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2013.12.18

ケルン探訪

Dom_from_koln_city  (画像は全てクリックで拡大します。)
              ケルンの街中から見る大聖堂

<16年振りのドイツ>
11月4日から8日までドイツに行った。ドイツには会社時代に何度か行っているのだが、1997年に行った後は途絶えていたので16年振りの訪問である。この間に欧州の通貨はユーロに統合され、ドイツもマルクからユーロになった。従ってユーロになって初めてのドイツであった。

ドイツ行きを思い立ったきっかけは、今年の3月にめでたく科学技術振興機構でのフルタイム勤務が終わり、繊維技術士の活動を再開したところへ、繊維ニュースを発行しているダイセン社からデュッセルドルフで開催されるA+A2013国際労働安全機材・技術展の視察ツアーを紹介されたことである。日程表を見ると、11月4日に出発してドイツへ入り、11月5日と6日がデュッセルドルフ・メッセ会場のA+A2013国際労働安全機材・技術展の視察で、11月7日にドイツを発ち8日に帰国するというトンボ帰りツアーである。

労働安全機材というと、繊維関連ではユニフォーム、作業服、防護服、手袋、安全靴のような機能資材の分野である。私自身はあまり詳しくない分野なので、普通なら自費で海外まで行って参加するほどではないのだが、案内パンフレットに宿泊がデュッセルドルフではなくケルンのホテルとあったのに惹かれたのである。

というのはケルンは以前バスで通過したことがあり、有名な大聖堂を遠くから眺め、いずれ行って見たい街と思っていたのでちょうど良い機会と思い、自費参加の特権でメッセ見学を1日にして、2日目はメッセをサボってケルン観光をすると決め早速申し込んだ。

<A+A2013国際労働安全機材・技術展>
とはいえ、A+A2013技術展に関心がないわけではない。「A+A」は人体保護、労働健康管理、労働現場の安全、天災や突発事故対策などに用いられる機械、装備、製品、技術などの各品目が展示される国際的なメッセで、2年に一度開催される世界最大の労働安全衛生分野の展示会である。主催者の発表では今年の期間中には63,000名超が訪れ、25%以上が海外からの来場者であったとのことである。

今回のA+A2013視察ツアーには、広島、岡山、大阪、福井、愛知、神奈川、東京のユニフォーム業界や防護服業界の関係者を主体に40人が参加した。メッセの主催者も歓迎してくれ、11月5日朝に会場に到着した時には、メッセ・デュッセルドルフ・ジャパンのメルケ社長が流暢な日本語で歓迎の辞を述べ記念撮影も行った。

Aatour
 「A+A2013国際労働安全機材・技術展」視察ツアー記念撮影

出展企業も世界54カ国から1,670社を数え、日本企業も直接出展や現地法人を介しての出展を合わせると15社が出展していた。11月5日に回った繊維関連の展示会場では、素材メーカーの東レ、テイジン、クラボウ、手袋メーカーのアトム、東和コーポレーション、島精機、ウェアメーカーの原田産業、アイトス、YKK、靴メーカーのミドリ安全などのブースが目についた。

労働安全の展示会と聞くとやや堅苦しい印象を与えるが、ここデュッセルドルフのメッセは全く開放的で、作業服でのファッションショーがあったり、ブースで防護服を着てダンスを踊ったり、広場で消防の実演があったりと来場者も一緒に楽しんでいる雰囲気であった。日本の資材関連の展示会では出展側には女性がいても来場者側に女性が少なく感じるが、ここドイツでは女性のビジネス客も多く、やはり女性の社会進出が進んでいるようである。

Toraykurabo
   Toray Textiles Europe社のブース       クラボウのブース:難燃素材
Dancebike
   ブース内で防護服を着てダンス     バイク用防護服メーカーのブースで

12年前にリタイヤした古巣の東レグループのブースも訪問して見ようと思い、Toray Textiles Europe社のコーナーを覗いていたら、顧客対応していた男性がしげしげと私の顔を見て声をかけてくれたので驚いてよく見ると、23年前のドイツ訪問時に東レドイツ社にいて、当時我々が開発した新製品の評価のための顧客訪問をアテンドしてくれたその人であった。現在Toray Textiles Europe社の会長兼社長を努めているとのことで23年前の昔話で盛り上がってしまった。

またクラボウのブースを訪れた際、伊藤忠から派遣されて来ていますと自己紹介してくれた若い説明員の人と話していたところ、ご尊父が東レで私と一緒に仕事をしていた元事業部長であることが判明し、世の中は狭いということを実感するとともに、時代の流れも実感してしまった。ということで出発前には全く予想もしていなかった出会いがデュッセルドルフの地であり、驚いた次第である。

<世界遺産ケルン大聖堂>
ツアー2日目の11月6日は、デュッセルドルフのメッセへは行かず、自分でケルン探訪をすると決めた日である。しかしツアーの主催者もケルンに宿泊したからには大聖堂はぜひ見ておいたほうが良いですね、まず全員で大聖堂へ行って記念撮影し、その後デュッセルドルフへ向かう組とケルン探訪の居残り組に分かれましょうと、うまい配慮をしてくれた。

ツアーなので大聖堂までは全員チャーターバスで向かうが、帰りは一人でホテルに戻らないといけないので最寄りのトラムの駅名をガイドさんに聞いて手帳に書き留めておく。バルバロッサ・プラッツという駅である。ホテルから15分くらいで大聖堂に到着し、大聖堂前の広場の階段に並んで記念撮影をした。

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 ケルン大聖堂         大聖堂前で記念撮影

ウィキペディアによると、現在のケルン大聖堂(Kolner Dom)は3代目だそうである。初代は4世紀に完成し、2代目は818年に完成してケルンの発展に貢献したが1248年に火災で焼失したという。したがって3代目はこの年から建設が始まったが宗教改革の影響で16世紀に一度工事が途絶した。19世紀に入って1842年から建設が再開され、全てが完成したのは600年以上が経過した1880年のことであるらしい。

ケルンはルール工業地帯にあるため、第2次世界大戦では当然連合軍から空襲を受け、市内の9割の建造物が破壊されたが、大聖堂は内部は破壊されたものの塔は奇跡的に残ったので1956年までに復旧されたという。1996年にユネスコの世界遺産に登録されたが、京都と同様、景観破壊対策で周辺の建築物は高さ規制が敷かれているらしい。ちなみにケルンは京都と姉妹都市協定を結んでいる。

<大聖堂を探訪>
記念撮影後にメッセ組とは別れを告げ大聖堂を探訪する。パリのノートルダムやミラノのドゥオーモなどのヨーロッパのカトリック大寺院と同様、ここケルンの大聖堂も外壁に施された彫刻が素晴らしい。キリスト教に詳しければこれらの彫刻の意味も理解できるのであろうが、その精巧さをめでる以外に能がない。中へ入ると厳粛な雰囲気を感じるとともにステンドグラスの美しさに圧倒される。

Dom
       外壁の聖人の彫刻            祭壇      ステンドグラス

ケルン大聖堂の南塔は上まで昇れてケルン市内が展望できるという事前知識をもっていたので、体力が持つかどうか心配であったが好奇心が勝って、とにかくトライしてみようと南塔に行ってみた。売店の奥の壁に「Turmbesteigung」と書いた案内板があった。つまりここが上り口である。ドイツ語は分からないが勘を働かせて読むと、塔高157m、533段、昇高100m、昇り降りの所要時間30分ということのようである。

またご親切にも「kein Aufzug」とも書いてある。つまりエレベーターはないよということで、これを見て引返す人もいるのだろうなと想像してしまった。所要時間から見て20分くらいで上までいけるようなので、瀬田川の立木観音や近江八幡の長命寺の山道の階段を思い出しながら、とにかく螺旋階段を登り始めたがやはり近年の運動不足がたたって息が切れる。

それでも途中には休憩場所もあったのであまり大ごとにならずに展望回廊に至った。今年のドイツは例年より寒くないとガイドさんが言っていたが、さすがに展望回廊は風が強く寒かった。回廊で、日本からですか、とドイツ人らしき女性に声をかけられたので驚いたが、大阪に半年ほど住んで少しだけ日本語が出来るとのことで、一緒に写真を撮らせて貰った。

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    塔上り口 エレベーターはなし!      大阪にいたというドイツ女性と
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          ケルン大聖堂の塔頂からライン川とケルン市内を望む

展望回廊からは360度でケルン市内が見られるが、やはりここから見るライン川の眺望が素晴らしい。しかし第2次世界大戦終了時には、ここから見る360度の景色は殆ど瓦礫野原だったはずである。私は当時は4、5歳であるからそんなに遠い昔ではない。よくもこの塔は残ったものである。連合軍のパイロットもこの塔への攻撃はわざと避けたのだろうか、などど思いながら塔を降りた。

<ローマ・ゲルマン博物館>
大聖堂前の広場では大聖堂の威容に圧倒されて大聖堂にばかり目が行くのであるが、広場の片隅に石造りの門の遺跡がある。古代はここにローマ街道が通っていて、現在もローマ人の門と呼ばれていると、ガイドさんが教えてくれた。ウィキペディアを覗いてみると、ケルンの起源はローマ帝国と密接な関係があることがわかる。

ケルンのルーツは、紀元前39年にローマの合意を得て親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に入植した時に遡るらしい。従って古代のケルンは、ローマ帝国のゲルマニア支配の拠点として重要な地であったらしく、多くのローマ遺跡が見られるという。ケルン大聖堂のすぐそばに、これらローマ遺跡やゲルマニアの文化を伝えるローマ・ゲルマン博物館がある。

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      ローマ人の門             ローマ・ゲルマン博物館
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     博物館内部の吹き抜け          子供たちへの文化の講義
Mozaiqperfume
       ディオニソス・モザイク              香水のコーナー

ドイツ語主体の展示なので良くは分からないが、ローマ時代の遺跡から発掘された土器、焼物類や玩具、鉄器類、支配者たちの胸像、石板、ゲルマニア地方の生産品などがところ狭しと並べてある。以前ローマのバチカン宮殿で見たのと同様のモザイクが、ディオニソス・モザイクとして大きく展示してある。1941年に防空壕を掘るときにこのモザイク床が発見されたらしい。館内には小学生くらいの子供たちが見学に来ており、先生の話を熱心に聴いていた。

ケルンの古の名前は植民市のColonia(ラテン語)に由来しており、英仏語のCologneと同じである。香水のオーデコロン(oau de Cologne)の発祥地がケルンであることは知られているが、コロンはケルンのことである。この博物館にも香水の展示コーナーがあり、種々の香水や容器が展示してある。

<ライン川>
大聖堂とローマ・ゲルマン博物館を見た後、地図を見るとライン川がすぐ近くなので、川沿いを散策することにし、ドイツ風サンドイッチとコーヒーで昼食をとってから小雨模様であったがライン川畔まで歩いて行った。川畔に出たとたん急に視界が開け広々としたライン川が現れる。

すぐ左手にはアーチ型の鉄橋が見える。地図で見るとHohenzollern橋といい、大聖堂傍のドイツ鉄道(DB)中央駅から出る列車や、駅に入る列車がひっきりなしに渡っている。ライン川の川岸にはライン川クルーズの遊覧船やデュッセルドルフ-ケルン間を結ぶ輸送船がたくさん停泊していて壮観である。

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   ライン川に架かるHohenzollern橋       ライン川クルーズの遊覧船

<ライン川畔の散策路>
ライン川畔から背後を振り返るとこれまた素晴らしい風景である。いかにもドイツらしい洒落た建物の背後に大聖堂の2本の塔がそびえていて暫し見とれてしまう。たしかに建築物の高さ制限をしなかったら、このような美しい風景がどこからも見えるというわけにはいかなくなってしまう。冒頭写真はケルン市街地からの大聖堂であるが、街の至るところからケルンのシンボルが見えるわけである。

さらに景観を素晴らしくしているのは、ライン川畔からの光景およびケルン市街地からの光景を見たらわかるように、電線が全くないので日本のような張り巡らせた電線による景観妨害が一切ないことである。こればかりは京都や富士山といった日本の世界遺産では逆立ちしても追いつかない。景観に対する考え方や理念がドイツと日本とでは根本的に違うのかもしれない。

川沿いを南下して行くと右手にこれまた美しい教会が現れる。グロス・セント・マーティンという教会である。門横の説明板を見ると、1150年にベネディクト派の教会として建てられたが、2世紀のローマ時代の倉庫跡に建っていると説明してある。上に掲げた大聖堂の上から眺めたライン川の写真にも、このグロス・セント・マーティン教会が映っているのに気づいた方もおられるかも知れない。

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  ライン川畔から望むケルン大聖堂      グロス・セント・マーティン教会

さらに南下して行くと、散策路の左側の川畔に赤レンガを積み上げた城壁らしき建物が現れた。中世のライン川沿いには、その地方を支配する領主が築いた城が多数あったというから、これもその一つかもしれないと思って中へ入り周囲を回ってみたら、一角がこの古い城壁を利用したレストランになっていて準備中であった。不法侵入者と間違えられるといけないので会釈したら向うも笑ってくれて事無きを得た。

小雨が少し強くなってきたのでそろそろ街中を通って中央駅の方へ引き返そうと思い、交差点を渡ろうとしたら異様な建造物があった。良く見るとコンドルのようなイメージのオブジェである。街灯かもしれないが、無粋な電柱は全く立っていないのでこれもまた絵になる光景である。ライン川にコンドルが飛んでいるというケルン市民のユーモアであろうか。

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  ライン川畔に建つ城壁らしき建物          ライン川にコンドル?

<ケルンの街中>
上述のようにケルンはローマ帝国時代から続く歴史のある街である。しかし第2次世界大戦で市街地の9割が破壊され壊滅状態になったが、ライン川畔の美しい光景を見ているとそのような歴史は嘘のように思えるほどである。ライン川畔から一歩街中へ入ると、今度はいかにも歴史を感じさせる石畳の路地になり、落ち着いた雰囲気の町並みとなる。

石畳の路地を歩いて行くとところどころに建物に囲まれた広場がある。プラッツというのだろうが、そのプラッツの一角で2人が話しているように見えたのが、近寄ってよく見ると人形であることがわかり驚いた。奥の店がアーガイル模様のセーターやシャツを売っている衣料店なので、その店の客引きのためかもしれないが、日本ではめったにお目にかかれない光景である。

この人形については後日談がある。年明けの1月28日の朝8時に、このブログを読んでくださった大学の先輩から電話がありNHKのBSでケルンの街並を放映してるよというお知らせを頂いた。世界ふれあい街歩きという番組で、このグロス・セント・マーティン教会傍の広場に立っていた人形について説明があった。この人形はケルンの有名な喜劇に出てくる名コンビで、トゥネスとシェールという名前とのこと。

同じように店の前に案内人形を出している玩具屋もあった。色々な木材を組み合わせた素朴な人形で、ピノキオを彷彿させる木の人形である。ショーウィンドウにはサンタクロースをはじめ色々な人形が見えたので、手作りの人形や木製の玩具を売っているようであった。このような広場や店を見ると通行しているだけでも楽しくなる。

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    歴史を感じさせる石畳の路地      石畳の広場の一角に立つ人形
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    玩具屋の入口の案内人形       古い町並みにも新しい建築が共存

この一帯は、落ち着いた風情の歴史を感じさせる石畳の町並みが主体であるが、斬新なデザインの建築物が囲む芝生のプラッツにも出くわした。三角屋根を基調としたあまりお目にかからないデザインの集合住宅で、これはこれでまた違う独特の美しい雰囲気をかもし出している。いずれにしてもどこを見ても無粋な電柱や電線がないので、すっきりしていて羨ましい。

<交差点の曲芸師>
ドイツに限ったわけではないが、欧米の街を歩いていると交差点が赤信号でも車をよけながら渡ってしまう光景を時々見かける。自己責任意識がはっきりしていて失敗しても自分の責任なので文句はいわないということだろうが、ケルンの街中でチャーターバスが赤信号で停止した時に、面白い光景を見た。

赤信号で車が停まった途端、一人の男性が飛び出してきた。そして取り出したのが例の曲芸で使う棍棒で、見事な手さばきで4本の棍棒を空中に投げ上げ、大道芸人よろしく曲芸を見せてくれたのである。そして青信号に変わる直前、さっと棍棒をまとめて中央分離帯に移り、また次の赤信号での出番を待っているというわけである。

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      ケルンの街角の曲芸師

日本ならさしずめ直ぐにおまわりさんが飛んできて、危険だからやめなさいと警告するとか、通行する車が警笛を鳴らすとかするのだろうが、ここでは皆がその妙技に見とれていて一瞬時間が止まっているような感じであった。青信号の方の道路はその間、車がぶっ飛ばしているので、失敗して棍棒が転がっていったら事故になるな、などと考えるのは日本人だからかなあ、と思ってしまった。

<ケルンとデュッセルドルフの対抗心>
ということで念願のケルン大聖堂とケルン市内の探訪は無事終わった。メッセで訪れたデュッセルドルフは日本企業の現地事務所も多く日本人も多く住んでいて、ビジネスで行く機会も多いが、ケルンはどちらかといえば日本ではそれほどポピュラーでないかも知れない。サッカーのFCケルンの名前は知っていても、ケルンそのものは良く知らない人が多いのではないか。

今回はツアーだったので、チャーターバスの車中では、ドイツ人と結婚してデュッセルドルフに在住されている日本女性お2人が交代でガイドをされた。ケルンとデュッセルドルフについて色々な話を聴くことが出来たが、その解説から、たった35kmしか離れていないケルンとデュッセルドルフの間には、強い対抗心があるとのことで、興味深かった。

ケルンは2012年の人口が102万人でドイツで4番目の大都市である。これに対しデュッセルドルフは同年の人口が59万人である。しかし両都市が所属するノルトライン・ヴェストファーレン州の州都はデュッセルドルフである。第2次世界大戦による破壊程度がデュッセルドルフの方がましだったため、早く復興できたデュッセルドルフが州都になったらしい。

従ってケルンの人々にとってはケルンの方が大都市なのにとあまり面白くない気持があるのに対し、デュッセルドルフの人々は州都であることに誇りを持っているので、両都市は何かにつけて対抗心を燃やすらしいが、このことはウィキペディアの「デュッセルドルフ」の項でも、「ケルンへの対抗」として紹介されている。

「デュッセルドルフとケルンの間には激しい地域の対抗心がある。対抗意識にはカーニバルのパレードやサッカー、ビールなどがある。ケルンの人々はケルシュビールを好むが、デュッセルドルフの人々はアルトビールを好んでいる。ケルンでアルトビールを、デュッセルドルフでケルシュビールを注文すると、軽蔑や嘲笑を受ける。このライバル関係は愛憎関係として表現されている。」

このことを知らずに敵地のビールを注文すると相手にされませんよ、とのガイドさんの忠告であったが、今回は幸いにもケルンでしかビールを飲む機会がなかったので、ケルシュビールを味わっただけであった。というよりはビールの銘柄を何にするかとは一切聞かれなかった、という方が正確である。

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        ケルシュビールのコースター(表と裏)

次の機会にはデュッセルドルフでアルトビールを飲まないと片手落ちだなあと思ったのだが、デュッセルドルフには以前泊まったこともあるので、そうとはしらずアルトビールを飲んだのだろうと思い、改めてドイツビールに敬意を表して帰国の途に着いた。


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