加賀の赤瓦屋根
<加賀で迎春>
2011年の正月は石川県加賀市の片山津で迎えることになった。加賀と聞けば粟津、山中、山代、片山津の加賀温泉郷が思い浮かぶ。JR北陸線には加賀温泉駅があり特急のサンダーバードも停車する。お隣の福井県の芦原温泉も含めて有名温泉地帯である。
福井県から石川県にまたがる北陸のこの一帯は、織物や編物などの繊維(テキスタイル)の産地でも有名である。特にポリエステルなどの合成繊維の発展を支えた地域で、会社時代は良く訪れたので、馴染みもあり親近感も持っている。
加賀地方は、江戸時代には、加賀(石川県南部)、能登(石川県北部)、越中(富山県)にまたがる加賀百万石を領有していた加賀藩(金沢藩)の前田家のお膝元であった。1639(寛永16)年に加賀藩3代藩主前田利常は、富山藩と大聖寺(だいしょうじ)藩を本藩から分離して支藩とした。
一般に加賀地方というと金沢を含めた石川県南部全体のことをいうらしいが、加賀市は石川県の西端の、福井県境と小松市に挟まれた地域で、1958(昭和33)年に誕生した。現在は75,000人くらいの人口である。中心地が大聖寺藩の城下町、大聖寺(だいしょうじ)である。
年末年始は寒波の到来で、日本海沿岸は大荒れという天気予報であったので、予定を早めて2010年12月30日に北陸自動車道で大津から加賀入りした。幸い北陸はそれほど荒れなかったが、昨年訪れた島根県石見地方は豪雪に見舞われ、列車や車中で正月を迎えた人がいるというニュースを聞いて複雑な心境であった。
<加賀周遊バス・CANBUS>
それほど温泉好きではないので、片山津温泉の露天風呂に3日間ずっと浸かっているわけにも行かない。幸いここにはCANBUSという、加賀温泉駅を起点として加賀一帯を周遊するバスが運行されているので、白山信仰、加賀一向一揆、九谷焼、中谷宇吉郎記念館程度しか知識のない当方にとってはうってつけのガイドであり、早速利用することにした。
CANBUSのルートには、加賀市内から日本海尼御前岬へ向い、片山津を経て戻ってくる海まわりコースと、山中温泉と山代温泉へ行って戻ってくる山まわりコースとがある。元日には宿泊先が初詣に連れていってくれることになっているので、大晦日はCANBUSで海と山の両コースをざっと回り、後で気に入ったところへ自分で行くことにした。
<石川県九谷焼美術館>
海まわりコースのCANBUSは最初に大聖寺の町に入る。ルート図を見ると石川県九谷焼美術館に寄るとあるので、ここで降りて九谷焼の数々を鑑賞することにした。九谷焼の展示品の写真撮影はできないが、九谷焼や大聖寺藩の歴史に関する説明パネルは撮影しても良いとのことだったので、展示パネルを色々撮らせて貰った。
パネルの説明文は全て、ここ大聖寺で生をうけた深田久弥(ふかだきゅうや)氏の随筆、「九谷・やきもの・その美・その思い出」からとってある。深田久弥氏は「日本百名山」の著者で、我々の年代では名高い登山家であり作家である。
白山-白き神々の座(クリックで拡大)
私の町というのは加賀の南寄りにある大聖寺である。・・・白山が真正面に気高く見える町、荒れた夜には日本海の潮騒が枕にひびく町。そしてこの大聖寺がなかったら九谷焼もなかったかもしれない。
大聖寺という地名は、昔ここに白山五院の一つ大聖寺という寺があったからである。町村合併が行われる前、旧大聖寺藩の領地を江沼郡と言った。(深田久弥「九谷・やきもの・その美・その思い出」)
大聖寺藩の九谷焼(クリックで拡大)
開窯年代がいつであったか、どんな名工がいたのか、分明ではない。いろいろ議論があるようだが素人の私は深入りはすまい。ともあれ古九谷と言えば現在は天下の宝となっている。このような素晴らしい芸術品が北陸の僻陬(へきすう)に出現したことはただの偶然ではあるまい。・・・それを再興したのは大聖寺の商人吉田屋伝右衛門で文政6(1823)年10月のことであった。吉田屋窯と称せられるものである。
古窯の詮索は私はどうでもよかった。それより、激しいもの、露骨なものの何一つない、このおだやかな山村風景を眺めながら昔の陶工は何を考え、どんな暮しをしていただろうかと想像している方が楽しかった。(深田久弥「九谷・やきもの・その美・その思い出」)
つまり古九谷の名品が、地元の九谷古窯からの発掘品でなく代々伝わってきた品であることから、生産地を巡る論争があったり、古九谷に酷似した陶磁片が有田の古窯から発掘されたりしたことから、古九谷=伊万里説があるらしい。最近の分析で古九谷が地元で焼かれた可能性が高い結果が出た、と報ずる北国新聞も置いてあった。
展示パネルの深田久弥氏の説明によると、九谷焼の古い歴史は曖昧模糊としているが、大聖寺藩の初代藩主、前田利治が創始者であることははっきりしている。大聖寺藩が久谷の奥に金山を掘ったことが陶土の発見につながって、九谷村に窯を築くことになったのが九谷焼の始まりである。
この石川県九谷焼美術館の近くには、山の下寺院群があるとルート図に出ているので行ってみたかったが、次のCANBUSの時間が迫っていたので、一巡後に自分の車で来ることにした。
<赤瓦屋根>
再びCANBUSに乗り、歴史を重ねてきた風情の大聖寺の町並みをバスの窓から見ていると、赤瓦屋根の民家が多いことに気がついた。以前のウェブログ「石州赤瓦屋根の町並み」で触れているが、昨年の年末年始に訪れた島根県石見地方の、江津(ごうつ)、温泉津(ゆのつ)、大森の町で見た、あの石州赤瓦である。
海まわりルートのCANBUSは、この後、日本海に向い加賀海岸から橋立町へ入る。ルート図にはここに北前船の里資料館と北前船主屋敷蔵六園があると出ている。これを見た途端に、この地に赤瓦が多い理由が分った気がしてやや舞い上がってしまった。
江戸時代に島根県の石見地方で作られた石州瓦は、1300℃以上の高温で焼成されるため、釉薬に用いられる来待石の鉄分が溶けて独特の赤褐色の赤瓦になり、寒冷気候に強いという特長があった。このため山陽地方の山間地や日本海沿岸の寒冷地に石州瓦が広まって行ったことは、上記のウェブログで触れたことである。
日本海沿岸に石州瓦を広めたのは北前船である。橋立町には橋立漁港という港があるから、昔は北前船の寄港地だったのであろう。そこに北前船主の屋敷があるのもうなずけるわけである。従って北前船で運ばれた石州瓦は冬季は寒冷で豪雪地帯のこの地に広まったに違いなく、昨年仕入れた知識と一致するのである。
ということで、昨年訪れた島根県の石見地方と、1年経って訪れた石川県の加賀地方とが、赤瓦と北前船によって繋がっていることを発見したような気分になって、後は窓から赤瓦を見るのが主のCANBUS観光になってしまった。加賀市内の橋立町や片山津の町で見た赤屋根を列挙する。
次いで山まわりコースのCANBUSで一周したが、雪も降りだしたので途中下車はやめて山中温泉、山代温泉の雰囲気のみ味わい、翌元日に初詣に行く予定の那谷寺(なたでら)も横目に見て吹雪の中を宿へ戻った。この日は温泉に入ってゆっくりか、などと思っていたところ、暫くすると雪も小降りになり視界も開けたので、カーナビを頼りに大聖寺の九谷焼美術館の近くにある山の下寺院群に向った。
午前中に訪れた石川県九谷焼美術館の展示パネルには、前田家以前に大聖寺を治めていた山口氏の菩提寺の全昌寺(ぜんしょうじ)と、大聖寺藩主前田家の菩提寺である実性院(じっしょういん)が出ていた。実性院には大聖寺藩の前田家歴代藩主の廟所もあるというので、この2つの寺院を目指すことにした。
<芭蕉も泊まった全昌寺>
全昌寺は美術館や図書館のある公園ゾーンからほど近いところにあり、直ぐに分った。大晦日のためか立派な表門には柵がしてあって中へは入れない。柵越しに中を覗くと見事な赤瓦屋根の本堂が見えた。表門の瓦は黒である。表門の横に、曹洞宗熊谷山全昌寺と記された案内板があったので、以前のウェブログ「安曇川と鯖街道」で触れた滋賀県朽木の興聖寺にあった曹洞宗開祖の道元の木像を思い出した。
案内板には、この寺はもとは山代にあったが、当時の大聖寺城主山口宗永の信仰を得て、1598(慶長2)年に山代から大聖寺に移されたとある。山口宗永は関ヶ原の戦で西軍についたため、金沢城主だった前田利長に攻められ落城して自刃したという。全昌寺はこの山口宗永の菩提寺である。
1689(元禄2)年には、松尾芭蕉が門弟の曽良を連れて、奥の細道行脚の途中、ここに宿泊したとある。入れないので見なかったが、そのとき芭蕉が詠んだ句、「庭掃いて出(いで)ばや寺に散る柳」の句碑が羅漢堂横にあるという。
本堂の屋根はあまり雪に覆われてなかったので、赤瓦がとりわけ綺麗に見えた。昨年、島根県の世界遺産大森の町並みで、西性寺や榮泉寺などの石州赤瓦屋根寺院を見た時は雪で白瓦になっていたので、あらためて大きな赤瓦屋根の寺院の美しさを認識した。
全昌寺の近辺にはいくつもの寺院が並んでおり、静寂な環境である。山の下寺院群と呼ばれる所以であろう。ただ実性院がなかなか見つからなかったので、通りかかった地元の男性に尋ねたところ、山裾を回って少し離れたところにあるよ、とのことだった。
<実性院と前田家廟所>
山裾を道なりに運転して行くと、門柱と思しき石柱が2本建った寺院が現れた。車を停めて見ると傍に実性院の案内板があった。ここも曹洞宗の禅寺であり、古くから萩の寺として知られているとある。1本の石柱には「佛日増輝」とあり、もう1本には「○風氷扇」とあるので、禅の教えの言葉かもしれない。
門柱から参道が続いていて、奥に本堂がある。雪が少し積もっているので白っぽく見えるが、これがまた全昌寺と同じく見事な赤瓦の屋根であった。赤い瓦屋根の実性院の庭に、白い萩が咲いていると、さぞかし風情があって絵になるだろうな、などと想像する。
実性院とは、初代大聖寺藩主の前田利治の戒名の院号であり、そこから名をとって前田家の菩提所になったとある。前田利治は前述のように加賀藩第3代藩主の前田利常の3男で、母が2代将軍徳川家忠の娘、珠姫である。つまり前田利治は、今年のNHK大河ドラマの主人公、江(ごう)姫の孫にあたることになる。
ここ実性院には前田利治以下、14代の歴代藩主のお墓があると美術館の展示パネルにあったので、見せて貰おうと思い、大晦日であまり人気のない受付で呼び鈴をおしてみた。大分たってから年配の女性が現れたのでお願いしたところ、快く裏山への道順を教えてくださり、長靴を貸しましょうかとまで言ってくださった。
長靴は断って降りしきる雪の中を裏山へ上ると、頂きの広場に前田家廟所の案内板が現れ、鬱蒼とした竹林に囲まれた歴代藩主の見事なお墓が並んでいた。竹林は雪に覆われており、なんとも言えない幻想的な風景である。
案内板には、藩祖の前田利治公から第14代藩主までのお墓が祀られていて、外様大名で歴代藩主のお墓が1カ所に造られているのは全国でも珍しいとあり、空、風、火、水、地の要素から形成される五輪塔の説明がある。つまり藩主のお墓は五輪塔形式になっているのであるが、唯一14代藩主のみは通常の四角いお墓であった。
歴代藩主の五輪塔を見ているうちに、一昨年の年末年始に訪れた対馬の万松院の宗家墓地のことを思い出した。以前のウェブログ「対馬の道-雨森芳洲と司馬遼太郎の足跡-」で触れたように、厳原の対馬藩墓地、萩の毛利藩墓地と金沢の前田藩墓地は日本3大墓地といわれている。
ここも前田家の墓地であるが、加賀の大聖寺藩前田家なので、金沢の前田藩墓地とは別ものである。3大墓地といわれる前田本家の墓所は西金沢にあるらしいので、片山津からさほど遠くはない。居る間に時間があれば寄ってみようか、などと考えながら帰途についた。
かくして2010年の大晦日は、加賀大聖寺の赤瓦屋根の寺院を訪れて暮れ、この後片山津の宿泊先へ戻り、ゆっくりと露天風呂に浸かってリラックスすることとなった。
<2011年初詣は小松市の那谷(なた)寺>
(なやでら)と読みそうであるが、(なたでら)である。2011年1月1日は小松市にある那谷寺に初詣に行った。前日に山まわりのCANBUSで通過したお寺である。前知識があってここに初詣に行こうと決めていたのではなく、宿泊先の初詣サービスを利用したというわけである。しかし参詣客が多く、地元では有名な初詣スポットであるらしい。
入口で貰った那谷寺のリーフレットには、白山信仰の寺、観音霊刹自生山那谷寺とある。那谷寺のホームページには高野山真言宗別格本山とある。歴史的には717(養老1)年に越(こし)の泰澄法師が、白山信仰の寺として洞窟に千手観音を祀って自生山岩屋寺と名付けたとあるので、現在は真言宗に属しているが、空海より以前に開かれたので別格なのだろう。
那谷寺と名付けたのは平安時代の花山法皇であるらしい。986(寛和2)年に花山法皇がこの地に行幸して洞窟内の観音を拝したとき、自分の求めている観音霊場33ヶ所は全てこの山にあり、と言い、自分が開いた西国33番札所の第1番紀伊の那智山の那と、第33番美濃の谷汲山の谷をとって、那谷寺と改めたことに由来するとある。
往時は250もの寺院が並び隆盛を極めたらしいが、1338(延元3)年の南北朝の争いと、1474(文明6)年の加賀一向一揆によって荒廃した。江戸時代になって、寛永年間に第3代加賀藩主の前田利常が後水尾天皇の勅命を仰いで岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを再建し、境内の庭園も復興したとある。
従って今見られる大悲閣と名付けられた拝殿や岩屋本殿、三重塔、境内の奇岩遊仙境と名付けられた自然庭園などは、1640年頃の寛永年間から保たれているものである。加賀前田藩は、金沢に京都の文化を取り入れて独特の加賀文化を創ったり、大聖寺藩では九谷焼を産んだりした文化レベルの高い藩であったことが実感される。
境内の一角には若宮神社という神社もあった。しかし那谷寺とどう関係するのか不明だったので、帰ってからリーフレットやホームページを見直したが全く記載がない。那谷寺の案内図にも若宮神社の位置には何も記載がない。そこでふと思いついたのは、明治維新時の神仏分離のことである。
一向一揆に手を焼いた徳川家康は巧妙な宗教政策で寺社の共存をはかった。しかし明治政府は国家神道による国体統一政策で神仏分離を実施し、仏教系の寺院は随分いじめられた。おそらく神仏分離令によって那谷寺境内にも若宮神社が作られたものの、那谷寺としては迷惑至極に思っているのではないかと勝手に想像したが、知識がないのでこれ以上の詮索はできない。
<那谷町の赤瓦屋根の民家>
那谷寺を出て門前にある茶店の名物の甘酒を買い、すすりながら雪道を歩いていたところ、ここでも赤瓦屋根の民家が並んでいるのが目についた。庭に松の木があり、一部は雪に覆われているが見事な赤瓦屋根が見える1軒の民家を撮らせてもらったのが、冒頭の写真である。
ここは加賀市のお隣の小松市那谷町であるが、前日の知見とあわせ加賀地方に石州瓦が広まっていることが実感され、昨年わざわざ島根県の石見地方に赤瓦の町並みを見に行った身としては、その余禄を貰ったような感じがして、何やら嬉しい気持ちになった。
<失敗談!>
宿泊先へ戻るとまだ昼過ぎであったので、実性院の大聖寺藩前田家廟所を見ながら思いついた日本3大墓地といわれる金沢の前田家墓地を見に行く気になった。ウェブで検索すると北陸自動車道の3つ先の西金沢インターで降りて野田山墓地を目指せば良いことが分ったので、雪で道路が閉鎖されないことを祈りつつ金沢へ向った。
カーナビという至極便利なナビゲーターのおかげで、全く迷わずに野田山墓地へ着いた。しかし墓地は広く、雪も積もっているので、案内板を見ても良く分からない。正月墓参に来ている人に聞いて、車の轍を踏んで歩いて何とか前田家墓地の傍の駐車場と思しきところまでたどり着いた。
ところが目指す前田家墓地のほうへは全く轍もなく、深い雪が積もっているのみである。こんな雪の正月に名所とはいえ、自分と関係のない墓地に行く物好きはいないのだと気づき、今回は諦めて次の機会を期することにした。
<加賀地方の赤瓦>
と、骨折り損のくたびれ儲け的ハプニングもあったが、何の前知識もなく訪れた加賀地方に、山陽新幹線で見た東広島の赤瓦のルーツを探って昨年訪れた、島根県石見地方の石州赤瓦と同様の赤瓦が広まっていることに些か感激した。
加賀の赤瓦は今も島根県から運ばれているのだろうか、あるいは東広島の西条瓦と同様、地元の土と釉薬で地元で焼かれているのだろうか、という疑問もふと浮かんだ。なにしろ九谷焼を産んだ加賀地方なので、地元で石州赤瓦と同じものが焼かれていてもおかしくはない。
ネットで加賀地方、赤瓦で検索すると、加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区保存計画という加賀市の資料が見つかった。北前船資料館のある橋立地区の保存計画である。この中に赤瓦のことも出ている。
「これら主屋、付属屋の屋根には、赤褐色で光沢のある赤瓦が葺かれた。赤瓦は現在加賀能登地方で一般的に用いられている黒瓦より古い製法によるもので、18世紀末、石州、越前などから大聖寺・小松にその製法が伝わったといわれる。」と記されているので、江戸時代に石州瓦の製法が大聖寺や小松に伝わったらしい。
石川県の景観形成基本方針という資料には、地場産材の加工品の中に小松瓦が上っている。小松市産の粘土を原料とした瓦で、耐圧、耐塩害、耐凍害に強く、劣化しにくい、とあるので、石州赤瓦の特長そのものである。どうやら加賀地方の赤瓦は、石州瓦の製法が地元に根付き、今は地元で生産されているようである。
ということで、CANBUSで通過した橋立地区には北前船資料館とともに、赤瓦の町並みもあることが分った。こんなことなら雪に阻まれた金沢の前田家墓地ではなく、加賀市内の橋立へ行くべきであったと思ったが後の祭りである。
幸い加賀地方や金沢は滋賀県の我家からさほど遠くないので、雪のない時期に加賀の赤瓦と3大墓地の1つを再訪しようという気になっている。
<加賀橋立と東谷の赤瓦>
加賀地方の赤瓦屋根については、この後のウェブログで「続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷-」をアップロードした。
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