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2011.11.13

京都の近代化を進めた会津藩士-山本覚馬-

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   京都東山の同志社墓地に眠る山本覚馬

<山本覚馬(やまもとかくま)>
再来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重の実兄である山本覚馬のことである。新島 襄が何故神社仏閣の聖地である京都に、キリスト教を標榜する同志社を建てることが出来たのかという我が疑問には、前編のウェブログ「新島 襄と同志社」で見たように、山本覚馬のお陰である、という答が最も適当と思われた。

  • 新島 襄と同志社

    しかし山本覚馬は会津藩士であり京都人ではない。その山本覚馬を、新島 襄と同志の契りを結んでまで、京都での同志社建学に駆り立てたものは何だったのか、という疑問が改めて湧いてきた。幕末から明治における人物については色々学ぶが、山本覚馬のことは知識がなかったので、京都育ちとしてはいささか遅きに失しているが、事績や人物像を探ってみることとした。

    このネット時代、フリー百科事典「ウィキペディア」で山本覚馬を検索すれば、経歴やおよそのプロフィールは直ぐにわかるのが有り難い。

    <プロフィール>
    それによると、山本覚馬(文政11:1828年-明治25:1892年)は、江戸時代末期の会津藩士、砲術家。明治維新後は地方官・政治家として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現同志社大学)の創立者新島 襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物として知られている。とあるので、これが世に伝わる覚馬のプロフィールであるらしい。

    山本家の遠祖は、甲斐の武田信玄に軍師として仕えた山本勘助であるとも出ている。山本勘助は、井上靖の名作「風林火山」の主人公で、2007年のNHK大河ドラマでも取り上げられたので、その縁故と聞くと何となくイメージが湧く。

    <江戸で西洋砲術を極める>
    山本覚馬は会津藩校日新館で頭角を現し、22歳の時に江戸に出て武田斐三郎(あやさぶろう)や勝 海舟らとともに佐久間象山の塾に入ったとあるので、勝 海舟とはこの頃からの知己の仲であるらしい。後年、新島 襄が海舟を訪問して交流したり、八重未亡人が襄の墓標の揮毫を海舟に依頼したのは、覚馬と海舟の縁によるものと思われる。

    また、武田斐三郎は、以前のウェブログ「函館五稜郭拝見」で触れたように、緒方洪庵や佐久間象三門下の蘭学者で、洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、ヨーロッパの城郭都市をモデルとする要塞を考案して箱館五稜郭を建造した。函館の五稜郭跡には、築城100年記念の昭和39(1964)年に武田斐三郎の顕彰碑が建てられている。

  • 函館五稜郭拝見

    覚馬自身は江戸で洋式砲術を極め、28歳で会津に戻って日新館教授となるが、軍制改革を唱えて守旧派批判を行なったので1年間の禁則処分になったらしい。しかし藩主松平容保に認められて文久2(1862)年に京へ上り、洋式軍隊の調練や洋学所の主宰を行う。時代は少し後になるが、佐賀藩において旧体制に反し蟄居処分になっていた江藤新平が、一転、藩の貴重な人材となった事情と似ている。

  • 維新の傑物-江藤新平-

    <京都で会津藩の公用人を務める>
    元治1(1964)年に長州藩が、京都守護職の会津藩主松平容保の排除を目指して起こした禁門の変(蛤御門の変)では、覚馬は砲兵隊を指揮して勲功を上げたので、公用人に任ぜられる。このため活動範囲も広がって幕府や諸藩の有力者にその存在を知られるようになる。しかしこの頃から眼病を患い失明状態になったという。

    そのような逆境下でも覚馬は京都で活動を続け、佐久間象山が京都で暗殺された時は、海舟から依頼されて象山の遺児を引き受けたり、また海舟から紹介を受けた西 周(あまね)と交流して西洋事情の見聞を広め、後に西の主著「百一新論」を出版したとある。

    <薩摩藩邸で「管見」を著す>
    そして慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いの時も京都に残っていたので、薩摩藩に捕われて薩摩藩邸に幽閉される。しかし薩摩藩首脳部は覚馬の人物の優秀さを良く知っており、厚遇したという。覚馬はこの幽閉中に、「管見」という建白書を口述筆記して提出する。西郷隆盛もこれを読んで覚馬にますます敬服の念を抱いたといわれ、明治2(1869)年に釈放される。

    「管見」には、三権分立、議会の二院制、学校制度、郡県制移行、世襲制廃止、税制改革、女子教育、製鉄、軍艦、港制、遺産平均分与、衣食、太陽暦、西洋医学等の、将来の日本のあるべき姿が先見的に論じてあったという。海舟にも畏敬された横井小楠の「国是三論」が基本思想になっているらしい。横井小楠の長男、時雄は後年同志社に入校し第3代総長を務める。

    Satsunahantei
       薩摩藩邸跡碑(同志社今出川西門)        僕は薩摩藩士だゾー!

    <京都府顧問に>
    解放された覚馬は、明治3(1870)年に京都府大参事の河田佐久馬から推挙されて京都府庁に出仕し、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直(後、第2代知事になる)の顧問として迎えられたとある。槇村のもとで初期府政の勧業政策を推進し、明治5(1872)年に日本最初の内国勧業博覧会を開催し、英文案内も作ったという。

    明治8(1975)年春には、大阪で伝道中の米人宣教師、ゴルドンから贈られた「天道溯源」に共鳴して、キリスト教こそが日本人の心を磨き、進歩を促進する力になり得ると感じ、その頃知り合った新島 襄の学校設立計画を知って協力を約束したとある。つまり新島の話を聞く前に、覚馬はキリスト教に強く魅かれていたというわけである。

    その後の同志社の経緯は前編の「新島 襄と同志社」に記した通りであり、同志社を支援する覚馬は明治10(1877)年に府顧問を解かれる。2年後、第1回京都府会選挙で当選して初代議長を務め、明治18(1885)年に京都商工会長に就任し洗礼を受ける。明治23(1890)年の新島 襄の急逝の後、同志社臨時総長を務めるが、2年後に覚馬も永眠する。

    <京都が第2の故郷に>
    というような山本覚馬の人生であるが、注目すべきは新島 襄と会う以前に、キリスト教の思想が今後の日本の進歩に力になると覚馬自身が感じていたという部分であろう。後に洗礼も受ける覚馬であるから、キリスト教主義の学校を建てて自由、自治、自立に目覚めた日本人を育てたいという新島 襄に、覚馬が一体感を抱いたことは大いにあり得たと思われる。

    従って山本覚馬を新島 襄の同志社の実現に駆り立てたものは、キリスト教思想による人材教育への共鳴とも思われるが、それだけではあるまい。明治維新になって覚馬が京都で再起した時は既に失明の身であり、後の新島夫人となる山本八重や母も会津から呼び寄せ、京都は第2の故郷になっていた。維新後の京都の再生が自分の再生と重なるという思いも強かった筈である。

    と思っていたら、このような視点から覚馬を捉えていた方がおられた。

    前編のウェブログで触れた「新島 襄とその妻」を著した福本武久氏は、同志社ご出身の作家で新島 襄の研究者でもある。平成4(1992)年に会津若松市で開催された「新島 襄生誕150年記念会津若松講演会」で山本覚馬を近代京都の先覚者として紹介されている。その講演内容は、新島 襄とその時代「山本覚馬と八重」というウェブサイトで見られるので、さらに覚馬の実像に迫ることができる。

    <合理的思考をしていた覚馬>
    江戸から会津に戻った覚馬は、文久3(1863)年に「守四門両戸之策」という海防に関する建白書を藩主に提出する。この中で覚馬は、攘夷論者のように西洋諸国を侮ってはならない、攘夷論者を愚弄してもいけない、まず諸外国の脅威から国を守ることであると説き、そのための海防策、戦艦建造と配置、費用捻出、平時の輸送利用などについて、具体的に緻密に論じているという。

    その10年前の嘉永6(1853)年、ペリーの黒船来航で世上騒然となって、幕府が身分を問わず広く意見を求めた時、海防や海軍の重要性を説いた海防意見書を出して幕府に認められたのが勝 海舟である。これがきっかけとなって長崎に海軍伝習所ができ、海舟の活躍の場となったことは以前のウェブログ「長崎と勝 海舟」で触れた。

  • 長崎と勝 海舟

    覚馬は会津という山国の武士であったが、海防八策の意見書を出した佐久間象山や、外国の脅威から日本を守るには海防や海軍創設が重要との持論をもっていた勝 海舟の影響を受けたと思われ、建白書は非常に合理的な思考で書かれているらしい。その背景には、武士は算術などは卑しむべきという時代に、会津日新館の算術重視の教育方針と、佐久間象山の、万学の基礎は数学にある、という思想に影響を受けたのだろう、と福本氏は指摘されている。

    <非戦論者だった覚馬>
    会津藩と聞くと、京都守護職で佐幕派の代表であり、新撰組を用いて倒幕派の志士を多数殺害し、戊辰戦争では賊軍となり、会津の地で破れるまで戦ったとの印象が強いが、覚馬は会津藩の中では珍しい非戦論者であったという。今、国内で争うべきでない、国をあげて外敵の脅威にそなえる時、との持論で、師の象山や海舟の流れを受けた考え方だったらしい。

    慶応2(1866)年、長州征伐をめぐって会津と薩摩が対立した時は、幕府調停役の海舟と覚馬とで何とか事態を収拾した。それ以降も鳥羽伏見の戦の直前まで開戦の回避に動いていたことは、覚馬の意見書からわかるという。鳥羽伏見の戦が始まった時も、会津を賊軍にしないよう藩主を説得し、戦争をやめさせようと奔走したが実現しなかった。

    <明治京都の都市(まち)起しプランナーになった覚馬>
    覚馬が釈放された明治2(1869)年の京都は、東京遷都により7万戸あった戸数のうち1万戸が減少し、まさに衰退に向っていた時期であったという。再興を目指す京都府の初代知事は勤王派公卿の長谷信篤であったが、実権を握っていたのは権大参事の槇村正直で、彼が覚馬を京都府顧問として迎えた。覚馬の「管見」が高く評価されたのだろうとのことである。

    当時の京都にはお金はあった。東遷した天皇の手切金として貰った産業基立金や政府から借用した勧業基立金がたっぷりあり、むしろ産業振興をどのように進めるかの知恵が必要だったと思われる。それ故、「管見」で日本の進むべき将来像を具体的に示した覚馬の頭脳を、京都の指導者達が是非必要としたのだろう。

    京都府の洋式工業化を中心とする勧業政策は、覚馬が立案したプランを第2代知事となる槇村が決定し、勧業課長の明石博高が実行したという。明石博高は、覚馬が京都で開いた会津藩洋学校で西洋式技術を学んだ人物で、明治2年当時は大阪の舎密局(せいみきょく)に勤務していたが、覚馬の建言で槇村が引き抜いたらしい。舎密局とは明治維新期に化学技術研究、教育、および勧業のために作られた官営施設である。

    京都では、新政府がつくる東京とは全く異なる方法で産業振興、農業近代化、および教育政策が進められた。京都にも舎密局が設けられ、島津製作所を設立した島津源蔵もここで学んだという。さらに長州藩邸跡に勧業場が設置され、製紙場、鉄工所、靴工場、製革場、製糸場、織工場、染色工場等の府営工場や、牧畜場、栽培試験場、養蚕場等の洋式農業施設を統轄した。

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      勧業場跡碑(明治天皇行幸所)  ホテルオークラ敷地内  長州屋敷跡碑

    教育政策には覚馬が「管見」の中で提言した思想がそっくり盛り込まれたという。有名な京都の番組小学校は、明治5年の「学制」発布に先駆けること3年の、明治2年に64校が設置された。英、仏、独学校をもつ先進的な中学も明治3年に設置され、女紅場と呼ばれた女子教育機関も明治5年に設置されている。実学の他、英語も教えるユニークな女子教育で、山本八重もここで生徒達を教えている。

    さらに医療面でも病院が新設され、日本最初の精神病院や性病治療施設も作られたし、塵埃処理場もこの時期に設けられ、社会資本の充実がはかられたという。東京遷都により意気消沈したはずの京都であったが、このような形で産業、社会、文化面で近代化を実現し、遷都による寂れた都にはならなかったわけである。

    <山本覚馬を駆り立てたもの>
    かかる京都の必死の都市(まち)起しに覚馬はなぜ心血を注いだのか。それは「反中央意識」によるものだろうと、福本氏は指摘されている。会津人である覚馬には薩長中心の東京の新政府には対抗意識もあったに違いない。「管見」に示した自分の思想にもとづき、広く世界に目を向けた原理原則で京都再生を行うことが、会津人としての自分の再生にもつながると考えたのであろう、と確かに思える。

    新島 襄は、ちょうど覚馬が京都再生に心血を注いでいた真っただ中の明治8(1875)年に、キリスト教主義による学校設立計画を覚馬のもとに持ち込んで来たことになる。覚馬も、襄のキリスト教思想による人材教育が、日本を外国の脅威から守るという考えには共感を覚えたであろうし、覚馬の京都再生プランの人材教育の思想に同志社設立計画はぴったりはまったのではないかと思う。

    福本氏は、維新戦争に敗れて挫折感を味わった覚馬にしてみれば、そのような挫折感がなく、薩長の新政府にたいするコンプレックスもなく、むしろ新政府要人からは信頼感さえ得ていた新島 襄の、何物にも縛られない姿勢にも共感を覚えたのであろう、と指摘されている。

    このような新島 襄の思想や人物への覚馬の共感が、旧来思想のメッカである京都という地に、キリスト教を標榜する学校を建てるという難題に、覚馬を駆り立てたのであろう。新島 襄は同志社英学校の認可を受ける時、当初は聖書を教えないこと、という条件を呑んだが、覚馬が現実を踏まえて授けた知恵だったと思われる。

    <大阪と京都のやりとり>
    ところで前編で触れた新島八重子回想録にあるように、同志社は始め大阪に建てられる計画であったが、大阪の渡辺昇知事と京都の槇村正直知事の確執が一因となって、京都に建てられることになった。

    上述したように、覚馬とともに京都の勧業政策を実行した明石博高は、槇村正直により大阪の舎密局から引き抜かれて京都で活躍し、全国に先駆けて目覚ましい近代化を成し遂げた。

    明石博高が引き抜かれた大阪舎密局は、その後第三高等中学校となるが、槇村正直の後任の北垣国道第3代知事が大阪から京都に移転させ、明治27年に第三高等学校(三高)となった。

    明治維新に覚馬のプランで始まった京都の近代化政策が、大阪との関係においても色々やりとりを生み、結果的に大阪は商都、京都は学都となって発展してきたことを思うと、京都育ちの私にとってはなかなか興味深いものがある。京都は反東京(中央)意識だけでなく、大阪との対抗意識も強かったのかもしれない。

    <京都の先人・先達として知られる覚馬>
    京都府産業支援センターは、京都小売商業支援センターというホームページで、京都の街づくりに貢献した京の先人・先達を紹介しているが、石田梅岩、本阿弥光悦、角倉了以、一休宗純、尾形光琳、乾山、田辺朔郎、島津源蔵、稲畑勝太郎たちと並んで、山本覚馬を京都の近代化を進めた人物として挙げている。

    <学都になっていった京都>
    覚馬は明治25(1892)年に歿しているから、三高が開校する明治27年の2年前である。三高が出来た今から115年前頃の京都吉田山付近の地図は、以前のウェブログ「紅萌ゆる丘の花-100年前の吉田山-」に示したが、鴨川より東、岡崎より北は全くの未開拓地であった。同志社や病院は既にこの地図に記載されている。

  • 紅萌ゆる丘の花-100年前の吉田山-

    さらに、明治末期から大正時代にかけて京都の吉田山麓には、三高、京都府立一中、京都大学、京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学)、京都市立美術工芸学校や京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)が立ち並び、今出川の同志社から吉田山麓にかけて鴨川を挟んで一大文教クラスターが誕生したことは、以前のウェブログ「100年前の吉田山麓」で紹介した西島安則先生の寄稿に触れられている。

  • 100年前の吉田山麓

    覚馬は人材教育こそ近代国家を支える要諦であると謳っており、同志社設立への支援はその実践であった。京都はその後も学都として発展していくが、その礎には覚馬のような先人がいたことを改めて知り感慨を覚えている。

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