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2014.02.24

スポーツブランド四方山話

Aa2013s (図はすべてクリックで拡大します)
A+A2013国際労働安全機材・技術展(デュッセルドルフ)

<A+A2013国際労働安全機材・技術展>
前篇の「ケルン探訪」で触れたように、昨年11月にデュッセルドルフで開催されたA+A2013国際労働安全機材・技術展の視察ツアーに参加した。ちなみに最初のAはArbeiten(労働)、次のAはAbeitsschutz(保護)の略称である。欧州では労働安全の意識が早くから発達し1954(昭和29)年に第1回A+Aが開かれ、隔年開催で昨年が30回目になる。

  • ケルン探訪

    A+A2013国際労働安全機材・技術展は、繊維関連ではユニフォーム、作業服、防護服、手袋、安全靴のような機能資材の分野の製品や技術の展示会である。労働安全の展示会と聞くとやや堅苦しい印象を与えるが、ここデュッセルドルフのメッセは全く開放的で、作業服でのファッションショーがあったり、ブースで防護服や安全靴を着用してダンスを踊ったり、広場で消防の実演があったりと、出展者と来場者が一緒に楽しんでいる雰囲気であったことは前篇で述べたとおりである。

    今年に入ってからあちこちでこの技術展の視察報告をすることになったが、自分自身があまり詳しくない分野なので、ツアーを主催したダイセン社発行の繊維ニュースや、メッセ・デュッセルドルフ・ジャパンのファイナルレポートを参照しながら印象をまとめているうちに、この分野とかなり近い関係にあるスポーツ用品分野において色々と興味を惹くトピックスを知ったので以下に触れてみたい。

    <“プーマ”ブランドの安全靴>
    PumaA+A2013の展示の中でISMというドイツの作業靴メーカーが、“プーマ”ブランドの安全靴を出展しているのに興味を惹かれた。よく知られている通り、“プーマ”は“アディダス”、“ナイキ”、“アシックス”等と並んでスポーツ用品の著名ブランドなので、このブランドを冠した安全靴があるということに、「へー、さすがドイツ」と思ったわけである。

    繊維ニュースを発行しているダイセン社の資料によると、「ドイツのISMは“プーマ”ブランドの作業靴を欧米と豪州で販売。スポーツブランドとしての知名度の高さから毎年安定して売り上げを伸ばしており、今回の展示会ではモータースポーツから着想し、通気性を高めるフューステックテクノロジー搭載の安全靴を開発。食品工場向けの安全靴も打ち出し、“プーマ”ブランドの裾野を広げる。」と解説してある。

    Isms
               “プーマ”ブランドの安全靴(ISMの展示)

    「フューステックテクノロジー」という言葉の意味がよくわからないが、“プーマ”のゴルフ靴に「BioFusion」というタイプがあり、PUMA GOLFのもつ全てのベストなテクノロジーを融合(Fusion)させている、とあるので、この言葉もゴルフ靴やモータースポーツ靴開発で培ったテクノロジーと通気性のテクノロジーを、“プーマ”ブランドの安全靴で融合させたという意味なのかもしれない。

    “プーマ”ブランドのゴルフ靴は日本でも売られており人気も高いが、安全靴は上記の繊維ニュースの情報では日本では市販されていないようである。ベンワークストアという作業服や安全靴の通販サイトの安全靴のブランド一覧を見たが、スポーツ用品メーカーのブランドとしては日本の“アシックス”とイタリアの“ディアドラ”が入っているだけで、“プーマ”ブランドは入っていない。

    Workingshoes
              安全靴ブランド一覧ベンワークストアのサイトから)

    <“プーマ”と“アディダス”>
    “プーマ”の安全靴のことはさておき、スポーツ用品分野における“プーマ”ブランドはよく知っているものの、その製造会社のことは全く知らなかったのでフリー百科事典ウィキペディアで調べてみたところ、これまで知らなかった意外な事実を知ることとなった。スポーツ用品分野に詳しい人はよく知っていることなのかもしれないが、分野外の私には興味の惹かれるトピックスであった。

    それは、プーマ社は、ドイツのもう一つの有力スポーツ用品メーカーのアディダス社と、もとは1つの会社であったということである。“プーマ”と“アディダス”は競争の激しいスポーツ用品業界にあって、しのぎを削って競争しているブランドなので、てっきり別の会社だと思っていたが、同じルーツをもっていたのである。

    1924年にルドルフ・ダスラー(兄)とアドルフ・ダスラー(弟)は、ニュルンベルグ近郊のヘルツォーゲンアウラハにダスラー兄弟製靴工場というベンチャー会社を開始した。1936年のベルリン・オリンピックでは伝説の短距離走者オーエンス(米)を口説いてダスラー製の靴を履いてもらい、オーエンスの4つの金メダル獲得に貢献したらしい。事業は波に乗り第二次世界大戦前には年間20万足を販売していたという。

    2人ともナチ党に入党したが2人の立場は少し距離があり、兄のルドルフは1945年に武装親衛隊の一員であった容疑で米軍に逮捕され1946年になって釈放されたが、ルドルフは弟のアドルフが密告したと確信していたらしい。1948年4月に兄弟は完全に袂を分かち、ダスラー兄弟製靴工場の資産は工場をはじめ設備、特許など兄弟間で細かく分割されたという。販売部門の従業員の多くはルドルフについて行き、技術者の多くはアドルフのもとに残った。

    Adidas_3兄のルドルフはアウラハ川の対岸にルーダ(Ruda:Rudolf Dasler)という会社を作ったが、すぐにより軽快な印象のプーマ(Puma:日本語はピューマ)に社名を改めた。弟のアドルフは自身の愛称(Adi)とダスラー(Das)を合わせてアディダスという名前をつけた。従って1948年がプーマ社とアディダス社の誕生年ということになる。

    Adidas3s分裂後、両社は草創期の熾烈な競争に入った。ヘルツォーゲンアウラハの町は二手に分かれ、町の人々が他人がどちらの靴を履いているか確認するために頭を傾けるので、「首を曲げた町」というあだ名がつけられたらしい。町の2つのサッカークラブも片方はプーマ、片方はアディダスの支援を受けた。雑役夫たちがルドルフの家に行く場合はわざとアディダスを履いて行くと、ルドルフがプーマの靴を無料でやったというエピソードがウィキペディアに記されている。

    1960年代に入ると、自社製シューズを履いてもらうためにスポーツシューズメーカーがアスリートに金銭を支払うことが常態化し、1970年代にはプーマ社はルドルフの息子アルミン・ダスラー、アディダス社はアドルフの息子ホルスト・ダスラーが実権を握る。オリンピックやサッカーのFIFAワールドカップのような大規模なスポーツイベントが商業化の舞台となり、両社はスポーツ界全般に大きな力をもつようになった。

    しかし世の習いで両社とも栄枯盛衰を経て、現在では両社ともダスラー家との繋がりはなくなっている。プーマ社は、グッチやサン・ローランをグループ内に抱えるフランスの流通持株会社PPR(現ケリング)の傘下にあるし、アディダス社は、ホルストの死後の経営危機を経てフランス人実業家のドレフュスが経営権を握り、リーボックやロックポートを加えてアディダス・グループとなっている。

    <“アシックス”と“ナイキ”>
    と、ここまで“プーマ”と“アディダス”の関係を探ってくると、スポーツ界の他の2つのビッグブランドである“アシックス”と“ナイキ”のことも知りたくなるのでこれら2つのブランドについても調べてみた。スポーツ用品業界における熾烈な競争の中で、実は日米の“アシックス”と“ナイキ”の両者の間にも、ドイツでの“プーマ”と“アディダス”の確執と同様、私の知らなかった確執があった。

    それは、現在スポーツ関連商品を扱う世界最大の企業である米国のナイキ社が、もとは日本のアシックス社の前身であるオニツカ社のスポーツシューズの米国販売店から出発したという因縁である。この両者の関係を知るには、まず鬼塚喜八郎というアシックス社の創業者を知ることが必要である。幸い鬼塚喜八郎は1990(平成2)年7月に日本経済新聞の「私の履歴書」に執筆しているから、その詳細を知ることができる。

    Onitsuka鬼塚喜八郎は、1918(大正7)年に鳥取の坂口家で生まれたが、姫路での見習い士官時代に懇意になった上田晧俊中尉が戦死したため、上田中尉が養子に入る予定だった鬼塚家から懇願されて自分が養子に入ったという。1949(昭和24)年にズック靴や警ら靴を扱う鬼塚商会を始め、同年に鬼塚株式会社としてバスケットシューズの開発を始めた。

    1951(昭和26)年にタコ足吸盤底の鬼塚式バスケットシューズを開発してリュックサックに入れて全国を回り、苦労の末次第に売れ行きを伸ばしたので、イメージに合う虎印の商標権を買い取って「ONITUKA TIGER」のブランドにしたという。私は1954(昭和29)年に中学生になったが、当時はバスケットシューズのことをバッシューと呼んで、そのカッコよさに憧れたことがあるがオニツカタイガーだったのであろう。

    1953(昭和28)年にはマラソンシューズの開発を始め、当時は足にマメができるのが当たり前だった時代に産学連携でマメの出来る原因を調べ、マメのできないシューズ開発に成功した。1961(昭和36)年の毎日マラソンで来日した裸足で走ることで有名だったアベベを口説いてシューズを提供したところ、アベベはその靴を履いて優勝したというエピソードがある。

    1964(昭和39)年の東京オリンピックでは、オニツカの靴を履いた選手が、体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得した。ただしアベベはこの時は“プーマ”のシューズを履いたらしい。この頃に後に“ナイキ”の創始者になるフィリップ・ナイトが鬼塚喜八郎を訪ねて来たという。そのくだりを私の履歴書から引用してみる。

    「東京五輪の1年前、米スタンフォード大の陸上選手だったフィリップ・ナイトという青年がふいに私を訪ねて来た。『米国でスポーツシューズを研究、市場調査したら、オニツカシューズが最も優れていると分かった。ぜひ扱わせてほしい』という。裸一貫で事業を始めたいとの彼の心意気に、創業時にリュックをかついで全国を歩いた私の姿がダブり、この若者に思い切って販売店をやらせてみることにした。」

    「彼は勇んで西海岸のオレゴン州に、ブルーリボンスポーツ社を設立、苦労が実って成功を収めていった。七年後、もっと拡販してもらおうとブ社と販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商慣習になじまないそのドライな行動に裏切られた気がしたものだ。」

    「まずいことにブ社が使っていたニックネーム(サブブランド)を引き続き使ったため、その使用権の帰属をめぐって対立、訴訟を起こされた。結局和解に応じたが、和解金額は弁護士費用を含め1億数千万円。海外展開するうえでいい経験だったとはいえ、高い授業料を払わされた。これが後に急成長したナイキシューズの会社である。」

    ウィキペディアのナイキの歴史にも同じことが書いてあるのでこれらのことは事実らしい。

    Nikes_2「スタンフォード大学で経済学を学んでいた学生フィル・ナイトと、オレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマンが前身であるブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立。同社は日本からオニツカタイガー(現アシックス)のランニングシューズを輸入しアメリカ国内で販売していた。」

    「より高い利益を求め、オニツカタイガーの技術者引き抜きなどを行い、オニツカタイガーの競合社である福岡のアサヒコーポレーションでトレーニングシューズを生産、ナイキのブランド名で販売した。提携終了後もオニツカタイガーがビル・バウワーマンのデザインした靴を販売していたため1億数千万円の和解金を受け取る裁判を起こす。」

    いわば飼い犬に手をかまれたと見るか、出藍の誉れと見るか、日米の商いの考え方の違いが歴然と出ているエピソードである。鬼塚喜八郎はその後も海外の契約社会への進出の難かしさに触れているが、一方でオニツカシューズを取り扱いたいという北欧のスポーツ店からは契約書なんか一切不要といわれ、今に至るまで何の問題もおきていないことにも言及している。

    オニツカ株式会社は、1977(昭和50)年にはシューズメーカーからスポーツウェアも加えた総合スポーツ用品メーカーに脱皮するため、スポーツウェア・用具メーカーの株式会社ジィティオと、スポーツウェアメーカーのジェレンク株式会社との合併を実行して、株式会社アシックスとなり、1985(昭和60)年に神戸のポートアイランドに新本社を建設し、スポーツ工学研究所も設置した。

    鬼塚喜八郎は、その後も何回もの経営危機を乗り越えて、2007(平成19)年に神戸で生涯を閉じるまで、まさに波乱の人生を送った。「私の履歴書」を読んでいると、百田尚樹著の「海賊とよばれた男」のモデルである出光佐三を彷彿させる。百田尚樹自身はNHKの経営委員でありながら最近、東京都知事選挙の応援で他候補を「人間のクズ」と呼んで物議をかもしているが。

    現在のアシックスは、米国のナイキ、ドイツのアディダス、プーマの3ビッグブランドに対抗して、世界4位の座を守っていることはあまり知られていないが、日本の繊維関連企業としてよく頑張っていると思う。今年(2014年)2月5日のDIAMOND onlineには、「企業特集」アシックス 世界3位を射程内に捉える日の丸スポーツブランドの野望という記事が出て、アシックスの健闘が取り上げられている。

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       2014年2月5日 DIAMOND online(週刊ダイヤモンド)から

    <日の丸スポーツブランドのさきがけ>
    日本のスポーツ用品メーカーとしては、鬼塚喜八郎創業のアシックスの他にも、水野利八創業のミズノ、石本他家男創業のデサント、渡辺梁三創業のゼット等が頑張っており、なぜか発祥の地は関西に集中している。特にミズノは、他のメーカーが昭和に入ってからの創業であるのに対し、明治39(1906)年の創業であり、まさに日の丸スポーツブランドのさきがけである。

    Mizuno2水野利八は美濃(岐阜)出身なので、“美津濃”を社名にしたという。我々が子供の時代は、野球にしろ卓球にしろ用具やユニフォームは“美津濃”しかなかったような気がするくらいこのブランドが記憶に残っている。1987(昭和62)年になって、社名表記がカタカナのミズノになったという。イチローや松井のバット作りを長年手がけてきた養老工場の「バット職人」久保田五十一さんが今春引退されて最近話題になった。

    ミズノには繊維技術士仲間もいるので、昨年の10月25日に、所属している日本繊維技術士センターが大阪南港にあるミズノ本社の見学会を行った。スポーツ工学にもとづいた新製品開発の講演や計測機器・装置の見学があって大変参考になった。玄関ホールが展示場になっていて、野球、サッカー、テニス、卓球等の各種のスポーツ用具やウェア、さらには契約選手の活躍状況のパネル展示がしてあって興味をひく。   

    Mizuno
     福原愛、室伏幸治、イチローのパネル       寺川綾選手のコーナー

    <所感>
    昨年、デュッセルドルフで開かれたA+A2013国際労働安全機材・技術展の視察報告をまとめている過程で、防護服や安全靴と同様に機能性が重視されるスポーツ用品の世界に興味をもち、独、日、米のスポーツブランドを一瞥することになってしまった。

    スポーツ用品に限らないが、日本企業のモノ作り技術は世界最高峰なのだが、マーケティングや営業戦略が欧米企業に劣るため、売上高や利益、事業規模でどうしても後れをとってしまう、とよく言われる。たしかにそういう面があるには違いなく、上述のA+A2013の視察ツアーに参加したユニフォーム業界や防護製品業界の皆さんの主な目的は、欧米企業の進んだデザイン感覚や色使いを学びに行くことであった。

    労働安全分野でも、いくら機能性が良くてもデザインが良くなければ全く見向きもされない、といった風土が欧米にはあるという。ファッショントレンドを取り込んだ企画力がシェア拡大のカギだそうで、米国の“ナイキ”が後発であるにもかかわらず短期間で世界一のスポーツ用品企業になったのは、そういったマーケティング力やデザイン企画力が優れていることによるのであろう。

    しかし日本の企業風土では必ずしも大きいことがよいということではないかもしれない。鬼塚喜八郎が履歴書で語っているように、ナイキのオニツカに対する行動は日本の商習慣になじまない、打算的でドライな行動であった。ウィキペディアには、ナイキの社風として厳密なマーケティングに基づき余分な在庫を持たない方針とか、海外の委託工場での人権問題、それに対する米国NGO団体や学生からの社会的責任批判や不買運動、その後のナイキの対応などに触れてある。

    ちょうど昨日、ソチでの冬季オリンピックが終わったが、活躍した日本人選手たちが口にするのは、必ず支えてくれた人たちへの感謝と、世話になった人に恩返しができたという言葉である。このような精神が日本人にある限り、日本は今後も発展すると信じたい。


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