在地の確定という課題も絡み合って諸説が飛び交い、さまよえる近江大津の宮という状況になったという。林先生の著書にはその諸説一覧が掲載されている。
近江大津宮所在候補地(クリックで拡大)
1734(享保19)年 寒川辰清 儒学者・地域史 錦織御所ノ内説
1901(明治34)年 木村一郎 郷土史 滋賀里説
1910(明治43)年 喜田貞吉 歴史地理 滋賀里説
1928(昭和 3)年 牧野信之助 歴史地理 南滋賀説
1929(昭和 4)年 肥後和男 歴史学・民俗学 南滋賀説
1933(昭和 8)年 田村吉水 歴史地理 錦織御所ノ内説
1934(昭和 9)年 米倉二郎 歴史地理 錦織御所ノ内説
1940(昭和15)年 足立 康 建築史 大津市街地説
1941(昭和16)年 柴田 実 歴史学 南滋賀説
1941(昭和16)年 石田茂作 考古学 南滋賀説
1942(昭和17)年 福尾猛市郎 歴史地理 南滋賀説
1966(昭和41)年 西田 弘 考古学・歴史学 南滋賀説
1967(昭和42)年 滝川政次郎 法制史 南滋賀説
1971(昭和46)年 藤岡謙二郎 歴史地理 滋賀里説
1977(昭和52)年 田中日佐夫 文化史 穴太(あのう)説
この一覧表からうかがえることは、1896(明治28)年に志賀宮址碑まで建立してしまった錦織御所ノ内説は、それ以降の時代においては決して多数派の説ではなかったということである。林先生が錦織2丁目で発掘を開始したのは1974(昭和49)年11月であるが、この時点ではまだまだ南滋賀説や滋賀里説が有力であり、発掘開始以降でもまだ穴太説まで飛び出しているような混沌状況だったことは面白い。
この混沌状態に決着をつけたのが林 博道先生ということになるが、その遺構発見の経緯や発掘にあたってはドラマチックな展開があり、また学界における定説化までの道のりも決して平たんではなかったことがわかる。林先生の著書「幻の都 大津京を掘る」を片手に、2014年4月10日に9年ぶりに近江大津宮錦織遺跡を再訪してみた。
<近江大津宮の発見>
1970 年代は、田中角栄首相の「列島改造論」が日本中に土建万能主義の嵐を巻き起こし、滋賀県でもびわ湖の環境汚染問題や周辺地区の土地ころがし問題を引き起こした。さらに開発と文化財保護の問題も頻発し、行政においても道路建設や住宅地開発に伴う埋蔵文化財の調査や行政処理体制がまだ不十分であり、それらの対応に追われ出した時期であった。
1974(昭和49)年の10月中旬、当時の林 博通技師は、湖西のバイパス道路建設に伴う史跡調査の帰りに大津市錦織地区を通りかかったとき、一軒の民家の建替工事現場に出くわされた。この錦織地区は御所ノ内という小字の地名をもつこともあって、江戸時代末頃から明治30 年代前半頃までは近江大津宮の所在候補地になっていて、前述した通り1895(明治28)年には確証はないまま「志賀宮址碑」がこの地に建立された。
時が移って昭和以降になると、今の近江神宮の北方の滋賀里や南滋賀が近江大津宮所在地の有力候補地となり、錦織説は忘れられがちとなって文化財保護法の埋蔵文化財包蔵地としての認識はされていなかったらしい。従って工事に伴う事前調査の対象になっていなかった。しかし林技師は湖西線西大津駅裏の発掘で近江朝廷時代の音義木簡が発見されたりした事実から、これまで発掘調査がされてこなかった錦織地区にも注意を払うべしと思っていたという。
そこで林技師は、「おっと、これは一大事」と直感され、この錦織の工事現場の土地所有者で住宅の新築を急いでおられた伊藤氏の自宅にとんで行き、工事の中止と事前の発掘調査の承諾をお願いされた。本来は翌日の早朝から工事に入る予定だったという。その状況については林先生の著書から引用してみる。
「このバックホー(地面堀削用重機)の据えられた土地所有者の伊藤誠氏は、住宅の新築を急いでおられた。それもそのはず、これまで住んでおられた建物を壊して、そこに新築しようとしていたからである。そして、翌日の早朝から工事に入る予定であった。そうしたなか、私はこの土地のもつ歴史的意義や発掘調査の必要性などを懸命にお話し、工事の中止と事前の発掘調査実施の承諾をお願いした。」
「突然のこの申し出に、伊藤氏とご家族は、当然のことながら、困惑の色を隠されなかった。普通であれば、法的に規制のない土地なのにどうして工事中止や調査の必要性があるのか、と突っぱねられるところであるが、いろいろ雑談を交わすうちに心を開いていただき、伊藤氏は私の話に耳を傾けてくれた。」
「伊藤氏が、急いでおられた新築工事を中止して調査を承諾したのは、この調査の意義を十分認識されたためであることはいうまでもないが、その背景にはこのときの私的な会話にも一因があったようである。」と述べられている。私的な会話とは、京都府亀岡や滋賀県高島で林技師が発掘調査を行った時、お世話してくれた人やお世話をした人が、伊藤家と密接なつながりがあったことが会話の中で判明したということらしい。
というようなドラマチックな経緯を経て、「必要な手続き・経費の準備を済ませて調査に入ったのは1974(昭和49)年11月18日であった。調査は始まったものの、大津宮に関する遺構が発見されるという見通しはまったくなかった。むしろ、何も出ない可能性を考える気持ちの方が強かったように思う。」と林技師は述懐されている。まさに近江大津宮の所在地に関する学界常識では上記の一覧表が当時の実態であったのだろう。
「ところが、掘り始めて間もなく、最初に設けた小さなトレンチ(試掘坑3m×3m)を60センチほど掘り下げると平安時代末頃の土器片を含む整地層を検出した。この時点で、少なくともこの地が遺跡であるという確認ができた。」ということで、さらに掘り下げて行くと、表面から95センチの深さのところが黒色の粘土質土層になっていて、「この層を注意深く削って行くうちに、この層を切り込んだ一基の四角っぽい穴と見られる、他と異なる色をした一画が現れた。」
「『これは大津宮の巨大な柱穴かも知れない』と直感し、草削りや移植ゴテを持つ手ももどかしく、その輪郭を確認するために何回も何回も薄く土を削って行くと、間違いなく方形の穴であることが確認され、茶色っぽい土の詰まった穴であることが判明した。しばらくは胸の高鳴りが続いた。その中央付近からは南東方向に延びるバサバサの土の詰まった溝状の遺構も認められた。柱の抜き取り穴のようだ。」
「その方形の穴は一辺1.6m前後なので、柱穴とすれば宮殿クラスといっていい。しかし、この一基だけでは柱穴と言い切れない。柱穴と認めるためには、それが規則的に東西南北にいくつか並ぶ必要がある。このためにはこのトレンチだけでは確認できず、少し東側に掘り広げることにした。すると、先の柱穴の東辺から1.5m隔てたところに、同様の大きさの方形の穴の西辺が顔を出した。」
ということで、この時初めて柱穴と確信でき、大津宮の可能性が高いと判断された。そこで伊藤氏の承諾も得て、全面発掘に踏み切った結果、当該地から合計13基の柱穴が、東西南北に整然と並んで見事に現れ、その並び方から、門と回廊と判断されたという。そして翌年3月までの調査を滋賀県文化財専門委員会で報告したが、滋賀里説との大論争にもなったらしい。
結局、現地調査終了時点では大津宮に限りなく近い遺構とされたものの、他の滋賀里、南滋賀、穴太などの推定地の状況確認や時期の確定を宿題とし、遺構を壊さないようにして埋め戻し、伊藤氏には予定通り住宅を建てて頂くことになったという。林先生はこの著で、半年以上新築を待って頂き、調査にも好意的に協力された伊藤家に対し最大限の感謝の言葉を捧げておられる。
<国史跡の指定へ>
この錦織の伊藤家で発掘された遺構については、冒頭に掲げた近江大津宮錦織遺跡の説明板の写真をクリック拡大して見てもらうとその詳細がよくわかる。発掘された柱穴と、日本書紀などの文献資料記載事項を検討することにより、内裏や朝堂院、宮門、回廊などの建物があったことが推定され、それにもとづく近江大津宮の中枢部の推定復元図も掲載されている。
さらに4年後の1978(昭和53)年に、この遺構の続きの部分の発掘調査が行われた結果、東へ延びる柱列も発見されて、ここが近江大津宮の中心であることが確認され、1979(昭和54)年に国の史跡に指定されたとある。つまりこの時点でようやく近江大津宮の所在地論争に決着がついたのである。
<全国で10番目の「古都」に指定>
滋賀県在住者、特に大津市民にとっては、京都や奈良よりももっと以前に大津に都がおかれていたという歴史は誇るべきものだろう。日本書紀や万葉集をはじめとする古代文献から、近江に大津宮がおかれていたことはよく知られていたが、どこにおかれていたのかは定かでなかった。なんとなく志賀の都というようなイメージで琵琶湖周航の歌にも歌われて来たと思う。
従って大津市は、1966(昭和41)年にできた古都保存法における「古都」に早くから候補になっていたが、志賀の都の遺跡が見つからなかったため見送られてきた。上述したように、1974(昭和49)年になって現在の錦織(にしこおり)2丁目付近で近江大津宮の遺構が見つかり、その後さらに20年余りの調査を経て、ようやく2003(平成15)年に京都、奈良、鎌倉、逗子、天理、橿原、桜井の各市、斑鳩町、明日香村に続いて全国で10番目の「古都」に政令指定された。
近江大津宮錦織遺跡のすぐ横を走る街道を近江神宮の方へ向かってしばらく行くと、9年前に来た時には気がつかなかった大津京シンボル緑地が出来ていて、案内板や万葉集の歌碑などがいくつか建っている。全国で10番目となる古都に指定されたことを記念し、大津宮を紹介するシンボル緑地として、平成15年に大津市が整備したとある。
<幸運の女神が微笑む?>
上述のような近江大津宮発見の経緯を知ってみると、まさに事実は小説よりも奇なり、である。当時の林 博通技師が学界ではやや片隅におかれていた錦織地区にも目を向けていなかったら、たまたま工事用の堀削重機を見て「これは一大事!」と思わなかったら、土地所有者の伊藤氏が規制がないことで説得に応じず工事を強行されていたら、最初の発掘でうまく柱穴を掘りあてていなかったら、とかとかのたら話を考えてみると、近江大津宮の所在確定は今も出来ていない可能性が高い。
林先生は、「実質、見通しの立たないまま半年以上待ちぼうけを食わされながらも、調査とその取扱いを何もおっしゃらずにお待ちいただき、また、調査にもたいへん好意的にご協力いただいた伊藤家の方々には感謝しきれない。この地点での調査が中途半端や未遂で終わっていたら、大津北郊でのその後の調査はあり得なかったであろうし、大津宮は永遠に幻のままであったかもしれないからである。大津宮の発見は伊藤家の方々のご理解の賜物というほかはない。」と記されている。
ということで、近江大津宮の遺構発見に関しては、まさに幸運の女神が微笑んだということであった。その裏には長年にわたる人間活動の歴史があることを感ぜずにはいられない。何かに対する疑問をもち、それをつきとめるために年月や世代を越えて色々調査をし、論争をし、事実を探っていくという活動を行う能力は、人間に与えられた最大の宝である。最近、世間を騒がしているSTAP問題も、今はあまり騒がずに研究者のこれからの真剣な追求にゆだねればよい話である。
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