日本初の女性絵本作家(居初つな)は堅田の湖族?
<奈良絵本>
2013年2月10日の日本経済新聞「美の美」欄は、奈良絵本・絵巻の世界㊦という記事であった。㊦とあるからには㊤もあったのだろうが㊤の記事は記憶にない。もともと絵本とか絵巻についてはあまり知識も関心もなかったので見逃していたのだろう。
昨年10月に石山寺縁起の世界展を見に行き、石山寺座主や嘉田由紀子滋賀県知事も出席した石山寺縁起絵巻に関するシンポジウムも聞きに行ったので、絵巻物に多少の関心ができ、今回の㊦の記事には目がとまった。しかしこの記事に関心が行った理由は後述するが、奈良絵本や絵巻そのものについてではない。
しかしものの順番として奈良絵本のことを少し勉強してみる。日経の記事には、「奈良絵本の制作現場は奈良ではなく京都が中心だった。京都にあった複数の絵草紙屋が絵師のグループや文字を書くグループを抱え、絵本や絵巻をプロデュースしたと考えられている。」とある。ではなぜ京都で作られているのに奈良絵本というのだろうか。
ウェブで検索すると、「奈良絵本とは、挿絵入りで書写された御伽草子で、室町時代から江戸時代前期に流行した短編の物語集であり、作者はほとんど不明である。それらの中には、浦島太郎や一寸法師等、今日まで読み継がれている作品もある。」とのことで、奈良絵と呼ばれる図柄が江戸時代後期にあったので、それと似ている絵本ということから、明治時代になって奈良絵本と呼ばれるようになったらしい。
<日本で初めての女性絵本作家:居初(いそめ)つな>
「女歌仙絵巻」(貞享・元禄、部分、個人蔵)
(2013年2月10日 日本経済新聞「美の美」から)
記事に関心をもった理由は、小野小町を描いた上図の「女歌仙絵巻」の説明文に、「絵、詞書ともに女性絵本作家、居初つなが手掛けたとみられる。かわいらしい顔を描くのが特徴。つなは京都に住み、女子向けの往来物(教科書)などを作っていた。」とあったので、その「居初」という名前に、おや、と思ったからである。
というのは、以前のウェブログ「“湖族の郷”堅田散策」で触れた大津市堅田の琵琶湖岸に、居初(いそめ)氏庭園という史跡があるので、ひょっとしたらこの女性はこの居初氏の出身、つまり堅田の湖族ではないかと連想したのである。このウェブログで触れたように堅田は京都の下鴨神社の御厨(みくりや)であり京都と密接な関係にあったので、居初つなが堅田出身であっても全くおかしくないのである。
というわけで記事本文をまじめに読んでみる。奈良絵本・絵巻の研究者である慶応義塾大学の石川透教授はデジタル画像の解析から、女歌仙の作者が居初つなであることを2008年に発見された。居初つなは元禄年間に京都で女子向けの往来物(教科書)や浮世絵を書いていたことは知られていたが、奈良絵本・絵巻も手掛けていたことは誰も気づかなかったらしい。
居初つなは京都の浮世絵師、吉田半兵衛に師事したといわれる。吉田半兵衛は井原西鶴の「好色一代女」の挿絵や春画なども描いているので、絵草紙屋を中心とした奈良絵本・絵巻の制作現場は完全な男社会だったと思われるが、そこに女性の居初つなが活躍したことになるという。「おそらく日本で初めての女性絵本作家だった」と石川教授は強調しておられる。
<知られざるスーパー才女の発見>
上述のように当時の奈良絵本・絵巻は、絵と文はそれぞれの専門グループにより分業で作られるのが一般的だった中で、居初つなは絵も文章も両方描いていたことが石川透教授の奈良絵本・絵巻研究の中でわかったので、石川教授により日本初の女性絵本作家が発見されたということになる。
つまり江戸時代前期から中期にかけて、寺子屋の教科書である往来物(往復書簡の模範文)の制作を行っていた上に、さらに奈良絵本・絵巻まで作っていたスーパー才女がいたということである。江戸時代のスーパー才女の発見といえば、以前のウェブログ「江戸のたそがれ-天保期のスーパー才女-」の井関隆子が思い出される。
このウェブログは、幕末の天保期に1人の女性がつけていた詳細な日記が素晴らしい史料価値を持っていることを昭和女子大の深沢秋男教授が発見され、それまで全く知られていなかった井関隆子というスーパー才女を発掘されたことに触れたものである。このウェブログがきっかけとなって深沢先生に知己を得ることになった。
今回も江戸時代のスーパー才女の発見ということであるし、深沢先生は中世の仮名草子がご専門と伺っていたので、深沢先生に早速ご見解を聞いてみた。直ぐに丁寧なお返事があり、慶応大学の石川透教授は奈良絵本研究では現在第一人者で素晴らしい研究をされていること、『浅井了意全集』で一緒に仕事をされており、石川教授は御伽草子関係の分野を担当されていることなど、お知らせ頂いた。
<居初氏は琵琶湖の湖族>
ただ前述したように私自身はこの分野は無知なので、深沢先生や石川先生のご研究の成功を祈るのみであるが、居初つなというスーパー才女が堅田の湖族であったかどうかについては滋賀県大津市民として大いに関心がある。日経新聞の記事の中で、やはり奈良絵本・絵巻の研究者である工藤早弓氏がそのことについて述べておられる。
「居初氏は琵琶湖の漁業特権を持つ一族で、京都と関係が深かった。つなの描くかわいらしい絵が評判になり、お公家さんたちがお姫様の嫁入り道具にするため、つなを指名して絵本や絵巻を作らせた可能性もある。」つまり工藤氏もつなを堅田の湖族の居初氏の縁者と見ているようである。
とにかく百聞は一見にしかずなので、日経新聞を読んだ後、家族を誘ってまだ行ってなかった堅田の居初氏庭園を訪れてみた。
<居初氏庭園>
居初氏庭園は前回訪れた堅田の浮御堂から琵琶湖岸沿いに少し北上したところにある。大津市の我家からはちょうど琵琶湖をはさんだ対岸になるので、いったん守山まで行き琵琶湖大橋を渡って堅田に入った。要電話予約とあったのでお電話したら、「はい、いそめです」と名乗られたので、居初さんが現在も住んでおられることが分った。
居初氏宅の正面は、中世の堅田の殿原衆の館様式であり、この奥に広い庭園があるとは思えない簡素で頑健な感じのする造りである。かなりのご年配と見える居初さんにご挨拶して木戸をくぐると、冒頭写真に掲げたように、琵琶湖をはさんで三上山(近江富士)が遠望できる素晴らしい光景が眼前に広がる。茶室は天然図画亭と呼ばれているらしいが、茶室からはまさに図画のように景色が見える。
居初氏宅(正面) 木戸をくぐると眼前に琵琶湖が広がる
茶室(天然図画亭) 茶室から庭園と琵琶湖を望む
電話に出られた今のご当主が茶室へこられ話を聞くことができた。居初氏は中世の琵琶湖の漁業・水運・造船を支配したいわゆる湖族の親玉であるが、元は平安時代の北面武士だったそうで、1090(寛治4)年に堅田が京都下鴨神社の御厨になったとき供御人として堅田にきたという。ご当主は居初氏第29代だそうである。
パンフレットによれば、その頃堅田には3つの地侍の党(居初氏、刀祢氏、小月氏)があり、各々が「切」と呼ばれる琵琶湖の主な地域を根拠地として活躍し、殿原衆と呼ばれるようになった。1182(寿永1)年に前述のウェブログでも触れた堅田大宮伊豆神社に宮座(自治組織)が成立し、殿原衆が中心となって堅田の運営をはかるようになった。
12~16世紀に琵琶湖の湖上特権を握って堅田を支配した殿原衆は、泉州の堺と並んで堅田を中世の自由都市として栄えさせた。しかし1587年に豊臣秀吉が大津百艘船制度を設けたので、約500年間続いた堅田の湖上特権が衰微するようになった。
江戸時代に入って居初つなが活躍した元禄の頃は、1698(元禄11)年に堀田正高が堅田1万石の大名となって堅田藩が成立した時期である。29代ご当主に日経新聞の記事のことを申し上げ、居初つなのことをお伺いしたら、つなはたしか京都にいたようですな、とのことで縁者であることには違いないが、堅田のこの家に住んでいたかどうかまではわからなかった。
<居初つなは堅田に住んでいたのか?>
居初つなが堅田に住んでいたかどうかにつき、もう少し追ってみることにした。深沢先生から頂いたコメントには、「往来物研究の第一人者、小泉吉永氏の『往来物倶楽部』には、新発見の往来物として『琵琶の海』が紹介されていて、上巻目録の末尾に『居初氏女津奈書画』とある」とあったので、小泉吉永氏の往来物倶楽部をまず参照してみた。
ウェブ検索すると、たしかに下図の「琵琶の海」の写真が出ていて、「居初氏女津奈書画」の部分も確認できる。跋文に「琵琶の海は洛西隠士居初氏幼より文筆に心をよせ、自筆を染て寿梓(あずさにちりばめ)、したしき女童にあたへられしを、しいて乞ひ求め、今世にひろむるものならんかし」とあるとのことなので、居初つなは琵琶湖をよく知っていたに違いない。
「琵琶の海」(小泉吉永氏の往来物倶楽部より、クリックで説明文)
さらに小泉吉永氏は、雑誌『江戸期おんな考』(柴桂子編、桂書房刊、年1回発行)の第8号(平成9年9月)に、「居初津奈の女用文章」という論文を発表されており、居初つなの作品と事蹟について詳しく触れられている。その中から我が関心事のつなの経歴に関する部分を引用してみる。
「これら津奈の作品はいずれも女子用往来に分類されるものであるが、女流往来物作家の中では群を抜く作品数である。そしてそれ以上に重要なのは、それぞれの作品が独創的かつ個性的であることと、そのほとんどが自筆・自画であること、つまり本文を著したうえに版下の清書から挿絵までも一人でこなすという、彼女の多才さである。」
「このように当時稀にみる女性であったにもかかわらず、彼女を紹介したものは皆無に等しい。『国書人名辞典』を始めとする人名辞典にも、津奈の事蹟に関する記事は一つも見いだすことができない。」とあって、居初つなの生い立ちや事蹟は全く不明であるらしい。
<手掛かりは「女書翰初学抄」の序文>
しかし小泉氏は、「それでは、上記作品中に手掛かりはないのか。実は津奈が自らについて述べたわずかな記述が『女書翰初学抄』序文中に見える。」と彼女の作品の記述から、彼女の事蹟に関するわずかな手掛かりをつかんでおられた。
「女書翰初学抄」の序文の最後には、「居初氏女都音書之」とあるので、つなが書いた序文であることがわかる。この序文は、彼女がなぜこの「女書翰初学抄」を書いたかという動機や理由に触れたものであるが、その中で少し自分の生い立ちに触れているのである。
「天降る日那に生なる葛の葉のうらむる事は宿世のえにしぞかし。其道々のことわざを露しらまほしきには、且恋しきは都なめり。僕壮年の比、隙ある身となれり。よりて、日比の本意ここなりと八重の汐路をしのぎて、今、此九重にいたりぬ。住事二十とせに及べり。(後略)」
要するに彼女は「田舎に生まれたのは前世からの因縁であろう。諸道の何も知らない私には京都は憧れでありぜひ行きたいと願っていた。壮年の頃ようやく自由の身となって京都に移り住んで諸芸に打ち込み、今は自立しているが、もう20年も住んでしまった。」という回想をしている。つまり居初つなは、壮年までは京都ではなく田舎にいたと言っているのである。
小泉氏は「晴れて京都にやってきた二十年前を、感慨深く回想しながら語る津奈のこの序文には、書画を始めとする諸道への止むことのない探求心と、その一方で飛ぶように過ぎた月日を驚き悔やむ気持が溢れ出ているように思う。」と述べておられ全く同感であるが、京都へ来る以前に住んでいた場所には触れられていない。
<居初つなは湖族の娘?>
しかし滋賀県大津市民である私には、居初氏女津奈書画と書かれた「琵琶の海」という往来物があることや、上記の居初氏女都音書之と書かれた「女書翰初学抄」の序文の田舎に生まれたという記載から、居初つなは京都へ移る前は、堅田の居初氏の館に住んでいたと思える。小泉氏の論文に「女書翰初学抄」の発刊は1690(元禄3)年とあるので、その20年前の1670(寛文10)年頃に堅田から京都に移ったのではないかと思う。
居初つなが京都で活躍した時期は、代表的な出版物の発行年からみて、1688(貞享5)〜1695(元禄8)年頃とされる。居初氏庭園が完成した1681(元和1)年頃はすでに京都へ移った後で、もう堅田にはいなかったと思われるが、修業の合間や絵本制作の合間にはこの庭園を訪れて美的センスを磨いたかもしれない。
壮年までの30年くらいを堅田の湖族の親玉である居初氏の館で湖族の娘として過ごしたとなれば、居初つなは相当にたくましく育っていると思われ、京都へ出て行って男社会の奈良絵本・絵巻の制作現場に入っても全く動じることなく、男達に伍して堂々と我が道を進み、スーパー才女の能力を遺憾なく開花させたのでないか、などと空想してしまった。、
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