光るクラゲとフグの毒
オワンクラゲ
(名古屋港水族館ホームページから使用許可)
昨年は日本人のノーベル賞受賞はなかったが、2008年には4人もの日本人(素粒子物理学の南部、益川、小林各先生と、生命科学の下村先生)が受賞されて、日本中が沸いたことは未だ記憶に新しい。ただ私にとっては、素粒子の南部、益川、小林各博士の受賞よりも、オワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP:Green Fluorescent Protein)を発見した下村 脩博士の受賞の方がはるかにインパクトが強かった。
というのは、2004年から携わっている科学技術振興機構のさきがけ研究で、GFPを駆使している研究者がおられ、特許出願のお手伝いや関係論文の調査を行ったことがあるのでGFPに馴染みがあったからである。しかしGFPの発見者が日本人の下村博士であることは知らなかったので、2008年のノーベル賞発表の時は、自分の知り合いが受賞したように興奮してしまった。
そんなことでGFPにはずっと関心をもっていたら、つい最近育土社から、クラゲの光に魅せられた科学者たちの活動を描いた「光るクラゲ」(ピエリボン+グルーバー著、滋賀陽子訳)が発刊された。早速購入して読んでいると、タイミングが良いというか、先月(2010年7月)の日本経済新聞の「私の履歴書」に下村 脩博士が執筆されるという幸運が重なり、改めてノーベル賞研究の全貌を知ることができた。
以前のウェブログ「カイコ蛾の性フェロモン」や「みどりの香り」で触れたように、弊出身研究室も天然物有機化学を扱っていたので、下村博士の履歴書に出て来る恩師の中には、当方の卒業研究に関係した大先生のお名前もあって、45年前の卒研時代のあれこれを思い出した。。
以下は「光るクラゲ」や下村博士の「私の履歴書」を読んでの雑感である。
<なぜGFPがノーベル賞に?>
GFPは発光生物であるオワンクラゲの発光体である。しかし発光生物と言えばホタルの方が馴染みがあり、ルシフェリンという発光体が知られている。ルシフェリンの発光現象は19世紀後半に、フランスのデュポワがヒカリコメツキムシで見出したという。なぜ新しく発見されたGFPがノーベル賞の対象になったのだろうか。
下村博士のノーベル化学賞受賞を報ずる2008年10月9日の日本経済新聞には、下村博士が見つけた蛍光タンパク質(GFP)は、細胞や体内の様々なタンパク質の働きを簡単に追跡して観察することを可能にして、がんや糖尿病などの解明や治療薬の開発に不可欠な基盤技術になり、生命科学に革命をもたらした成果である、と紹介してある。
私は先のさきがけ研究者のお手伝いの経験から、共同受賞者のマーティン・チャルフィー教授がGFPを初めて生きた細胞の中で光らせることに成功し、ロジャー・チェン教授が緑色(GFP)以外の赤色(RFP)、黄色(YFP)、青色(CFP)等の蛍光タンパク質を作り出してマーカータンパク質とし、GFPが生命科学の研究を画期的に飛躍させたことは知っていた。
つまり1990年代になって生命科学や医療分野の研究に画期的な進歩をもたらしたGFP応用研究をノーベル賞委員会が高く評価し、そのもとを辿れば1961年の下村博士のGFP発見に行き着くので3人の受賞を決めたのであろう。いずれノーベル賞候補になるのではと期待される山中伸弥教授のiPS細胞の研究にも、GFPが使用されている。
<GFPは副産物>
新聞やテレビの報道では、下村博士が家族の協力も得てオワンクラゲをたくさん集めて苦労の末、発光体のGFPを発見したというストーリーになるが、そんな生易しい話ではない。ご本人の履歴書からは、GFPはむしろ追求していた発光体の副産物として発見したものであり、まさにセレンディピティであったことが良くわかる。
下村博士が渡米しオワンクラゲの研究を開始した1960年当時の生物発光の常識は、ホタルと同様ルシフェリンがルシフェラーゼという酵素と反応して光るというものであった。従ってプリンストン大学のジョンソン教授はオワンクラゲからルシフェリンを抽出するために、優れた抽出技術をもつ下村博士を米国に招いたと思われる。
というのは、下村博士は1955年に名古屋大学の平田義正教授の研究室で研究生となり、ウミホタルの発光物質であるルシフェリンの抽出と結晶化という、当時の生物発光の最先端であったプリンストン大学でも達成出来ていなかった難題を与えられたが、1956年に見事に抽出・結晶化に成功されたからである。
が、下村博士はオワンクラゲの発光は常識にあてはまらない新規なメカニズムであることを直感し、その解明を目指したため、目論見が外れたジョンソン教授と一時期気まずいことになってしまった。逆にいえば、ルシフェリン以外の生物発光は考えられなかった時代であったともいえる。
結局、下村博士はオワンクラゲの発光はカルシウムによって起こることを突き止められた。テレビの報道では、オワンクラゲの抽出液を流しに捨てると流しが青く光る場面を何度も見せてくれたので、GFPが光ったと誤解されやすいが、これは抽出液の中の発光体が海水中のカルシウムにより発光したもので、イクオリンと命名された。つまり本命は「イクオリン」という発光タンパク質であった。
しかし下村博士は、クラゲは緑色に光るのに抽出したイクオリンは青く光ることが気になっていたところ、イクオリンの精製中に緑の蛍光を放つ物質も微量発見したので、ついでに精製してためておいたと述べられている。これがまさにGFPであったが、1961年のこの時点では単に副産物に過ぎなかった。
<イクオリンの発光の仕組み解明>
カルシウムセンサーとして注目を浴びだしたイクオリンの発光の仕組み解明のため、下村博士は1965年に再び渡米された。基礎実験で青い蛍光を出す物質を見つけたが、この物質の構造を突き止めるためには大量のクラゲが必要であった。このため1967年から家族も総出で、5年かけて延べ25万匹のクラゲを採ったと述べられている。
イクオリンの真ん中にセレンテラジン
1972年にイクオリンの発光体の構造が判明したが、この構造は思いがけないことに下村博士が10数年前、名古屋大学の研究生時代にウミホタルの発光物質ルシフェリンの1種として命名した「セレンテラジン」であったという。つまりイクオリンは球状のタンパク質であるが、その真ん中にセレンテラジンが入っているという構造である。
イクオリンはカルシウムが結合すると変形して、中のセレンテラジンが分解して発光し、その後セレンテラジンを加えると元に戻るという。まるでバッテリーのような働きをする、このようなタンパク質は見たことがなかったし、ウミホタルのルシフェリンの構造を知らなかったらイクオリンの発光の仕組み解明も進まなかっただろう、と述懐されている。
<オワンクラゲの緑色発光の謎を解く>
このようにイクオリンは使い道もあり仕組み解明の意義もあったが、GFPは当初何の使い道もなかった。しかし下村博士は、オワンクラゲの発光は緑色でありイクオリンが出す青色とは異なるので、緑色のGFPがクラゲの発光のカギを握っていると考えてこの謎解きに挑戦された。つまりここからがノーベル賞ワークの心髄である。
1974年に、イクオリンのそばにGFPがあると、イクオリンがカルシウムによって青色に発光しようとする時、そのエネルギーがGFPに移り、GFPが緑色に光ることが証明できた。しかしGFPが蛍光を出す仕組みそのものの解明はそこからで、ためておいたクラゲ20万匹分にあたるGFPを使用して発色団の化学構造を調べ、1979年にとうとうGFPの発色団の正体を突き止めることに成功された。
GFP(ウィキペディアから)
この決め手になったのもウミホタルのルシフェリン研究の知見であったらしい。GFPの発色団の光吸収性が、下村博士が20年前に合成した化合物とそっくりだったことを手がかりに、GFP内部にあると推定される化合物を合成して、実際のGFPから得られたものと比較すると特性が完全に一致し、発色団の正体が分かったということである。
下村博士は、1979年のこのGFP発色団の発見がGFPの本当の発見といえる、と述べておられる。最初の副産物としてのGFPの発見から18年目にして、その全貌が分かったということであろう。その後は報道にある通り、GFPは1994年のマーティン・チャルフィー教授と、ロジャー・チェン教授の成果に結びついて行く。
また1974年に証明されたイクオリンからGFPへのエネルギー移動は、その後、蛍光共鳴エネルギー移動(FRET:Fluorescent Resonance Energy Transfer)法として発展し、ロジャー・チェン教授が作り出した緑色以外の蛍光タンパク質との組み合わせで、生きた生物内のカルシウム動態をモニターできるようになり、生理学研究に革命をもたらした。
<平田義正教授>
上記のように下村博士のGFPの発見と発光メカニズムの解明には、平田義正教授から与えられたウミホタル・ルシフェリンの抽出と結晶化の研究が大きく貢献していることがわかる。しかもウミホタル・ルシフェリンの化学構造は10年後の1965年に、やはり平田教授門下の大学院生、岸義人氏が解明したと履歴書に述べられている。
1955年に若き下村青年が内地留学するために、長崎時代の恩師であった安永峻五教授とともに名古屋大学の江上不二夫教授を訪問したが運悪く不在で、たまたま挨拶に立ち寄った平田義正教授から、自分の所に来ませんかと誘いを受け、その後の下村博士の人生が決まったいきさつは履歴書に詳しい。
履歴書を拝読していると、平田義正教授は、乾燥ウミホタルからルシフェリンを抽出・結晶化するテーマは成功するかどうか分らないので、学位目的の学生にはやらせられないのです、と説明されたという。つまり平田先生は無名で学位もなかった下村青年に一人前の科学者になるための試練を与えたと思われると共に、下村青年のただならぬ素質を見抜かれていたようにも思われる。
実は平田義正教授と聞くと、私にも1つの思い出がある。
<フグ毒「テトロドトキシン」>
私は1964 年の夏に卒業研究のテーマを貰った。フグ毒のテトロドトキシンの化学合成を目指すための基礎になる研究テーマであった。このテーマが名古屋大学の平田義正教授と関係していたのである。
この年、第3回国際天然物化学会議が京都で開催され、最も注目を浴びたのがフグ毒テトロドトキシンの化学構造決定の発表であった。しかもその構造決定は日米の3大学で達成され、この会議で3人が同時に発表し結果が一致した、という歴史的な事件だったらしい。その3人は米国ハーバード大学のウッドワード博士、東京大学の津田恭介博士、そして名古屋大学の平田義正博士であった。
フグ毒「テトロドトキシン」は左図のようなかご型の構造をしている。何となくお祭りにかつぐお神輿の形にも見える。毒性は青酸カリの1000倍以上といわれ、わずか2mg摂取すると人間は死ぬという。
化学構造が決定されたら、次はその化合物を合成する段階に入る。当然3博士はテトロドトキシンの合成に向かわれるだろうが、そこへ割って入ろうというのが我が出身研究室の方針だったようで、私はまずその先兵であったらしい。従って平田義正先生のお名前を存じていたわけである。
しかし私は1965年3月に卒業し会社人間となったので、テトロドトキシンは頭から消えてしまった。
<テトロドトキシンとの再会>
その後2001年に会社をリタイヤし、2004年から科学技術振興機構(JST)のさきがけ研究のお世話役を努めることになった。2005年になって、さきがけ基礎研究最前線というJSTの機関紙とウェブサイトに、フグ毒テトロドトキシンを合成「ノーベル賞受賞者もあきらめた難物」というトピックスが掲載された。
なんと40年経ってテトロドトキシンがやっと構造決定されたのかと大変驚き、1964年当時では、有機合成技術では右に出るものはないと言われ、絶対的に本命視されていたウッドワード博士もあきらめたのだということがわかった。
記事を読むと、下村博士も名前を挙げておられた名古屋大学平田門下の岸義人博士が、1972年にラセミ体(立体構造が光学異性体のDL混合体)の合成に成功されたが、今回も同じくその流れをくむ名古屋大学のさきがけ研究者、西川俊夫博士が天然フグ毒と同じ立体構造のL体の不斉合成に成功されたのであった。
同じさきがけ研究関係者ということで早速お祝いと40年前の弊体験を申し上げたら、丁重なお返事と関係の資料をお送り頂いた。平田義正先生は残念ながら2000年にご逝去されていたが、研究課題の設定は絶えず10年先を見て、人のやれないことに注目しなさい、がモットーであったらしい。西川博士の合成法も10年かかったそうである。
<基礎研究は大切である>
今、科学技術振興機構(JST)に勤務していると、独立行政法人の事業仕分けや無駄削減の動きがひしひしと伝わってくる。しかしこれは今に始まったわけではなく、JSTでは小泉改革の時代からどんどん間接費削減を実施してきており、マスコミが今やたらに報道しているほど目新しいことではない。
無駄削減や天下り経費根絶はどんどんやるべきであるが、今の政権になって色々な基礎研究の中味の無駄にまで政治が口出しする傾向があることに反発を覚えている。基礎研究の中味が無駄であるかどうかは誰も分らないことで、最初から役に立つことが分っている研究にしか資金が出なかったら、下村博士のノーベル賞は生まれていない。
これは不思議だ、何故だろう?とか、何故こんな美しいものがあるのだろう?という素朴な疑問が、基礎研究の原点である。その疑問が強いほど最先端の研究が生まれ、推進されるのであろう。何故一番でないといけないのですか?という議員の質問に役人はうまく答えられなかったが、ハヤブサが見事に答えてくれ、一旦削減された後継機の予算も復活した。
JSTのさきがけ研究のお世話役として日本の科学技術行政に多少携わっている者としては、基礎研究は大切であるということを痛感している。平田先生ではないが、20~30年先に芽が出るかもしれない基礎的な研究課題を日本は率先してサポートしていきたいものである。
下村博士は受賞後の長崎訪問時の講演会で、大学生や中高生からの多くの質問に答えられていた。その中で印象に残った質疑応答があった。
(質問) オワンクラゲは何故光るのですか?
(答え) それは難しい。クラゲに聞いてください。(会場爆笑)
基礎研究の精神はここにありという気がした。
車通勤しているので、NHKラジオの夏休み子供科学電話相談を今年は良く聞いたが、3歳から小6までの子供が実に素朴な疑問をぶつけてきて、答える先生方も大変苦労されたり、良くこんな疑問が出たと感心されたりしている。納得のいく答えを貰った子供たちはきっと将来の科学者に育つのであろう。
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