続・邪馬台国は近江にあった?
前編や以前のウェブログで触れたように、ひょっとしたら邪馬台国が伊勢遺跡などがある近江にあったのではないかという邪馬台国近江説に触発されて、邪馬台国についてもう少し深入りしたくなった。
<邪馬台国論争>
そもそも邪馬台国について論争があるのは、陳寿作とされる魏志倭人伝(「三国志」魏書東夷伝倭人条)に邪馬台国と、そこへ到達する里程が記載されているものの、その記載を追跡していっても邪馬台国の位置が一義的に決められないことによる。我々も常識として知っているとおり、大きくは畿内説と九州説とに分かれる。九州説には邪馬台国が移動したとする東遷説もある。(魏志倭人伝URLは中村学園大学HP)
しかも台に該当する漢字が、魏志倭人伝では「壹=壱」になっており、後漢書倭伝では「臺=台」になっていることも、後の大和朝廷との関連性において漢字表記や読み方も含めて諸説を呼び、論争が複雑になっている。現在一般的には邪馬台国(やまたいこく)と読まれている。
日本書紀巻の第九神功皇后の中に、魏志に云はくとあり、神功皇后を倭の女王卑弥呼とみなした記述があることから、日本書紀の編者たちは畿内大和説の最初の提唱者らしい。南北朝時代の北畠親房は、皇統は万世一系であらねばならないという立場から神皇正統記の中で邪馬台国を大和朝廷に結びつけている。
ウィキペディアによれば、論争が始まったのは江戸時代後期からで、新井白石が最初は大和説を説き、後に九州の筑後山門説を説いた。本居宣長は国学者の立場から九州筑紫郡を打ち出して、卑弥呼とは神功皇后の名を騙った熊襲の王であるとした。以来政治的意図やナショナリズムを絡めて論争が続いているという。後年の大和政権との関連も絡むので論争が複雑化している。
<邪馬台国の位置>
魏志倭人伝では、朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して北九州の博多近辺に到着したあたりまでは距離(里)と方角が記載されていて大まかな位置の推定は可能なものの、九州を南下するにあたっては水行20日とか、水行10日・陸行1月とかのあいまいな記載になる。
中国魏晋時代の距離の1里は434mなので、現実の地理とは4~5倍の違いがあり、魏志倭人伝の記述を素直に辿って南下していくと、邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きついてしまう。
そこで、魏志倭人伝の邪馬台国に至る行程の記載について、距離(里)や方角の妥当性、はたまた誤記や誇張の可能性に至るまで、様々な解釈や読み変えが行われて諸説が生まれ、学界はもちろん、在野研究者も巻き込んだ論争となった。
代表的な論争は、1910(明治43)年に始まった白鳥・内藤論争と言われるもので、東の東京帝国大学教授の白鳥庫吉が邪馬台国九州説を主張したのに対し、西の京都帝国大学教授の内藤湖南が邪馬台国畿内説を唱え、白鳥、内藤という東西史学の両巨頭による一大論戦となった。
これ以降、邪馬台国問題は東大と京大の学閥論争のようになって世間的にも関心が集まり、今日に至っても延々と続いているということらしい。まずは白鳥九州説と内藤畿内説を見ることにしたい。
<白鳥庫吉の邪馬台国九州説>
白鳥庫吉は、魏志倭人伝に記載された朝鮮半島から邪馬台国までの総距離1万2千里から、距離(里)で書いてある国(不弥国)までの合計1万7百里を差し引くと、残りの距離は1千3百余里しか残らないので、大和にあるはずはなく九州の中にあるのは論をまたないとした。
さらに残りの水行と陸行で書いてある部分は、残り距離からして陸行1月は陸行1日の書き誤りだろうとした。その上で邪馬台国の位置を肥後国(熊本県)と比定した。魏志倭人伝に用いてある「里」という距離単位についても「短里」という言葉を用い、中国魏晋時代の「里」ではないことを示唆したという。
また卑弥呼については神功皇后ではなく、神話上の天照大御神に近い存在とした。その根拠として倭国大乱等の魏志倭人伝の記述と、神話上の出来事が良く似通っているので、古事記や日本書紀の記事が何らかの史実を伝えているとすればその可能性があるとし、邪馬台国東遷説の先駆けといわれている。
<内藤湖南の邪馬台国畿内説>
これに対し内藤湖南は、軽々しく古書を改めることは出来ないと白鳥の陸行1月誤記説を批判し、むしろ支那古書では方向をいうとき東と南、西と北とをあい兼ねるのが常例であるとして、南下の解釈を東とするべきで、これにより邪馬台国が畿内大和にあるとした。
また魏志より後の隋書および北史に出てくる「邪摩推(やまと)とは魏志でいうところの邪馬台である」との記述を受けて、邪馬台国は大和朝廷と理解する外なしとしている。
卑弥呼については、それまでの大和説が神功皇后説であったのに対し、倭姫命(やまとひめのみこと)が巫女として天照大御神に仕えていたという記紀の伝承から、倭姫命説を唱えた。
<両説の展開>
二人の説の発表後、気鋭の研究者や著名な歴史家たちが白鳥説と内藤説に共鳴したり批判を加えたりして諸説入り乱れることになったが、私のような素人でも印象に残る主な説を年代順に揚げてみることにした。
(1)1920(大正9)年に哲学者和辻哲郎は白鳥説を発展させて、邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現、銅矛銅剣文化圏と神話の一致(銅鐸は記紀には記載がない)から神武東征を史実に近いものとし、邪馬台国は九州から東遷したとの説を主張した。この説は東京大学の学者を中心に支持され発展したが、東大に限らず幅広い分野の学者がこの立場にたっている。
(2)1922(大正11)年に考古学者笠井新也は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)であり、大和の纏向古墳群の中にある箸墓古墳が卑弥呼の墓であると主張した。この説は考古学者によって継承され、現在においても畿内説の主力になっていることは、マスコミ報道により我々も知らされている。
(3)1947(昭和22)年に榎一雄は、魏志倭人伝の伊都国までの行程記述と、伊都国以降の行程記述の仕方に相違があることに着目し、伊都国を起点とする放射式読みを提唱し、まともに距離を追うと太平洋に行ってしまうという不利を抱えていた九州説に活気を与えた。ただこの説によっても九州内には収まるという程度であり決定的ではない。
(4)1967(昭和42)年に安本美典はコンピュータを駆使する数理文献学という手法で、福岡県の甘木・朝倉地方と奈良県大和地方の地名が酷似していることに着目し邪馬台国東遷説を支持し、天文ソフトを使用して卑弥呼の死の前後に皆既日食があったことを推論して天照大神の岩戸こもり伝説につながることも指摘した。また魏志倭人伝に記載のある鉄鏃や絹の出土は、大和に比べ九州の方が圧倒的に多いことも指摘している。
(5)1969(昭和44)年に古田武彦は邪馬壱国説を唱え、前述した壱と台の考証を行った。この問題はさておき古田はこの中で、水行10日陸行1月を朝鮮半島からの全行程と解釈し、1里を75~90mの間で75mに近い短里で記述していると見た。つまり原文を改訂しなければ成立しない従来の畿内説と九州説に対し、その必要はなく原文に素直に従えば、邪馬台国は弥生遺跡の宝庫である筑紫平野に定められるとした。
<マスコミは畿内説がお気に入り?>
2000年代に入ってからの報道では、放射性炭素年代測定法や年輪年代学による新しい年代測定法により、4世紀以降とされてきた奈良県桜井市のホケノ山古墳や勝山古墳、さらには箸墓古墳の築造年代が3世紀に遡ることが出来るとの考古学における新発見のニュースが記憶に新しい。
いわく、「九州説は無理、新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し」、「箸墓古墳、卑弥呼の生前に築造開始か、歴博が研究発表」、「大和説がさらに強まることになりそうだ」、「邪馬台国=畿内説が裏付けられた」、等々のマスコミ報道を見る限りにおいては、あたかも邪馬台国は纏向遺跡、卑弥呼の墓は箸墓古墳で決まりとの印象さえ受ける。
正直なところ、邪馬台国が畿内であろうが九州であろうがどちらでも良いことなので、今までは私自身はマスコミで報道されるニュースにあまり疑問をもっていなかった。従って邪馬台国纏向遺跡説が有力になり、卑弥呼の墓が箸墓古墳かもしれないというので、住んでいる近畿地方に収まればご同慶の至りくらいの認識であった。
<実際は九州説の方が有力?>
しかし近江説が出たことをきっかけに、邪馬台国論争を色々追ってみたところ、どうもマスコミに騙されているのではないかと感じてしまった。つまり「邪馬台国畿内説」でネット検索すると、むしろ畿内説に対する反論が非常に多く、しかも説得性のある反論が多いのである。
一番の問題点は、畿内説は魏志倭人伝の記載を捻じ曲げなければ成立しない点にある。つまり畿内説では魏志倭人伝の原文にある南を東に読み変えねばならない。畿内にある遺跡や古墳の築造年代がいくら遡ろうとも、原点である魏志倭人伝の記述に対する合理的な解釈がなされていないので、私のような素人には納得できないのである。
これに対し、当初白鳥が提唱した九州説は、陸行1月を1日に読み変えなければならないという、畿内説と同じ難点を抱えていたが、上述の古田武彦氏が魏晋(西晋)朝の短里(1里=75~90m)の概念を唱えたことにより、魏志倭人伝の原文を読み変えることなく、北九州の筑紫平野に素直に比定出来るという説は、本当に短里で書かれているのなら素直に納得がゆくのである。
ということで魏志倭人伝に基本をおく限り、どうも九州説に傾いてしまうのだが、問題は魏志倭人伝が書かれた魏晋の頃に実際に短里が使われていたかということになる。この問題に対し、測量史研究者の谷本茂氏や、数学者の半沢英一氏が答を出した。
<古代中国には短里の概念があった!>
谷本茂氏は1978(昭和62)年3月の「数理科学」誌に、「中国最古の天文算術書『周髀算経(しゅうひさんけい)』之事」という論文を発表し、周髀算経という中国周王朝時代の数理天文学書の記載にある1寸千里の法に従えば、1里が76~77mになると算出した。つまり周王朝時代に既に「短里」の概念があったことが示されたのである。
この谷本氏の算出値は、多くの文献の詳細な考察から提唱された古田氏の魏晋朝短里の計算値にも近く、邪馬台国九州説を強く支持することになった。古田氏は三国志に「短里」が使われている事実は動かしがたいこと、近畿説はもう成り立たないこと、径百余歩と書かれた卑弥呼の墓も、箸墓のような大きな前方後円墳ではなく、30m程度の円墳になるはずと指摘した。
古田氏と谷本氏は、「古代史の『ゆがみ』を正す-『短里』でよみがえる古典」という共著を1994(平成6)年に発刊されている。
さらに日本歴史に関して色々著書を出されている数学者の半沢英一氏は、2011年に「邪馬台国の数学と歴史学-九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事」(ビレッジプレス)を著して、魏志倭人伝作者の陳寿と同時代の劉徽による数学書「九章算術」から、陳寿の時代に海島と陸地の距離を測るのに1寸千里説が行われていたことを論証され、邪馬台国の位置を甘木(福岡県朝倉市)に比定されている。
これら自然科学を専攻する谷本氏や半沢氏からの合理的な回答は、魏志倭人伝を原点とする邪馬台国論争に終止符を打っても良いように思えるが、学界でどのような議論になっているのかは知識がない。半沢氏の著書の帯に、「倭人伝の文面を無視し一人歩きしている『邪馬台国』という言葉、それを怪しまず助長する学界とジャーナリズム」とあるから、学界にとっては煙たい存在なのかもしれない。
最近自然科学者による日本古代史の著書を時々見かけるようになった。2012年2月にも医者で脳神経学が専門の中田 力氏の「日本古代史を科学する」が発刊された。宇宙考古学、数理考古学、Y染色体ハプロ解析等にもとづき持論が展開され、古田氏や谷本氏の知見も引きながら、邪馬台国は宮崎平野と推論されている。
つまり魏志倭人伝に書かれた事項を自然科学者の目で合理的に思考を行っていけば、邪馬台国は九州にあったとの結論に至り、南を東に読み替えなければ成立しない畿内説はおかしいという結論になる。しかしマスコミにこのような話や解説が出たことはないように思う。
<邪馬台国近江説は?>
ということで、邪馬台国近江説を贔屓したい滋賀県民の私であったが、魏志倭人伝に立脚する限り、残念ながら畿内説と同じ立場に立つ近江説は成り立たないようである。
しかし、邪馬台国は九州であったとしても、この倭国大乱の時代、近畿、吉備、出雲に大きな勢力が存在した可能性は非常に高いので、九州の邪馬台国はこれらの国と戦い滅亡したか、記紀に神話として残されているように大和へ東遷したという見方ができる。
つまり3世紀の邪馬台国近江説は成り立たないが、「邪馬台国は近江にあった?」や「野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!」で触れた通り、野洲川デルタ地帯には国を構えて伊勢遺跡を残したような大きな勢力が存在したことは間違いなく、7世紀の大和政権誕生の推進母体になったのであろうと推測している。
<続々・邪馬台国は近江にあった!>
このウェブログ発信後に、伊勢遺跡が国史跡に指定されたことを記念して歴史フォーラムが守山市で開催されたので、その模様も含めて「続々・邪馬台国は近江にあった!」をアップロードした。
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