新島 襄と同志社
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新島旧邸(京都市上京区寺町通丸太町上ル)
<同志社>
2007年7月から勤務している我が職場は、京都府京田辺市の同志社京田辺キャンパスの一角にある。同志社の創始者は、良く知られているように新島 襄(にいじま じょう)である。京田辺キャンパスには、ゴチック様式の尖塔をもつ新島記念講堂や、新島 襄と共に同志社設立に貢献したJ.D.デイヴィスの記念館がある。
再来年のNHK大河ドラマは、新島 襄の夫人である新島八重(やえ)が主人公である。従って同志社もしばしば画面に出てくるのだろうが、同志社の本拠は、京都市内の京都御苑(京都御所)の北に位置する今出川キャンパスなので、ここが舞台になるのだろう。また冒頭写真に示したように、新島 襄と八重夫人が住んだ新島旧邸が京都御苑東の寺町通にある。
今出川キャンパスは同志社発祥の地であり、ここには明治期に建てられた彰栄館、チャペル、有終館、ハリス理化学館、クラーク館の5棟が今も残っていて、国の重要文化財になっている。さらに大正から昭和初期に建てられたジェームズ館、啓明館、栄光館、アーモスト館、フレンドピースハウスの5棟が国の登録有形文化財になっている。
啓明館やアーモスト館は、以前のウェブログ「湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-」で触れた、青い目の近江商人、メレル・ヴォーリズが設計している。
彰栄館(明治17年竣工:重文) チャペル(明治19年竣工:重文)
ハリス理化学館(明治23年竣工:重文) クラーク館(明治27年開館;重文)
京都育ちなので、我が家族、親類、友人には同志社中学、高校、大学の出身者がたくさんいて、子供時代から同志社には親近感があった。あまり知識がないが、キリスト教の教えをバックボーンとする、いわゆるミッションスクールとして、日本人が創始したものの嚆矢ではないか。
同志社より歴史のあるミッションスクールに、明治学院、フェリス、青山学院、立教大学、神戸女学院などがあるが、いずれも外国人宣教師によって始められたものであり、明治初期に外国人の居留が許可された地で開校されたものと思われる。
私自身は同志社出身ではないのでこれまではあまり意識しなかったが、同志社のキャンパスに出入するようになってひとつの疑問が湧いた。それは、千年の王城の地であり、全国の社寺仏閣の総本山が集まった、いわば旧い日本を代表する地である京都に、なぜ新島 襄は同志社を建てることが出来たのだろう、という疑問である。
キリスト教は明治6年になってやっと解禁されたが、当時は耶蘇教と呼ばれてまだまだ迫害を受けていた時代であるし、京都は神社仏閣勢力の巣窟みたいな所であったろうから、キリスト教を標榜する同志社をこの地に建てることは、常識的には不可能なことではなかったのだろうか、と不思議に思ったわけである。
新島 襄は、以前のウェブログで触れた慶応義塾の福沢諭吉や早稲田の大隈重信とともに、伝統ある私学の創始者として学校の歴史で習うから知名度は全国区であるものの、活動拠点が京都だったので、その事績は、東京という明治維新後の日本の中心地で活動した福沢や大隈ほどには知られていないと思われる。
というわけで、「新島 襄の生涯」(J.D.デイヴィス著、北垣宗治訳)、「新島八重子回想録」(永沢嘉巳男編)、「新島 襄とその妻」(福本武久著)を読んで、何故京都の地に同志社が建てられたのか?という疑問を詮索してみた。特にデイヴィスは新島 襄の渡米時代からの同志であり、襄の逝去後も草創期の同志社を支えた人物なので、彼の著書は大変参考になった。
<函館から祖国脱出>
新島 襄は1843(天保14)年に江戸神田の安中藩邸(安中藩は今の群馬県)で生まれた。少年の頃から信心深い性格だったらしいが、この時代の藩士の常として漢籍や蘭学を学ぶ。16歳頃に漢訳のアメリカ地理書に書かれた社会制度に驚嘆して知識欲が増し、20歳頃には漢訳の聖書に触れてキリスト教を教える教師か宣教師になりたいとの望みをもったという。
そして当時開港していた函館に行って英米人に学ぶことを企てたが、父、民治や藩主、板倉公に拒絶される。しかし彼は板倉家でも上位者の備中松山藩主、板倉勝清に頼み込んで許可を貰い、板倉藩の船で函館に向かう。英語教師は見つからなかったものの、ロシア人司祭ニコライの日本語教師となる。
ここでニコライが通っていたロシアの病院の仕組みなどを見聞する内、外国の知識を吸収したいという念願はますます高まり、祖国脱出を企てるまでになる。新島の念願を理解し、上海まで行くアメリカ船にわたりをつけてくれたのが、函館で知り合った福士卯之吉という英国商館の書記である。
函館市内に、1864(元治1)年、新島 襄が国禁をおかして海外渡航したことを示す、新島 襄海外渡航の地碑や新島 襄像が建っていることは、以前のウェブログ「函館五稜郭拝見」で触れた。
<米国で洗礼を受ける>
上海で別のアメリカ船に乗込むことに成功し、函館出港1年後の1865(慶応1)年7月にボストンに入港する。この船長が密航青年を入港後船主のハーディに会わせた。ハーディ夫妻は国外脱出の理由や将来の希望を聞いて、この青年は支援のしがいがあると悟り、ジョセフと名づけて引き取ったという。
ハーディ夫妻の支援により、アンドーヴァーのフィリップス高等学校に入学したジョセフ・ハーディ・新島は、1866年にアンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、1867年にアーモスト大学に入学し、日本が明治維新という大変革を起こしている時期、ニューハンプシャー州、コネチカット州など米国各地で見聞を広めていた。1870(明治3)年にアーモスト大学を卒業し、アンドーヴァー神学校に入学する。
<森 有礼との出会い>
1871(明治4)年に彼にとって転換期が訪れた。日本で最初に米国大使(当時は駐米少弁務使)に任命された森 有礼と、ボストンで出会ったことである。おそらく森 有礼は新島の人柄やその思想、行動力に非常な感銘を受けたと思われる。彼は新島のために日本政府の旅券と留学免許状を発行するよう斡旋したという。
何せ密航後しばらくして、父親、民治から藩庁あてに「倅七五三太(しめた)は近海で測量中、風雨のため遭難した」旨届けが出ていたので、実質上新島は無国籍者であったわけであり、森 有礼のおかげで日本人に復帰できたともいえるのである。
さらにこの年の秋にマサチューセッツ州セイレムで開かれたアメリカン・ボード年会で、日本へのキリスト教伝道に向かうJ.D.デイヴィスとも出会う。後年の同志社設立に向けた支援人脈の礎がこの年に出来たといえる。森 有礼は、その後初代文部大臣になって日本の学校制度の根幹を決めていった人物である。
<岩倉使節団の信頼を得る>
翌1872(明治5)年、森 有礼は、新島に岩倉使節団の一員の田中不二麿文部理事官を紹介し、新島は教育視察のための通訳を委嘱される。使節団の随員には後年津田塾大学を設立した津田 梅もいた。余談であるが、津田 梅自身は洗礼も受け、津田塾大学内にチャペルもあるが、キリスト教主義の大学ではないらしい。
デイヴィスは、森 有礼が、田中文部理事官に新島を紹介した時の言葉を、新島が書いた手紙から引用している。「新島君は私がお願いして来て頂いた方です。つまり奴隷としてではなく、まさに閣下に対して教育に関するアドバイスを致したいという親切心から来て下さったのであります。従って閣下におかれましても同君の親切と善意をどうかご嘉賞頂きたいと存じます。・・・新島君は日本を愛する士であって、奴隷ではございません。」
これを見ても森 有礼が新島をいかに高く評価していたかが分かる。奴隷という言葉は意味がよく分からないが、日本政府から指示を受ける立場の官費留学生とは違って、日本政府と対等のアドバイザーの立場だよ、との意味にもとれるし、新島は日本を外国の侵略から守るためにキリストの思想が必要と考えていたから、単なるキリスト教かぶれではないよ、との意味にもとれる。
いずれにしろ新島は田中文部理事官とともにヨーロッパ諸国の教育視察を行い、ヨーロッパ諸国の教育制度をつぶさに学んで、日本の普通教育についての提言も含めて報告書の草案を田中文部理事官に渡す。デイヴィスは岩倉使節団における新島の評価を次のように記している。
「新島の誠実さと主義に対する良心的な忠実さとは、使節団の人々の信頼をかちえた。この信頼は死に至るまで変わらず続いたのである。彼が日本に帰って学校を始めようとしたとき、この人々は政府の重要なポストをしめていた。それ故同志社大学が今日存在しうるのは、新島と彼らとの親交のおかげであり、彼らが新島に対して抱いた深い信頼のおかげなのである。」
<日本へ帰国>
1874(明治7)年の秋に、既に日本への帰国を決意していた新島は、ヴァーモント州ラットランドで開かれたアメリカン・ボードの大会でのお別れの挨拶の中で、日本にキリスト教主義の大学を建てるという演説を行った。彼の演説は聴衆の心を打ち、州知事を始め有力者から5,000ドルの寄付が集まったという。
この年の暮、新島は10年ぶりに日本の地を踏み、安中の両親と対面する。この頃父宛の手紙にはじめて「襄」の字を用い、ジョセフの略也と説明したらしい。襄が使節団で知り合った新政府の指導者からは、再三再四政府への出仕を要請されたが、自分の目的遂行のため頑強に断った。この点は福沢諭吉と同様である。
襄の安中訪問時には人々が押し寄せて外国の話を聞き、襄も公然とキリストの思想を語り始めたので、キリスト教禁制が解けたとはいえ県知事が困惑して上京し、政府首脳にお伺いを立てたという。「新島ならよろしい。やらせておけ。」というのが政府の回答で知事も安心し、数年後には安中教会の結成につながったという。
<大阪と京都の知事の確執が幸運を呼ぶ>
山本覚馬
この頃神戸、大阪には教会が建てられ、外国人宣教師も居住が許可されていた。襄は、寄付を受けた5000ドルでキリスト教主義の学校を建てるため、使節団で親交を得た木戸孝允の援助を得て、渡辺昇大阪府知事に会うが、知事は学校設立は良いが宣教師が教えることはまかりならぬと反対し、大阪を断念する。
そこで襄たちはまだ外国人居住が許可されていない京都に目を向けた。仏教と神道の中心地である京都とは一見無謀のように思えるが、既に一部の宣教師は、外国人の出入りが許されていた京都博覧会の期間に京都府顧問の山本覚馬と会い、彼がキリスト教の理解者であるという感触を得ていたためと思われる。
1875(明治8)年4月に襄は槇村正直京都府知事と山本覚馬に面会し、山本覚馬からキリスト教主義学校設立の賛意を得て知事承認にこぎ着けた。6月には襄とデイヴィスが山本覚馬を訪れ、京都御所の北に当時は覚馬が所有していた薩摩藩邸跡を学校用地として譲り受けた。この山本覚馬が、後年、襄の夫人となる八重の実兄である。新島八重子回想録に、この間の裏事情が記されている。
「同志社ははじめ学校を大阪にたてる計画でありました。それで襄は木戸孝允さんから手紙を貰って大阪の知事に交渉しましたが、大阪の知事はどうしても承知してくれませんでしたので、止むを得ず京都の槇村さんに話しましたところ、それではぜひ京都にたてよと大変な乗気で賛成してくれました。」
「と言うのは、その時大阪の知事と槇村さんとは非常に仲が悪かったので、大阪が引き受けないと決まると、京都では意地にでもそれをやるのでありました。」 つまり大阪の渡辺知事と京都の槇村知事の確執が、同志社にとって幸運を呼んだわけであるが、実際は八重の実兄の覚馬の意向が大きかったようである。
<同志社英学校の開業>
8月には学校開設と宣教師雇入れの請願書を京都府に提出し、知事のアドバイスで直接東京の新政府に掛け合いに行く。相手は襄にとっては昵懇の文部大輔田中不二麿であったが、田中は最初は京都は日本国にとって神聖な都市であり、市民側の反対や偏見が予測されるから、とてもキリスト教の学校を開設する許可は出せないだろうと告げた。
しかし3日間にわたる会見で、田中はついに、襄が市民の反対を引き起こすようなことを何一つしないよう、注意深く行動するのであれば許可を出そうと言った。こうして学校開設の許可は9月におりた。新島 襄と山本覚馬の2人は、学校開設、教師雇入れ事業を行う2人からなる結社を作った。これが同志社の始まりである。
10月にはデイヴィスが京都に来たが、案の定仏教の僧侶たちが集会を開き宣教師追放の請願を政府に送る。京都府の態度も後退し、次に雇用予定の教師の許可も滞った。これを打開してくれたのが田中不二麿である。彼は知事に、当座学校で聖書を教えないよう要求せよと入れ知恵をし、襄もこれに応じた結果、11月に同志社英学校は仮校舎で開業し、教師の雇用も許可された。
<存続の危機>
R.D.デイヴィス
京都府知事の槇村は最初は襄の学校開設に協力的で、山本覚馬の妹の八重を娶らないかと打診するほどであったらしい。実際にこの話は実現し、1876(明治9)年1月に襄と八重は結婚する。しかし仏教の都、京都ではキリスト教に対する偏見は根強く、槇村や京都府は次第に同志社を敵視するようになった。この間の裏事情も新島八重子回想録に先ほどの続きに記されている。
「いよいよ学校が出来て、デイヴィスさんやらたくさんの外人も来て盛んになりそうになると、今度は逆に反対をしはじめました。襄の話によると、槇村さんという人は才物ではありましたが、一面嫉妬心の強い人でありましたので、同志社に京都府の学校にもいない程、たくさんの外人を教師としておいていることが気に食わないようでありました。」
「新島は金もないのにあんなに外人を雇うことが出来るのはアメリカから金を貰っているからだ、ときつい反対がありましたので、宣教師を雇う度ごとに東京まで交渉に出かけねばなりませんでした。」知事への影響力をもっていた山本覚馬も京都府との関係が切れ、この時期の襄にとっては、地元の京都では四面楚歌で、東京の政府が味方であったようである。
さらに、学校では聖書を教えられないことに、襄のバックアップ団体である宣教師団が不満をもち、京都からの撤退案も出たらしい。しかし襄と覚馬の誠実な対応や、後の徳富蘇峰・蘆花兄弟も加わっていた熊本バンドと呼ばれた優秀な生徒たちが、事情あって熊本から同志社に入校するなどの幸運もあって、生徒数が次第に増えて撤退の危機は去ったという。
<大学の設立へ>
北垣国道
同志社英学校をキリスト教主義の大学にしたいという計画をもっていた襄は、1882(明治15)年頃から積極的に取組みを始める。この背景には明治14年に、京都府知事が槇村正直から進歩的な考えを持つ北垣国道に変わって、襄や同志社に対する敵視政策が改められたので、気運が熟してきたと思えたのであろう。
1883(明治16)年には「同志社大学設立旨趣」を発行し、翌年には京都商工会議所で同志社大学設立発起人会を開き寄付金募集を開始する。1888(明治21)年には、教え子の徳富蘇峰の協力を得て全国主要新聞雑誌に「同志社大学設立の旨意」を発表する。京都府も北垣国道知事になってから率先して大学設立の寄付金集めに手を貸してくれるようになったという。
実は、京都府が北垣国道知事になってから、同志社への対応が大きく変わった状況をその後はっきり知る機会があった。
この記事を発信後、有限会社田辺コンサルタント・グループ代表取締役の田邉康雄氏からメールを頂いた。田邉氏から頂いたメールを引用させて頂く。「『仏教勢力がつよい京都において、なぜキリスト教の同志社が許可されたか?』との課題にひとつの回答を申し上げます。第三代京都府知事北垣国道が、長女静子を同志社に入学させました。これにより仏教勢力の反対運動が収まりました。御参考のひとつにしていただけると幸いでございます。」(2013年8月30日12:11田邉康雄発八木健吉宛のメールから引用)
私の疑問に対する大変貴重な情報を頂いたので、お礼のメールを差し上げたところ、さらに新しい情報も頂いた。これも引用させて頂く。「北垣国道の長女静子は、私の祖母です。国道は同志社を支援する姿勢を明確にする目的で静子を同志社に入学させました。静子はデントン先生(女性)から英語を倣いました。もちろんキリスト教も。」(2013年8月30日15:40田邉康雄発八木健吉宛メールから引用)
つまり田邉康雄氏は、北垣国道知事の曾孫であられ、長女静子氏の孫であられるので、このような情報を頂けたのである。
田邉氏から頂いた上記の情報から、同志社が京都という仏教勢力の強い地に次第に根付いて行った背景には、北垣国道知事の大きな支援があったことがはっきりわかった。
北垣国道知事は京都の将来を良く考えた名知事で、福井藩出身の英才で渡米後京都府に出仕していた27歳の今立吐酔を、京都府中学校の初代校長に登用して近代的な中学教育の実現を託し、さらに、既に大阪にあった第三高等中学校の京都への誘致も行って後の三高とした。その結果吉田山麓に一大文教クラスターが築かれたことは、以前のウェブログ「100年前の吉田山麓」で紹介した、西島安則先生の寄稿の通りである。
しかし大学設立のための資金集めに東奔西走する襄の健康状態は次第に悪化し、1889(明治22)年に東上して募金活動中、群馬県前橋で体調を崩し徳富蘇峰のすすめで大磯に移るが、1890(明治23)年1月、46歳で永眠する。まさに大学設立の道半ばでの死であった。
<京都東山に眠る新島 襄>
2011年9月23日に我が父母や義父の墓参のついでに、京都東山の若王子(にゃくおうじ)山にある新島 襄の墓を訪れてみた。天王町から哲学の道の南端にある熊野若王子神社に至り、そこから若王子山の山道を登って行く。途中イノシシ侵入防止の柵もあってびっくりするが、このあたりは鹿ケ谷(ししがたに)若王子町という名の地域なので妙に納得がいく。
デイヴィスの著書には、新島 襄の父、民治は南禅寺の墓地に眠っているが、襄は、日本におけるキリスト教の大立者であるという理由で埋葬を拒絶されたのであった、とある。当時の京都におけるキリスト教の位置づけを物語っているようである。そのためかどうか、若王子山には一般墓地とは別に同志社共葬墓地があり、新島 襄のお墓もここにある。
新島 襄の墓所は柵で囲まれていて門が設けられている。入口付近に同志社が立てた説明板がある。説明板には、新島 襄先生は明治23年1月23日に大磯で天に召され、1月27日の葬儀のあと学生達に担がれて此処に埋葬され、翌年1月鞍馬産の自然石に勝海舟翁の揮毫になる碑銘を刻んだ墓碑が建立されたとある。
しかし90年後に不慮の事故によって倒壊したので(デイビス著書には建立時の墓碑の写真が載っているが、1986年vandalismによって破壊されたと説明がある)、襄が日本にキリスト教主義の学校を建てると演説した米国ラットランド産の花崗岩を取り寄せて、1987(昭和62)年に再建したという。碑銘は元の墓碑から写し刻んだとあるので海舟の揮毫のままである。
柵で囲まれた墓所内には同志社創建に貢献したと思われる人々の墓標が立ち並んでおり、八重夫人、山本覚馬、デイビスの墓標もある。新島八重子回想録に、同志社の創立当時から松本五平という小使さんがいて、襄だけは自分を呼び捨てにしないと慕っていて、自分が死んだら門の外に埋めてくれと言ったので、内に葬りましょう、と答えたエピソードがあるが、その五平の墓が約束通り門の内にある。
<新島 襄と勝 海舟>
明治期の海舟
新島 襄の墓碑に勝 海舟が揮毫したと知って意外な感じもしたが、襄の事績の年表には、1879(明治12)年に勝 海舟を訪問するとある。また襄が永眠した1890(明治23)年の暮に八重未亡人が勝 海舟を訪問し、墓標をしたためられる、とあるので、新島夫婦と海舟は何らかの絆があったようである。
海舟語録や海舟座談には、新島 襄や同志社のことが出ている。「新島が大学を建てると言うて来た時、サウ言うた。『お前さんは千両の金でさへ、さう扱った事のないに、十万という金を募るといふは、とても出来ないからおよしなさい』と言った。すると西洋人が大層賛成すると言ふから、『それだから尚いけない』と言うた。その時大層怒って帰ってしまったが、二三年は少しも来なかった。」
「新島は少しは出来る男だと思ったから、それでひどく言うてやったのサ。初めから、とても出来やしないと言うたのサ。どうして、仏徒などの初めは、大した苦労だから。僅かに、五人六人しか有りはしないが、その人々の苦心はエライものだ。第一、学問が淵博で、外のことを大そうよく知っていて、それから自分の宗旨の事を言ふのだもの。新島などは、ただ仏教が悪い悪いと言うだけの事で何も知りやあしない。」
というような調子であるが、これは海舟が晩年に語った言葉であるから、海舟一流の諧謔的な表現になっていると思われる。明治12年頃の実際の会見時では、学校経営における経理の重要性とか、仏教徒でも優れた人物が居るから甘く見てはいけない、等々、海舟自身の経験と、襄の一途な情熱の間にやりとりがあったのだろう。
幕末、倒幕派も佐幕派も江戸での決戦一色であった中で、江戸城無血開城という大事業をやった海舟には、仏教、儒教、神道の日本の旧来思想が集約されている京都の地における、襄のキリスト教主義の大学設立事業の困難さが良く見えたのではないか。
デイヴィスは、襄の葬儀の時に海舟から届いた手紙を紹介している。その中で海舟は、お悔やみに加え、「新島さんは、あまりにもまじめに計画をたて、あまりにも急いで事業の拡大を図っていたので、いつももっと注意深くやるよう忠告してきた。新島さんの始めた大事業の継続は非常な困難が予想される。しかし自分の経験からは、まじめである限り計画は倒れるものではない。」と、残された人々を激励している。
なお、新島 襄と勝 海舟の交友については、その後新しい資料を見つけて少しくわしく知ることが出来たので、この後のウェブログ「新島 襄と勝 海舟」にアップした。
<八重夫人>
ということで、何故京都に?という我がくだらない疑問には回答が得られたようである。上記の「100年前の吉田山麓」の西島安則先生の寄稿にあるように、当時の京都が、東京遷都ショックに陥って元気をなくし、何か精神的な支柱を求めていたことは事実であり、旧来思想の巣窟ではあったが、対東京意識としての革新的なものを受入れる雰囲気があったのかもしれない。
直接的には、襄の思想に共鳴し、知事に断を下させた京都府顧問の山本覚馬の存在が大きく、彼が薩摩藩邸跡地を所有していたということも実現に一役かったと思える。京都守護職であった会津藩出身の覚馬は、薩長出身者の都というべき東京に対し、かなり対抗意識があったはずである。それが日本人新島 襄によるキリスト教主義の学校設立を、京都において成し遂げさせようという原動力だったのかもしれない。
山本覚馬については、この後のウェブログ「京都の近代化を進めた会津藩士-山本覚馬-」で触れた。
その覚馬の妹である新島八重が再来年の大河ドラマの主人公であるが、どのような筋書きになるのか興味深い。「新島 襄とその妻」を著した福本武久氏によれば、かつて会津戦争で洋式兵器を操った山本八重が、転生して新島八重となってからの世評は必ずしもかんばしいものではない、と、あとがきに書いておられる。
そのような八重の悪評は徳富蘇峰・蘆花兄弟の著作によるもので、蘆花の自伝小説や蘇峰自伝の中で、八重夫人の和洋折衷の姿は、創業期の同志社の生徒達から鵺(ぬえ)と呼ばれて評判がよくなかったとか、敬愛する襄先生になれなれしく振舞うのがしゃくにさわった、とかの表現からきているらしい。
徳富蘇峰を始め熊本バンドの生徒達は早くから西洋文明に目を開いていたが、熊本という保守的風土に育ったかれらの女性観はいぜんとして儒教精神から抜け切れず、既に男女同権と女性の自立が新しい国造りに必要なことと考えていた襄と、その思想を素直に受け入れた八重たちとは、女性観が違っていたのだろう、と、福本氏は解説されている。
今、私が通っている京田辺キャンパスの我が職場の向かいに同志社女子大学が美しい姿を見せているが、その原点は1876(明治9)年にデイヴィス宅で始まった女子教育であり、翌年、京都御苑内の、現在の迎賓館のある場所に開設された女子塾である。新島八重もここで生徒達を教えた。
以後135年が経過している。今の同志社女子大生は校祖としての新島 襄や八重を学ぶのであろうが、八重夫人のことをどのように感じているのか、興味のあるところである。
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赤レンガ調の外壁が連なる同志社女子大学(京田辺キャンパス)
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