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2011.05.25

続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷-

Hashidatemachinami(クリックで拡大:日本海も見える)
    加賀橋立の赤瓦屋根の町並み(石川県加賀市)

<加賀地方の赤瓦屋根>
このウェブログの前々編「加賀の赤瓦屋根」で触れた加賀市大聖寺、片山津、さらには小松市那谷町で見た加賀地方の赤瓦屋根のことである。この時周遊バスで通過した加賀市橋立町には、北前船の船主屋敷や資料館とともに、伝統的建造物群保存地区に指定された赤瓦屋根の町並みもあるということを帰ってから知った。

  • 加賀の赤瓦屋根

    加賀市は広報かがという広報誌を発行しており、ウェブでも見られるが、H17年8月号には、「昔も今も赤い瓦屋根がある町並み 加賀橋立」という記事があり、平成13-15年度の3年間の調査を経て、平成17年4月に都市計画で橋立を伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に決定したことが出ている。

    この中で、赤瓦が残る橋立の町並みが紹介され、「赤瓦は光沢がある釉薬瓦で雪や凍結に強い。戦国時代末期の城郭建築で使われ、江戸末期に北陸の一部に普及した古い製法。色合いや軒先の紋様から、石州瓦の系統で、北前船での交流により技術移入したと考えられている。」とある。

    これを読んで、前々編の我が推察通りではないかと喜んだのであるが、ことはそんなに単純ではなかった。

    <越前赤瓦の存在を知る>
    久保智康 各地の赤瓦生産(クリックで拡大)
    Kubo前々編を読んで下さった大聖寺にお住まいの先輩技術士から、日本セラミックス協会北陸支部が2001年に発行した「北陸の瓦の歩み」の中の、「近世赤瓦の系譜」という文献のコピーをお送り頂いた。この文献の中に、日本各地の、赤瓦生産、技術移転、搬出入の関係がどうなっていたのかについて、1600年~1900年にわたってまとめた表があった。

    執筆者は京都国立博物館の久保智康先生で美術史や考古学がご専門であり、近世の瓦生産や越前、加賀の赤瓦についての論文も多い。そこで京都国立博物館に、久保先生の文献を京滋近辺で見ることが出きるかお尋ねしたところ、何と久保先生ご自身から「日本海域をめぐる赤瓦」という2005年発行のご著書や論文をお送り頂き感激してしまった。

    2005年のご著書では赤瓦生産の表も改訂され(左表)、この表によると、赤瓦は古くは瀬戸美濃で始まり、その技術が1600年頃に越前や東北に移転され、石州赤瓦は独立に1800年頃から生産されたことが分る。従って加賀地方の赤瓦は、17世紀前半に越前から、さらに19世紀初頭になって石州からも伝わったということであるらしい。

    つまり石州赤瓦よりも古く瀬戸美濃赤瓦や越前赤瓦があったということである。前回見た加賀市の大聖寺や片山津、小松市の那谷町で見た赤瓦のルーツは石州ではなく越前の赤瓦なのだろう。考えてみれば焼物を作れる寒冷な地域であれば、鉄化合物を含む釉薬をかけて水の浸透を防いだ赤瓦が独立に発明されてもおかしくはない。

    <加賀の山村にも赤瓦集落が!>
    さらに広報かがのH22年2月号には、「赤瓦と煙出しの里 加賀東谷」という記事があり、山中温泉奥の東谷地区の山村に、伝統的建造物群保存に向けて調査が実施された赤瓦集落があることを知った。加賀市に問い合わせたら、教育委員会の方から丁重なお返事があり、山中温泉荒谷町、今立町、大土町、杉水町で保存に取り組んでおり、昨年12月には日本ユネスコ協会の「プロジェクト未来遺産」に選定されたということであった。

    参考までにと、大土町の山村集落の写真が添付してあったが、木々の緑が美しい山あいの地に赤瓦屋根の民家が点在して息を呑むような美しさである。加賀地方のこのような山村に赤瓦が使われているということは、東広島や倉吉、備中吹屋など中国山脈の山間部に石州赤瓦が広まったと同じ理由なのであろう。

    Kagahigashitani_2(クリックで拡大)
    大土町の赤瓦民家集落(加賀市教育委員会から拝受)

    と、改めて加賀地方の赤瓦についての認識ができたので、加賀再訪の機会を伺っていたところ、このゴールデンウイークに家族で片山津へ行くことになり、2011年4月30日に橋立地区を、5月1日に東谷地区を訪れることができた。前回来た時は吹雪で顔を見せなかった白山連峰が、今回は優美な姿を見せてくれた。

    Hakusanrenpo2s(クリックで拡大)
          水田、新緑、白山連峰が織りなす加賀地方の田園美(片山津)

    <北前船主屋敷蔵六園と北前船の里資料館>
    4月30日は滋賀県の我家から京都在住の義母を迎えに行き、北陸自動車道を走って昼過ぎに加賀に到着したので、前回の加賀訪問で勝手知ったるCANBUSを利用して橋立町へ向った。

    CANBUSは橋立町の北前船主屋敷蔵六園へ連れて行ってくれる。蔵六とは亀のことで、手足と頭尾の六つを甲羅にしまうことに由来していると玄関入口に掲示してある。大聖寺藩14代藩主の前田利鬯(としか)がここを訪れた時、庭の自然石の形が亀に似ているので蔵六園と命名したとある。

    この屋敷は安政年間に酒谷家初代宗七が建てたもので、奥蔵の鍵札には1863(文久3)年の墨書があるらしい。屋根や塀には赤瓦が使われている。日本海から吹き付ける潮風を防ぐため、船板を再利用した一見つましい外観であるが、内部は広く贅沢な空間になっていて、立派な庭園がある。件の亀石もあった。

    Kitamaesenshuyasiki_2
     CANBUSルートの北前船主屋敷蔵六園  隣も良く似た表構えの北前船主屋敷
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         蔵六園の広々とした内部     北前船で運んだ銘石を配した蔵六園庭園

    公開はされていないが、蔵六園の隣も同じく北前船主の屋敷で、蔵六園と殆ど同じ表構えをしている。広報かがにはこの屋敷のことが出ており、切妻妻入り2階建てで、天保年間(1830年頃)から瓦葺で造られているとある。橋立は商船が寄港する港町ではなかったので、通りに面して町家や倉庫が並ぶ町家型の形態ではなく、住居が散在する農村型の集落形態であるのが特徴らしい。

    さらにこの一帯に北前船の里資料館がある。ここも北前船主の酒谷長兵衛が明治5年の大火の後に再建した屋敷で、橋立に現存する最大の北前船主の家であるという。敷地面積は1,000坪あって広い庭があり、主屋、塀、土蔵、渡り廊下などの全ての建造物が赤瓦で葺かれている。

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           北前船の里資料館             オエと呼ばれる大広間

    資料館には、北前船の模型がいくつか展示されているが、いずれも1枚帆であり、よくこれで日本海の荒海を航海したなあ、と思わせる。江戸時代、幕府は外様大名の反乱を恐れ、2本以上のマストや竜骨をもつ大船の建造禁止令を出していたので、長距離航海をする北前船も1枚帆しか認められなかったのであろう。まさに板子1枚下は地獄である。

    北前船の航路と寄港地も展示されていて、大阪から瀬戸内海を通り、関門海峡から日本海へ出て、山陰、若狭、北陸の沿岸を経由して蝦夷地へ行くルートが示してある。司馬遼太郎の名作、「菜の花の沖」の主人公、高田屋嘉兵衛がこのルートで活躍したことを思い出させる。

    Kitamaebunekoro
      北前船(大船禁止時代なので1枚帆)        北前船の航路と寄港地

    久保智康先生の資料から推測しても、越前の赤瓦や技術はこのルートにのって加賀、能登、越後や出羽へ伝わり、石見の石州赤瓦やその技術もこのルートで加賀や越後に広まったと思われるので、冬季は寒冷で雪の多い日本海沿岸の各地に、凍てに強い赤瓦屋根の町並みが出来たのであろう。

    <加賀橋立の赤瓦屋根の町並み>
    橋立町は加賀市北端の加佐岬と尼御前岬に挟まれた日本海に面した町である。江戸時代初期までは半農半漁の海際の茅葺き農家集落であったが、18世紀の半ばから近江商人に引き立てられて、北前船の船主になる者が現れ、廻船業で急速に発達した。このため19世紀には北前船主の赤瓦葺きの大きな屋敷が誕生し、天保年間から明治中期にかけて豪壮な屋敷が建ち並んだという。

    1872(明治5)年に橋立大火があったが復興して繁栄を続けたものの、明治末期からの海運業や鉄道の近代化による廻船業の斜陽化が始まり、北洋漁業に活路を求めたものもいた。しかし、昭和の敗戦で北洋漁業も衰え、戦後、橋立の北前船主の家々が相次いで没落し、屋敷も移築されたり、解体されたりするという歴史をたどった。

    それでも現在の橋立には、まだかつての北前船主や船頭の大きな屋敷が100棟以上残っていて、CANBUSの観光ルートにも上述の北前船主屋敷蔵六園や北前船の里資料館として組み込まれている。加賀市は、現在残されている町並みを2005(平成17)年に伝建地区に指定し、さらに国指定の重要伝統的建造物群保存地区の認可を目指している。

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         蔵六園から北前船の里資料館へ行く途中で見かけた赤瓦屋根の家
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         北前船の里資料館付近         真宗福井別院橋立支院の鬼瓦

    北前船の里資料館の近くに浄土真宗大谷派の福井別院橋立支院がある。赤瓦屋根の寺院であるが、庭に大きな鬼瓦が置いてある。案内板には、もとは吉崎での蓮如の布教に関係する因随寺があったが、橋立大火で焼失し、その後北前船主たちの努力で橋立支院が建てられ、それに使われていたとあるが、詳細は不明である。
                                          
    また、この付近に、「眺望の道」という散策路があったので、この道を登って行くと、橋立の赤瓦屋根の町並みが展望できる高台に達した。冒頭に掲げた写真に示したように、赤瓦屋根の向うに日本海が見える。やや曇り空ではあったが美しい光景であり、2009年12月31日に訪れた島根県石見地方の波子(はし)の赤瓦屋根の町並みを思い出した。

    島根県江津市波子(はし)の赤瓦屋根の町並みは、以前のウェブログ「石州赤瓦屋根の町並み」の冒頭写真で触れた。

  • 石州赤瓦屋根の町並み

    加賀橋立の赤瓦は、色合いや軒先の紋様から、北前船で技術移入された石州瓦の系統と考えられているので、石見の波子と加賀の橋立の両方の場所で、日本海を背にして広がる赤瓦屋根の町並みを見ることが出来たのは、ラッキーと言っても良いのだろう。

    <加賀東谷の山村を訪ねる>
    加賀東谷地区(クリックで拡大)
    Higashitanimap_3今回のもう一つの目的は加賀市教育委員会の方からも情報を頂いた、加賀東谷山村の赤瓦屋根集落を見に行くことである。5月1日も朝はぐずついた天気ではあったが、小松市の日本自動車博物館へ行くという家族を送って行ったその足で東谷地区のある山中温泉を目指した。

    何しろ赤瓦と煙出しの里と記載された広報かがしか頼るものがないので、山中温泉街で開いていた雑貨屋で広報かがを見せて東谷地区への道順を教えてもらい、荒谷、今立、大土、杉水の4町に通じる県道に入った。

    広報かがによると、この4町は近世より林業や製炭を生業として、大聖寺藩の御用炭の生産を行い、この一帯は奥山方(おくやまがた)と呼ばれる一つの文化圏を形成していたという。

    <荒谷町>
    県道を進んで行くと最初に荒谷町に入る。県道に沿って動橋川(いぶりはしかわ)が流れている。渓流と新緑と赤瓦屋根のとてもきれいな風景なので写真を撮っていたら、年配の男性が来られて、橋の向こうには荒谷神社があり、その奥には鶴ケ滝という滝がありますよ、と教えて下さった。

    帰途にもこの男性と出会ったのでお話を聞いたら、この荒谷町のご出身で会社リタイヤ後、この山中温泉ひがしたに地区保存会のボランティア活動をされているとのことであった。赤瓦屋根に実際住んでいる人が減少し、普段は山中や山代に住んで休日に手入れに訪れてくる人も多いと仰っていた。

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          荒谷町の集会所付近         動橋川(いぶりはしかわ)の渓流

    男性のアドバイスに従って荒谷神社と鶴ケ滝に寄って行くことにした。動橋川にかかる橋を渡ると、直ぐ左の森の中に神社が鎮座していた。荒谷神社である。あまり大きくはないが、本殿や祠は全て見事な赤瓦の屋根で覆われていて立派な神社である。赤瓦屋根が森の新緑とマッチして美しい。

    荒谷神社から少し行ったところに鶴ケ滝の駐車場があり、山道を5、6分歩くと鶴ケ滝に達する。大小5段の滝になっていて、30mほどの長さらしい。上の滝が2本に分れていて鶴の足のように見えることから鶴ケ滝という名前になったそうである。

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          赤瓦屋根の荒谷神社           鶴ケ滝(山中温泉荒谷町)

    <荒谷町から今立町へ>
    また県道に戻り、荒谷町から今立町に向った。この県道沿いには伝統的な造りの赤瓦屋根の民家が立ち並んでおり、本当に美しい光景である。赤瓦で覆われた主屋根には、やはり赤瓦で覆われた煙出しがついていて特徴的である。確かに赤瓦と煙出しの里というキャッチフレーズがふさわしい。

    今立町の町民会館で車を停め、写真を撮っていたら、一人の男性が話しかけてこられた。また広報かがを見せて、加賀市の教育委員会の方からも訪問を奨められたと申し上げたら、この男性は町民会館の向かいの住人で、やはりこの地区の保存活動を進めているとのことであった。

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          荒谷町を出た辺りで          濃い赤瓦の伝統的建築の民家
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         今立町の町民会館付近          県道から入った小道沿い

    住んでいる人は殆どが80歳代でねえ、労力的にも経済的にも建物や赤瓦の維持が大変なんですよと、現地ならではの悩みを仰っていた。東谷地区は、4月1日付で加賀市の伝統的建造物群保存地区に指定された、というニュースを帰宅してから見たので、保存活動が少しでも報われると良いがと思う。

    <大土町へ、杉水町へは通行止め>
    荒谷町と今立町は隣接していて近いが、大土町と杉水町は地図で見てもかなり離れた場所にある。今立町の町並みを通り過ぎて暫く行くと県道の分岐点があった。県道をそのまま行けば県民の森を経由して杉水町にいけるが、何と5月の連休というのに残雪があり、土砂崩れで通行止めであった。冬季は豪雪地帯ということが良く分かる。

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      左おおづち、右県民の森の分岐点       県道は土砂崩れで通行止め

    杉水町へは別のルートからしか行けないようなので、杉水町訪問は諦めて、左おおづちの道標に従って、大土町へ向った。動橋川(いぶりはしかわ)渓谷沿いに曲がりくねった道を10分ほど走ってゆくと、忽然と赤瓦屋根の集落が現れるので、あ、ここが大土町かと気がつく。

    <大土町>
    大げさに言えば、どうしてこんな山奥に人が住みついたのだろうと思えるほどの山間の地であるが、林業や製炭を行う自給自足の農村であったのだろう。ネットで見つけた加賀東谷伝統的建造物群保存計画には、昭和10年代までは茅葺の農家が多かったが、昭和13年に大火があって大土神社社殿など一部を除いて全焼したので、大火後の復興で瓦葺の現在の景観になったと出ている。

    幸い天候も回復し薄日が差してきたので、加賀市教育委員会の方から参考にと送って頂いた大土町の集落写真の美しい景観を、実際にこの目で見ることができた。春の訪れも遅いのであろう。桜も今が盛りである。大火後に建てられたという赤瓦屋根の家々を見ていると、冬季の豪雪でも割れない赤瓦の必要性がひしひしと伝わってくる。

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             大土町の赤瓦屋根の山村集落
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       主屋根の上の煙出しが特徴的        かつては製炭や焼畑の村
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        厳しい風雪に耐えてきた民家     大土神社社殿を手入れしている人々

    結構車が停まっているので何かの行事をやっているのかと思い、出会った方に尋ねてみたら、この地に実際住んで生活している人は少なく、多くの人は山代に住んでいるので、休みになるとこのように集まって、神社の清掃や自分の家の手入れをしているのだと仰る。荒谷町と今立町で聞いた現地保存の悩みとぴったり符合する。

    <後日、杉水町も訪問>
    5月の連休時には、残雪で通行止になっていて行けなかった杉水町には、10月8日に訪れることができた。前回通行止になっていた県民の森へ通ずる立杉林道は、今回はもちろん開通しており、峠を越えて行けば県民の森キャンプ場を経て、杉水町に至ることが出来た。峠の頂上付近には、立杉見晴台という展望スポットがあり、加賀の山並が見渡せた。

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         杉水町へ向う立杉林道の見晴台からの眺望

    峠を降りきると、川沿いに民家が並ぶ杉水町の集落に至る。荒谷、今立、大土、杉水の4集落の中で、唯一集落の中心に川が流れているため、開けた感じのする杉水町である。川沿いの空き地に、当地出身の戦死者碑が建っており、12名の方のお名前が刻まれている。平成21年8月古希記念寄贈とあるので、一昨年古希を迎えた方が建てられたらしい。古希を迎えて遊びに来ている当方としてはいささか身を引き締めて黙礼する。

    赤瓦屋根の民家を眺めながら川沿いに進んで行くと、大木が陰を落とす中に吉備神社が鎮座していた。鳥居と本殿だけの小さな神社であるが、他の集落の神社と同様、杉水地区の守護神であろう。赤瓦の民家の一つに権兵衛というお蕎麦屋さんがあり何台か車が停まっていた。

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          吉備神社からの杉水町            蕎麦工房「権兵衛」

    川沿いの街道に建つ赤瓦屋根の民家の中には、かなり荒れたものも多い。過疎の山村のため維持が大変なことが良く分かる。加賀市の東谷地区は、4月に加賀市の伝統的建造物保存地区に決定したとのことなので、今後の保存活動に期待したい。

    <保存運動>
    加賀東谷伝統的建造物群保存計画書には、昭和30年代の高度経済成長期に若者が都市に流出し、昭和38年の豪雪などを機に過疎化現象が始まったとある。特に、家庭燃料が薪炭から石油・LPガスに転換し、薪炭を生活の糧としていた荒谷、今立、大土、杉水では離村者が顕著となり、昭和35年で719人の人口が平成22年には67人になったという。

    つまり加賀東谷地区は典型的な過疎地ではあるが、明治から昭和にかけての伝統的な造りの民家の、赤瓦と煙出しの屋根に代表される美しい景観を保存するために、平成17年から住民による保存運動が始まり、平成20年からは「山中温泉ひがしたに地区保存会」として活動している。

    上記計画書には、保存会は地区住民のほぼ全員で構成されているが、役員の多くは地区内に居住している人々の子供世代である50~60歳代で、現在は地区内に居住せず近隣の地区に在住する人がほとんどであるとあり、出会った皆さんの発言を裏付けている。そういえば東広島や西条で聞いた、赤瓦民家の住人は高齢者ばかりですよとのタクシーの運転手さんの言を思い出し、時代の流れと歴史保存の協調関係を改めて思う。

    <加賀市勅使町>
    ということで、加賀東谷地区の赤瓦屋根の山村集落を垣間見ることができ、何やら非常に得難い見聞をしたような充実した気持で帰途についた。この東谷を通る県道は、片山津の我が宿泊先にまっすぐ繋がっていることが分かったので、両側の光景を見ながら走っていると確かに加賀市内は赤瓦屋根の家が多いことに気がつく。

    赤信号で停まった交差点で大きな寺院の赤瓦屋根が目についた。加賀市勅使という交差点である。降りて寺院の名前を確かめたら浄土真宗本願寺派の法皇山洗心寺という寺院であった。加賀は一向一揆で有名なだけに真宗寺院が多いのであろう。しかもこの一帯の民家も赤瓦屋根で覆われている。

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          洗心寺の赤瓦屋根    (加賀市勅使町)   付近の民家も赤瓦屋根
     
    加賀市勅使町をネットで検索すると、法皇山横穴群という国指定遺跡があると出てくるので、法皇山という山が近くにあるらしい。法皇とは花山法皇のこととあるので、前回訪れた小松市の那谷寺(なたでら)の名付け親の花山法皇である。花山法皇が10世紀末に加賀市や小松市のあたりを訪れたという伝説があるのだろう。

    <歴史的な赤瓦が瓦礫に!>
    山陽新幹線の車窓から東広島の赤瓦屋根の集落を見て以来、その美しい景観に魅せられて西条、石見、加賀など各地の赤瓦屋根の町並みや集落を訪れることになってしまった。その美しさは、寒冷な地域や豪雪地帯で瓦の凍害防止のために発明された釉薬赤瓦の特有の美しさであり、単に赤色に色づけした都会の赤瓦では感じられないものである。

    つまり通常のいぶし瓦が1000℃くらいで焼かれるのに対し、1300℃くらいの高火度で焼かれる釉薬赤瓦は、江戸時代以前の瓦が現代でも未だ屋根に乗っているほど長持ちするので、我々はいわば先人の知恵や屋根施工のノウハウが詰まった釉薬赤瓦の機能美を感じ取っているともいえる。

    ところが、赤瓦を専門的に研究されてこられた久保智康先生は、これら歴史資料たる近世赤瓦は、葺き替えと共に年々少なくなっていることを憂えざるを得ない、との危機感をもたれている。

    江戸時代の赤瓦は、寸法が違ったり、細部では焼ゆがみ(あばれるというらしい)があって再利用がしにくいので、現代の葺き替えの度に文字通りの瓦礫となって、大事な文化財としての赤瓦が産廃置き場に埋もれてしまっているという問題指摘である。逆に見れば江戸時代の瓦職人は1枚1枚の個性の違った瓦を立派に使いこなしていたが、今やそのような屋根施工が出来ないということである。

    さらに、久保先生は、赤瓦調査をされた1990年代は、歴史資料である赤瓦は高火度で丁寧に焼かれているので長持ちし、まだ屋根の上で健在であったのに、近年、景観の面から新しく葺き替えられる赤瓦は、見た目はまあまあ同じながら、持ちが極端に短い赤瓦が横行するようになったという指摘もされている。

    橋立の蔵六園で話を伺った女性は、1階部分を葺き替える時に、色を同じにしたいと思って保管してある古い瓦をそのまま使用したいと思ったが、瓦屋さんは新しい瓦にしてしまったので、色が合わず不満なんですよ、今の瓦屋さんはセンスが違うんですね、と仰っていた。

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       蔵六園の赤瓦(新旧の色が違う)      北前船の里資料館の新旧赤瓦

    その時は単純にセンスの違いで話は終わってしまったが、久保先生の指摘から、江戸時代の歴史的な価値ある赤瓦を、現代の瓦屋さんは屋根施工する技術がなく、再利用できないことによるのだと思い当たった。現代の屋根施工技術はコストダウンが優先され、均質化、量産化された画一的な赤瓦しか扱えなくなっているのかもしれない。

    また耐久性無視の赤瓦が横行しているとは生産者のモラルにつながるゆゆしき問題である。赤瓦の本来の目的である寒冷地や豪雪地帯での品質が無視され、景観用に売れれば良いという姿勢をとる生産者がいるとすれば悲しいことである。我々観光に訪れる者も、単なる景観だけで赤瓦を見るべきでなく、その機能を意識しないといけないと思う。

    「石州赤瓦の町並み」で触れたが、石見銀山大森の町並みを見に行く時のバスの運転手さんから聞いた、阪神大震災の復興の時に、赤瓦を要求した客には黒しかないと言い、黒瓦を要求した客には赤瓦しかないと言って部分補修し、あとでもう一度同色に葺き替えて大儲けした瓦屋の話を思い出してしまった。

    寒冷地や豪雪地帯のニーズから、先人が何百年ももつような耐久性の優れた赤瓦を発明し、それが美しい町並みや集落となって現代に伝わっているのに、その先人の知恵や思いを無にすることはやめて、大事に継承して欲しいと願う。

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