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2012.09.13

続々・邪馬台国は近江にあった?

Kunisisekis
 2012年1月に国史跡に指定された伊勢遺跡(滋賀県守山市/栗東市)

<2010年に邪馬台国近江説が浮上>
Goto_2JRびわこ線の沿線に沿って、滋賀県守山市と栗東市にまたがって存在する伊勢遺跡は、円周上に配された祭殿群と、中心に厳重に区画された宮室、楼観がある遺構となっており、このような形式の遺構は畿内の纏向遺跡からも九州の遺跡からも見つかっていない。特殊性という点で伊勢遺跡を超える弥生時代の遺跡は日本中探してもどこにもないので、邪馬台国近江説が2010年に浮上し、「邪馬台国近江説」という同名の著書が2冊も刊行されたことは以前のウェブログ「邪馬台国は近江にあった?」で触れた。

  • 邪馬台国は近江にあった?

    Ohiwayamadotaku伊勢遺跡が存在するこの一帯は野洲川デルタ地帯と呼ばれ、太古からの遺跡が多数存在することはもとより、弥生時代の銅鐸が24個も出土した大岩山が存在した地域であり、邪馬台国があったとしても一向に不思議ではない地域であることも、少し前のウェブログ「湖南の野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!」で触れた。

  • 湖南の野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!

    邪馬台国がどこにあったかについては昔から論争があり、大きくは畿内説と九州説とに分かれるものの、近年のマスコミ報道を見る限りにおいては、あたかも邪馬台国は奈良県桜井市の纏向遺跡、卑弥呼の墓は箸墓古墳で決まりとの印象さえ受ける。その流れからすると邪馬台国伊勢遺跡説は、纏向遺跡一辺倒の畿内説に一石を投じたといえる。

    Hanzawaしかし前々編のウェブログ「続・邪馬台国は近江にあった?」で触れたように、昨年出版された金沢大学の半沢英一氏の著書「邪馬台国の数学と歴史学」を拝読すると、当時の中国の数理天文学書や数学書を典拠として魏志倭人伝の行程が極めて合理的に論証されているので、私には半沢氏の九州説が妥当と思え、魏志倭人伝の記述の南を東に読み変えねばならない畿内説は分が悪い気がする。

  • 続・邪馬台国は近江にあった?

    伊勢遺跡が邪馬台国であるためには畿内説の立場に立たねばならないが、これまでの論争を追った限りでは畿内説はこの点を論破出来ていないように思えるので、伊勢遺跡説も同じ問題点を抱えることになる。

    そのことはさておき、今年2012(平成24)年1月になって伊勢遺跡は国史跡に指定された。近くの下之郷遺跡は既に2002(平成14)年に国史跡に指定されており、この地帯に国史跡が2つも並ぶことになった。我が家に近いこの一帯が古代史において重要性を帯びてきたこと自体は地元在住者として喜ばしく、古代史の分野でどのように評価されるのか大いに関心がある。

    <国史跡指定記念歴史フォーラム>
    Iseisekihakkutsu伊勢遺跡が国史跡になったことを記念して、守山市教育委員会が主催して2012年8月11日に歴史フォーラム「倭国の形成と伊勢遺跡」が守山市民ホールで開催された。古代史の専門家の講演や伊勢遺跡に対する見解が聞けるまたとない機会と思って聴きに行った。

    講師は兵庫県立考古博物館館長で纏向遺跡の発掘に長年携わってきた石野博信氏、国立文化財機構奈良文化財研究所部長で銅鐸の専門家である難波洋三氏と、奈良県立橿原考古学研究所共同研究員で伊勢遺跡とも10数年関わっている考古学者の森岡秀人氏である。つまり畿内説の拠点である奈良県の立場から伊勢遺跡をどう見るかに主題がおかれている。

    さらに3人の講師の先生方に、守山市教育委員会の伴野幸一主査も加わって、守山市文化財審議委員の大橋信弥氏の司会でパネルディスカッションも開かれた。伴野主査は守山市文化財保護課で長年1人でコツコツと伊勢遺跡の発掘調査にあたってきた伊勢遺跡の申し子である。今回の国史跡指定は伴野氏の長年の努力の賜物と言えるので最も嬉しいに違いない。

    専門的な知識がないので講演やパネル討議の内容を十分理解したわけではないが、次のようなことらしい。

    (1)伊勢遺跡は弥生時代後期、纏向遺跡は弥生時代末期〜古墳時代前期の遺跡とされ成立年代は異なる。しかし両遺跡とも配置は違うが大型の建物が一定の法則に従って並んでおり、両遺跡とも祭祀による政治(まつりごと)を行うことに特化された祭政施設であったと思われる。

    (2)伊勢遺跡も纏向遺跡も突然現れて、突然衰退した不思議な遺跡という点で良く似ているので、計画的で人工的に造成された遺跡と思われる。

    (3)伊勢遺跡が出現した1世紀後半頃には、それまで中国地方から東海地方にかけ5グループあった銅鐸が、近畿式と三遠式と呼ばれる2つの型に統一されているので、この時期に近畿と東海の勢力が有力になったと思われる。近江の勢力は近畿や瀬戸内の勢力と連携する際に主導的役割を果たした可能性もある。

    (4)伊勢遺跡があった時代は魏志倭人伝によれば倭国乱の時代である。卑弥呼が擁立されて乱が収まり、伊勢遺跡で確立された祭政システムが卑弥呼に引き継がれて伊勢遺跡は役割を終えたのではないかとも考えられ、卑弥呼は当初伊勢遺跡を本拠としその後大和纏向に移動した可能性もあながち否定できない。

    最後の(4)は邪馬台国近江説を期待する地元のフォーラムであるから、多少滋賀県民へのリップサービスもあるかも知れないが、伊勢遺跡の祭政システムを纏向遺跡が引き継いだという見方があることを、このフォーラムで認識した。

    <伊勢遺跡はプレ邪馬台国?>
    ということで伊勢遺跡は、3世紀の邪馬台国の成立以前に当時の近江の有力勢力によって造営され、祭政による統治システムを構築したプレ邪馬台国という位置づけという意味があるらしいことは理解できた。もちろんこのためには邪馬台国畿内説の立場に立たねばならないが。この日の3人の講師は皆さん畿内説であると司会者が紹介していた。

    それはさておき、伊勢遺跡がプレ邪馬台国であるという見方は、昨年発刊された2冊の「邪馬台国近江説」の著書のうち、地元の守山市に在住されている澤井良介氏の著書「邪馬台国近江説-古代近江の点と線-」(2010年1月 幻冬舎ルネッサンス刊)の骨子でもある。

    「邪馬台国近江説-古代近江の点と線-」
    Sawai澤井氏の著書の骨子は次の通りである。

    当時の時代認識として魏志倭人伝の記載から、もともと男王が70-80年間治めていた倭国は、西暦180-190年頃から内乱状態となり卑弥呼を女王に共立して治まった。狗奴(くぬ、くな)国は女王に従わず、239年に卑弥呼が魏に使者を送り救援を仰いだ。247年に狗奴国が邪馬台国を攻撃しこの頃卑弥呼が死ぬ。倭国は再び混乱し男王をたてたが治まらず、卑弥呼の宗女台与(とよ)をたてて治まった。晋書には266年に倭の女王が武帝に貢献したとあり台与のこととされている。

    一般的にはこの卑弥呼と台与の時代の後、3世紀末~4世紀になってヤマト政権ができたと考えられている。ところが、ヤマト朝廷の正史を扱った書物である日本書紀や古事記の記載は、初期の天皇の在位期間が縄文時代になったり、異常に長期になったりするという矛盾を含むので、記紀の記述は信頼できないとして、神武天皇は神話であり開化天皇までの8代の天皇は実在していない創作の天皇(欠史八代)であると考えられている。

    しかし、昔の日本人(倭人)は春秋の耕作期と収穫期に1年が始まる2倍年の暦を使っていたとする2倍年暦説で考えれば、ヤマト政権発足は紀元前後となって神武天皇や欠史八代の天皇の在位期間に矛盾がなくなる。しかも物証の面からも、1978(昭和53)年には埼玉県の稲荷山古墳から古代の鉄剣が出土し、その銘文に大彦命を指す名前があったことから同母弟である第9代開化天皇の実在の可能性が高くなっている。

    ということは、邪馬台国の時代後にヤマト政権が成立したのではなく、邪馬台国とヤマト政権は同時代に併存していたと考えてもよい。2倍年暦を基に、在位が確かな第10代崇神天皇を基準にすると、開化天皇の前後がちょうど卑弥呼と台与の時代になるので、卑弥呼の死後擁立された男王が開化天皇に、台与は神功皇后に比定することが可能である。

    銅鐸の統合状況や近江式土器の分布状況、近江特有の前方後方墳の存在、天日槍ら渡来人の近江での動き、近江出身の息長(おきなが)氏と皇族や継体天皇との関わり、丹後の元伊勢と近江の伊勢遺跡および伊勢神宮の関係などの諸要因から考察すると、卑弥呼と台与は近江に勢力を持っていた豪族の息長(おきなが)氏の一族と推定できる。

    卑弥呼は、このウェブログ「近江富士」でも触れた野洲の三上山の麓にある御上(三上)神社の祭神である天之御陰命の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)に比定でき、最初近江の伊勢遺跡にいたが、共立されて大和に移ったのではないかと考えられる。

  • 近江富士

    Mikamijinjyafuji
            三上山(近江富士)       天之御影命を祀る御上(三上)神社本殿

    台与は開化天皇の系譜につながる息長帯比売(おきながたらしひめ)に比定できる。卑弥呼と台与は天皇家直系ではないことから、日本書紀や古事記は2人の存在を巧妙に隠したと思われるが、台与はヤマト政権の歴代天皇の間に挟まって神功皇后として取り上げられているとの見方ができる。

    つまり澤井氏は、近江の伊勢遺跡は卑弥呼を輩出した原邪馬台国ではないかという説を提唱しておられる。さきに述べた歴史フォーラムも、人工的な祭政施設という意味から伊勢と纏向両遺跡の連続性を示唆できるので、この澤井氏の仮説をあながち否定できないとしている。

    澤井氏の仮説は邪馬台国とヤマトが併存していたというユニークな発想であり、中国の史書に出ている卑弥呼や台与という人物や、中国との関わり(朝貢や戦争など)の重要な活動は、日本側の史書(記紀)にも痕跡は残っているはずと見て、近江を軸に仮説を組み立てておられるので、畿内説の認否は別として滋賀県在住者としては興味のもてる説である。

    <邪馬台国に敵対した狗奴国>
    邪馬台国の実態を探ろうとすると、魏志倭人伝に書かれた行程の追跡はもちろん重要であるが、女王に属せず、卑弥呼と和せずと記載されている男王の卑弥弓呼(ひみくこ)が支配していた狗奴(くぬ、くな)国がどんな国で、なぜ敵対していたのかという解釈も鍵を握っているように思える。

    畿内説では狗奴国は東海地方の勢力と見る人が多いようである。しかしフォーラムで石野講師はもっと東を想定しているとも言っておられたので定説はないようであり、また邪馬台国と狗奴国の対立軸が良く分からない。

    これに対し、中国の数理天文学書「周髀算径」や数学書「九章算術」を典拠として魏志倭人伝の行程を極めて合理的に論証し、説得性のある邪馬台国九州説を展開されている半沢英一氏の著書「邪馬台国の数学と歴史学」には、狗奴国についても合理的な推論がしてある。

    Zanpokoen3世紀後半から6世紀前半にかけては日本列島に前方後円墳が造られたので、この時代を前方後円墳時代と呼んでいる。前方後円墳は吉備に起源を持ち箸墓古墳が最古といわれているが、大和で成立した後ものすごい速度で東北から鹿児島まで伝播したことが明らかとなってきた。九州も遅くとも4世紀前半には前方後円墳分布圏に組み込まれた。

    前方後円墳の急激な展開は、前方部を使って首長埋葬祭祀を共有するという「祭祀的統合」が、新しい社会統合の原理として、社会秩序や威信保証のイデオロギーを求めていた各地域の首長層に受け入れられて広まった結果と思われる。また、このような社会統合原理を見出した前方後円墳王権は、その成立に中国王朝の権威を必要としなかったと考えられる。

    つまり、狗奴国とは、「前方後円墳による祭祀的統合」という新しい社会統合原理を見出したことにより東に勃興しつつあった前方後円墳王権、あるいはその前身だったに違いないと思われる。この前方後円墳王権は初期のヤマト政権と見ても良いが、後に律令国家を目指した大和朝廷とは異質な王権である。

    一方、邪馬台国とは、弥生時代最終期の、新しい社会統合原理を見出せなかった北部九州の連合王権だったと思われ、新しい社会統合原理を見出した狗奴国に対抗するため、中国の史書の記載から分るように中国王朝・魏や晋の権威や調整力にすがったものの、その努力もむなしく3世紀末にはついに狗奴国に併呑されたと思われる。

    因みに半沢氏は、畿内説では卑弥呼の墓といわれている箸墓古墳を、狗奴国男王・卑弥弓呼(ひみくこ)の墓ではないかと思われると述べておられる。

    <所感>
    滋賀県大津市の我家に隣接する草津市、栗東市、守山市、野洲市には、現在では一帯が田園になっているところが、実は古代には白鳳寺院が林立していた地域とか、もっと昔は邪馬台国だったのではないかといわれる地域があることを知ったお蔭で、今までは特に関心がなかった邪馬台国の歴史や所在地をめぐる諸説を覗いてしまう羽目になってしまった。

    今回開催された歴史フォーラム「倭国の形成と伊勢遺跡」は、京都新聞などのマスコミも注目したし、地元の古代史ファンはもとより東京や兵庫からも参加者がいると司会者が紹介していたので、日本の国の成り立ちに関心を持つ人は多いようである。もっとも参加者を見回すと、年配者が圧倒的に多いように思えたが。

    このフォーラムのお蔭で、伊勢遺跡の性格と役割や、畿内説の焦眉である纏向遺跡の概要について知識が得られたことに感謝している。しかし伊勢遺跡がプレ邪馬台国であるためには、やはり畿内説の立場に立たねばならない。後年、大和朝廷が存在するゆえの邪馬台国畿内説にとらわれてしまうと、伊勢遺跡の本質も見逃してしまうのではないか、との印象は拭えなかった。

    実はフォーラムでは事前質問を受け付けていたので、魏志倭人伝の南を東に読み替えることが畿内説の根拠になっているが、それ以上の新しい根拠が出ているのでしょうかという質問を提出したが、主題から離れるためかそれには触れられなかった。

    その点、半沢氏の見方は分かりやすい。邪馬台国は北部九州に存在して中国王朝の権威を利用し巫女的な女王が呪術を用いて統治するような弱小連合国で、狗奴国は前方後円墳に代表される新しい祭政一致統治システムにより急速に勃興してきた東の国という見方なので、両者は明らかに国の体制が異なり対立軸も明確である。いわば邪馬台国九州&狗奴国畿内説といえるのかもしれない。

    ひょっとすると、邪馬台国を畿内説で説明しようとする並々ならぬ努力は、実は狗奴国のことを一所懸命説明していることになるのではないだろうか、という疑問がふと頭をかすめた。

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