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2013.10.31

幻の大津京

Jrotsukyo
      JR湖西線 大津京駅(滋賀県大津市)

<JR大津京駅界隈>
住んでいる滋賀県大津市に「大津京」という駅がある。京都からJR湖西線に乗って東に向かうと、最初の駅が山科で、次が大津京である。山科まではJRびわこ線(東海道線)も同じ線で、京都駅では同じホームから出発するので、びわこ線に乗って我家に帰るつもりが間違って湖西線に乗ってしまい、「オオツキョー、オオツキョー」のアナウンスでハッと乗り間違いに気づくという失敗談が何度かある。

この「大津京」という駅名は、667年から672年まで天智天皇によって近江大津宮(おうみのおおつのみや)がこの地におかれ、近江京(おうみのみやこ)と呼ばれたことに因んだ名前である。駅の近くの錦織(にしこおり)2丁目付近には近江大津宮の遺構があって、住宅密集地の中に発掘跡の石碑や案内板が建っている。この近辺のことについては2005年に発信したウェブログ「志賀の都探訪」で触れた。

  • 志賀の都探訪

    JR大津京駅前の小さな公園には、この時代に近江大津宮にいた額田王(ぬかだのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)による有名な万葉集の相聞歌が刻まれた歌碑が建っている。歌碑には、額田王の「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」の歌が俵万智さんの書で、大海人皇子の「紫草のにほえる妹をにくくあらば人嬬故に吾恋ひめやも」の歌が小野寛さんの書で刻んである。

    Manyokahi_3(クリックで拡大)
          額田王と大海人皇子による万葉集の相聞歌

    始めの歌は「天皇の蒲生野に遊猟したまへる時額田の王の作れる歌」で、次が「皇太子の答へませる御歌」という大海人皇子の返歌であり、天智のもとに行かねばならない自分は、大海人のもとに戻りたいと願っても戻れない、という額田王の嘆きを歌っている悲恋の歌ということになっている。この詳細については以前のウェブログ「湖東の額田王ゆかりの地」で触れた。

  • 湖東の額田王ゆかりの地

    この歌碑の横に2つの歌を解説した碑が並んでおり、淡海万葉(おうみまんよう)の会が、大津市パワーアップ・市民活動支援事業で建てた歌碑であることがわかる。

    <最初の駅名は西大津>
    JRの駅名は最初から大津京だったわけではない。1974(昭和49)年にJR湖西線が開通したときはここは西大津駅だった。直ぐそばの京阪電車石坂線の駅名はずっと皇子山である。同じ場所に以前からある皇子山とせずになぜ西大津としたのかは分からないが、計画段階では北大津駅にする予定だったとウィキペディアには出ている。

    従って2005年にこの界隈を訪れて上記の「志賀の都探訪」を書いたときは、この駅名は西大津であった。しかしいつのまにか大津京という駅名に変わってしまったのだが、我家は琵琶湖を挟んで反対側を走るびわこ線(東海道線)の沿線に所在するので、湖西線の駅名が変更になったことについてはあまり関心がなかった。

    2013年になって、この駅名改名については色々な経緯があったことを知ることになったので、その顛末について以下に記す。

    <「壬申の乱と風」の個展を見に行く>
    2013年7月15日に近江の歴史に関心があるということで知り合った友人から、鈴木靖将さんという大津市在住の日本画家が「壬申の乱と風」という個展を開いていると教えてもらったので、早速会場のギャラリー唐橋に拝見に行った。瀬田の唐橋は672年に壬申の乱の最後の決戦が行われた因縁の地である。

    壬申の乱は、天智天皇の皇子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子による皇位継承をめぐる戦いで、当時の有力豪族達が近江朝廷の大友皇子を支持する勢力と、不破(岐阜県)に陣取った大海人皇子を支持する勢力に分かれて戦ったいわば天下分け目の未曾有の大乱で、以前のウェブログ「大津市に残る壬申の乱伝承の地」で触れた。

  • 大津市に残る壬申の乱伝承の地

    ギャラリー唐橋では、鈴木靖将さんの手になる万葉集を題材にした日本画が多数展示され、さらに大津京逍遥という5枚の大壁画が展示されていた。663年の白村江の戦い、667年の大津京造営、蒲生野遊猟、宴、672年の壬申の乱、柿本人麻呂の万葉集の挽歌を題材にして大津京の栄枯盛衰を描いた5部の大作である。

    Suzuki(クリックで拡大)
                  「壬申の乱と風」個展(鈴木靖将画伯)

    会場に鈴木画伯がおられたので、壬申の乱の弊ウェブログのコピーをお渡しして挨拶したら、いにしえの壬申の乱に関心がある物好きな奴だと思われたらしく、大壁画の前まで親切に案内して頂き、なぜこのような大津京逍遥という大壁画を制作したかの理由を詳しく説明して下さったのである。

    説明によると、画伯は淡海万葉の会の会長を務めておられ、JR西大津駅を大津京駅に改名する時に多額の資金が必要だったので、これらの大壁画を描くことを思い立たれた。そして、その中に登場する人物のモデルになりたい人から1万円/人の寄付を募るということにして見事目標金額を達成したということであった。

    「へー、それは知らなかったですね。知ってたら応募したかも知れませんね。」と申し上げていたら、一人の男性が会場に入って来られた。画伯は「この先生は大友皇子のモデルになられたのでたくさん出して頂きましたよ」と笑いながら紹介して下さったので名刺交換したら、滋賀県立大学名誉教授で琵琶湖博物館特別研究員の林博通先生とあった。

    つまり鈴木画伯が会長を務める淡海万葉の会や、林先生が大津京駅への改名を熱心に推進されたわけである。従ってこの時は大壁画制作やその支援に敬意を払って、鈴木画伯の力作である大津京逍遥の壁画の絵はがきを記念に購入し、林先生にも挨拶して帰宅したのであった。ところがこの直後に意外な事実を知ることになった。

    <龍谷大学RECコミュニティカレッジを受講する>
    我家の近傍には「びわこ文化ゾーン」と呼ばれる文教施設が集まった地域があり、立命館大学びわこくさつキャンパス(BKC)、滋賀医科大学、県立図書館、県立近代美術館、県立埋蔵文化財センター、龍谷大学瀬田学舎などが並んでいる。

    龍谷大学には、龍谷エクステンションセンター(REC)という社会人も対象にした施設があって「RECコミュニティカレッジ」という生涯学習講座を開いている。今年の3月でフルタイム勤務が終わったので、7月から8月にかけての「近江国と寺院の造立」という歴史講座を受講した。ちょうど上述の個展のすぐ後に始まったわけである。

    Ryukoku

    この講座を受講した理由は、我家が所在する滋賀県の湖南地域に、昔、白鳳寺院が林立していた草津市の常磐地区があるので、なぜこの湖南の一角に白鳳寺院が多数建てられたのか、その理由を知りたかったからである。この常盤地区界隈の白鳳寺院に関しては、以前のウェブログ「湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説」で触れた。

  • 湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説

    講師は大谷大学の櫻井信也先生で、日本書紀などの古代文献に現れる仏教寺院の記載から、近江の寺院の造立の歴史を追ってゆくという講義であった。考古学的にはたしかに近江には白鳳寺院が多いことが知られているが、古代文献でその理由を探るのはなかなか難しいということが理解できた。

    従ってお目当ての常盤の白鳳寺院についてはこれという結論は得られなかったが、この櫻井先生の講義の中で大変ショッキングな説明を受けたテーマがあった。

    <「大津京」という用語は学術的には誤り>
    櫻井信也先生のお話では、「大津京」という用語は明治になってからの造語であり、学術的には誤りであるという説明をされたのである。改名されたJR駅の「大津京」という呼び方は古代文献にはなく、日本書紀などでは「近江大津宮(おうみのおおつのみや)」や「近江京(おうみのみやこ)」が用いられているのみで、大津京という呼称は学術的には正しくないとのことであった。

    また、京(きょう)という言葉は、学術的には律令政治の下で造営された条坊制の区画(碁盤の目)をもつ都と定義されており、歴史的には、持統天皇の藤原京以降とされているという。明治の歴史学者である喜田貞吉が近江の都にも条坊制区画が存在したであろうと考え「大津京」と呼んだが、その遺構は見つからなかったので現在では否定されているという。

    これはいささか私の認識不足であったと反省し、講義終了後に櫻井先生にさらにお伺いしたところ、「古代史の海」の別刷りを3冊下さったのである。それぞれの表題は、「大津京」改名運動と歴史認識(2006年3月)、「大津京」の定義と学術用語―林博通「「大津京」呼び名の正否」及び「飛鳥の「京」と大津の「京」」に対する疑問―(2009年3月)、「大津京」論の現在と駅名改変(2009年9月)となっている。

    Otsukyo(クリックで拡大)
                       古代史の海(櫻井信也)

    <論争のあった駅名改名>
    櫻井先生に頂いた冊子を拝読すると、1974(昭和49)年に開通した琵琶湖の西岸を走るJR湖西線の「西大津」駅を、2000(平成12)年頃から、この地域に天智天皇が大津宮を設けて都が存在したという事実を発信したいという地元の歴史遺産アピールの観点から、「大津京」駅へ改名したいという運動が起こったらしい。

    この過程で櫻井先生は上記のように学術的には問題のある「大津京」という駅名改変には強硬に反対され、林先生たち推進派との間で論争が起きた。2007〜2008年に渡って、改名する会や顧問の学者の住民の意思こそ重要との立場に立つ推進論や、歴史偽装や白紙撤回の立場に立つ学者の反対論がマスコミにも出たようである。市民運動ネットワーク滋賀という団体は、両者の論を載せた朝日新聞記事を紹介している。

    しかし結果的には、町おこしや地域振興の一環であるという理由で「大津京」が通り、JRの西大津駅は2008(平成20)年3月から「大津京」駅に改名された。ウィキペディアの「大津京駅」には、「大津京駅への改称は地元自治体を中心とした請願の結果行われたが、「大津京」という語が歴史学的に不適切であるとの指摘が研究者などからなされている。」との駅名改称に関する議論が出ている。

    またウィキペディアの「近江宮(おうみのみや)」には、近江京と「大津京」という項目があって、以下のようにさらに詳しく触れてある。

    「日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。」

    「明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。」

    「また、JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により2008年3月に「大津京駅」に改称されたが、「大津京」という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている。」

    <所感>
    門外漢なので持論があるわけではないが、「大津京」という用語にはこのような論争があったことは認識しておかなくてはならない。上記の朝日新聞の記事にあるように、古代史の遷都に関する受験問題で「大津京」と回答したら間違いとされるでしょう、と仰る高校の先生がいることは、受験生にとっては気の毒である。

    この地域の子ども達はJR駅名の「大津京」になじんで育ち、実際にここに大津京が存在したと認識するだろうが、学校の教科書や正確な歴史を学んだときには「大津京」は歴史的に存在しなかったということを知り、混乱が生じるかも知れないという変な駅名になってしまったわけである。

    歴史認識の違いというものは、何も中国や韓国と日本の間のように、国単位だけで起こるものではなく、身近な大津市内でも起こるものであることを知った。まさに幻の大津京である。

    <林博通先生の功績>
    なお、大津京改名を推進された林博通先生は、大津京の発見者であることも知ったので、その発見の経緯を知りたいと思い、この後のウェブログ「続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る-」にアップした。

  • 続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る-

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