新島 襄と勝 海舟
<新島 襄と勝 海舟の交友>
今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」も会津戦争の終盤である。会津戦争が終われば舞台が京都に移り、八重の夫、新島 襄の出番である。新島 襄については、1000年の王城の地であり、全国の社寺仏閣の総本山が集まったいわば旧い日本を代表する京都の地に、なぜキリスト教を標榜する同志社を建てることが出来たのだろうという疑問をもち、以前のウェブログ「新島 襄と同志社」で触れてみた。
この時、新島 襄の墓碑銘は勝 海舟が揮毫したものであることを知り、片やキリスト教徒で教育者の新島 襄と、片や日本の海軍創始者で政治家の勝 海舟という、何となくイメージの異なる2人の間に交友関係があったことに意外な感じを受けたのだが、八重の兄の山本覚馬が江戸に出て学んだ佐久間象三の塾で勝 海舟と一緒だったことから、この縁によるものであろうと、やはり以前のウェブログ「京都の近代化を進めた会津藩士-山本覚馬-」で触れた。
しかし氷川清話や海舟座談で、海舟は「新島は少しは出来る男だと思ったから、それでひどく言うてやったのサ」と表現したり、新島 襄の墓碑の裏面には「友人勝安芳新島氏の長眠を悼み追想の餘(あまり)これを書す」と書いたりし、さらには福沢諭吉の慶応義塾設立の時は寄付を断ったのに、新島 襄の同志社設立にはすすんで寄付をしていることから、勝 海舟と新島 襄との絆は並みの関係ではなく深い交友関係にあったように思える。
2人の関係をもう少し知りたいと思っていたら、昨年、上記ウェブログを読んでくださった同志社大学の先生から、「新島八重子回想録」の復刻版が出版されましたよ、というお知らせを頂いたので1冊購入したところ、同志社の出版リストの中に「勝海舟と新島襄」(竹中正夫著)という著書があることがわかったのでこれも一緒に購入した。
著者の竹中正夫先生の経歴には、京大経済学部、同志社大学神学部、イエール大学大学院卒業で、同志社大学名誉教授、聖和大学教授、日本クリスチャン・アカデミー理事長とあり、従って、キリスト教という切り口から勝 海舟と新島 襄の結びつきを論じた大変ユニークな著書である。1993年に開催された新島講座第14回東京公開講演会で話された内容を小著にまとめたとある。
<新島旧邸の応接間にかかる勝 海舟の書>
竹中先生が、2人の結びつきを考え始めたきっかけは、冒頭写真に掲げた京都の新島旧邸にある「六然訓(りくぜんくん)」の書を見たことによるという。新島旧邸は新島 襄と八重が住んだ邸であるが、新島 襄はこの邸のいわば最も大事な部屋ともいえる応接間に、勝 海舟が揮毫した「六然訓」の書をずっとかけていたらしい。
六然訓(りくぜんくん)は中国の古いことわざであるが、勝 海舟は自らを六然居士、六然の男と称し、新島 襄だけではなく親しい人によく揮毫して与えたという。
自処超然(ちょうぜん) 自分に対しては超然としてこだわらない。
処人藹然(あいぜん) 人に対しては霧のように温かく柔らかく包む。
無事澄然(ちょうぜん) 事がなければ澄んだ思いをもつ。
有事斬然(ざんぜん) 事があるときはきりっとする。
得意淡然(たんぜん) 得意なときは淡々とする。
失意泰然(たいぜん) 失意のときは泰然自若とする。
百聞は一見にしかずということで2013年5月29日に新島旧邸を訪れた。一昨年も訪れたのだが開館日が限られており、このときは表門の写真を撮っただけであった。ところが「八重の桜」放映のおかげで、昨年9月から今年12月までの期間、火曜以外は毎日開館ということに変わっており、ボランティアも多数おられ人気のほどが偲ばれた。
新島旧邸のある敷地は、明治初年には華族の高松保実が所有していたが、明治8年に新島 襄が半分を賃借りして生徒8名で同志社英学校を開校した。つまり同志社発祥の地である。翌年、学校は山本覚馬が所有していた今出川の旧薩摩藩邸に移ったが、その後新島 襄は高松邸を購入して自宅を建築し、八重夫人と共に住んだ。これが現在の新島旧邸になっている。
新島旧邸は撮影可とのことであったので、今も応接間にかかっている勝 海舟の六然訓の額や、新島 襄が執務した書斎を撮影させてもらった。入口でもらったパンフレットには応接間の写真は出ており、六然訓の額も写っているが説明はないので、知識がないと見逃してしまう。現場の額の直ぐ下には勝 海舟「六然の書」との説明書きがあるので知識があれば、あ、これか、とわかる。
<新島 襄と勝 海舟の出会い>
このように新島 襄は勝 海舟からもらった六然訓を大事にし、勝 海舟は新島 襄の死を悲しみ悼んで墓碑銘を揮毫した。さらに新島 襄の葬儀の模様は、徳富蘇峰が主宰した民友社の「国民新聞」でわかるそうであるが、新島 襄が愛誦していた句や彼の精神をあらわす言葉を書いて弔意を表した幟旗が葬儀の行列の中に何本もあったらしい。
その中に、「自由教育、自治教会、両者並行、邦家万歳」とか「彼らは世より奪わんとす、われらは世に与えんと欲す」とかの新島 襄の言葉を書いた幟旗を民友社の社員が担いでいて、これらは勝 海舟が書いたものであると「国民新聞」に報じられたそうである。因みに幟旗の中には、大阪仏教信徒のものもあり、新島 襄は仏教徒からも慕われていたことがわかる。
このような2人の交友のもととなった出会いは、前後5回あったとのことである。以前のウェブログ「新島 襄と同志社」で触れた1879(明治12)年2月の最初の出会いでは、「大金を扱ったことがないのに大学設立は無理だ」とか、「新島は少しは出来る男だと思ったからひどく言った」とか、「仏教のことを知らない」とかの海舟一流の人物評価の試練を受けていることが氷川清話や海舟座談からわかる。
しかし新島 襄はめげずに翌日も訪問して自分の信念を吐露し、その年の11月にも再訪して海舟の屋敷の一部に住んでいたホイットニー家の夕拝で話をしたという。ホイットニーは蔵前の高等商業(一橋大学の前身)の校長として明治政府が招いたが住居の面倒までは見なかったので、勝 海舟が奔走して自分の屋敷の一部に住まわせていた。
さらに1882(明治15)年に新島 襄はまた海舟を訪問して上記の六然訓を書いてもらったという。新島 襄は「書ハ余程見事ニ出来ス、先生之気象ヲ見ル(ニ)足レリ」と記しているらしい。翌年には全国基督信徒大親睦会で説教した後、勝家を訪れ、ホイットニーの娘クララにも会っているという。クララは、以前のウェブログ「長崎と勝 海舟」で触れたように、海舟が長崎で知り合った梶クマ(お久さん)との間に産まれた梅太郎と、1886(明治19)年に結婚する。
その後1888(明治21)年には、同志社大学設立に関して海舟を訪問しており、「応分之寄付もなすへく又周旋も致すへき旨」の承諾を受けたという。しかしこの2年後に新島 襄は他界した。このような経緯を知ってみると、勝 海舟が、自分の信念にもとづいて教育の理想実現に燃えた新島 襄の早すぎる死を、深く悲しんだことは想像に難くない。
上記の新島 襄の勝邸訪問は、いつも津田 仙の案内だったという。津田 仙は青山学院の創立に関わったキリスト教徒で、勝 海舟と親交があった。娘が、岩倉使節団に随行して渡米し、後に津田塾大学を設立した津田梅子である。竹中先生の著書から、勝邸に出入りしていた人々の中には、津田 仙、徳富蘇峰、横井時雄、巌本善治、山路愛山、中村正直、新島 襄、小崎弘道、内村鑑三などの著名なキリスト教徒が多くいたことがわかる。
つまり勝 海舟は、幕末の歴史や子母沢寛の「勝海舟」を読んで抱く海舟像からすると意外な一面をもっており、キリスト教に理解や親近感を抱いていたということになる。海舟がそのような感覚をもつに至った背景を竹中先生の著書から探ってみることにする。
<剣と禅とキリスト教>
竹中先生は、中央公論社の日本名著シリーズ「勝海舟」の冒頭に、評論家の江藤 淳が「剣と禅とキリスト教」という表題のもとに解説論文を書き、「海舟の精神構造とキリスト教との関係は今後の重要な研究課題となるに違いない」と述べていることにヒントを得たと述べておられる。
先生は、この表題を見たとき、剣の人勝海舟はわかる、禅の人ということもわかる、しかしキリスト教というのは新しい視点である、と感じ、同志社で近代日本とキリスト教の関係を研究してきたものとして、その問いに答える必要があると思って、勝 海舟とキリスト教の関係を調べられたという。以下に紹介するいくつかの史実から勝 海舟の知らなかった一面が浮かび上がってくるので、勝 海舟ファンとしては大変興味深い。
<海舟と賛美歌“ローフ・デン・ヘール”>
蘭学史研究者の菱本丈夫氏は、「勝海舟訳オランダ賛美歌」という論文を1971(昭和46)年に発表された。オランダ語のローフ・デン・ヘール(Loof den Heer)、日本語では「なにすとて やつれし君ぞ」という賛美歌で、勝 海舟が翻訳した新体詩ということで知られていたが、この歌がどこから来たのかは長くわからなかったらしい。
勝 海舟の訳文
なにすとて、やつれし君ぞ、哀れその、思ひたわみて、
いたづらに、我が世を経めや、あまのはら、ふりさけみつつ、
あらがねの、土ふみたてて、ますら雄の、心ふりおこし、
清き名を、天に響かし、かぐはしき、道のいさをを、
あめつちの、いや遠ながく、聞く人の、かがみにせむと、
我はもよ、思ひたまはず、おほろかに、此の世をへしと
おもやつれども。
菱本氏の研究で、この歌は旧約聖書のエホバの神を賛美したダビデの詩篇からとられたことがわかり、さらに勝 海舟の長崎海軍伝習所時代の記録や長崎出島にあったオランダ商館の記録を詳しく探られた結果、この誌を訳した海舟の動機についても次のように述べられているという。
「長崎のオランダ人は、出島で朝夕三色旗の下に集まって“ローフ・デン・ヘール”を歌って礼拝を守り続けていた。オランダ語が出来た海舟も時折そこへ姿を見せ、最初は海の男たちの軍歌だと思っていたこの歌が、ダビデの詩篇からとった賛美歌であることを知る。やがてその詩篇歌集に親しむようになり、“みくに詞”に試みた。当時はまだキリスト教禁制の時代だったので海舟は誰にも説明していない。」
竹中先生は、オランダは新教の国であり信教の自由や人間の自由を信奉していた国である、真摯な探究心に満ちた日本の若者の中には、長崎で学んだオランダ教師団の初代団長ベルス・ライケンや2代団長カッテンディーケのような優れた人物の生き方に触発されるところが少なくなかったはずである、海舟はその中でこの歌に接しその意味を探求したのだろうと、述べておられる。
カッテンディーケは帰国後に長崎海軍伝習所の毎日の記録を、「滞日日記抄」としてオランダで刊行した。このカッテンディーケの著書は後年「長崎海軍伝習所の日々」として日本語翻訳されているので、この後のウェブログに「カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々」としてアップロードした。勝 海舟との交友も述べている。
<海舟と聖書の言葉>
勝 海舟は有名な書家であり揮毫を依頼されることが多かったことはよく知られている。新島 襄の墓碑銘もその一つである。その揮毫のなかには、聖書からとった言葉が少なくないということであり、竹中先生は勝 海舟と聖句の揮毫についても触れておられる。
下左の写真は、1882(明治14)年に、霊南坂教会の牧師をしていて、後に同志社の第2代社長になる小崎弘道が、新島 襄の師であったアーモスト大学のシーリー総長の「宗教要論」を邦訳出版した時に、勝 海舟に揮毫を依頼したもので、題字は、「途也、真也、生命也」というヨハネの福音書からとったものである。裏書は「辛巳の春 弘道小崎君の嘱のため 海舟勝安芳」とある。
下右の写真は、ホイットニー夫人のアンナが1883(明治16)年に永眠したときに、海舟が非常に悼んで書いた墓碑である。「骸化土霊帰天(骸は土と化し霊は天に帰る)」という言葉で、竹中先生がいろいろ調べたところ、旧約聖書のコヘレトの言葉からとられていることがわかったという。
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聖書からとった勝 海舟の揮毫(竹中正夫著「勝海舟と新島襄」から)
アンナ・ホイットニーのお墓は青山にあると教えられたので、現地を訪れて現物を見たところ、碑の左側に「ホイットネー氏親友 勝安房拝誌と書いてあり、裏側にはやはり聖書のローマ人への手紙にある「義人必由信而得生(義人は必ず信に由って生くるを得る)」が書いてあり、横に「録聖書之語(聖書の言葉を録す)」という添え書きがしてあるので、非常に感銘を受けたと述べられている。
<クララの明治日記>
前述したようにホイットニー一家は勝邸の一隅に住んでいて礼拝も行っていた。娘のクララが日記をつけていて「クララの明治日記」として発刊されているので、長崎から引き取った梅太郎もその礼拝に出ていて、やがて洗礼を受けるようになることや、海舟(勝のおじさま)もときどき顔を出したことがわかるそうである。
またこの日記に、海舟がホイットニー夫人の宗教以外のものは嫌だと言ったとか、津田(仙)さんが、勝さんはいまはまだ受け入れられておられないが、やがてはクリスチャンになられるだろうと言われた、などの記載があるので、キリスト教徒の新島 襄に、仏教徒にも人材がいるよ、と言った海舟本人が、かなりキリスト教に親近感を持っていたことがわかる。
<キリスト教がつなぐ縁>
このように勝 海舟の精神構造はかなりキリスト教に近かったことを知ってみると、キリスト教主義の学校を建てるという理想を持ち込んできた新島 襄と基本的には波長が合ったのであろう。新島 襄の夫人の八重の兄、山本覚馬は、若き日に江戸の佐久間象三の塾に入って勝 海舟と知り合い、その思想形成には海舟から大きな影響を受けたという。
その山本覚馬も新島 襄の同志社設立を物心両面から後押しした後には洗礼を受けキリスト教徒になった。新島夫人の八重ももちろん夫に感化されて早くに洗礼を受けた。一見異なる領域で活躍した新島 襄と勝 海舟、さらには新島 襄の死後に京都を中心に活躍した八重夫人と山本覚馬をつなぐ縁は、キリスト教がつないだ縁といえるのかも知れない。
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