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2011.08.05

福沢諭吉と痩我慢(やせがまん)の説

100001万円札の肖像は以前は聖徳太子であったが、今は福沢諭吉である。福沢諭吉は現代日本人にとってもそれくらい偉大な人物である。中学や高校の歴史では、福沢諭吉は「西洋事情」を著して日本人を啓蒙し、「学問のすすめ」で日本人に学問の大切さを教え、慶應義塾を設立した人物であることを習う。

「学問のすすめ」の冒頭に出ている有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」という文章は、トーマス・ジェファーソンのアメリカ独立宣言を引用したものとされているが、門閥制度は親の敵と断じ、独立自尊を標榜した福沢諭吉自身の言葉であったとしても全く違和感がない。

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Katsufukuzawa日本の近代化や文明開化の旗手として、あまねく日本人の尊敬を受けている福沢諭吉であるが、晩年「痩我慢の説」を著して、勝海舟と榎本武揚に対し幕臣としての身の処し方を批判した。以前のウェブログで触れたように、勝海舟と榎本武揚は幕末から明治の動乱期に活躍した私の好きな人物であるので、大福沢にして2人に何の遺恨をもつのかと、いささか奇異に感じていた。

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    この間の事情をいずれ知りたいと思っていたが、先日、京都駅の書店で「勝海舟と福沢諭吉」(日本経済新聞出版社2011年4月発刊)という本をみつけた。著者は歴史家の安藤優一郎氏で、福沢諭吉と勝海舟の思想の違いや、痩我慢の説をめぐる経緯が記されてあり、年来の疑問が解消したので、以下に紹介してみたい。

    <痩我慢の説>
    福沢諭吉は明治25(1892)年1月末に、勝海舟と榎本武揚あてに「痩我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。この草稿は明治34(1901)年になって諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたから、その内容は知ることが出来、諭吉が海舟と武揚に何を言ったのかが明らかになった。

    それによると、諭吉は、敵に対して勝算がない場合でも、力の限り抵抗することが痩我慢なのだという。そして、家のため、主人のためとあれば、必敗必死を眼前に見てもなお勇進して徳川家康を支えた三河武士の「士風の美」を痩我慢の賜物として賛美する。

    そして明治維新という政権交代の本質は薩摩・長州藩と徳川家の権力闘争であるから、三河武士により構成される徳川家としては、佐幕派の諸藩と連携して徹底抗戦すべきであり、いよいよ万策尽きたら江戸城を枕に討ち死にするのみで、かくありてこそ痩我慢の精神が全うされると、諭吉は主張する。

    ところが勝海舟は、幕臣は役に立たない、薩長藩士には敵わない、抗戦は社会の安寧を損なう、慶喜の一命を危険に晒す、外交上得策でないと理由を並べたてて平和裡に江戸城を明け渡してしまった。こんなことは世界でも類をみないことで外国人は冷笑したであろう、と海舟の講和策を非難する。

    さらに海舟は内乱は無上の災害や無益な浪費を招くから、勝算のない限りは速やかに和すべしとしたが、その心底には痩我慢は無益なものという考えがあり、古来日本の上流社会が最も重視してきた痩我慢の精神に人々の目を向けさせないように仕向けたのだ、と諭吉は言う。

    もちろん勝算がないことは諭吉自身もそう思っていたが、士風の維持の観点からは国家存亡の危急時に勝算の有無は言うべきでない、戦う前から必敗を期してひたすら講和を求めたことは、戦禍を被ることは少なかったかもしれないが、立国の要素たる痩我慢の士風を損なったのである、と海舟を糾弾する。

    つまり諭吉は、「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持(=痩我慢)は万世の要なり」という考え方であった。

    もっとも諭吉は、勝氏もまた人傑なり、と述べ、人命を救い財産を守った功績は認めているが、独り怪しむべきは、氏が維新の朝に、さきの敵国の士人と並び立って、得々名利の地位に居るの一事なり、と指摘して、この頃枢密院顧問を務め伯爵となっていた海舟を、敵対していた官軍、つまり明治政府に仕えて名利をむさぼっていると弾劾する。

    そして諭吉は、戦わずして和議を進めた海舟の行為は一時の方便であって、本来立国の要である痩我慢の精神からは許されるものではなく、武士の風上にも置けない。後世の者は決して維新の真似をしてはならないと自己批判して、現在の官職や栄誉を捨てて隠棲せよ。そうすれば世間も海舟の清廉さを評価し、維新時の決断も海舟の功名に帰するのだ、と海舟に迫る。

    またこの頃、外務大臣を務めていて子爵となった榎本武揚にも諭吉の矛先は向かう。海舟と同じく敵国の明治政府に仕えて高位高官にのぼっていることを、その功績を無にするものだとして隠棲を求めている。後世に美名が伝わるかは自己の決断次第である、とお説教している。

    <勝海舟と榎本武揚の返書>
    明治25年1月末に出された書状は黙殺されたので、2月5日に再び諭吉は督促状を出した。痩我慢の説と称した草稿は後日公表するつもりだが間違いがあってはいけないし、ご意見あれば言ってほしい。本心は攻撃ではなく、多年来、心に釈然としないので、輿論に質し天下後世のためにせんとするものである、との趣旨であった。

    Kaishu2月6日付の海舟の返書は次のように認められている。

    「古より路に当たる者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為に於いて、御議論数百言御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志忝く存じ候。行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候。御差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候也。  福沢先生  安芳」

    海舟のこの時の心境は「氷川清話」でも語られている。

    「福沢がこの頃、痩我慢の説というのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし。唯百年の日本を憂うるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ。」

    つまり、徳川幕府しか見ない立場で理想を掲げる福沢と、百年先の日本を心配して講和を実践した自分とでは、全く考え方が違うと海舟は言いたかったようである。諭吉は海舟との論争を望んだのかもしれないが、海舟は同じ土俵に立つつもりはないと返したのであった。

    Enomoto1一方の榎本武揚は2月5日付で返書を認めた。

    「拝復。過日御示し下され候貴著痩我慢中、事実相違のかど並びに小生の所見もあらば云々(しかじか)との御意拝承致し候。昨今別して多忙に付き、いずれそのうち愚見申し述ぶべく候。先ずは取りあえず回音、此の如くに候也。   福沢諭吉様     武揚」

    と、榎本武揚は多忙を理由に何も語っていないが、その心境は海舟と同じだったのではないかと、著者の安藤氏は推察している。

    <痩我慢の説の公表>
    諭吉は痩我慢の説を海舟と榎本に送る前に、官軍との講和や明治政府への出仕に批判的な意見をもつ2,3の親友に見せたという。その後、その中の一人から内容が漏れたことで、諭吉は明治34年元旦の「時事新報」に「痩我慢の説」を公表した。時事新報は紆余曲折を経て明治14年に諭吉が創刊した新聞である。

    この公表は大きな反響を呼んだが、諭吉の意見に賛同する者がいる一方、反論も巻き起こった。実は海舟は明治32年1月に死去していたので、海舟自身からは反論できない状況であったが、徳富蘇峰が「国民新聞」に「痩我慢の説を読む」という記事を掲載し反論した。徳富蘇峰は海舟を信奉し慕っていたらしい。

    蘇峰は、海舟が官軍との戦いを避けたのは、日本の内乱に外国勢力が干渉することを恐れたからだ、という海舟の持論を持ち出す。当時の親仏派の幕臣たちがフランスから援助を受け将軍の絶対君主化を目指したので、イギリスから援助を受け雄藩連合制を目指した薩長藩と対立しており、そこへロシアが参入機会を狙っていた構図を指摘した。

    よって、幕府が薩長主体の官軍と戦端を開けば、外国が内乱に干渉するのは明らかで、海舟はその愚を犯さず江戸城を開城し明治維新への扉を開いたと、海舟の功績を称えることで蘇峰は反論した。

    諭吉は蘇峰の記事内容を聞いて、すぐさま「時事新報」にその反論を掲載させるが、直後に脳溢血の発作を起こしてそのまま帰らぬ人となってしまった。

    諭吉は、絶筆ともいうべき蘇峰への反論で、親仏派がフランスの資金援助を受けたのは軍備強化のためであって、明治政府が外国から資金を借りているのと何ら変わらないのだ、と主張し、そのリーダーである小栗上野介を三河武士の鑑であると賞賛し、外国の力を借りて国を売るという評価は決して甘受できないと、小栗を弁護している。

    また外国の内政干渉についても、外国が関心を持っていたのは貿易上の利益だけで、兵乱により武器が売れることを喜んでいたに過ぎず、内乱に介入する意思などなかった、と主張している。さらにこの反論においても、海舟は隠棲すべきであったし、三河武士の末裔として晩節を汚すものであると、明治政府への出仕を咎めている。

    しかし、海舟は既にこの世になく、諭吉もこの世を去ったので、この論争は未完に終わってしまった。

    <幕臣だった諭吉>
    痩我慢の説をめぐる経緯は上述のようなことであったが、「西洋事情」や「学問のすすめ」を著し、慶應義塾を創始した明治の教育者、啓蒙思想家としてのイメージが強い諭吉に、徳川家康に義理を立てて負け戦でも徹底抗戦すべし、かつての敵が作った組織に仕えるなどもってのほか、殺人散財は一時の禍などと唱えられると、正直違和感を覚えてしまう。

    安藤本はこの違和感について、あまり知られていないが諭吉は幕臣の経歴があり、幕臣時代の軌跡を追っていけば至極当然の姿なのである、とする。以下に幕府倒壊までの諭吉の事績を追って見よう。

    諭吉は天保5(1834)年、九州の譜代大名であった中津藩奥平家の家臣の子として大阪屋敷で生まれた。中津藩は蘭学が盛んであり、諭吉も嘉永7(1854)年に長崎へ行き、安政2(1855)年には大阪の緒方洪庵の適塾に入った。翌年23歳で家督を継ぎ、安政5(1858)年に藩命で江戸の中津藩屋敷で蘭学塾を開いた。

    この頃諭吉は横浜の外国人居留地で蘭語が全く役に立たない体験をし英語修行を始める。安政7(1860)年には咸臨丸の渡米の際に副使の木村喜毅の従者として乗船が認められ、艦長を務めた海舟との接点ができる。しかし咸臨丸では、恩人の木村に対する海舟の態度や不和を見て、諭吉は海舟に不快感をもったらしい。

    文久2(1862)年には幕府の遣欧使節団の一員として訪欧する。2年後の文久4年には幕臣に抜擢され、外交文書の翻訳掛となった。慶応2(1866)年には「西洋事情」を刊行しベストセラーになった。翌慶応3年には幕府の遣米使節団の一員として2度目の渡米をするが、渡米中の言動が問題視されて一時謹慎処分を受けたので、この頃から政治に距離をおき出したらしい。

    慶応4(1868)年には塾を芝の新銭座に移し慶應義塾と命名した。この年、幕府は倒壊して明治となり、諭吉は徳川家にお暇願を出して帰商(翻訳業)の道を選ぶ。新政府からは何度も出仕要請を受けたが断った。

    これ以降は良く知られている通り、諭吉は明治の教育界や言論界で民間の立場から重きをなして行くのである。

    <将軍絶対君主論者だった幕臣の諭吉>
    つまり諭吉は文久4(1864)年から幕府倒壊までの5年間は幕臣であった。この頃の諭吉の思想や国家感を示す資料として安藤本は、諭吉の「長州再征に関する建白書」を取り上げている。この建白書は、慶応2(1866)年に幕府が長州藩との戦争(第2次長州征伐)に踏み切ったが、将軍家茂の病死で幕府が苦戦していた頃に書かれたものである。

    建白書の中で諭吉は、この当時提唱されていた大名同盟論の拡がりに警戒している。この論は、日本の政治体制は雄藩連合に移行すべきという論で、薩摩藩や英公使パークスがこの論であった。諭吉は長州藩が加担して欧州でこの論を展開すると、将軍を中心とする徳川幕府国家体制に対する国際社会の支持が下がることを危惧し、その防止策を提言している。

    さらに諭吉は、内乱鎮圧に外国の力を借りて長州藩を取りつぶし、その上で異論ある大名も討伐して全日本封建制度を一変させて、将軍の威光を示すべきだと提言している。つまり将軍の大統領化を念頭においた郡県制度への道である。外国の力としては軍隊のみならず、外国からの戦費の借用も提言し、国債というものもあると紹介している。

    この意見は、当時の幕府で主流を占めていた実務官僚たちの立場そのものであり、その代表格が勘定奉行の小栗上野介忠順であった。従って諭吉は、晩年に語った「福翁自伝」では幕府と距離をおいていたことを強調しているが、実際は、小栗忠順と同様の将軍絶対君主論の立場に近かったと、安藤本は指摘している。蘇峰の反論に対し諭吉が小栗を弁護したこともうなずけるわけである。

    良く知られている通り、小栗忠順たちのフランスからの借款は外国の内政干渉を招くと批判して、アーネスト・サトウや英公使パークスに協力を求め、内乱を回避するために講和に持ち込んだのが勝海舟である。もともと雄藩連合の考え方は、海舟から西郷隆盛や坂本龍馬に伝授された思想であり、このことからも諭吉と海舟は相容れない国家思想をもっていたことが分かる。

    しかし海舟は小栗忠順については、政敵であったにも関わらず、氷川清話の中で褒めている。

    「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は、精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口にいうと、あれは、三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった。」と、意外にも、小栗を三河武士の鑑と讃えた諭吉に近い見方をしている。

    <造られたイメージ>
    文明開化と近代化の旗手としての福沢諭吉像と、晩年になって「痩我慢の説」で海舟の処し方を糾弾する福沢諭吉像の間に、何となく違和感を覚えるという、どうでも良い我が疑問であったが、学校で習った歴史や、「福翁自伝」などで得た知識では、どうやら諭吉の造られたイメージしか見ていないのだ、ということがよくわかった。

    「福翁自伝」は明治30年頃、諭吉が65歳の時に、速記者に自分の経歴を口述して筆記させたもので、自伝文学の傑作とされている。ただ上記の建白書で述べたような国家思想や、海舟の新政府への仕官批判等については語っていない。新政府はひどい攘夷主義と思っていたから、西洋主義の自分は仕官しなかったと語っている。

    海舟が新政府へ仕官した理由は「行蔵は我に存す」ということであろうが、諭吉が重視した士風の維持=「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」のような価値観は馬鹿げたことと思っていたのかもしれない。徳川家の家臣と考えると諭吉流になるが、日本の国民と考えれば海舟や榎本流になってもおかしくない。

    勝部真長編の勝海舟伝では、海舟は維新後、徳川の没落士族の救済に人知れず努力し、明治31年にとうとう主君慶喜を明治天皇に拝謁させることに成功し、「30年おれが突張ってきた」と言った後、1年後に死去したことが述べられている。

    これは逆賊であった慶喜が名誉回復したことであり、腰抜け、大奸物、意気地なし、徳川を売る犬と罵られた江戸城無血開城という政治的責任を、こういう形で収めることを密かに思い、31年かかってそれを貫徹した。そのためには新政府の体制内に入り込むことが必要であった、と勝部真長は海舟の立場を支持している。

    安藤優一郎氏は、海舟は江戸っ子の代表格として江戸を守った「江戸」の人、一方の諭吉は慶応義塾の創立者として近代化・文明開化を推進した「明治」の人との造られたイメージが強い。しかし、幕末から明治にかけて生きた人物の評価にはその全期間を通しての検証が必要で、それにより、改めて歴史の陥穽に気づかされるのだ、と締め括られている。

    歴史上の人物を理解していくためには、やはり複眼観察が必要であると、今回も感じた次第である。海舟は妻のお民さん以外に何人もの妾を作ったが、諭吉は妻一人であったことも、意外に本質的な違いかもしれない。海舟ファンとしては1万円札の肖像が勝海舟であって欲しいが、妻妾を同居させた男では、現代日本では到底無理であろう。

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