« 光るクラゲとフグの毒 | Main | 維新の傑物-江藤新平- »

2010.10.24

佐賀城跡寸見

Unzendake
            佐賀県庁展望室から雲仙岳を望む(佐賀県佐賀市)

2010年8月27日に佐賀市を訪れる機会があった。福岡には時々来るが佐賀は初めてである。正確には50年前の高校の修学旅行で長崎に行っているので、佐賀駅は通過しているはずだが全く記憶にない。佐賀駅手前の鳥栖(とす)という駅で長時間、列車の通過待ちをしたことだけ覚えている。

佐賀県に対する我が認識は乏しいが、親父が唐津中学出身なので、虹の松原ほどきれいな海岸はないぞ、と良く自慢していたことを覚えており、唐津には親近感をもっていた。それ以外には、幕末に鍋島閑叟という名君が輩出して、明治維新で薩長土肥の一角を築いたことや、江藤新平が佐賀の乱を起こしたことくらいしか知識がない。

<肥前の諸街道>
   (クリックで拡大)
Map_2知らない土地のバイブルとして、いつも司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを紐解くわけであるが、「街道をゆく 第11巻 肥前の諸街道」に佐賀が出てくる。しかしこの巻に出てくる佐賀は玄界灘沿いに位置する唐津市地域であり、背振山系を越えた筑紫平野に位置する今回訪れた佐賀市の地域の話はない。

肥前国は、もともとは阿蘇山や雲仙岳のような火山があって火の国と呼ばれていた肥国(ひのくに)の一部であったが、続日本紀の持統10(696)年に肥後国という記載が出てくることから、7世紀末までに肥後国と肥前国に分割されて出来たと思われる、とウィキペディアに出ている。肥後国は現在の熊本県、肥前国は現在の佐賀県と長崎県に相当している。


<佐賀県庁>
佐賀駅近くで仕事を終えた後、博多へ戻るまで少し時間があったので、近傍でどこか見るところがないか聞いたところ、佐賀県庁に展望ルームがあって佐賀一帯が一望でき、そこからは佐賀城跡も近いとのことであった。佐賀城跡には歴史館もあるとのことで、佐賀を知る良い機会と早速バスで佐賀県庁に向かった。

佐賀県庁は、佐賀市城内1丁目という住所を見ても分るように佐賀城跡内に立地している。バスを降りると橋があるが、佐賀城北端のお堀にかかる橋である。お堀端に11階建ての県庁ビルが建っており、最上階が佐賀市街や佐賀平野を望める展望ホールになっている。

Sagachousya_2
佐賀県庁本庁舎(佐賀県庁ホームページから)

冒頭に掲げた写真は、展望ホールから雲仙岳方面と表示のあった南の方向を撮ったもので、写っている山並が雲仙岳かと思っていたが自信がなかったので、帰ってからこの写真を佐賀県庁の広報課の方に見て頂いたところ、雲仙岳ということが確認できた。

近くに佐賀城跡の歴史館があると聞いたのですが、と1階の総合案内で聞くと、受付の女性が親切にも庁舎外まで誘導、歴史館への道順も教えて下さった。

<佐賀城 鯱の門>
10分ほどぶらぶら歩いて行くと、佐賀城本丸歴史館という標識があった。その方向に進んで行くと、城壁らしい石垣が現れ、大きな櫓門が現れた。傍に案内板が立っている。重要文化財の「佐賀城鯱の門」及び「続櫓」と記してある。

慶長13(1608)年から16年にかけて造られた佐賀城本丸は、享保11(1726)年に焼失し、その後110年間、二の丸で政務がとられていたが、天保2(1835)年に二の丸も焼失したので、10代藩主の鍋島直正(後の閑叟)は本丸御殿を再建し、天保9(1838)年に本丸の門として建てられたのが、この鯱の門であると、説明してある。

Shachigate_2(クリックで拡大)
      佐賀城鯱の門及び続櫓

この佐賀城鯱の門と続櫓は昭和32(1957)年に国重要文化財に指定されている。門をくぐって中へ入ると、県立佐賀城本丸歴史館がある。

<佐賀城本丸歴史館>
鍋島直正が再建した本丸は明治維新になって佐賀藩庁として利用された。明治7(1874)年に勃発した佐賀の乱で佐賀城は戦火に見舞われたが、本丸は焼失を免れ、佐賀裁判所として利用された。その後佐賀城の建物の移転など紆余曲折があって、平成16(2004)年に天保期の佐賀城本丸御殿を復元した歴史館として開館されたという。

入館料は無料とあり、お帰りの時に志を入れて下さいという今時珍しい配慮である。

Sagahonmarurekishikan(クリックで拡大)
     県立佐賀城本丸歴史館

歴史館の正面入口は、当時は御玄関と呼ばれ、藩主や幕府の使者など特別な人しか利用できなかったとある。靴を脱いで上がると外御書院の廊下である。廊下の右手に一之間から四之間までの四つの部屋が続いており、合わせると320畳の大広間となって、公式行事の時は1,000人くらい入ったらしい。

さらに御小書院とか屯之間(たまりのま)、藩主の居室の御座間など回って、最後は常設展示室を見るようになっている。常設展示室は、「幕末・維新期の佐賀(輝きの時代)」、および「明治維新と佐賀の群像(開拓者の道)」というテーマで構成されている。

佐賀の群像の展示パネルには、江戸時代末期から明治時代に活躍した佐賀の偉人7名が紹介されている。いずれも歴史の教科書にも載っている人々であり、幕末から明治にかけて佐賀藩の人材が日本の近代化に貢献したことがよくわかる。明治維新は薩長土肥が主力であったといわれる所以であろう。

Ohhiromasagaijin
       外御書院の大広間            佐賀の群像-七賢人

<佐賀の七賢人>
展示パネルに紹介された佐賀の偉人7名は、佐賀の七賢人と呼ばれており、彼らの業績の概要が出ている。
 鍋島直正(10代藩主で号が閑叟、明治維新で議定・大納言、初代北海道開拓使長官)
 佐野常民(パリ万博で赤十字を知り、博愛社→日本赤十字社創立、大蔵卿)
 島 義勇(北海道・樺太探検、北海道開拓使で札幌のまちづくり、佐賀の乱で刑死)
 副島種臣(明治維新で参議、外務卿、内務大臣)
 大木喬任(東京府知事、初代文部卿、参議、司法卿、元老院議長)
 江藤新平(廃藩置県を実施、司法卿、参議、佐賀の乱で刑死)
 大隈重信(参議、大蔵卿、立憲改進党結成、早稲田開校、内閣総理大臣2回)

鍋島直正と島義勇は、明治維新後に北海道開拓に関わっている。もっとも鍋島直正は初代北海道開拓使長官であったが一度も任地には行っていないらしい。島義勇は北海道開拓の父と呼ばれ、札幌の北海道神宮では島判官の慰霊祭が現在でも毎年行われているらしい。以前のウェブログ「北海道神宮」で触れた開拓神社に祀られている37柱の神々の名前を見直すと、確かに鍋島直正命と島義勇命の名前も入っている。

  • 北海道神宮

    この中で現代にまで影響を及ぼしている人物を上げるとしたら、立憲改進党を結成して政党政治の基礎を築き、早稲田大学を開校して日本の学界や教育界に貢献した大隈重信であろうか。さらに彼は、以前のウェブログ「彦根城界隈」で触れたように、明治政府が行った愚策の廃城令の下で、彦根城の破却をやめるよう上申したといわれている。

    事実であれば滋賀県や彦根市にとっても偉人であり、現在においても、天守閣が国宝に指定されている国宝4城の一つとして彦根城の美しい姿を見ることができることから、現代日本に良い置き土産を残したことになる。

  • 彦根城界隈

    <江藤新平と佐賀の乱>
      江藤新平(ウィキペディアファイルから)
    Shinpei_eto7賢人の中、島義勇と江藤新平は佐賀の乱で刑死とあるので、目をひく。佐賀の乱は、明治7(1874)年に佐賀で起こった明治政府に対する不平士族の反乱で、江藤新平と島義勇がリーダーであったと、学校の歴史で習ったことを覚えている。

    しかし江藤新平は明治政府にあって、文部大輔、司法卿、参議などの役職を歴任して、学制の基礎固め、中央集権、四民平等を推進し、特に司法職務制定、裁判所建設、法律編纂など司法制度整備には多大の貢献をした民権論者であった。そのような江藤新平が士族反乱のリーダーであったとは、何となく不思議な気がしていたのである。

    明治維新になって俸禄制度の撤廃や廃刀令によって、職を失った武士階級(士族)が新政府に対して不平不満を抱き、佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱から鹿児島の西南戦争に至る一連の反乱を起こしたことが時代背景としてあったことは理解できる。しかし江藤新平は新政府の要の立場にいたので、何故だろうという気がしてならなかった。

    この間の事情についてはあまり知識がなかったが、今回の佐賀訪問を機にウィキペディア等のいくつかの解説から探ってみた。

    <征韓論と明治6年政変>
    明治維新後、日本は朝鮮に対し開国と国交を望んだが、朝鮮の拒否に合い征韓論が浮上していた。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣たちがその論であった。明治6(1873)年に西郷隆盛の意見が通り、派兵ではなく使節を派遣する遺韓が決まったが、明治天皇が岩倉使節団の帰国まで重要案件は決定しないとされたらしい。

    帰国した岩倉使節団の大久保利通や岩倉具視、木戸孝允らはこの朝鮮への使節派遣に反対し、紆余曲折を経て遺韓中止が決定され、西郷隆盛や江藤新平らは参議を辞任し下野した。明治6年政変と呼ばれるこの事件後、江藤新平は佐賀の不平士族の懐柔にあたるため佐賀に戻ったが、ミイラ取りがミイラになって首領に担がれてしまった、というのが通説である。

    <大久保利通との確執>
     大久保利通(ウィキペディアファイルから)
    Toshimichi_okuboしかし司法卿や参議を務めた官吏時代の江藤新平は、やり手で非常に切れ者だったらしい。官吏の汚職にも厳しく、長州閥の大物であった山縣有朋が関わったとされる山城屋事件や、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件に対し厳しく追及し、2人を辞職に追い込んだ。しかし上記政変後、この2人が公職に復帰したので、このことが江藤新平の意識を変えたのかもしれない。

    また司法卿であった江藤新平は欧米的な三権分立の導入を積極的に進めたので、行政権=司法権と考える伝統的な価値観をもつ政府内保守派からは激しく非難を浴びたといわれ、敵も多かったタイプであったらしい。大久保利通との確執も生まれていたようである。

    明治6年政変後の権力の中枢は、内務卿になって絶大の権力をふるうようになった大久保利通である。佐賀の乱では文官でありながら権限を得て、自ら鎮台兵を率いて遠征し乱を瓦解させ江藤新平を捕縛した。捕吏長は江藤新平に脱走を勧めたが、江藤は東京で裁判で争うとの決意を固め応じなかったという。

    しかし大久保利通は、現地に急遽設置した臨時裁判所でわずか2日間の審議で判決を下させ、判決当日に江藤新平と島義勇は斬首され、さらし首にされたという。当初から刑が決まった暗黒裁判とされ、明治政府の司法制度を打ち立てた江藤新平本人が、昔の部下であった判事にこのような裁判進行をされたことに非常に無念の思いを持ったとの伝があるらしい。

    大久保利通は江藤新平の死について日記に、「江藤の陳述曖昧、実に笑止千万、人物推して知られたり」、と最後まで政敵、江藤新平への憎しみを込めて書いているらしい。ここまで来るともう私怨としか言いようがない。

    大久保利通は明治11(1878)年に東京紀尾井坂で暗殺されたが、わざわざ遠回りの紀尾井坂回りに道を変えたのは、佐賀の乱の後、新平の弟、源作が兄の仇、大久保を一度見ようと上京して待ち伏せした時に、新平に顔立ちの良く似た源作を見て驚いたため、との説があるらしい。

    <明治維新の革新>
    平成の今、自民党から民主党に政権交代して評価がかまびすしいが、決まって明治維新が引き合いに出され、平成維新を目指そうと唱える政治家が多い。それだけ明治維新という時期は大きな革新を遂げた時代であり、当時を知らない現代の日本人の心情にも大きな影響を与えていることは間違いない。

    しかし佐賀城跡を寸見し、佐賀の乱について少し知ってみると、明治維新というのは真剣な国造りの時代であったことがひしひし分るし、政治、文化、軍事など全ての面において先進国から知識や技術を摂取することは、何をしても命がけの戦い(闘争)の時代であったろうと思う。この時期の洋楽の摂取に関しては以前のウェブログ「大津市膳所出身のピアニスト-久野 久-」で触れた。

  • 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久-

    江藤新平と大久保利通の確執にしても初めて知ったが、お互いに国造りの為に真剣で命がけであったことは間違いないのであろう。今のような平和ボケし、甘ったれた政治家や国民が明治維新を引き合いに出すのは、とてもおこがましいのでは、との感想を抱かざるを得ない。

    <江藤新平に惹かれる>
    江藤新平には、どこか惹かれるものを感じたので、この後のウェブログ「維新の傑物-江藤新平-」で彼の事績や人物に触れてみた。

  • 維新の傑物-江藤新平-


  • |

    « 光るクラゲとフグの毒 | Main | 維新の傑物-江藤新平- »

    Comments

    The comments to this entry are closed.