鎌倉を垣間見るの記
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若宮大路から鶴岡八幡宮を遠望(神奈川県鎌倉市)
2012年7月6日と7日に、神奈川県三浦郡葉山にある大学訪問と北鎌倉の円覚寺での法事が偶然続いたので、一泊して鎌倉界隈を垣間見ることにした。鎌倉には中学の修学旅行や会社勤務時代に来たことはあるが、大仏や鶴岡八幡宮くらいしか印象に残っていない。
6日は葉山の大学訪問後、逗子駅近くで会社時代の友人と一杯やり、宿泊割引券があるというしまらない理由で、江ノ島電鉄由比ヶ浜駅近くのソサエティに泊まって翌7日の北鎌倉での法事に臨むことにした。
<由比ヶ浜>
ソサエティから由比ヶ浜海岸までは歩いて10分とのことであったので、7日の早朝にぶらぶら歩いて行った。閑静な住宅地を抜けると海岸通りに達し、目の前に広々とした由比ヶ浜が現れる。穏やかな天候なのに白波がたっているので、この海岸は波が結構大きくサーフィンに適しているらしい。まだ6時台というのにサーフボードに乗ったサーファーが波間に見え隠れしている。
司馬遼太郎の「街道をゆく」第42巻「三浦半島記」には、鎌倉についても色々触れられているが、由比ヶ浜のことが最終章の「鎌倉陥(お)つ」に述べられている。
鎌倉は、1180年の源頼朝の鎌倉入りから1333年の北条高時の滅亡までの150年間、政治の中心となり幕府もおかれた。元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉に乱入して北条高時と戦った。高時は暗愚の評判が高く人望もなかったが、鎌倉方は奮戦し4日間戦い退かなかったという。その時の主戦場が由比ヶ浜であった。
昭和28(1953)年頃に、鈴木尚東大教授が、戦前は由比ヶ浜から骨がたくさん出たという話を聞いて、実際に歩いてみると鎌倉女学院の校庭や裁判所建設用地に人骨の破片が散らばっていたので、さらに発掘調査を行ったところ60坪の土地から910体ほどの人骨を発見したという。
さまざまなことから推して、これらは新田義貞の鎌倉攻めのときの戦死者のものに相違ないことになり、その合戦がいかにすさまじいものだったかを思わせるとのことで、司馬遼太郎はこのことを昭和35(1960)年刊行の東大理学部人類学教室鈴木尚教授著の「骨」(学生社)で知ったと述べておられる。
つまり今はたくさんのサーファーが集う湘南きっての人気スポットであるが、その昔は鎌倉武士の戦場であった。司馬遼太郎は、「鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。ついでかれらの死についてのいさぎよさといってよい。こればかりは古今東西の歴史の中できわだっている。」と述べているが、昭和時代まではその片鱗を残していたわけである。
<若宮大路から鶴岡八幡宮を遠望する。>
由比ヶ浜から北鎌倉へ行くにはまずは江ノ電で鎌倉に寄ることになる。久しぶりに鶴岡八幡宮へ寄るのも一案と思ったのだが、あまり時間に余裕がなかったので、駅前から小町通りを経由して途中から若宮大路に出て、そこから鶴岡八幡宮を遠望することとした。
冒頭の写真が、この時、若宮大路から遠望した鶴岡八幡宮である。若宮大路は段葛(だんかずら)と呼ばれる作り道が中央に通っており、現代では中央分離帯としても機能している。頼朝が鎌倉入りして早々に若宮大路が造られ段葛が設けられた。頼朝がなぜ他に類例のない段葛のような構造物を造ったかについては、上記三浦半島記の「鎌倉の段葛」の章に記載がある。
それによると段葛は京都の石清水八幡宮から神を勧請したときに神の通る道として造られ、その後の通行は神のほかは将軍かその後の北条執権にかぎられたということらしい。下の道は当時は直ぐにぬかるんで泥道になったという。現代では神の代わりに歩行者が段葛を通行し、昔は泥道だった下の道を車が通行している。
<鎌倉駅のウォーナー記念碑は健在!>
江ノ電鎌倉駅で降りるとJR西口になるので、若宮大路へ行くために地下道を通ろうとした時、時計台が目についた。そこである記憶がよみがえった。JR鎌倉駅西口には、太平洋戦争時に日本の文化財を米軍の爆撃から守ったという伝説をもつランドン・ウォーナー博士の記念碑があるという記憶である。国際色豊かな人だかりをかきわけて時計台の傍に行ってみると、やはりウォーナー博士の記念碑が建っていた。
記念碑には「文化は戦争に優先する」ランドン・ウォーナー博士と刻まれ、日本の古美術に造詣の深かったウォーナー博士が、太平洋戦争で日本の三古都(奈良・京都・鎌倉)を始め全国の芸術的歴史的建造物には、戦禍が及ばぬように強く訴えたため、日本の多くの文化財は爆撃を免れた。鎌倉の古都保存法20年にあたり、この記念碑を建てると記されている。
ウォーナー博士自身はそのことを否定し続けていたという。しかし彼が否定すればするほど、日本人は彼の否定を、「謙譲の美徳」と受け留めて、ますます彼を英雄視し、日本各地に顕彰碑や記念碑が建った。このことは以前のウェブログ「京都にも空襲があった!」で触れたように、平成6年になって大阪樟蔭大学の吉田守男教授によって真相が明らかにされた。
「ウォーナーが古都を護った」といういわゆるウォーナー伝説は、戦後の占領軍の中枢であったGHQ(連合軍最高司令部)が、日本人の懐柔と親米感情醸成のためウォーナーリストをタネにしてウォーナー恩人説を信じるよう定説に仕立て上げた作り話であり、これはその後の米軍戦史やトルーマンの回顧録にも引用された。
つまりウォーナーリストは古都を護るために作られたものではなく、日本が中国などの諸外国から略奪した文化財の返還が必要になった時に、その損害に見合う等価値の文化財で弁償させるための基礎資料として作られたものであり、文化財の多い古都を守る意図などアメリカには全くなかった、というものである。
<文化は戦争に優先する>
吉田教授が真相を明らかにした後は、おそらく鎌倉市でも議論百出し、記念碑の廃止論や継続論が戦わされたものと思われる。あるウェブサイトには次のような記事があり興味深く拝読した。
「鎌倉では世界遺産登録を目指すにあたり文化財を守ったという理由でウォーナー博士の再評価が一部で叫ばれている。鎌倉の理論は西洋人のウォーナーが日本の文化を認めるリストを提出したことに意義があると考えている。戦後米軍の日本における文化財管理や日本のナショナルトラスト運動が鎌倉で起きたのもウォーナーリストが活用されたことが主な理由である。」
「言い換えればウォーナーリストの実効性の有無など眼中にない考えだといえる。そのため吉田学説は鎌倉におけるウォーナー博士の評価では無視されている。理論としてはたしかに筋の通った考え方ではあるのだが・・・・・吉田氏は京都を論じるにあたり外国が自分の文化を認めてくれたということで市民が傲慢になってしまったと感想を述べられている。(朝日百科)」
このような状況であれば、お人よしの日本人を象徴する鎌倉駅西口のウォーナー記念碑は今後もずっと健在である可能性が高い。「文化は戦争に優先する」という理念自体は、パーミアンの仏像破壊に対する世界の反響を見ても戦争防止の一つの考え方である。鎌倉ではそのシンボルとして受けとめられて行くのだろうか。そんなことを考えつつJRで北鎌倉の円覚寺に向った。
<北条時宗が開基の円覚寺>
円覚寺の開基は鎌倉幕府第8代執権の北条時宗で、開山は無学祖元である。2001年のNHK大河ドラマで、和泉元彌がその独特の雰囲気で日本を元寇の危機から守った孤高の英雄、北条時宗を演じたので、今も印象に残っている。和泉元彌はその後の騒動で色々お灸をすえられたが今はどうしているのだろうか。
実際の北条時宗は、文永11(1274)年の文永の役と弘安4(1281)年の弘安の役の2度にわたる蒙古襲来という国難を、国を挙げて対処しその襲来を防いだ後、享年34歳という若さで歿した。円覚寺は、文永・弘安の両役で殉じた戦歿者の菩提を弔うためと、禅道の普及のために北条時宗が発願して創建された。
学校の歴史では「えんかくじ」と習った記憶があるが、正式には「えんがくじ」と呼ぶらしい。鎌倉五山の第二位の寺である。鎌倉幕府が開かれる前年の建久2(1191)年に南宋から帰国した栄西が伝えた臨済禅がその後隆盛を極め、鎌倉幕府は次々と大寺院を建立した。北条氏は南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の主な禅刹を五山と呼んだ。
因みに五山制度が定着したのは鎌倉幕府滅亡後の室町初期であり、鎌倉と京都のそれぞれに五山が定められた。度々の改定を経て至徳3(1386)年の足利義満の時に南禅寺を五山の上におき、京五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)と鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)が定められたという。
山門や仏殿を過ぎてアジサイの咲く境内を歩いてゆくと、左手に国宝舎利殿があるが、通常は非公開で正月3が日と11月にのみ外観が公開されるとのことである。神奈川県唯一の国宝建造物らしい。
さらに境内を奥へ進むと、北条時宗を祀る塔頭寺院の仏日庵に至る。時宗はここに庵をむすび禅の修業を行ったという。この境内に北条時宗、貞時、高時の木像を安置する開基廟がある。時宗の命日の4日には茶会が催され、また4月4日には時宗公毎歳忌が開かれているという。
仏日庵の受付で拝観料を払い、滋賀県から来ましたといったら、どうぞお参りしてくださいとお線香を渡してくださったので、開基廟の中に入ってお参りした。暗くてよくは見えなかったが木像が一体見えたので、これが高時の木像であったらしい。撮影はお断りになっていたので見ただけである。
北条時宗を祀る塔頭「仏日庵」 時宗、貞時、高時の木像を祀る開基廟
<鎌倉時代と北条氏>
今ちょうどNHK大河ドラマで平清盛をやっているが、平清盛は律令政治の枠組みの中で、自分や平家一族が高位高官に昇りつめることで武士の世にしようとした。語りを担当している源頼朝はその有り様をずっと観察し、自分が政権を掴んだ時には京都ではなく鎌倉の地に幕府を開き武士の世にした。
また頼朝の思想を引き継いだ北条政子以降の北条執権は、官位としては相模守(今なら神奈川県知事)という大して高くない位であった。その北条氏が執権として日本の国政を担当し、元寇という国家的危機を乗り越えた鎌倉時代という時代は、日本史の中でも特異な時代のように思える。
司馬遼太郎は三浦半島記の中で、鎌倉の世の意義を次のように述べている。
「源頼朝の鎌倉入りから北条高時の滅亡までを数えると、幕府は百五十年の生涯だった。わずか百五十年ながら、この時代から日本らしい歴史がはじまると極論していい。もし平安朝の中央集権制がそのままつづいていたとすれば、日本史は中国史や朝鮮史とさほどに変わらないものになる。」
「ともかくも、幕府によって土地制度がさだまった。・・・・・律令制のもとではその所有権がつねに不安だったのが、鎌倉幕府の成立によって安定した。土地が所有者のものになったのである。いわば道理が安定した。・・・・・いかにも道理が通る世になった。・・・・・法の世になったともいえる。」
「執権北条泰時が、貞永1(1231)年、幕府の根本法典ともいうべき御成敗式目を制定した。・・・・・この点、儒教主義の中国や朝鮮が、法や律を持ちつつも、原則は徳をもって治むという人治主義-中国ではいまなお-でありつづけたことを思うと、鎌倉の世が果たした功は大きい。」
さすがに司馬遼太郎の達見である。明治以降の近代化に際して日本がいち早く欧米のレベルに達して行った源は、鎌倉時代から始まる武家政治=法治主義の実践にあったという見方である。つまり法治主義への移行期として鎌倉時代を捉えている。
律令制の最大の矛盾が、土地を守る武士(一所懸命の由来である)の所領争いを裁くルールがなかった点にあると見抜き、律令の中心地京都から離れた鎌倉の地で、所領争いを専門に裁く問注所のような裁判機能を整備していった源頼朝と、その思想を継承して武士の世を構築して行った北条氏の凄さが改めて認識される。
勝海舟も氷川清話の中で、北条氏は人民の味方であったと褒めている。つまり北条氏は中央の権威の方を向かず、足元の人民に目を向けていたと海舟は見ている。
「北条氏の憂うるところは、ただ天下の人民ということばかりだった。それゆえ栂尾の明恵上人が、あるとき泰時に向かって、北条氏が帝室に対する所行につきて忠告した際にも、泰時は、『いかにもおそれ多いことだけれども、民百姓のことを思うと、やむなくかくせざるをえないと、先父も常々申された』と答えたそうだ。その決心は、実に驚服すべしだ。おれも幕末のときに、はたして北条氏の決心にならいうるかえないかと、自ら省みて考えたら、とても自分はならいえないと悟ったよ。」
滋賀県に在住しているので、普段は鎌倉のことなど考えることもないが、ささやかな刺激を受けた2日間であった。
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