維新の傑物-江藤新平-
江藤新平のことである。前編の「佐賀城跡寸見」で触れたように、初めての佐賀訪問で何となく江藤新平に惹かれ、佐賀の乱について少し知識を得た。乱の背後にあった大久保利通との確執や、江藤新平の事跡についてもう少し知りたくなった。
しかも、明治維新になって国際社会に仲間入りし、新しい法制を敷いたはずの日本なのに、なぜ大久保利通が江藤新平を常軌を逸する旧態依然のさらし首という惨刑にしたのか、またそのような蛮刑が実行出来たのかも不思議であった。
<江藤新平の世評>
江藤新平に関心を持つ人は多いらしく、前編を読んで江藤新平もまた、正しい歴史的評価をされずに今日に至っている悲運の人である、とのコメントをくれた友人もいたし、毛利敏彦・現大阪市立大学名誉教授の中公新書「江藤新平-急進的改革者の悲劇」を教えてくれた維新の歴史好きの友人もいた。またウェブ検索すると、2ちゃんねるでも結構まじめな江藤新平論議があることに驚く。
古くは大正3(1914)年に的野半介が大著「江藤南白(江藤新平の号)」を著しており、江藤伝の定本とされているらしい。後世に出てくる江藤新平に関する著書は、おそらくこの書を史料として参考にしているものが多いのであろう。
我が信奉する司馬遼太郎も、江藤新平のどこかおかしい行動に大いに関心を寄せておられたらしく、昭和44(1969)年に「歳月」を著して、大久保利通との確執や死闘を通じて江藤新平の性格や行動の源泉を探り、彼の人間像を描いておられる。最終章に、江藤新平という人物についてほぼ2年間考え続けてきた、とあるから、司馬氏をもってしても難解な人物だったようである。
毛利先生の著書は、昭和56-57年度文部省科学研究費の支援を受けた「日本の法治主義成立の政治過程-江藤新平を中心に」の研究に基づき昭和62(1987)年に発刊されたもので、江藤新平を、日本に法治主義を根付かせようとした改革者であるとともに、人間の解放と人権の定立の概念を国法上に基本的に創出した、明治維新を維新たらしめた希有の変革者である、と位置づけておられる。
毛利先生の視点は、その後の江藤新平の見直し研究が盛んになるきっかけとなったらしく、2ちゃんねるの議論にも、最近の明治初期について書かれた本には、江藤の名前が出てくることが多くなったとか、佐賀の乱とかさらし首ばかりで有名なのでシャクにさわっていたが、やっとまともな評価をされてきた、という、おそらく佐賀県人であろうご仁の書き込みがある。
ともあれ江藤新平の事績を見てみたい。
<佐賀藩時代>
江藤新平は天保5(1834)年生まれで、時の藩主で幕末の名君といわれた鍋島直正が佐賀藩の独自の天保の改革を推進し、西洋軍事技術を取り入れて日本初の反射炉建設、大砲鋳造、蒸気船建造などを行い、学術奨励も行っていた時期である。新平の生家は貧窮していた下級武士層であったが母の配慮で16歳から藩校弘道館で学んだ。
(クリックで拡大)
佐賀藩の科学技術の紹介 右端がアームストロング砲
(佐賀城本丸歴史館リーフレットから)
19歳で佐賀藩の吉田松陰とも呼ばれた国学者で尊王論の枝吉神陽に師事し、副島種臣、大木喬任、大隈重信等の、後の明治維新を支えた肥前人材とともにその門下生となった。安政3(1856)年、22歳の時に、図海策(とかいさく)という時事意見書を起草している。
図海策で、新平は当時流行の攘夷論を批判し、積極的な開国・通商による富国強兵の実行とともに民生重視の提言を行った。幕末の薩摩の名君、島津斉彬の開国建白書などは安政4年であるから、新平の見識がいかに時勢に抜きん出ていたかが分かるし、民生顧慮への言及は後の新平の立法概念を貫く思想なので、見落としてはならないという毛利先生の指摘である。
新平は佐賀が薩摩や長州に立ち遅れているとの危機感から、文久2(1862)年に脱藩して京都へ上洛し木戸孝允らとの知遇を得るが、帰藩して藩主鍋島直正により死一等を免ぜられ5年間蟄居する。しかし大政奉還により政情が大きく変化したことから、佐賀藩の厄介者から一躍貴重な人材に変わり、慶応3(1867)年に34歳で藩政に復帰する。
<江戸の安定>
佐賀藩は遅ればせながら官軍につき、新平は慶応4(1868)年の江戸城開城を受けて新政府官吏として江戸安定にあたる。その時の新平の意見書に、人民安堵のために江戸を東京と改称して天皇を迎え、東京と京都間に鉄道を開くべし、との時代を先取りした構想があったという。
この間、旧幕府代表の勝海舟とも何度か交渉したらしく、司馬遼太郎の「歳月」には、晩年、勝海舟は江藤を評して、「江藤新平、あれは驚いた才物だよ。ピリピリしておって、じつにあぶないよ。」といわば好意をもって言ったが、江藤新平自身は逆に、「勝ほどの食わせ物はいない。」と見ていた、という一文がある。
つまり、江戸城開城については西郷隆盛と勝海舟が談判し、西郷が勝に、江戸の政治については当分勝さんに頼む、ということになったが、新平はこれには反対で、勝の動きに対し「勝は底知れぬ知略をもって薩人(西郷)をだましきっている」と見ていた、ということらしい。
その後、新平は上野戦争の収拾策や、江戸安定化のための献策を行い、さらに明治新政府の「政府急務十五条」を作った。これには国家財政の姿勢を正し、天皇以外の全国民に公平な課税を行い、国家財政を公開すべき、と明記され、新平が維新官僚の中で希有な存在であったことを示していると、毛利先生は指摘されている。
<藩政改革>
明治政府の中央集権化の狙いの下に版籍奉還の動きが始まり、佐賀藩も藩政改革に迫られた。明治2(1869)年、隠居後も実権のあった鍋島直正は新平を佐賀に戻して改革にあたらせた。新平の改革は、廃藩に向けた門閥の私領地廃止や、殖産や教育も含め議会制度に基づく住民自治を目指した、当時としては先駆的な民政の急進的改革であったらしい。
特に新平は、才能なき者には家老層から足軽層まで上下を問わず厳しく接したので、再度東京の新政府に呼び戻されてから、虎の門で佐賀藩の足軽に襲撃されることになったが負傷ですんだ。
<国政の基本方針答申>
新政府に復帰した新平は、明治3(1871)年に、まだ混乱状態にあった新政府の立て直しのため、新平の見識に大きな信頼を寄せていた岩倉具視に、国政の基本方針に関する答申書を出す。その骨子は、立法、行政、司法の三権分立(特に司法の自立を強調)と議会制(まず上院、次いで下院)を基本とした君主国家とし、郡県制(廃藩置県)により中央集権を図り、封建的身分制度から四民平等制度を期す、というものであった。
さらに新平は、当時の神祇官優位体制を否定して太政官への統治権の集中、司法台の新設と裁判所の設置、および上下議院の開設を骨子とした、政体案や官制案を作った。この時期、政府機構の簡素化と官員給与削減を主張していた大久保利通との間で官員給与に関し論争があったが、新平の意見に感心した大久保が文書にまとめてくれといい、政治制度上申案を新平と一緒に三条実美にもっていったことが大久保日記から分かるという。
また大久保は京都出張中の岩倉具視にあてて、政府改革に対する同僚参議のサボタージュに憤慨する一方で、改革に熱意を示す江藤新平に感謝と期待を表明している手紙も出しているらしい。つまりこの頃は新平と大久保はお互いに改革に対する熱意を認め合っていた仲であったと思われる。
<中央集権化と法治国家へ>
新平はこの後、公法(国際法)-国法(憲法)-民法を定義し、国の根幹をなす国法を速やかに定めるべしと提言し、これを受けて明治3年末に第一回国法会議が開催された。いわば最も早い憲法制定会議であった。そのかたわらで新平がその優秀さを認めたフランス法を手本にし、民法会議も発足させた。民権という言葉も新平が採用したという。
新平が献言した廃藩置県は、中央集権化に欠かせないものの成立が困難視されたが、薩長の武力の影響下に明治4(1871)年に決行された。その後新平はわずかな期間であったが新設の文部省の文部大輔になって文部省の大綱や主要人事を決めたという。学制による全国民教育の種を蒔いたのは江藤新平と言われているらしい。
廃藩置県を行って間もない明治4年末に、新政府の主要メンバーが岩倉使節団として欧米の視察に出発した。前年に新平の発案でできた司法省は、大輔の佐々木高行が使節団に参加したのを機に、新平のリーダーシップを欲し、大蔵大輔の井上馨に働きかけて、明治5(1872)年4月に新平を司法卿に迎え入れた。
司法省時代の江藤新平(右から3人目)
【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】
(佐賀城本丸歴史館から掲載許可)
<司法卿>
新平は司法卿になるや否や司法事務全5条や、司法職務定制を制定して司法制度を整備する。判事、検事、明法(法律作成者)、代言人(弁護士)の設置、全国の裁判所設置、司法省と裁判所の権限明確化等を決めた。民の司直、人民の権利保護、事務敏捷、冤罪回避、裁判公開、検事は民衆のために悪を除くのが任務、といったキーワードに新平の思想が見事に結実しているという。
特に注目すべきは、地方官の専横や怠慢によって人民の権利が侵害されたときは、人民は裁判所に出訴して救済を求めることが出来る、という司法省達第46号が保守派の反対を押し切って発布されたことである。政府をお上と呼ぶ官尊民卑の気風の強い当時においては画期的な新平の論理であった。
御雇仏人ブスケも入れた司法省民法会議も発足する。「歳月」にはこの時期の新平とブスケのやりとりが描かれている。ブスケが日本は近代国家になったのに嫡男相続は矛盾していると指摘しても、新平はフランスのような富強の国と違い日本は個人の家産が少ないので、参考にしないとはねつけた。
そこでブスケは近代民法に封建家族制を残そうとする新平に、婚姻法のところで、中国や日本の習慣で残っている妾にまで法律の保護を与えるのかと突っ込む。これにはさすがの新平も負けを認め、蓄妾の風を禁止することにし、早速自分の妾に家を譲り対等の関係にした、というエピソードも「歳月」に出ている。ただこの法は出されなかったとある。
新平にも外遊の話はあったが司法省の基礎固めに忙殺され立ち消えになった。「江藤南白」を著した的野半介は、「若しそれ南白をして当初の予定の如く欧米視察の任を果たすを得せしめんか、彼は或いは7年の変なく惨刑に遇うの不幸を免れて、大いに我が憲政に貢献するを得たりしならんも未だ知るべからざりしなり。しかも彼が偉才を懐き雄志をもたらして、かの非命に斃れるもの。ああ、また命なる哉。」と、惜しんでいるらしい。
明治6(1873)年に民法仮法則が完成した。知られている通り、日本において実際に帝国憲法が公布されたのは明治22(1889)年、民法が公布されたのは明治23(1890)年である。少なくともこの民法はフランス法系で新平の仮法則がある程度継承されていたが反対論が強く施行されず、明治31(1898)年に、より保守的なドイツ法系の民法が制定されている。
<波乱の幕開け>
こうして江藤新平の事績を見て来ると、明治維新の国家機構はまるで新平一人の頭から産み出されたような感を受ける。三条、岩倉、大久保、木戸、西郷といった維新の元勲達も、新平の描いた構想を実現すべく動いているようにも思え、毛利先生が、江藤新平こそ明治維新を維新たらしめた希有の変革者である、と言われるのももっともな気がする。
日本の法制をここまで作り上げ、外遊の経験はないとはいえ、周囲に優秀な人材を集めて欧米社会の知識に精通していたその新平が、なぜ大久保利通の憎しみを買うことになったのだろうか。司馬遼太郎は「歳月」を著して、そのような疑問について解釈している。
<薩長勢力の切り崩し>
明治4(1871)年11月、岩倉使節団の出発を見送った新平の胸中について、「かれにすれば政府首脳の留守中、できれば大波乱をおこして、-薩長を。- と考え続けている。薩長勢力をきりくずす、ということであった。」と、司馬氏は推測する。
「戊辰の倒幕と革命は薩長によって成立した。その第二革命と言うべき明治4年7月の廃藩置県も、薩長の結束とその隠然たる武力によって成立した。かれらがその果実として政府内の要職をほとんど二藩で独占するということも当然であるかも知れない。が、江藤はその当然がゆるせなかった。」と、新平にはもともと薩長に対する反感があったと見る。
新平は、司法権の集中と独立を図ってそれまで大蔵省が握っていた警察権を司法省に移した。さらに司法省達第46号に象徴される新しく改革した司法制度を、当時のまだまだ官尊民卑の弊の残る時代に、官吏の腐敗にも厳しく適用して法治国家を根付かせようとした。そしてそのターゲットになったのが長州閥の山県有朋と井上馨である。
<山城屋和助事件と尾去沢鉱山事件>
明治6(1873)年、長洲軍閥の親玉であった山県有朋と政商山城屋の結託汚職を、新平が追及して明るみに出した。山県有朋は山城屋を自殺させることで責任を逃れようとしたが、薩摩系軍人も山県を追求したので、山県は陸軍大輔の職を辞職に追い込まれた。
さらに新平の矛先は長閥の大物で大蔵卿の井上薫に向かう。井上は、司法省が新平を迎え入れることを許可した当人なので、新平にとっては恩義ある相手であったが、藩閥悪退治に執念を燃やす新平にとっては好機到来以外の何物でもなく、会釈もしなかったと「歳月」にはある。
井上薫の汚職摘発の発端は、司法省達第46号による被害者からの訴えであった。戊辰戦争で負けた南部藩の賠償金を御用商人、村井茂兵衛が立替え、廃藩置県を経て大蔵省に返済を願い出たが、井上独裁の大蔵省は逆に言いがかりをつけて尾去沢鉱山を含む村井の財産没収という暴挙に出、尾去沢鉱山は競売に付された。
半信半疑で司法省に訴え出た村井の話を新平が聞き、背後に井上薫がいるとにらんで徹底追及を進める。大蔵省の言いがかりだけでは法的な追及は難しかったが、ことは新平の思惑を越えて進み、尾去沢鉱山が安値で長州人政商の手に落ち、実質は井上薫個人の所有になっていたことが露見した。
新平は、太政官会議で法の前には何人も平等であると叫び井上の逮捕を主張するが、薩長の軍事力が支えている明治政府の現状ではそれは無理とする佐賀同志の大木や大隈から説得される。副島からも井上は辞職すると伝えられ、今は法律よりも政権の方が大事な時期だ、10年待て、と説得される。
しかし結果として、新平は大久保利通の代理の大蔵卿、井上馨を辞任させたし、山県有朋の件とも合わせ長州勢力の大いなる恨みを買うことになった。
<大久保利通の帰国>
このような状況に衝撃を受け、危惧し、留守組に反感を強くしたのが外遊から帰国した大久保利通であった。大久保には「明治国家はおれがつくった。」という意識があり世間もそう見ていた。しかし留守組は新規なことはしないと誓約を交わしたのに、かれ自身の国家であるはずの国の諸制度が変えられ、参議も増えていた。
特に大久保にとっては小僧としか思えぬ新平が、外遊中に参議、司法卿になり、大久保の持っている大蔵省から司法権を奪い、代理を命じておいた大蔵大輔の汚職を摘発し、その職からたたき出すまでのことをしている。しかも新平を含む留守組は西郷の征韓論を支持し、国家をこわそうとしている。
そこで大久保は遅れて帰国した岩倉具視を説得し、西郷と袂を分つことも覚悟して征韓論を阻止した。特に新平に対しては、日本を危険きわまりない賭けに投ずることによって、薩長政権をつきくずそうとしている、と見て、新平にだけは増悪という感情を抜きにしては見られなくなった、と司馬氏は見る。
大久保のこの感覚を助長したのは、新平から大傷を負わされた長州閥の井上馨や山県有朋であった。彼らは大久保が帰国するや、その邸に何度も足を運んで、留守中の新平の「暴状」を訴え、新平の野心がどこにあるかを大久保に注入した。つまり、新平には薩長くずしとその後の政権奪取の野心あり、という訳である。
<大久保日記>
新平が、佐賀の乱後に捕縛されてからを記す「歳月」の最終章は、大久保日記という表題である。後世に残るであろうことを意識して大久保が書いた日記の、佐賀の乱に関する記載を追って、何故大久保が新平を惨刑に処せたのか、司馬氏の解釈が記されている。
大久保は新平捕縛の報を聞いて「じつに雀躍に堪へず」と日記に記している。司馬氏は「大久保は江藤を殺したかった。殺すだけでなく、たとえ法をまげてでもそれ以上の惨刑をもってむくいたいと考えていた。・・・現行法による刑殺以上の目的が蔵されているかもしれぬということを、江藤は法律家だけに想像することもできなかった。」と見る。
「大久保の思案は江藤の想像外のところにある。彼にとって必要なのは法律ではなく政略であり、是が非でも江藤を刑殺せねばならず、江藤を断固として殺すことによって天下に充満している不平の徒に対し東京政府の威権を悟らしめ、さらには薩摩にいる西郷とその徒党に対して反逆の無駄であることを悟らしめねばならない。」
「それには江藤前司法卿に対する処刑はできるだけ惨刑であることがのぞましく、そういう判決をくだす法律がないとすれば、法を無視するしかない。」ということから、大久保はこのような法律操作をする法官を千円の報奨金で募ったという。
これを引き受けたのがもと新平の部下であった河野敏鎌であった。彼は、新平が作り既に発布されていた惨刑を禁じた新典を無視し、梟首刑のある旧典を生かそうとした。しかし内乱罪の規定がなかったので、隣国の清の規定をもちこんだ。大久保日記では「河野大検事より擬律(判決案)伺これあり評決」となった。つまり既に判決の決まった暗黒裁判ということであった。
「が、いかに大久保でもこの根拠の曖昧な裁判が正当なものであるとは思えず、これが法律的技術において正当化できないとすれば別の権威において正当化しようとした。」ということで、大久保は天皇の権威を利用することにし、征討総督としてきていた東伏見宮嘉彰親王に「よい」と言わせ、御裁可を得たと披露したらしい。これにより大久保の私刑ではないということになった。
大久保とこの親王は法廷の構成員ではなかったが、大久保日記には「・・今日、裁判所に宮に随従、江東之裁判を聴聞す」とあり、河野の監視と親王臨席による法廷の権威付けを行った。江藤を江東と書いているのはわざとであり、新平を軽んじようとしている意図だろうとの司馬氏の解説である。
「意図といえばその翌九日の日記には、それが濃厚であった。「江東、陳述曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」と書いた。大久保の残忍さはこの殺人法廷をつくりあげたというより、むしろ内務卿たるかれの日記にこの一行を入れたことにあるであろう。大久保は自分の日記が後世に伝わることを当然知っており、彼は江藤を刑戮したばかりかその死後にまで史家の評価を決定づけようとした。」
この大久保の意図がかなり後世の史家を縛り、江藤新平の正当な評価を妨げたのかも知れない。河野敏鎌は晩年、「今思うと陳述を曖昧にして生命を全うすれば、他日国のために役に立てるという大信念があったのかも知れない。それを看破できなかったのは懺悔にたえない。」と自責の述懐をしたという。
<所感>
毛利敏彦先生の「江藤新平」と司馬遼太郎の「歳月」のおかげで、江藤新平の事蹟や大久保利通との確執をかなり知ることが出来たが、維新当初はお互いに改革への熱意を認め合っていた関係が、仇敵の如くなったことについてはまだ些か腑に落ちていない。
ただ維新政府の創立期においては、殆どの人材は勤王の志士上がりの武士であるから、破壊能力には優れていても、破壊後の新しい社会の構築能力は乏しかった中で、江藤新平はそのような設計能力を持った別格の人材であったことは良くわかった。タイプは違うが坂本龍馬の継承者かも。
しかも恵まれた勉学環境にはほど遠かったようであるし、外国へ行った訳でもないのに、当時の日本人としては極めて希有の見識を有していたように思われる。そのような見識はどこから得たのか不思議である。佐賀藩が長崎警護の役にあり、藩主直政が開明的だったことから来ているのだろうか。
江藤新平はおそらく鋭利すぎて政敵からは嫌われたのであろうが、策士と言われる割にはあまり自分を防御しない、ある意味では隙だらけの人間だったのかも知れない。大久保利通のような大局を見て政略を考えるタイプではなかったのだろう。
2チャンネルの書き込みにもあったが、明治6年政変後に、大久保―江藤コンビが実現して政治を進めていたら、日本の進路は大きく変わっていただろうとは思える。司馬遼太郎は二人は酷似した体質の人間であったと見ている。
江藤新平と大久保利通亡き後には、井上馨や山県有朋らの金権主義的感覚をもった政治家が日本のリーダーになったので、政治家の腐敗に対する厳しさ不足は、平成の今にまでひきずっているように思える。少なくとも政権交代した民主党に江藤新平がいれば、小沢一郎をめぐる今の党内混乱はとっくの昔に解決していたかもしれない、などと思った。
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