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2011.03.27

長崎と勝 海舟

Nagasakiko(クリックで拡大)
      長崎港(長崎市筑後町 本蓮寺裏山の高台墓地から)

<長崎の街>
2011年3月4日に長崎市へ行く機会があった。3月からの伊丹-長崎便減便の影響で泊まらざるを得なくなったのが幸いし、翌5日の午前中に市内を廻れる時間ができた。昨年も来たのだが日帰りのとんぼ返りで観光はせず、その前は1959(昭和34)年の高校の修学旅行に遡るので、50年以上より前の記憶しかない。

長崎県ということでいえば、雨森芳洲と司馬遼太郎の足跡を訪ねて一昨年に対馬を訪れ、以前のウェブログで触れた。しかし対馬と長崎とでは文化も歴史も全く異質であろう。

  • 対馬の道-雨森芳洲と司馬遼太郎の足跡-

    ということで今回は長崎市内を廻ることになったが、長崎市内は歴史も豊富で、全国でも有数の観光地であるから、半日散策では何かにテーマを絞らないと無理である。原爆慰霊碑は高校の修学旅行で訪れ今も記憶にあるし、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で人気絶頂の坂本龍馬に関する史蹟スポットは、多すぎて半日でまわるのは無理である。

    筑後町界隈(クリックで拡大)
    Nagasakimapそこで勝 海舟ファンである当方としては、坂本龍馬よりは勝 海舟に敬意を評したい気持が強いから、まずは海舟ゆかりの地を巡ることを思いつき、ネット検索して見たところ、それほど数は多くなさそうということがわかった。

    寓居だった本蓮寺や、長崎時代のロマンスのお相手、お久さんのお墓がある聖無動寺は長崎駅近くの筑後町にあるし、長崎海軍伝習所関連の史蹟がある長崎県庁界隈の江戸町や万才町も長崎駅からそれほど遠くないので、このあたりを廻ることにした。

    2009(平成21)年5月30日の日本経済新聞の文学周遊というコラム記事に、我が愛読書であった子母澤 寛の「勝海舟」の長崎時代が取り上げられ、左図にある海舟ゆかりの地は、いずれ巡ってみたい地でもあった。この記事の中で長崎歴史文化博物館の方は、「海舟あっての龍馬。長崎では龍馬を上におくことはありません。」と、海舟ファンにとっては嬉しい発言をされている。

    <勝 海舟寓居の地:本蓮寺(ほんれんじ)>
    長崎駅傍の宿泊したホテルで本蓮寺の場所を聞き、まだ3月始めで多少肌寒いが好天の朝、筑後町へ向った。駅前の、何となく長崎らしい、夜は賑わいそうな路地を抜けて、坂を上っていくと筑後町という看板が現れ、その通りに面して本蓮寺へ上る階段が直ぐ見つかった。

    階段の左側に、勝海舟寓居の地の石碑が立っている。石碑の裏側には、「安政2年6月(1855)長崎江戸町の地に、あらたに設けられた海軍伝習所の伝習生首班として当地に赴任した勝海舟は、この本蓮寺にあった大乗院に安政6年まで止宿し、大いに勉強に励み、海外文化の吸収につとめた」とある。

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           長崎駅前から筑後町へ向う路地          勝海舟寓居の地

    傍に案内板も立っており、「長崎名勝図鑑」からとった本蓮寺境内図が示され、海舟が滞在した大乗院が赤丸で囲んである。階段をずっと上っていくと本蓮寺の案内板があり、さらに階段を上りきると本蓮精舎の額が掲げられた本蓮寺の本堂と鐘楼に至る。眼下に長崎港が一望できる素晴らしい眺めである。

    本蓮寺の案内板には、元和6年(1620)に、サン・ジョアン教会とサン・ラザロ病院の跡地に日恵が開創し、長崎三大寺の一つであったとあり、江戸時代末には大乗院と一乗院の二つの塔頭があり、大乗院には勝 海舟が滞在し、一乗院にはシーボルトが息子と滞在したとある。案内板には当時の二天門の写真が示してあるが、原爆で焼失し礎石跡が残っているという。

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    海舟が滞在した頃の本蓮寺境内図          現在の本蓮寺本堂

    <お久さんとのロマンス:聖無動寺(しょうむどうじ)>
    勝海舟寓居の地の案内板にも、本蓮寺の案内板にも、この地で海舟が愛した長崎の女性、お久さん、本名:梶 玖磨(くま)のことが出ている。近所に住むお久さんとのロマンスは、切れた下駄の鼻緒を直してくれたのが始まりとか、一男一女をもうけた、という具合である。お久さんのお墓は、本蓮寺隣の聖無動寺の梶家墓地にあると知って早速探訪した。

    聖無動寺は直ぐに見つかった。あまりお寺らしくない、普通の家に屋根だけ寺らしくしたような雰囲気である。案内板には正保元年(1644)に創建され、万治元年(1658)に聖無動寺という名称になったとあり、江戸時代中期は出島の火災時のオランダ人の避難場所に定められていたとある。

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          聖無動寺へ上る階段         聖無動寺(裏手に墓地が見える)

    案内板には、さらに、この寺には、勝 海舟と巡りあい恋に落ちたお久(梶クマ)の墓があり、この墓は昭和49(1974)年に放映された大河ドラマをきっかけに発見され、中から銀のかんざしが出てきたとある。確かこのドラマは、勝 海舟役の渡 哲也が、途中で松方弘樹に交代し、お久さんを大原麗子が演じていた。

    そこで裏手の階段から墓地へ上り、お久さんのお墓があるという梶家の墓地を探したが、全くわからない。案内標識くらいはあるだろうと思ったのが甘かった。急な坂を上りきったが分らず、本蓮寺裏山からも続いている高台の墓地で一休みして、眼下に広がる長崎港を撮ったのが冒頭の写真である。

    半分諦めて聖無動寺まで降りたが、思いついて聖無動寺の玄関から今日はと声をかけてみたところ、中から女性が出てきたので墓の場所を聞いてみた。すると、ちょっと分り難いですからと言って、わざわざ坂道を上って案内して下さったのである。長崎女性の親切に感謝するとともに、彼女がお久さんのように思えたことである。

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       お久さんのお墓(壁に目印の花)    聖無動寺には辛夷が咲き出していた

    本蓮寺の案内板では、お久さんと海舟の馴れ初めは下駄の鼻緒説になっているが、子母澤 寛の「勝海舟」では、負けず嫌いの海舟が伝習所で評判になったお久さんを積極的に射止めたことになっている。2年経った1857(安政4)年6月にオランダ教官と伝習生の新旧交代があったが海舟は残ったので、お久さんが大層喜び、その時に草履の片緒をなおす話があるから、それとごっちゃになっているのかも知れない。

    お久さんはこの後女の子を産むが、女児は直ぐに死んでしまう。そして長崎で4度目の正月を迎えた1859(安政6)年1月に海舟は江戸へ帰った。しかし5年後の1864(元治1)年2月に再び海舟は長崎を訪れて、お久さんと再会する。4月には海舟は大阪へ戻るが、お久さんは12月に男の子、梅太郎を産む。海舟の三男である。

    子母澤 寛の「勝 海舟」では、1863(文久3)年頃に海舟はお久さんを京都の自分の宿所、亀屋に迎え、大阪と京都を往復していたが、翌年長崎へ行く時に、お久さんも長崎へ帰ったことになっている。小説なので子母澤 寛の創作なのか、事実だったのかは当方に知識がない。

    お久さんは梅太郎を産んだ2年後に早逝する。そのときの海舟の嘆きは海舟日記で良く分かるらしい。梅太郎は明治になって海舟のもとに引き取られ、海舟が支援した商業講習所(現在の一橋大学の前身)の初代校長、W.C.ホイトニーの長女クララと、1886(明治19)年に結婚することになる。

    クララ夫人はその後帰国するが、お久さんと海舟の孫娘になる五女ヒルダは、1947(昭和49)年に77歳で来日し、一橋大学の都留重人学長に歓迎され、図書館に掲げられた祖父ホイトニーの肖像画と対面したり、洗足池畔の海舟の墓に詣でたりしたという。

    <海軍伝習所跡地:長崎県庁>
    話が長崎海軍伝習所時代に戻るが、海舟は本蓮寺の大乗院から約2キロ南の長崎奉行所西役所に開設された長崎海軍伝習所に通った。現在の長崎県庁があるところである。長崎駅前から市電に乗って2つ目の大波止で降り、長崎カステラの文明堂本店を通り過ぎると直ぐである。

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       歴史を滲ませる長崎県庁表札         長崎海軍伝習所跡の石碑

    「長崎縣廰」の金文字が歴史を感じさせる長崎県庁の門を入って直ぐ右手に、海軍伝習所・奉行所西役所・イエズス会本部跡と彫られた石碑がある。つまり筑後町の勝 海舟寓居の地の石碑にあったように、ここ江戸町の長崎奉行所西役所の中に、長崎海軍伝習所が1855(安政2)年に設けられたのである。

    海軍伝習所設立の引金は1853(嘉永6)年のペリー来航である。1年後に再訪すると言われて窮地に立った幕府は、身分や位を問わず広く意見を求めた。貧乏旗本だった海舟は1854(安政1)年に海防や海軍の重要性を説いた海防意見書を幕府に提出した。この意見書が開明的な幕府要人に認められて、1855(安政2)年に海舟は蕃所翻訳勤務となって世に出た。

    海軍伝習所設立とともに、海舟は伝習1期生の首班を命じられ、ここ長崎の地に赴任した。海舟にとってはこの海軍伝習所は自分の理想体現の場であったであろう。海舟を首班とする伝習生たちは、幕府がオランダから購入した咸臨丸で五島列島・対馬・釜山沖を巡航し、1858(安政5)年には、海舟は鹿児島で島津斉彬に知遇を得、斉彬の偉大さに感銘を受けている。

    勝 海舟と榎本武揚、歴史パネル (クリックで拡大)
    Nishiyakusho伝習生の仲間に、あの函館五稜郭で最後まで維新政府に抵抗した榎本武揚がいた。後の海舟の江戸城無血開城に盾突いて幕府軍艦を率いて脱走しようとする榎本武揚を、海舟が軍艦を返すよう説得に行く場面については、以前のウェブログ「函館五稜郭拝見」で触れた。

  • 函館五稜郭拝見

    長崎県庁の塀沿いに歩いて行くと、門横の石碑にあった海軍伝習所・奉行所西役所・イエズス会本部の概要を説明した歴史パネルが立っている。その横に勝 海舟と榎本武揚の2人を掲げた説明板がある。2人は幕臣であり長崎人ではないので不思議に思えるが、ここ長崎の海軍伝習所出身者で、幕末から明治にかけてとりわけ活躍した偉人として、長崎県が2人を取り上げたのだろう。
     
    長崎海軍伝習所絵図  (クリックで拡大)
    Nishiykusho1_2歴史パネルの上部に当時の長崎奉行所西役所の全景絵図が出ている。西役所の中に設けられた長崎海軍伝習所の絵図でもある。西役所の敷地から橋で連結されている扇形の区域が描かれているが、これが出島である。ベルスライケンやカッテンディーケたちオランダ人教師はここに住み、ここから伝習所にやってきたのだろう。

    子母澤 寛の「勝海舟」では、海舟はオランダ語が良くできたので、出島に泊まりこんでオランダ人から直接、築城砲台学のような先端学問を特別に学ぶ場面が出てくるが、この絵図を見ればそういう場面もあったであろうとうなずける。

    ホテルで貰った地図を見ると、市電の大波止の次に、出島という停留所がある。古い町並みもあるようなので、それではと、出島に行ってみることにした。

    <復元中の長崎出島>
    出島の停留所を降りると、すぐ前に出島和蘭商館跡の標識と出入口の水門があり、国指定遺跡になっている。しかし、ここが出島?と首をかしげるくらい街の真ん中である。それもそのはずで、明治に入って出島のまわりの海は埋立が重ねられ、1904(明治37)年には港湾改良工事が完成して、海上に浮かぶ出島はその原形が失われ、以来、市街地の中に埋もれてしまったらしい。

    出島に沿って中島川が流れているが、護岸石垣が扇形にカーブしているので、古の出島の扇形台地が彷彿される。しかし入口で入場料500円を支払って貰ったパンフレットを見ると、江戸時代の出島はもっと中島川の中央付近まで食い込んだ扇形をしている。明治になって中島川の変流工事で出島の北側が削られたとある。

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         史蹟 出島和蘭商館跡        中島川沿いに残る扇形の護岸石垣

    現在、出島の歴史的価値を未来に残そうと、出島復元整備事業が進んでいる最中という。短中期復元整備計画は平成8年度から始まり、19世紀初頭の建造物25棟の復元を行うらしい。現在10棟程度が復元され、中へ入れるようになっている。長期計画では中島川や国道の改造を行って、四方に水面を確保し扇形の島の完全復元を目指すそうで遠大な計画である。

    出島の完成は江戸初期の1636(寛永13)年である。最初はポルトガル人を収容したが、島原の乱後、1639(寛永16)年に布教を目的としていたポルトガル人は追放となり、1641(寛永18)年に平戸からオランダ商館が移されて、オランダ人の居留地となった。1859(安政6)年には長崎が開港され、オランダ商館が廃止されて領事館が開設される。

    海舟が長崎にいた1854(安政2)年からの足掛け5年間は、各国との和親条約が結ばれていた激動の時期で、オランダ人から学問や技術を学べる最後の時期であった。海舟が訪れたであろう当時の出島は、史蹟内に設置してあるミニ出島から想像できる。当時の出入りは橋に連結する表門からのみであった。表門は1990(平成2)年に復元されている。

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     1/15模型のミニ出島(1820年頃の姿)        復元された表門
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       海舟も訪れたかもしれないカピタン部屋(オランダ商館長の事務所兼住居)  

    1858(安政5)年の暮、年が明けると江戸へ帰ることになった海舟が、本蓮寺へ帰らず行先不明で、お久さんをいらいらさせるが、実は暮から出島のトローイェン中尉の屋敷に泊まり込んで、ぶっつづけの徹夜で築城砲台学をやり、除夜の鐘は出島で聞くが、その足で梶屋のお久さんを訪れて別れを告げるという場面が、子母澤 寛の「勝海舟」にある。  

    海舟はこの1年後の1860(万延1)年1月に咸臨丸で品川沖を出航し、アメリカに向うことになる。色々な歴史を秘めた出島が、本来の海に囲まれた姿を取り戻すのはいつになるかは分からないが、長崎県や長崎市の壮大な復元計画を応援したいものである。

    <カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々>
    長崎海軍伝習所に派遣された第2代目派遣隊長のカッテンディーケは、帰国後、「滞日日記抄」をオランダで発刊し、勝 海舟たちとの交友関係を記している。その翻訳版「長崎海軍伝習所の日々」を読んで、この後のウェブログにアップロードした。

  • カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々

    <勝 海舟や坂本龍馬を支えた長崎商人>
    海舟が2度目に長崎に来たのは1864(元治1)年2月である。その2年前の1862(文久2)年に、坂本龍馬が、開国論をぶつ海舟を殺すつもりで海舟邸に乗り込んだが、ミイラ取りがミイラになって、龍馬は海舟の門下生になった。海舟の2度目の長崎訪問の時は龍馬も同行した。

    海舟は長崎の豪商、小曽根乾堂(こそねけんどう)と親交があり、2度目の長崎訪問の時に龍馬を乾堂に紹介したといわれる。昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で、龍馬の「世の中の仕組みを変える」という理想に、大浦慶などの長崎商人が共鳴し支援する場面が何度もあったが、その中で本田博太郎が演じていたボス的存在の商人が、小曽根乾堂である。

    この小曽根乾堂の邸宅跡が、長崎海軍伝習所跡地に近いところにあるというウェブを見つけていたので、そこからとった写真1枚を頼りに、再び長崎県庁付近を探訪してみた。しかし雲を掴むような話で全く分らない。土曜日だったが、幸い県庁に休日入口があったので、係員の方に写真を見せて場所を聞いてみた。

    担当者を呼びましょう、表でお待ち下さい、とのことで外で待っていたら、長崎県知事公室の女性職員の方と、長崎県教育庁の男性職員の方が現れて一緒に探して下さったのである。最初は不明だったものの、女性職員が職場へ戻って正確な位置を電話で知らせて下さった結果、万才町のフロイス通りにあることが分り、男性職員に現場まで案内して頂いたのである。

    Kosonekendo
     イエズス会宣教師ルイス・フロイスの名  海舟・龍馬故縁の地 小曽根邸の跡

    長崎県庁の若いお2人の職員の親切の下に、探していた史蹟が見つかって大感激であった。土曜日なのにあのお2人は多忙で出勤なのだろうかと想像し、一介の旅行者の身勝手な問い合わせに、大変誠実に対応して頂いた県庁の皆さんに感謝しながら史蹟を拝見する。

    小曽根邸の跡と彫られた石碑の傍に、「勝 海舟、坂本龍馬故縁(ゆかり)の地 小曽根邸の跡」と表題をつけた案内板が立っている。小曽根乾堂は、誌、書、画、篆刻に加え、音楽や陶芸にも秀でた文化人であった。とりわけ篆刻には優れた技能を持ち、明治政府から御璽・国璽の刻印を拝命されたという。

    小曽根乾堂は、海舟から紹介された龍馬の大きさを見抜き、龍馬たちが設立した亀山社中を支援し、小曽根邸に隣接した、乾堂の亀山焼の陶芸工場跡地を事務所に提供したという。また海舟とお久さんの間に生まれた男の子、梅太郎の世話もしたらしい。龍馬が幕府のお尋ね者になった時に、才谷梅太郎という変名を使ったが、この海舟の三男にあやかったという説がある。

    <暖かかった長崎の街>
    半日だけの長崎市内見学であったが、聖無動寺では、滋賀県の我家ではまだ固い蕾の辛夷が、もう咲き出していたし、太陽の光も明るく、やはり温暖な土地なのだろう。加えて、お久さんのお墓まで案内して下さった聖無動寺の女性や、小曽根邸の史蹟を探して現場まで案内して下さった長崎県庁のお2人の対応に触れて、長崎の暖かい人情が強く印象に残ったことであった。

    長崎県庁の女性から頂いた名刺には、知事公室世界遺産登録推進室とあって、大浦天主堂の美しい姿が刷り込んである。長崎の教会群とキリスト教関連遺産を世界遺産へとのキャッチフレーズも入っている。つまり長崎県は、長崎の美しい教会群を世界遺産登録しようとしているらしい。

    <長崎の原爆被災>
    我々の年代には、長崎は65年前の1945(昭和20)年8月9日に原爆被害にあったとの認識がある。今回は行かなかったが、高校の修学旅行では浦上天主堂や原爆慰霊碑を訪れた。広島で、今も外国人に英語で原爆の悲惨さを伝えるボランティア活動をされている友人は、長崎に研修旅行に行った時に、長崎に原爆が落とされた経緯を知ったといわれる。

    「広島に次ぐ第2の原爆投下目標は小倉でした。8月9日爆撃機が小倉上空に到達した時、天候が悪く、さらに前日の八幡製鉄空襲による火災の煙が小倉上空に漂っていたので爆撃機は原爆投下をあきらめて長崎に向かいました。長崎も雲に覆われていました。燃料の残りが少なくなり、爆撃を諦めようとした時に、雲の切れ目から長崎市浦上地区が見えました。市の中心部より3km離れていた場所ですが、投下したのです。皮肉にも教会の上に落下しました。このことは、本年5月にボランティアグループの長崎研修旅行で知りました。」

    この一文は、京都育ちの私が、京都が原爆投下の候補になっていたことを2008年に知って驚き、以前のウェブログ「京都にも空襲があった!」で触れた時に、その広島の友人から頂いたコメントの一部である。

  • 京都にも空襲があった!

    65年前の8月9日に、雲の切れ目がなかったら長崎に原爆は落ちていなかったかもしれない、ということである。しかし歴史にたら話はないから、投下されてしまった。今回訪れた長崎は、もちろん見事に復興しているが、本蓮寺の案内板にあったように原爆の痕跡は未だに方々に残っているのだろう。

    この長崎訪問の1週間後の3月11日に東北・関東大震災が発生した。地震と津波の天災に加えて、福島原発の原子力災害が発生してしまった。広島と長崎の原爆被害を体験したにも関わらず、クリーンエネルギーとして原子力を平和利用することは善とされて来たが、人間による制御ができなければ、その活用は非常に難しいという印象を、今まで以上に与えてしまった。


         

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