カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々
(図はクリックで拡大)
カッテンディーケ オランダから回航してきたヤパン号(咸臨丸)
<明治維新とキリスト教>
キリスト教のことである。前編で、同志社を設立した教育者で牧師の新島 襄と、日本海軍を創始した立役者で政治家の勝 海舟が一見全く違うジャンルで活動していたように見えるが、実はキリスト教を介して深い交友関係にあったことに触れた。
また、新島 襄がキリスト教を標榜する同志社を、京都という旧来日本文化の中心地に開くことが出来たのは、森有礼、田中不二麿、木戸孝允たちの明治新政府の指導者たち、あるいは山本覚馬のような京都府における指導者と深い交友関係が築けたためであるが、彼らは新島 襄のキリスト教思想に共感を示し、中には自ら洗礼を受けた者がいることも、以前のウェブログ「新島 襄と同志社」で触れた。
つまり、キリスト教は、五か条のご誓文に続いて出された五榜(ごぼう)の掲示の、第三札「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ 若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事 慶應四年三月 太政官」を見てもわかるように、明治維新の時点では依然として禁制であったにもかかわらず、それに拘らなかった明治期の指導者がいたということである。
もちろん岩倉使節団の欧米訪問により、キリスト教を禁制したままでは不平等条約改正が不可能と悟って、いわば外圧によってその不利を理解した向きも多いのだが、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教精神に親近感をもった勝 海舟や新島 襄、さらには内村鑑三や新渡戸稲造のような人物が出たことは考えてみれば不思議でもある。
<プロテスタンティズムと「自助論」の世界>
我が信奉する司馬遼太郎は、1989(平成1)年に刊行した「明治という国家」(NHK出版)の中で、上記の疑問につき鋭い解釈をしている。この書の第7章「自助論」の世界で、明治国家とキリスト教という話をします、というくだりが出てくるので、この疑問に関係すると思われる部分を少し引用してみる。
「ご存知のようにキリスト教には、大別して旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の二つがあります。明治時代は不思議なほど新教の時代ですね。江戸期を継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適ったということですね。勤勉と自律、あるいは倹約、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。これはおそらく偶然の相似だと思います。」
「近代に入ってカトリック国というのは、フランスをのぞいて、どうしてふるわない---というと語弊がありますから、---風変わりなものになったのでしょう。マフィアの産地のシチリア、そしてイタリア、スペイン、ポルトガルなどは、カトリックの国です。そして中南米の諸国。」
「なにをもって風変わりというか、と怒る人がいるにちがいありません。自律、自助、勤勉というプロテスタンティズムからみて風変わりだ、ということなのです。プロテスタントの国とは、たとえば、イギリス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、そして1950年代までのアメリカ合衆国。さらにこれにつけくわえるとすれば、江戸時代をふくめた日本です。日本はプロテスタントの国じゃありませんが、偶然似たようなところがあるのです。」
「明治日本にはキリスト教はほんのわずかしか入りませんでしたが、もともと江戸日本が、どこかプロテスタンティズムに似ていたのです。これは江戸時代の武士道をのべ、農民の勤勉さをのべ、また大商人の家訓をのべ、さらには町人階級の心の柱になった心学(しんがく)をのべてゆきますと、まことに偶然ながら、プロテスタンティズムに似ているのです。江戸期の結果が明治国家ですから、これはいよいよ似ている。」
つまり司馬遼太郎は、江戸期の日本にはもともとプロテスタンティズムと似たような気質があり、そのような素地にあった江戸期の結果としての明治国家はいよいよプロテスタンティズムに似てきた、ただし似ていないのはゴッドとバイブルをもっていない点だった、と解釈している。
もちろんこの第7章には司馬遼太郎がこのような解釈に到るための、日本におけるキリスト教伝来と弾圧の歴史から、明治における解禁と受容に関する事蹟が詳細に述べられている。福沢諭吉の「西洋事情」が幕末・明治初年のベストセラーとすれば、それに匹敵するかあるいはしのぐほどの明治初年の大ベストセラーが、中村敬宇(正直)翻訳の「西国立志編」だったことも強調している。
「西国立志編」のもとの本は英国の著述家サミュエル・スマイルズの「自助論(Self Help)」で、英国のプロテスタントが共有していた、独立心をもて、依頼心を捨てよ、自主的であれ、誠実であれ、勤勉であれ、正直であれ、をくりかえし説いている書らしい。中村敬宇は幕府の昌平黌きっての秀才で、静岡に移住した徳川家の子弟たちを勇気づけるために愛読していたこの書を翻訳したという。
さらに司馬遼太郎は、日本では「まじめ」の代名詞となったクリスチャンに対する仏教僧の反省のエピソードを紹介していて面白い。「われわれは酒を飲んだりしてじつにふまじめではないか、せめてプロテスタント牧師のように禁酒しようじゃないか」ということで、本願寺僧侶がまっさきに反省して、明治20年に京都の西本願寺から「反省会雑誌」なるものが生まれたという。
この反省雑誌が12年続き、本社が東京に移され、今の「中央公論」の前身になったとのことである。「この反省会雑誌は仏教僧侶でさえ、神なきプロテスタンティズムにあこがれた、という証拠の一つでありましょう。明治の精神をこの面からみると、じつにわかりやすいように思えるのです。」と、司馬遼太郎はこの章を結んでいる。
<勝 海舟とカッテンディーケ>
前編で勝 海舟が意外なことにキリスト教の理解者であったことに触れたが、司馬遼太郎はまた勝 海舟のことを日本史上、異様な存在とする。異様とは“国民”がたれひとり日本に存在しない時代において、みずからを架空の存在とし、みずからを“国民”にしてしまったことであると述べ、そのことについてもこの書で解釈している。
この書の第9章は、「勝 海舟とカッテンディーケ」という章であり、司馬遼太郎は、“国民”の成立とオランダ、というサブタイトルをつけて、鎖国下の江戸日本が数ある西欧諸国の中で唯一つきあった国であるオランダから受けた影響を論じている。オランダは新教と商業主義的自由を奉じて世界でももっとも早く市民社会をつくりあげた国であった。
オランダは、16世紀にカトリック教会の堕落を遠慮会釈なしに思想書「痴愚礼賛」で書いたエラスムスや、17世紀に合理主義や無神論を唱えたことで有名な大思想家のスピノザを輩出し、あまり富の不合理な集中が起こらなかった国であったことが、法の下で平等で均質であり、自分と国家を同一視するといった“国民”の概念を早くに獲得していた国であったとしている。
そのオランダからやってきたカッテンディーケが触媒となって勝 海舟に“国民”という思想を植え付け、勝 海舟はその思想を坂本竜馬に移植して薩長同盟がなり、さらに三田の会談においてその思想が西郷隆盛の心に響いたことが、江戸の無血開城という日本史上(もしくは世界史上)もっとも格調の高い歴史を演じさせたというのが、この章の骨子である。
カッテンディーケは、以前のウェブログ「長崎と勝 海舟」で述べた幕末に設置された長崎海軍伝習所の、第2次教師団の団長として長崎に赴任したオランダ海軍の派遣隊長である。冒頭写真のように幕府がオランダに発注したヤパン号(引渡し後は咸臨丸)を回航して1857(安政4)年に着任した。長崎海軍伝習所において、カッテンディーケと勝 海舟とは、教師と生徒隊長といったかたちで相まみえることになった。
このように「明治という国家」で述べられている司馬遼太郎の解釈は、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教的精神や藩を越えた国民という視点に親近感をもった勝 海舟や坂本竜馬、さらに新島 襄たちが生まれたことの疑問への、かなり説得力ある回答である。
それではカッテンディーケは、どのように勝 海舟に触媒作用を及ぼしたのであろうか。カッテンディーケは帰国後にオランダで「滞日日記抄」という日記を出版したことは関係者に知られており、オランダ総領事を務められた水田信利氏により「長崎海軍伝習所の日々」として翻訳出版されているので、滋賀県立図書館から借りて読んで見た。
<カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々>
カッテンディーケ著、水田信利訳の「長崎海軍伝習所の日々」は、1964(昭和39)年に平凡社の東洋文庫から出版されている。原作の「滞日日記抄」は1860(万延1)年にオランダのハーグで出版されたもので、カッテンディーケが長崎に赴任していた1857(安政4)~1859(安政6)年の日本の江戸時代の様子を知ることが出来る貴重な日記である。
カッテンディーケはこの書のはしがきで、この日記は自分の記憶に便ずるだけの目的で記録したものなので、日本の紹介には必ずしも役に立つものではないこと、また、職務も何回かの沿岸巡航を除いてはいつも長崎に縛り付けられていて、江戸すら訪れる機会に恵まれなかったことから、記述も九州周辺に限られるので、この日記の出版にはかなり躊躇した末踏み切ったと記している。
出版に踏み切った理由として、伝習所の生徒たちと結んだ深い人間関係から、これまで知られなかった幾多の事実を明らかにすることができ、このことが本書に多少なりとも価値をつけることになり、目を通した友人が出版を勧めてくれたので、と説明している。そして日本人生徒との交友も具体的に述べている。
「若々しくてしかも名門の日本人諸君と結んだ親密な関係や彼らと交えた日常の交際は、およそこの国を訪れた他の幾多の人々よりも、どれだけ詳しくこの注目すべき国民を知悉せしめたか知れない。彼らは教室だけでなくしばしば我等の家にまで来訪し目付役の付添いのない場所で学問を進めることができた。」
「さらに、我々は日本人諸君と、或いは船内で、或いは陸上で、幾日も幾日も、また幾夜も共に過ごしたが、それが相互の信頼感を大いに増した。特に彼らが、付添役のいないところで、彼らの考えを存分に語ることができた場合など、それがヒシヒシと感じ取られた。我々はこれによってこれまで知られなかった幾多の事実を明らかにすることができた。」
つまりカッテンディーケは、後にオランダの海軍大臣や外務大臣を務めるほどの人物で紳士であるから、一般論でさらっと目付役や付添役のいないところでも生徒たちと交流したと述べているが、このような大胆な挙動ができるには、生徒自身もオランダ語がよほどできなくてはならないし、時勢に対する見識がなくてはならない。このようなことができたのは勝 海舟くらいであろうと想像されるのである。
カッテンディーケはこの書で、日本とヨーロッパとの関係の歴史、日本におけるキリスト教の歴史、日本の政治機構に変革をもたらした16世紀の重要事件も記しているので、日本への着任前に日本語も習うなどして周到に準備したことがわかる。また当時の日本の風俗、慣習、政治制度、出会った日本人も非常に鋭く観察していて、オランダ人の目でイギリス、フランス、アメリカなどの欧米諸国や支那と対比しているのも面白い。
このような鋭い観察や批判は、彼の言うとおり、目付役のいないところで交わされた日本人生徒(特に勝 海舟)との本音の交流から彼自身の感覚で捉えたものであろうし、勝 海舟は逆にカッテンディーケから民主主義、国民、市民などの概念を会得し、自分の思想にまで昇華させていったに違いない。司馬遼太郎のいうカッテンディーケの勝 海舟に対する触媒作用とはこのことであったように思われる。
<第二次派遣隊による伝習内容>
それでは勝 海舟たち日本人伝習生はどのような授業を受けていたのだろうか。カッテンディーケはこの書の中で第二次派遣隊の課程は次のように定められたと具体的に記載していて、並々ならぬ高度な授業であったことがわかる。
隊長中佐の受持ち 鋼索取扱い 週3時間
演 習 週3時間
規 程 週3時間
地文学 週2時間
一等中尉の受持ち 艦砲術 週5時間
造 船 週5時間
艦砲練習 週6時間
ただし歩兵操練の監督を兼ねる
二等尉官の受持ち 運転術 週5時間
数学代数 週5時間
帆の操縦法 週9時間
ただし測定器、海図、観測および時球の監督を兼ねる
主計士官の受持ち 算 術 週9時間
軍医の受持ち 物 理 週3時間
化 学 週3時間
分析学 週3時間
繃帯術 週3時間
機関士官の受持ち 蒸気機関学理論 週6時間
ただし飽ノ浦工場の建設及び蒸気機関の監督を兼ねる
軍人以外の教師の受持ち 年少通辞に対するオランダ語
および算術の教授 週11時間
騎 馬 週10時間
海兵隊下士官の受持ち 歩兵操練 週15時間
船上操練 週4時間
一般操練 週3時間
鼓手の受持ち 軍鼓の練習 週12時間
漕手の受持ち 水兵の仕事練習
看護手の受持ち 医官の手伝いまたは印刷部の手伝い
一見してすごいカリキュラムであった事が実感される。これを漢学や国学で育った幕臣や藩士が通辞を介してオランダ語で授業を受けるわけである。子母沢 寛の「勝海舟」には、ほとんどの伝習生がネをあげ、オランダ語がよくできた勝 海舟に泣きついてくる場面があるが、さもありなんという気がする。
<カッテンディーケから見た日本人の生徒たち>
カッテンディーケはこれらの授業を受けた生徒たちについて印象を述べているが、当時の日本の生徒の選抜方法や生徒たちの意識をよくついている。
「生徒のほうも、皆年齢が長じてから始めて勉強するのであるから、一通りの苦労ではなかったと思われる。私には何を標準に生徒の選抜をするのか、よくは呑み込めなかった。日本当局は、あまり生徒の能力といったものには頓着しないで、ただ門閥がものを言い、一切を決定するらしいから、どんなに馬鹿らしくても、どうにも仕様がない。ただ不行状だけは仮借しない。」と能力主義でない点をついている。
「私の信ずるところによれば、いわゆる海軍軍人に仕立てられるこれら生徒たちの大部分は、ただ江戸に帰ってから、立身出世するための足場として、この海軍教育を選んだに過ぎないのだ。私は当局に対し、真の海軍将校を作るためには、十四、五歳の少年を養成するのがよいと勧めたことが、一再ではなかった。」と、多くの生徒が必ずしも海軍将校になる気がなかったと指摘している。
「我々は40人の旗本出身の生徒に、あらゆる航海学の教育を施したが、これら将来士官に任用せらるべき運命にある人々は、少なくとも何事も大綱だけは、一通り教わっておくべき筈なのに、いつも“拙者は運転の技術は教わっているが操練はやらない”とか、あるいは“拙者は砲術、造船、および馬術を学んでいるのだ”という風で、勝手気ままな考えで勉強をしているのだ。」とも見ており、グローバルな視野を持とうとしない日本人の特質を見抜いている。
<カッテンディーケの見た勝 海舟>
カッテンディーケは勝 海舟に対しては、やはりオランダ語もよく出来、色々な難問をてきぱきと処理する人材と見ているとともに、彼の図太さもしっかり見ている。
「大目付役は、どうもオランダ人には目の上の瘤であった。おまけに海軍伝習所長はオランダ語を一語も解しなかった。それに引き替え艦長役の勝氏はオランダ語をよく解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも、彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。」と、すこぶる評価が高い。しかも、勝 海舟の問題可決能力が極めて優れていることをカッテンディーケも認めている。
ところが、「しかし私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかを直ぐ見抜いてしまったのである。すなわち我々のお人好しを煽(おだ)て上げるという方法を発見したのである。」と、勝 海舟がある意味で図太くオランダ人に接し、彼らを手玉に取ろうとしていることもしっかり見ている。
このようにカッテンディーケと勝 海舟は、肝胆相照らすような間柄になっていたようである。日本人が何でもないことにダラダラと数ヶ月も審議に時を費やす態度に、辛抱しきれずに焦々(いらいら)させられた時、勝 海舟から教訓を受けたといっている。ペリー提督について、「彼は良い人間ではあったが、大そう焦々した、そうして不作法な妙な男だった。」と勝 海舟が言ったのだが、彼はおそらく私を諷して言ったのだろうと述べている。
<国民意識の植え付け>
司馬遼太郎は、カッテンディーケが触媒となって、勝 海舟が当時はたれひとり意識していなかった「国民」を自認し、それが坂本竜馬に移植され、さらに西郷隆盛に響いたと解釈していることに対し、この書でカッテンディーケが勝 海舟に国民の概念について直接どうこういったという話はないが、次のような記載がある。
「私はこれまで幾度となく、調子が合わない嫌いがあるから改めてはどうかと注意したにもかかわらず、今まで肥前藩の艦船には、日本国旗ではなくて、肥前の藩旗が掲揚されていた。この結果として幕府方の士官は、ナガサキ号に乗ることを嫌った。」という有様であったが、肥前藩がある航海の時にカッテンディーケの助けを求めた。
「そこで、私は右の助力に対する申し入れは、伝習所長を経てなされなければ応諾はできないと断った。ところがその結果、同船の旗は、肥前藩のものを降ろして、幕府の旗に替えられることになり、幕府方の士官一同も、大満足を感じたのである。このこと自体は、誠につまらぬことのようだが、この決定は日本人の先入主を抑え、一種の勝利であったから、私はこれを重要視したのである。」
つまりカッテンディーケは、「日本国内は大小幾多の藩が、互いに独立しているというほどでなくとも、皆嫉視し合って、分かれているような状態であるから、単一の利益を代表するなどということは思いも寄らぬことであるからだ。これは結局、一般の不利益でしかない。」ということを、日本人に指導したわけである。勝 海舟はこのようなカッテンディーケの思想をよく理解し、「国民」という概念を身につけたのだろう。
オランダ語がよくできた勝 海舟は、出島にも出入りして直接カッテンディーケやオランダ人と接触し、三色旗の下で歌われていたローフ・デン・ヘールが旧約聖書のダビデの詩篇からとった賛美歌であることを知り、和訳したものが「何すてと やつれし君ぞ」という日本語の賛美歌になっていることは、前編の「新島 襄と勝 海舟」で触れた通りである。
<所感>
なぜ、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の日本的な素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教的精神や、藩を越えた国民という視点に親近感をもった勝 海舟や坂本竜馬、さらに新島 襄たちが生まれたのだろう、ということの疑問から、司馬遼太郎の解釈に接し、その結果、カッテンディーケにまで来てしまった。
昔の日本を西欧人の目で見た書として、以前のウェブログ「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」でイギリス人のイザベラ・バードの見た日本に触れた。彼女の見た日本は明治維新後の1878(明治11)年の日本であったが、オランダ人のカッテンディーケの見た日本は、イザベラ・バードよりさらに20年余り前の、まだ江戸時代の日本である。しかもイザベラ・バードは日本の中でも文化の浸透が遅かった東北や蝦夷日本を見、カッテンディーケは日本の中では最も国際化されていた長崎を見たということになる。
両方の書を読んで感じるのは、「事実をありのままに見る」という公平な観察態度である。イザベラ・バードの時もプライバシーを保てない生活の中でも、物事を観察する態度は冷静であり、その本質を見ようとする観察態度に強い感銘を受けたが、カッテンディーケも来日前には事前勉強をしっかりしていて、着任してからの日本を見る目は非常に客観的である。
イザベラ・バードは、どうも短足胴長の日本人男性より、背も高く彫りの深い顔立ちのアイヌ人男性の方に好みがいったようであり、日本男子の読者としてはやっかみも出る部分があったが、カッテンディーケは日本酒の美味しさをワインと比べて礼賛しているところもあり、かなり日本びいきになっていたことは間違いないように思われる。
肥前藩の防護施設を視察した後の食事で、「食事はヨーロッパ風の料理に葡萄酒などを揃えて出したが、その葡萄酒の味ときたらとても不味くて、何べんも何べんも繰り返される乾杯には、むしろ日本酒をもって答えたくらいであった。日本人は一度始めるときりがない。私はその折、日本酒も此処のように良いものならば、ずいぶん多量に飲んでも、決して害がないことを経験した。」
「いやしくも正直なヨーロッパ商人なるかぎり、どうしてあのような葡萄酒を、日本人に売りつけられようか。私には全くの謎である。しかもそればかりではない。彼らヨーロッパ商人は、日本人がサン・ジュリアンとかカンタメアルなどという葡萄酒よりも、日本酒のほうを好む理由が解せないとさえ、日本人に向かって言っているのだから、ただ驚くの外ない。」と、日本酒を擁護してくれている。
たしかに司馬遼太郎の観るように、江戸日本の気質と、オランダのプロテスタンティズムおよび国民や市民の概念が結びついて、幕末の一部の日本人に、幕府解体以降の日本の進むべき道を照らしたことは間違いないのであろう。日本の皇室はオランダ皇室と今も深い交友関係を結ばれているが、一般の日本人も日本が近代化するにあたってのオランダの貢献を忘れてはなるまい。
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