« 続々・邪馬台国は近江にあった? | Main | 蒲生氏郷と日野商人-滋賀県蒲生郡日野町- »

2012.10.28

イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む

Bird_3
イザベラ・バード「日本奥地紀行」

<明治維新>
日本維新の会が政党になったので、今の政治停滞を打ち破る平成の維新を実現してほしいものであるが、本家本元の明治維新は、144年経った今の時代から見ても政治、経済、教育、文化など全ての面において凄い改革であったし、しかもその改革のスピードが生半可なものではなかった。

小和田哲男監修の「日本史年表ハンドブック」から明治初年~明治11年の主要記事を列挙してみる。

明治1年 1月3日鳥羽伏見の戦、4月11日西郷隆盛-勝海舟会談、7月17日江戸→東京、9月8日明治と改元
明治2年 6月17日版籍奉還、7月8日神祇官・太政官・6省制による官制改革、12月25日電信開通
明治3年 9月19日平民に姓を許可
明治4年 4月4日戸籍法定める、4月10日銀本位制→金本位制、11月12日岩倉使節団が欧米に出発
明治5年 1月29日皇族・華族・士族・平民制、8月3日学制発足、9月13日鉄道開通、11月9日太陽暦採用
明治6年 1月10日徴兵令公布、5月岩倉使節団帰国、7月14日廃藩置県、10月24-25日征韓論敗退
明治7年 1月17日板垣退助「民選議院設立建白書」、2月1日江藤新平「佐賀の乱」で刑死
明治8年 5月7日日露両国が千島・樺太交換条約書に調印、9月20日朝鮮で江華島事件
明治9年 3月12日官庁の土曜半ドン・日曜全休実施、10月28日「萩の乱」、「秋月、神風連の乱」も
明治10年 2月15日西南戦争勃発、9月24日西郷隆盛自刃
明治11年 5月14日大久保利通暗殺

私は維新の3傑をあげろと言われると躊躇なく西郷隆盛、江藤新平、大久保利通をあげるが、明治初年から明治11年にかけては、この3人が互いに確執を抱えながら活動した時期であった。しかし3人ともこの期間に不慮の死を遂げたので惜しかったなあと思う気持ちが強い。

江藤新平は、学校で習う歴史では西郷隆盛と大久保利通ほどには高い評価では扱われないが、その事績からは明治維新の革新的な国家構想は彼一人の頭から産み出されたような感を与えるほどである。江藤新平の事績や大久保利通との確執については以前のウェブログ「維新の傑物-江藤新平-」で詳しく触れた。

  • 維新の傑物-江藤新平-

    <イザベラ・バードの来日>
    Isabella_bird上記のように日本がまだ維新の激動期にあった1878(明治11)年5月21日に、1人の英国人女性イザベラ・バードが横浜に上陸した。維新の改革に対する士族の不満がまだくすぶっており、大久保利通が暗殺された直後の政情が不安定な時期である。彼女の目的は日本を旅行し、まだ世界(西欧社会)に知られていない日本の現状を記録することであった。

    イザベラは1831年に英国ヨークシアで生まれ病弱だったが、医者にすすめられて航海や旅行を始め20歳代から各国を回って旅行記を出版した。1878(明治11)年に初めて日本に来たときは47歳であった。彼女はその後も5回ほど日本を訪れ、70歳まで世界を回り1905年に72歳で亡くなっている。時代は下がるが、我々の年代ならよく知っている兼高かおるさんみたいな人だったらしい。

    <イザベラ・バードの日本奥地紀行>
    彼女は1878(明治11)年6月中旬に東京を発って3ヶ月にわたる日本北部の奥地旅行を行った。その記録が妹への手紙集として書かれ、「日本奥地紀行」として1880(明治13)年に初版が発行された。以前から一度読みたいなと思っていたところ、ふと立ち寄った新大阪駅の書店で、「ちょっと知的な贅沢」と銘打った平凡社ライブラリーのキャンペーンがあり、その中に冒頭写真のイザベラ・バード著;高梨健吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)が出ていたので早速購入して読んだ。

    イザベラは横浜上陸後、初めての日本を観察しながら東京の英国公使館に入り旅行ルートを検討する。外国人はまだ国内を自由に旅行出来なかった時代であるが、彼女は当時の都会ではなく本当の日本を見たいという思いから、この国でもっとも外国人に知られていない地方を探ろうとして北国を旅行しようと計画した。日本政府も旅程表を承認したもののルートのかなりの部分が情報不足という状態だったらしい。

    奥地旅行であるから日本人案内者が絶対必要である。在日外国人からの推薦者も含めて人選の末、ややうさん臭いが英語が出来て勉強家でもある18歳の伊藤という男を通訳兼助手に雇った。旅行の終盤で伊藤は別の外国人と契約していたのをイザベラとの契約に無断で乗り換えたことが判明するが、有能な伊藤がいなかったらイザベラの旅行は成功しなかったかも知れない。

    「東京から日光へ」
    2人は6月10日に人力車で東京を発って粕壁、栃木を経て6月15日頃に日光に至っている。自分用の簡易ベッドや蚊帳を持参したものの、もうこの段階で蚤と蚊の大群に悩まされたり、物見高い日本人がイザベラを見物するために集まり、障子の穴や屋根の上から覗き見されてプライバシーが保てないことに辟易としているが、車夫たちの礼儀正しさや、日光例幣使街道の杉並木の美しさにも感動している。

    「日光」
    日光には村長の金谷家に10日ほど滞在して東照宮など詳しく見ているので、「私はすでに日光に9日も滞在したのだから“結構”という資格がある。」などの記載もある。東照宮の壮大さには印象が強かったらしく、陽明門や家康と家光の社殿などの建造物やその内装、庭に至るまで詳細に描写している。「社殿の美しさは、西洋美術のあらゆる規則を度外視したもので、人を美のとりこにする。」という記載もある。

    また日本人の家庭の生活もよく観察して、「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。」と驚き、子どもがおとなしく親に従順で、自分より幼い子どもに親切であることも述べている。また別の箇所でも日本の子供の世界では、子どもたちだけの遊びのルールがあって、トラブルは年長者が解決し、大人が立ち入らないことにも言及している。

    「日光から新潟へ」
    日光からは本格的な奥地旅行になり馬が主体の旅となる。6月24日頃に日光を発ち鬼怒川ルートで小百、藤原、高原、五十里、横川、川島、田島、大内、市川、高田、坂下、野沢、野尻、車峠、宝沢、栄山を通って7月2日に津川に至る。津川からは阿賀野川を船で下って7月3日に新潟に入った。

    この旅では日本の馬のことについてしばしば述べている。乗馬をよくしてきたイザベラから見ると、日本の馬は貧弱で乗りにくく、馬の扱いについても文化の違いを感じている。また「私は見たままの真実を書いている。」と断って山村の貧しさ、みじめな家屋、子どもの皮膚病、女たちの酷い労働、男たちの裸同然の姿、非衛生な習慣など克明に観察している。

    そして「もし読者が、私がここや他の箇所で述べたことに対して陳謝を要求したいと思われることがあっても、私が、北日本で見たままの農民の生活を忠実に描写することによってこの国に対する一般的知識の向上に役立てたいと希望している。」とか、「国民大衆の水準を上げようとしている政府のために役立てたい。」と、注書きしている。

    「新潟」
    Niigata
     新潟の運河(イザベラのスケッチ)

    新潟は当時の開港場で、県庁、病院、裁判所、銀行、諸学校などがあってヨーロッパ人もいたので1週間ほど滞在し束の間の休息が出来た。「新潟は美しい繁華な町である。人口は5万で富裕な越後地方の首都である。・・このように隔絶された町に、大学という名にふさわしい学校がみられるのは興味深いことである。」と、東京や京都から遠い新潟の地での教育の充実に感心した記載もある。

    また町がきれいなことにも驚き、「町は美しいほどに清潔なので、日光のときと同じように、このよく掃き清められた街路を泥靴で歩くのは気がひけるほどである。これは故国のエディンバラの市当局には、よい教訓となるであろう。」と述べて英国の町と比較している。

    「新潟から米沢平野へ」
    7月10日に新潟を船で発ち新川を遡って木崎に至る。ここからは再び陸路で、築地、中条、黒川、川口、沼、玉川、大里峠、小国、黒沢、市野野、白子沢、手ノ子を通って米沢平野に入った。

    「米沢平野(置賜盆地)」
    米沢平野は置賜(おきたま)盆地と呼ばれ、かつてここを訪れた英人ダラスが明治8年に「置賜県雑録」をアジア協会誌に出したので、イザベラは知っていたと思われ、米沢の平野を激賞している。「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。」などの記載もある。

    さらに「美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。彫刻を施した梁と重々しい瓦葺きの屋根のある大きな家が、それぞれ自分の屋敷内に建っており、柿やざくろの木の間に見え隠れする。」との描写もありよほど気に入ったらしい。

    「山形から久保田(秋田)へ」
    小松、赤湯、上ノ山を経て山形に入り、天童、尾花沢、新庄を通って7月16 日に金山に至った。金山に入る手前でイザベラはスズメバチとアブに刺されたので、ここで日本の医者に治療して貰っている。野崎という古来の漢方医学を奉じる医師で西洋医学には抵抗している。しかし彼の洗い薬のおかげで快方に向かったので、イザベラは彼を食事に招待している。

    2日ほどいて金山を発ち及位、院内、湯沢、横手、六郷を経て神宮寺に至り、ここから雄物川を船で下って7月23日に久保田(秋田)に入った。

    「久保田(秋田)」
    Akita
     秋田の農家(イザベラのスケッチ)

    久保田(秋田)では外国人のいない病院、師範学校、絹織工場、警察署などを訪問し、すっかり久保田が好きになったと書いている。蚤と蚊に悩まされ、非衛生な日本人の生活を色々指摘してきたイザベラもすっかり日本人の生活に慣れて、もうヨーロッパ人には会いたくはないとも言っている。

    この地では大雨が続いて足止めされたこともあっていろいろ思考出来る時間があったらしく、同行の伊藤についても鋭く観察している。彼は西欧人のような道徳概念は持っていないし態度も不愉快なときが多いにも関わらず、熱心な練習と勉強で上達した英語と優れた交渉能力をイザベラは素直に認め、日ごとに頼りにするようになったと書いている。

    「久保田(秋田)から函館へ」
    7月26日に久保田を発ち、虻川、豊岡、鶴形、小繋、大館、白沢、碇ヶ関、黒石を経て青森に入った。

    このルートでは悪天候に見舞われたびたび足止めを食らっている。各地と同様、豊岡でも朝5時には物見高い人々がイザベラを見に集まってきたので、衣服を乾かないまま着るはめになった。宿の主人が立ち去れと言っても、「こんなすばらしい見世物を自分で独り占めしているのは公平でない。我々は二度と外国の女を見る機会もなく一生を終わるかも知れないから。」と居座ったと書いている。

    黒石では、弘前からの3人のクリスチャンの学生の訪問を受けて驚いている。「全部が少しばかり英語が話せた。そのうちの一人は今まで日本でみたうちで最も明るく知性的な顔をしていた。彼らは士族階級に属していた。・・弘前は重要な城下町で、旧大名が高等の学校(東奥義塾のこと)を財政的に援助していて、2人の米国人(イングとダビッドソン)が校長として来ている。」とある。

    東奥義塾は高校野球で名前を知っているだけであるが、ウィキペディアによれば、弘前藩の藩校が廃止された後、福沢諭吉の慶應義塾に学んだ菊池九郎が明治5年に創立し、明治7年に菊池の要請でイングが英語教師として就任している。財政難で大正2年に一旦廃校となるが、大正11年に米国伝道協会と地元関係者の働きで再興されている。

    青森港からは三菱会社の平底船に乗って、14時間かかって8月12日に函館に到着した。函館には領事館もあり、ここでイザベラは北海道旅行の計画を周到に立てる。その主目的は原住民(アイヌ人)を訪問することであった。

    「函館から平取へ」
    8月17日頃に函館を発って再び荒野に入り、蓴(じん)菜沼(小沼)を経て森に至る。森から室蘭までは船で渡り、幌別、白老、苫小牧、湧別、佐瑠太を経て8月23日に平取(びらとり)に入る。平取ではアイヌ小屋に2晩泊まる予定をしていたが、酋長の帰りを待って結局3晩過ごした。この平取のアイヌの生活や風習、文化についての描写は特に詳しく長々と記している。

    Ainuhouse_3
     アイヌの小屋(イザベラのスケッチ)

    イザベラの目から見ると日本人とアイヌ人の違いが顕著である。「彼ら(アイヌ)は外国婦人を見たことがない。しかし彼らは日本人の場合のように、集まってきたり、じろじろ覗いたりはしない。おそらくは無関心なためもあり、知性が欠けているためかもしれない。」と観察している。

    しかし「日本人の黄色い皮膚、固い髪、弱々しい瞼、細長い眼、平べったい鼻、凹んだ胸、ちっぽけな体格、歩きぶりなどを見慣れた後で、アイヌ人を見ると、獰猛そうに見え体格はいかに残忍なことでもやりかねない力強さに満ちているが、話をすると、その顔つきは明るい微笑に輝き、女のように優しい微笑みとなる。その顔つきは決して忘れることはできない。」と述べているので、イザベラはどうも日本人の男よりアイヌ人の男に親近感をもったようである。

    また「アイヌの宗教観は自然崇拝であるが、唯一の例外は義経崇拝で義経神社を祀っている。」との記述があって驚く。原注によれば、義経は蝦夷に逃れてアイヌ人と暮らし、彼らの祖先に文字や数字、文明の諸学芸と法律を教えたとアイヌ人は固く信じている。平取、有珠、礼文華のアイヌの老人たちは、「あとから来てアイヌを征服した日本人が学芸を記した本をみな持って行った。」とイザベラに言ったとある。
     
    「平取から礼文華へ」
    8月26日に平取を発ち門別、佐瑠太、湧別、苫小牧、白老と来たコースを逆にとり、白老では海辺のアイヌ人を詳しく観察している。さらに幌別を経て9月2日に旧室蘭に至る。その後、噴火湾(内浦湾)沿いに、紋別、有珠を通り、9月6日に礼文華(れぶんげ)に至る。

    「ここ(白老)のアイヌの住居は平取のものと比較するとずっと小さく、みすぼらしくて汚い。・・・屋根は山のアイヌ人のものよりもずっと平たい。・・・このようなむさくるしい家でも、いつも広い棚があり、日本の骨董品を並べてあった。・・・この村の多くの事実から考えれば、アイヌ人が日本人と接触することは有害であり、日本文明との接触によって益するところはなく、ただ多くの損を得るばかりであったことは明らかである。」とアイヌ人の行く末を危惧している。

    余談であるが、私は、イザベラのこの旅行の83年後の1961(昭和36)年に白老を訪れたことがある。この時はまだアイヌ人の小屋があり(観光用としてあったのだと記憶している。)、アイヌの老人と一緒に写真を撮ることが出来た。そのときからさらに50年以上経過した現在ではどうなっているのであろうか。

    イザベラはこの有珠の風景には特に魅せられたらしく「有珠は美と平和の夢の国である。・・・私が夜を過ごした入江では樹木や蔓草は水面に頭を垂れ、その緑色の濃い影を映していた。・・一隻の丸木舟は黄金の鏡のような入江の水面を音もなく辷っていた。・・私が日本で見た中で最も美しい絵のような景色であった。」と描写している。

    有珠でもアイヌ人の家を訪れ山のアイヌ人との風習の違いを調査している。「彼らの顔はまったく美しい。人の心を打つような優美さが漂う。これはヨーロッパ的であって、アジア的ではない。・・私は秋の昼の美しい自然に囲まれて眠っている有珠を名残惜しく去った。これほど私を魅惑したところを見たことがない。」と、アイヌ人と有珠への賛美は続いている。

    「礼文華から函館へ」
    礼文華でもアイヌ人と交遊した後、長万部、ユーラップ、山越内、落部、森、峠下を通り、9月12日に函館に無事戻ってきた。「ユーラップのアイヌ村で見たのが原住民アイヌの最後であって、旅の興味も終わってしまった。」と言っているので、道南の旅では終始イザベラのアイヌ人への特別な関心が伺える。

    この日、伊藤を最初の契約主に戻すため2人は函館で別れることになった。「たいへん残念であった。彼は私に忠実に仕えてくれた。・・・・彼がいないと、もう既に私は困ってしまっている。彼の利口さは驚くべきものがある。彼は男らしいりっぱな主人のところに行く。あの人なら、彼をりっぱな人間にするのに役立つであろう。それは私にとっても満足なことである。」と伊藤を思いやっている。

    この後、イザベラは兵庫丸という船で横浜に戻り、東京の英国公使館で12月下旬の離日までの日々を過ごすので、実質的にはイザベラ・バードの日本奥地紀行は、東京→日光→新潟→米沢→山形→秋田→大館→青森という東北日本と、函館と平取間の道南を辿った旅であり、伊藤と別れた函館で終わった。

    「イザベラ・バードが原景を見たかもしれない道南の景色」
    Muroran1
             函館本線からの室蘭付近の風景(2007年10月27日)            
    Komagatakeonuma
             函館本線からの森、大沼付近の風景(2007年10月27日)

    <イザベラ・バードの人間観>
    全体に感じるのは、イザベラ・バードの、「事実をありのままに見る」という公平な観察態度である。現在の日本では信じられないような蚤や蚊の大群との毎晩の戦いや、異人の女性というだけの理由で行く先々で好奇の目で見られ、まるでプライバシーを保てない生活の中でも、物事を観察する態度は冷静であり、現地の人々と通訳の伊藤を介して直接語り、その本質を見ようとする観察態度に強い感銘を受けた。

    大英帝国の国民という、当時は進んだ国の人間であるという自意識も持っていたと思うが、日本の中では都会ほど開けていない東北の農村の風習や文化に対し、遅れているとか、見下すとかの態度はいっさい感じられない。指摘しているのは科学的な合理性にもとづく非衛生状態であり、それも貧困から来ていることを把握した上で、衛生意識の向上や政府の政策に期待しているだけである。

    この彼女の公平な観察態度や人間観は道南のアイヌを訪問したときに最も発揮される。アイヌ人から子どもの患者を診てほしいと持ち込まれたときに、伊藤はイザベラがこれらの人々に興味をもつことを非常にいやがり、彼は何度も「ただの犬です。」と言う、と紀行にある。他の箇所でも「アイヌ人を丁寧に扱うなんて! 彼らはただの犬です。人間ではありません。」と伊藤が言う場面もある。

    つまり当時の日本人にはこのような偏見があったということである。しかしイザベラは頓着せずにこどもや婦人を治療して救っている。彼女は英国で宗教的社会活動を行い、世界を見ているために、当時の日本人にまだ欠けていたヒューマニスティックな人間観を身につけていたように思える。このような人間観こそが人種差別、女性差別、障害者差別などのあらゆる差別の解消に必要なものであるが、21世紀の現代人といえども、皆が持ち合わせているとはとてもいえないように思う。

    <日本のイメージ向上への貢献>
    イザベラのこの紀行のおかげで、当時の日本が、往還の多い東海道や山陽道(東京ー長崎)以外の東北の農村地帯でも、外国人女性の一人旅が可能な国であるということが、西欧社会に知られたのではないか。つまり安全な国「日本」のイメージに貢献したと思え、この後の条約改正交渉にも何らかの影響を与えたのではないかと思う。

    イザベラはその後も来日を重ねて東京、京都、大阪、熊本、長崎などの都会と奥地の山村を旅行した。日本の進歩を眼のあたりにし、1900(明治33)年に新版を出したが、奥地紀行の部分は、農村では人々の生活はほとんど変わっていないとして改訂しなかったという。文化や文明の浸透形態や浸透速度、都会と地方の文化格差の発生という点で、現代の地域格差問題にも繋がる事例なのかも知れない。

    <民俗学者の宮本常一も注目していた!>
    Miyamotoこのイザベラ・バードの日本奥地紀行は、明治11年という、まだ日本の近代化の黎明の時期に書かれ、特に東北の農村や道南のアイヌ社会の当時の実態を克明に描写してあるので、民俗学的にも大変貴重な紀行であったのではないかと思える。

    このイザベラ・バードの紀行を購入した新大阪駅の書店で、後日再度平凡社の「ちょっと知的な贅沢」キャンペーンのコーナーを覗いたところ、日本を代表する民俗学者の宮本常一による「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」という本が並んでいたのに気がついたので、早速これも購入して読んだ。

    あとがきから、この本は、宮本常一が晩年に所長を努めていた日本観光文化研究所の講読会で、研究所に出入りする若い人たちに宮本が話をする中で、イザベラの紀行を取り上げた時の講話をベースにして、同じ平凡社ライブラリーから没後出版された本であるということがわかった。

    従って、イザベラ・バードの日本奥地紀行の優れた解説書になっていることはもちろんであるが、むしろ日本中の津々浦々を回った宮本常一の豊富な体験がさらに上乗せされて、この当時の日本社会を民俗学的にえぐる素晴らしい書になっている。特に明治のこの時期に、イザベラ・バードが山の中に入っていくのだが、馬の手配とか荷物の運搬ということでは困っていないのは不思議に思っていたが、これは輸送体制が整っていたという宮本常一の指摘で目からウロコであった。

    <イザベラ・バード記念コーナー>
    イザベラ・バードが激賞した置賜盆地(米沢平野)は、現在は山形県南陽市となっているが、南陽市のホームページを見ると、「ハイジアパーク南陽」というところに、イザベラ・バード記念コーナーがあると出ている。

    Izaberaconer_2
       イザベラ・バード記念コーナー(山形県南陽市)
    Izaberanaibu
         (山形県南陽市のホームページから)

    機会があれば一度ぜひ寄って見たいと思っている。

  • |

    « 続々・邪馬台国は近江にあった? | Main | 蒲生氏郷と日野商人-滋賀県蒲生郡日野町- »

    Comments

    The comments to this entry are closed.