蒲生氏郷と日野商人-滋賀県蒲生郡日野町-
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蒲生氏郷銅像 (滋賀県蒲生郡日野町) 日野商人銅像
<蒲生氏郷(がもううじさと)>
戦国大名の蒲生氏郷のことである。1556(弘治2)年に近江日野の蒲生家の跡取りとして誕生し、幼名を鶴千代といい賢い少年であったらしい。当時の群雄割拠の中で織田信長の実力が抜きん出ていることを早くから見通し、1568(永禄11)年の織田信長の近江進攻の時には主筋の六角氏ではなく、織田信長につくことを父、賢秀に進言し、13歳で進んで信長の人質になり岐阜城へ入ったという。
織田信長も氏郷の非凡な才能を愛したらしく、1570(元亀1)年に娘の冬姫と結婚させている。蒲生賢秀と氏郷は1580(天正10)年の信長自害直後には安土城の信長の妻子を日野城に移し、豊臣秀吉の傘下に入ることを決めた。信長の下で楽市楽座などの手法を学んだ氏郷は日野城下に楽市を奨励して商業を保護し、後年の日野商人誕生の礎を築いた。
伝蒲生氏郷公肖像画(近江日野商人館保管)
1584(天正12)年には伊勢攻めの功績により、氏郷は近江日野から伊勢松ヶ島城12万石に転封となり、4年後に完成した松坂城に移った。この転封の時に日野から大勢の家臣や職人を連れて行ったので、松坂の城下町には日野町ができ、近江日野の商工人が続々と移住した。後年の松坂商人につながったと思われる。
さらに氏郷は小田原城攻めの功績により会津黒川城42万石に転封となった。後に黒川を日野の若松の杜にちなんで会津若松と改名して会津92万石の大名となった。来年のNHK大河ドラマの主人公の山本(新島)八重が立てこもった会津のお城は鶴ヶ城というが、氏郷の幼名(鶴千代)や蒲生家の家紋(舞鶴)にちなんだという。
蒲生氏郷は武勇に優れ数々の戦功を挙げたが、文化人としても有名であり、茶道においては利休七哲の1人として数えられ、利休の子、少庵を保護して千家茶道の再興に尽くした。また高山右近らの影響を受けて大坂でキリスト教の洗礼を受け、イタリア人宣教師を家臣に迎え、ローマへ使節団を送ろうともしたらしい。近江日野商人館保管の伝蒲生氏郷公肖像画を見るといかにも知的な風貌をしている。
惜しむらくは、氏郷は1595(文禄4)年に京都伏見にて40歳という若さで早逝した。豊臣秀吉は、信長もその器量を認めた氏郷を恐れていたという。しかし氏郷には、度量が大きく、家臣を大事にし、他大名からの人望が厚かったことを示すエピソードが多い。家臣を集めて開く会議のモットーは「怨まず、怒らず」が約束事で、長幼や禄の大小に関わらず自由な発言が許されたとの話がウィキペディアに出ている。
<Facebookが縁で日野町を訪問することに>
というような蒲生氏郷の人生であるが、滋賀県在住者としてはたいへん魅力を感じる武将であり、以前から、氏郷生誕の地でもあり、近江商人の一角をなす日野商人を生んだ地でもある日野町の町並みを一度訪れたいと思っていた。周辺にある滋賀農業公園ブルーメの丘や鬼室神社には行ったことがあるが、日野の中心地には未だ行ったことがなかった。
たまたまFacebookでのやりとりが縁で、日野町にお住まいのMさんというアメリカ人と知り合いになった。Mさんは日本の古民家文化の保存活動に熱心で、日本語を話すことはもちろん読み書き・敬語もOKという凄い方である。共通の知人もいることがわかったので、ぜひ一度日野町でお会いしましょうということになり、2012年11月25日に日野を訪れた。
<蒲生郡日野町>
日野町役場のホームページによれば、この地に人が住み始めたのは古く、今から約1万2千年前と言われ、室町時代に蒲生氏の城下町となって歴史の表舞台に登場してきたとある。中世においては石造品の生産地であったため、数多くの石塔があり、文化財指定を受けているものは30基あまりにのぼるという。2006年に東近江市に編入された蒲生町には石塔(いしどう)という地名もある。
たしかに湖東平野に位置する蒲生郡一帯は古い歴史をもっており、以前のウェブログ「湖東の渡来人」で、「日本書記」天智8年(669年)に「百済人男女7百余人を近江国蒲生(がもう)郡に移住させた。」という記事があることや、蒲生町石塔(いしどう)に、百済様式の三重石塔が立っている石塔寺(いしどうじ)があることに触れた。
湖東の渡来人
蒲生野では、近江大津京時代に遊猟(軍事演習)が行われたことが万葉集や日本書紀から分かる。額田王(ぬかたのおおきみ)は万葉の代表的歌人で才色兼備の女性とされ、蒲生野での彼女をめぐる中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)の兄弟の恋のさや当てが、672年の壬申の乱を惹き起こしたと、まことしやかに言われていることも以前のウェブログ「湖東の額田王ゆかりの地」で触れた。
湖東の額田王ゆかりの地
また、ここ日野町の小野(この)には、近江大津京時代に学職頭(ふみのつかさのかみ、当時の文部大臣)を努めた百済人、鬼室集斯(きしつしゅうし)を祀る鬼室神社があることも知ったので、2006年1月に雪の中を訪れたことがある。この訪問記も以前のウェブログ「湖東の渡来人:鬼室集斯のこと」で触れた。
湖東の渡来人:鬼室集斯のこと
<古代の日野は鉄の産地?>
国道307号線で日野町の中心地に向かうと、日田という交差点を通過する。昔、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んだとき、どこの街道を述べた巻かは忘れたが、日本各地にある日野や日田という地名の由来は「火」から来ていて、鉄の生産と関係すると述べられていたことを思い出した。
そこで滋賀県、日野、鉄の産地でネット検索すると、滋賀県日野町別所から「高師小僧」と呼ばれる褐鉄鉱が産出し、天然記念物に指定されて琵琶湖博物館に展示されているとのウェブサイトの資料があった。行かなかったが、日野町別所には高師小僧の碑も立っていて古琵琶湖の粘土から産出すると説明があるという。琵琶湖は200万年前には蒲生湖としてこの付近にあったからその当時の地質から出たのであろう。
古代の近江は近畿地方で最大の鉄生産地であったが、中国山地の砂鉄生産が優位になって平安時代には消滅したという。鎌倉時代には、近江源氏とも呼ばれる佐々木氏一族は中国山地の製鉄にも深く関わって、美濃の関の刀鍛冶用に近江商人の流通ルートを使って鉄供給を行ったと、岐阜県関市の資料に出ている。
このような背景からみると、蒲生郡の日野や日田という地名も司馬遼太郎のいうように、古代において鉄にちなんでついた地名なのかもしれない。ちなみに佐々木氏は宇多天皇の子孫で、平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄に下向し、蒲生氏は佐々木氏の嫡流である六角氏の宿老であった。
<日野商人街道>
日田の交差点を過ぎ、松尾交差点を東に入ると日野町の中心を通る日野商人街道である。5月に行われる日野祭の時は曳山がこの街道を巡航する。Mさんから、日野町観光協会が入っている「日野まちかど感応館」に駐車場があるので、そこを拠点にして町内を回ると良いとのアドバイスを貰ったので、それに従って町を散策した。日野まちかど感応館は江戸時代のヒット商品「万病感応丸」を売り出した薬屋の邸跡である。
たしかにこの街道の両側には日野商人の屋敷だった古民家が多く並んでおり、いかにも日野商人街道というにふさわしい雰囲気である。旧日野商人邸だった風流郷邸(ふるさとてい)や、いかにも風格のある古民家が目をひく。風流郷邸では今も音楽会や茶会などの催しをやっているらしく、この日も朗読の集いという看板が出ていた。
日野商人街道と綿向山 日野まちかど感応館
風流郷邸(ふるさとてい) 風格のある古民家
日野商人街道の東方に綿向山が見えるが、この山の頂上にあった神社を蒲生氏が城下町に移し湖東の大宮、馬見岡綿向神社とした。毎年5月2日、3日に馬見岡綿向神社の春の例祭が行われるが、800年以上の歴史を持つ日野祭として有名であり、各町内より十数基の曳山が神社境内に勢ぞろいし、神輿3基も繰り出して、この時は日野の町は祭一色となるという。
町内のあちこちに曳山の格納庫があるので、それぞれの町が独自の曳山を保有しているのであろう。日野祭の時にそれを引き出して日野商人街道を巡航するので、町内の結束も高まるはずである。大窪の交差点付近に16基の曳山を説明した看板と、曳山の模型が展示してあった。
<今も残る古民家の町並み>
日野町の案内図には新町町並み、清水町町並み、岡本町町並みといった古民家の立ち並ぶ町並みが紹介されており、日野商人が住んでいた古い町並みがまだ残っているようなのでそれぞれの町並みに行ってみた。一帯は今も古民家が立ち並んでいて大変美しい町並みになっている。大津市の新興住宅地である我家近辺とは全く雰囲気の違う、原日本の町並み風景がそこにあった。
清水町の町並み:日野商人の旧家や古民家が並んでいる。
<信楽院(しんぎょういん)>
蒲生氏郷は1595(文禄4)年に京都で没したので大徳寺に葬られているが、ここ日野には蒲生家の菩提寺である信楽院(しんぎょういん)がある。氏郷ゆかりの地を巡るのも今回の目的の1つであったので、307号線の松尾交差点の少し北にある冒頭写真に掲げた蒲生氏郷の銅像をみたあと信楽院を訪れた。
信楽院は奈良時代に聖武天皇の勅願により開創されたと伝えられているが、詳細な由緒は定かでないらしい。1349年に蒲生家の菩提寺として蒲生高秀が再興したという。境内はそんなに広くはないが、見事な山門をくぐると、県指定の有形文化財の本堂や書院などがあり、落ち着いた雰囲気である。
境内の案内板によると、本堂の天井には、日野町出身の江戸期の画人、高田敬輔(たかだけいほ)により「雲竜」の水墨画が描かれている。良い絵ですよと後からMさんから聞いた。また信楽院のどこかに氏郷の遺髪墓もあると、これも後から知ったが見逃してしまった。
<近江日野商人館>
Mさんとはお昼に近江日野商人館で落ち合うことにしていたので、その前に案内地図に出ている日野商人の銅像を探しに行った。少しわかりにくかったが付近の人に日野小学校の校庭にありますよと教えてもらったのが、冒頭写真にある日野商人銅像である。日野の子どもたちはこの銅像の意味を学んで地元に誇りを持つのだろう。
江戸時代に入ってしばらくした1627(寛永4)年に蒲生家の会津領有は終わり、1634(寛永11)年にはお家断絶となる。太平の世になって奉公先のなくなった家臣の一部が近江日野へ戻るが、国替えにより氏郷が去った後の50年の間に日野はすっかり寂れ、彼らを受け入れる余地はなかった。
そのことが逆に彼らの奮起をうながし、生活の活路を見出すため地場産業の日野椀や薬等の商品を持って全国に行商に出ることが盛んになり、近江商人の中にあって、特に日野商人と呼ばれるようになったという。旧山中兵右衛門の本宅を資料館とした近江日野商人館には、そのような日野商人の足跡や行商品、道中具、家訓などの豊富な資料が展示されている。
日野商人は他の近江商人とは異なり、小型店経営に主流をおいて、多くの店を大都市はもちろん関東一円の地方都市や田舎にまで出店したものや、醸造業を営むものが多かったという。近江日野商人館には、醸造業を営んだ日野商人のおびただしいお酒の銘柄が展示してあって目を引く。
また日野商人の多くは、石田梅岩の心学を修め、その精神である社会奉仕事業(常夜灯の寄進、道路や橋の補修開発等)に資金を出したという。そのような日野商人の心意気を表した言葉が記された障子も展示してあって面白い。「遠国渡世の身分は他の商人衆と違い、身持ちまた格別正しくあるべし 矢尾喜兵衛」
中井源佐衛門
以前のウェブログ「てんびんの里」でも触れたように近江商人は「利は余沢、三方よし」の理念から薄利多売が基本であった。そのため近江商人たちは労働成果を貨幣に置き換えて評価するという習慣がなかったこの時代から、西洋の複式簿記と同様の先進的な会計システムを考案していた。特に日野商人の中井源佐衛門家の決算帳簿は貸借対照表と損益計算書を含む、世界でも最高レベルの複式簿記の構造をもっていたという。
てんびんの里
中井家の帳合法(会計システム)は、小倉榮一郎氏の「江州中井家の帳合之法」の研究で、進んだ複式簿記法を採用していたことが判明しているそうである。近江日野商人館には、1788(天明8)年に司馬江漢が日野の中井家を訪れたときに描いたという初代中井源佐衛門の肖像画が展示してある。
<Mさん>
日野商人に関する色々な資料や展示物を興味深く見学しているうちにお昼になり、Mさんがご家族と一緒にこられた。Facebookやメールで何度もやりとりしているので、初対面という感じは全くなく以前からの知り合いという雰囲気でご挨拶した。Mさんはここ近江日野商人館の館長さんとも親しい様子であった。
Mさんご一家と日野駅前の松喜園という食堂でお昼を頂いた後、ご自宅に招待された。実はMさんは元日野商人の商家であった古民家を購入されて住んでおられるのである。ご自宅では抹茶をごちそうになり驚いてしまった。京都育ちでお袋がお茶をやっていたので、今でもコーヒーより抹茶に親しみがある私にとっては何よりであった。
Mさんご自身も米国で歴史のある旧家に生まれ育ったとのことで、日本へ来てからも歴史のある家や町並みに大変魅力を感じ、8年ほど前に古民家を探していて、たまたまここが気に入り購入したとのことである。しかし日野の町では空き家になっている古民家も多くあり、何とか活用して日野の町並みを保全していきたいと願っておられる。
滋賀県が気に入って住みついたアメリカ人といえば、直ぐにヴォーリズが思い浮かぶ。ヴォーリズは、キリスト教を背景としたヴォーリズ精神ともいうべき信仰や理念にもとづいて教育、医療、福祉のような社会奉仕を行って地域貢献を果たし、近江八幡の名誉市民第1号になったことは以前のウェブログ「湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-」で触れた。
湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-
Mさんは、自ら日野商人の古民家に住んで、日野の町並み保全に取り組むことにより地域貢献を果たしておられる。日野町がMさんを名誉町民にする日がいつか来るのではないか、などと楽しい期待を感じながら、綿向山が美しく見える日野の町から帰途についた。
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