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2010.07.04

邪馬台国は近江にあった?

Iseiseki(クリックで拡大)
       伊勢遺跡(滋賀県守山市伊勢町)

<物部(もののべ)郷>
前編の「湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説」は草津市の常盤が舞台であったが、隣接する守山市や栗東市を含めたこのあたり一帯は、古の近江国栗太郡物部(もののべ)郷であったと思われる。平安中期に編纂された和名類聚抄に、栗太郡の郷名として勢多、木川、梨原、物部、治田の5郷が載っていることからそのように推定されている。

  • 湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説

    大正15年に編纂された滋賀縣栗太郡志には古墳時代の栗太郡古代氏族分布図があり、現在の草津市域には葦占臣、安那公、笠朝臣、大市首、山田宿禰、治田連、笠連が、守山市域には物部首と出庭臣が、栗東市域には高野造、勾君、蘆井造、小月山公の各氏族が出ている。以前のウェブログ「湖南の草津界隈」と「湖東の渡来人-餘自信ゆかりの高野神社-」で触れた古代豪族も出ている。

  • 湖南の草津界隈  湖東の渡来人-餘自信ゆかりの高野神社-

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          古墳時代の栗太郡古代氏族分布図

    しかし群雄割拠のこの図をみる限り、この一帯が物部郷と呼ばれるには物部首の所領がやや寂しい感じを受ける。古墳時代より古い時代は物部氏がもっと勢力を張っていたのだろうか。つまり、そもそも、このあたりが何故物部郷だったのだろう、という疑問があった。

    古代歴史を述べた諸々の書物を紐解くと諸説あるが、物部氏の祖は 饒速日(にぎはやひ)で、未だヤマト政権が出来る前に出雲からヤマトへ来て王となっていたといわれる人物である。彼は神武の東征に協力して天皇家を誕生させ、以後天皇家の后は代々物部系の女性から選ばれるようになったことは、以前のウェブログ「湖東の額田王ゆかりの地」でも触れた。

  • 湖東の額田王ゆかりの地

    そのような、古代のヤマト政権において天皇家に関係するいわば中央豪族といっても良い物部(もののべ)氏が、笠氏、葦占氏、治田氏のような近江の土着豪族ではないのに、我家に近い近江の片田舎を領有していたとは何となく不思議に思えたのである。もちろん物部氏は全国各地に分布しているから、早くから開けた琵琶湖沿岸に居たということは別に不思議ではない、と言われればそれまでであるが・・。

    <物部氏を祀る守山市の勝部神社>
    そこで物部氏が祖神を祀っているという守山市の勝部神社を訪れてみた。我家の最寄のJR南草津からは、草津、栗東と通過し、3つ目の守山駅の西方にある。守山駅からは歩いてもさして遠くない。住宅地の中にある閑静な雰囲気の秀麗な神社である。

    勝部神社由緒の石碑には、649(大化5)年、物部宿禰広国が当時このあたり一帯を領有し、祖神物部布津神を祀って物部郷の総社とした、とあり、本殿の案内板には1941(昭和16)年までは栗太郡物部村に属し、物部神社と称され、物部村の総社として信仰されてきた、とある。

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           勝部神社入口の鳥居            勝部神社拝殿と本殿

    ご祭神は物部布津神(もののべふつのかみ)とあり、天火明命(あめのほあかりのみこと)、宇麻志間知命(うましまじのみこと)、布津主神(ふつぬしのかみ)の3神が祀られている。異説は色々あるが、天火明命は饒速日(にぎはやひ)で、宇麻志間知(うましまじ)はその息子で物部連(もののべのむらじ)の祖となっている。

    「ふつ」は刀で切ることをいうらしく、布津主神(ふつぬしのかみ)は霊剣を意味するらしい。因みに奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮が物部一族の氏神であるが、崇神天皇の勅命により、神武の東征の時に危機を救ったといわれる神剣(布留御魂剱、別名:布都御魂大神)が祀られている。

    つまり物部神は軍神でありここ勝部神社も古来武家の崇敬を集めてきた。現在の本殿は1497(明応6)年に近江国守護の佐々木高頼が再建したとある。近江の社寺を焼きつくして評判の悪い織田信長も元亀年間(1570-1572)に60通の起請文を納めており、それによると勝部大明神と記してあるので、すでにその頃には勝部という名称が使われていたことが分かるという。

    ということで、確かにこの一帯に饒速日(にぎはやひ)を祖先とする物部氏がいて、祖神を祀り、軍神として崇められていたことは認識したが、でも何故古代近江のこの一帯に中央豪族の物部氏の名前を冠する郷があったのか、物部氏は何かこの一帯の近江の地と因縁があったのではなかろうか、という疑問は完全には晴れなかった。

    ところが最近、この地に物部郷はあるべくしてあったのかもしれない、と思えるようになった。

    <邪馬台国近江説の出現>
      後藤聡一著書
    Goto前編に関して守山市在住の我が先輩から、草津、守山、野洲にかけての一帯は歴史の宝庫で、今年になってからも「邪馬台国近江説」と題した本が、立て続けに2冊も発刊されたよ、とのお知らせを頂いた。邪馬台国の所在地については九州説と畿内説があり、最近の考古学的知見から大和桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力候補で、箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓かもしれない程度の知識は持っている。

    しかし近江説は初耳であり、滋賀県在住者としては魅力ある情報である。しかもその舞台はこの古の物部郷にあり、冒頭写真に掲げた、守山市と栗東市にまたがる近年発見された伊勢遺跡に邪馬台国があった、という説である。早速、後藤聡一著「邪馬台国近江説 纏向遺跡[箸墓=卑弥呼の墓]説への疑問」(サンライズ出版)を購入して読んだ。

    著者の後藤聡一氏は東京生れの山形県出身なので、滋賀県と利害関係のない方が近江説を唱えておられることに興味を覚えた。その骨子は次の通りである。

    1.伊勢遺跡からは現在までに13棟の大型建物が見つかっている。注目すべきは、このうち7棟は直径約200mの円周上にほぼ等間隔に配置されているという点である。しかもその内部には方形区画がありここからL字状に配置された5棟の大型建物が見つかっている。さらに中枢部に隣接して煉瓦壁で覆われた国内最大級の大型建物が1棟見つかっている。

    岩石祭祀学提唱地「伊勢遺跡」から
    Iseiseki2map2.方形区画は王が政治や祭祀を行う神聖な区域で、それに隣接する大型建物は楼閣、円周上に並んだ大型建物は、当時のクニの首長が集まって祭祀を行う祭殿であると思われる。円周上の建物は現在7棟が見つかっているが、この間隔だと最終的に30棟になり、魏志倭人伝に記載される邪馬台国を構成するクニ数の30とぴったり符合する。

    3.このように円周上に配された祭殿群と、中心に厳重に区画された宮室、楼観がある遺構は、畿内の纏向遺跡からも九州の遺跡からも見つかっていない。平成21年現在、特殊性という点で伊勢遺跡を超える弥生時代の遺跡は日本中探してもどこにもない。

    4.倭国大乱の後、卑弥呼が共立されたとされる180~190年前後には、伊勢遺跡は既に周辺国を束ねる中心国としての地位にあったと推測される。その勢力を背景にした卑弥呼が30国の連合体「邪馬台国」の女王としてこの地に共立されたと考えられる。

    5.出土品から見ると伊勢遺跡は1世紀末から3世紀初頭に最も発達しているので、卑弥呼が魏に朝貢した239年頃は衰退しているとの指摘があるが、直ぐ近くにある下長遺跡(守山市)と下鈎(しもまがり)遺跡(栗東市)が2世紀末から3世紀末に栄えているので、祭政と生活との棲み分けが進み、伊勢遺跡は祭政の場になったためと考えられる。

    6.米作や漁業が早くから発達した伊勢遺跡に比べ、纏向遺跡は2世紀後半は未だ寂しい「ムラ」であって、弥生時代は米作に適さない湿地帯であった。纏向遺跡が発展したのは3世紀末から4世紀初めである。一部の研究者が誤差の大きい放射性炭素年代測定法で纏向遺跡の盛期を3世紀半ばまで繰り上げようとしているが、これには同じ畿内説の学者からも疑問の声が上がっている。

    7.邪馬台国からヤマト王権への変遷については、九州説にしろ、畿内説にしろ邪馬台国がヤマト王権に(平和裡に)進化したという見方に代表されるが、そうではなく卑弥呼と台与(とよ)の時代には伊勢遺跡群にあった邪馬台国は、その後の権力闘争で土着勢力が支配するような変遷を経た後、九州からの東征勢力の侵攻により滅亡したと思われる。

    というような後藤氏の邪馬台国近江説は、伊勢遺跡および周辺遺跡からの物証を主軸として、近江の地政学的観点、近江の渡来人の足跡、伊勢神宮との関連、魏志倭人伝との整合性、記紀神話や古代文献の記載との関連を組み合わせて、かなり説得性の高い説になっているように思えた。

    百聞は一見に如かず、なので、2010年6月13日に伊勢遺跡を探訪してみた。

    <伊勢遺跡>
    伊勢遺跡はJRびわこ線の栗東駅から守山駅へ向う線路沿いの東側一帯に位置する。守山市伊勢町・阿村町、栗東市野尻にまたがる約35ヘクタールの巨大な弥生遺跡である。といっても整備された遺跡公園になっているわけではなく、発掘調査しては再び埋め戻されて住宅や水田が作られるという極めて未開発の遺跡である。

    従って探訪するといっても、これまでの発掘調査で大型建物があったと推定される跡地に、冒頭写真のような伊勢遺跡の想像図を示す看板が2箇所に立っているだけである。ただ、現在の滋賀県の嘉田由紀子知事が新幹線の栗東駅建設を凍結したため、幸いにもこの付近は未だかなりの空き地が残っているので、早く遺跡の範囲確定をして国指定史蹟にしたいという状況らしい。

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     日吉神社の森    伊勢遺跡から琵琶湖方面を望む    伊勢遺跡想像図

    平成18年に編纂された守山市誌歴史編によると、伊勢遺跡は1世紀末頃に集落が形成され、2世紀中頃までに大型建物や住居が建設されて神殿のある聖域を持った都市様景観を示したが、2世紀末から衰退し4世紀には集落が消えた。その後平安から鎌倉時代にかけて再度集落ができたが、その後廃村となり再び地中に埋もれた、とある。

    しかし、1980(昭和55)年になって伊勢町日吉神社付近で個人住宅が建築される際に、弥生時代後期の柱穴、溝跡、土器等がみつかり、遺跡が発見されて伊勢町一帯に広がることから伊勢遺跡と名付けられた。その後の20数年間の住宅開発や区画整理時に伴って実施された細々とした発掘調査により、この遺跡は近畿地方でも例のない「王が住まいし、儀式を行った場所」であることが判明してきたという。

    伊勢遺跡の想像図には三上山を仰ぐこの地に、楼閣や神殿のある聖域と、それを取り囲むように円周上に位置する大型建物群が描いてある。三上山は近江富士とも呼ばれ、古来神体山として崇められてきたことは、以前のウェブログ「近江富士」でも触れた。今はその方向には住宅が建っているが、合間から三上山が見える。

  • 近江富士

    Mikamiyama(クリックで拡大)
           伊勢遺跡に建つ新旧住宅の合間から三上山が見える

    <守山市立埋蔵文化財センター>
    弥生時代中期以降の遺跡
       (守山市誌から)
    Oumikofun伊勢遺跡で出土した遺物は、守山市立埋蔵文化財センターにあるとのことなので、琵琶湖大橋より少し北の、野洲川が琵琶湖に注ぐ河口にほど近い野洲川歴史公園に行ってみた。数年前に野洲高校が全国高校サッカー大会で優勝したご褒美であろうか、立派なサッカー場が出来ており、その向かいに守山市立埋蔵文化財センターがある。

    考古学ファンにとっては埋蔵物の観察は貴重なのであろうが当方はあまり知識がなく、焼物と同様に出土品を見てもあまり実感が湧かない。むしろ展示パネルを見ていて、野洲川のデルタ地帯に所在する野洲市、守山市、栗東市の各市域に、弥生時代から古墳時代にかけての夥しい遺跡があることに驚いた。

    ここの事務所で、滋賀県と守山市の教育委員会が発行した「國、淡海に建つ」という小冊子を紹介して貰ったので購入し、弥生時代〜古墳時代の遺跡の数を数えてみたところ、主なものだけで野洲市域に15カ所、守山市域に9カ所、栗東市域に10カ所ある。守山市誌にも弥生時代中期以降の遺跡が湖南に集中している図が出ている。まさに野洲川デルタ地帯は遺跡銀座であることがわかる、

    <野洲市の銅鐸博物館>
    この一帯の古代の人間活動に迫ろうとすると、野洲市の大岩山から出土した多数の銅鐸に触れないわけにはいかない。国道8号線で野洲川を渡り三上山を右手に見ながら野洲の町を過ぎると希望が丘文化公園に至る。麓一帯が弥生の森歴史公園になっており、銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)がある。守山市立埋蔵文化財センターからも近いのでここも訪れた。

    1881(明治14)年、2人の少年が大岩山で唐金古器物(銅鐸)を発見して大騒ぎとなり、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)に鑑定に持ち込まれ2個は博物館所蔵となったが、残りは遺失物として発見者へ払い下げられた。埋蔵文化財という概念のなかった当時、それらは全て国内外に散逸してしまい地元には残らなかった。その後京都大学の梅原末治教授の調査等でこの時14個が出土したとされている。

    さらに1967(昭和37)年、新幹線建設工事で大岩山から土砂採取していたブルドーザーが銅鐸6個を発見し、翌日にも3個発見した。その数日前にも1個が発見されていたが工事関係者が古物商に売却していたこともわかった。この時は埋蔵文化財という概念が出来ており、関係者の協力で10個とも滋賀県の所蔵となったので、ここで展示されている。

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     銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)    大岩山銅鐸(リーフレットから)

    大岩山から出土した銅鐸には飾り耳のある近畿式と、飾り耳のない東海地方の三遠式が含まれるので、この一帯に近畿と東海の銅鐸を集合させるような青銅器文化の担い手がいたと推定される。その後鉄器文化が優勢となって古墳時代に入って行くが、大岩山付近にも古墳が多いので、銅鐸を所持していたが何らかの理由で山腹に埋納した人々が、古墳時代に入っても依然勢力を保っていたとも思われる。

    しかし大岩山は、国道8号線、新幹線、野洲電車基地と度重なる造成用土砂の採掘によって大部分が消滅し、銅鐸出土記念碑のみが建っているだけなので、大量の銅鐸埋納という古代の出来事の解明は幻の彼方である。

    <近江の古代豪族>
    従って栗太郡誌にあるような群雄が割拠している古墳時代よりもっと前の、古代のこの一帯の青銅器文化の担い手が誰であったのかは、物証による解明は期待できない。しかし後藤本にも取り上げられているが、前述の「國、淡海に建つ」には考古学者、水野正好奈良大名誉教授の、近江と大和についての記述があり、倭国時代の近江の豪族について述べられている。

     倭国時代の近江の豪族
    Ohmigozoku_2それによると、湖北は息長(おきなが)氏、湖西は和邇(わに)氏(現在も和邇の地名が残る)が支配し、物部郷のある湖南地域は安(やす)氏(現在も野洲の地名が残る)が支配していたという。息長氏と和邇氏は倭国王に后妃を配した豪族で、ともに製鉄技術をもっていたとされる。

    安氏は近江氏とも呼ばれ、大岩山の銅鐸で見られるように、倭国で制作された銅鐸を各クニや機関に配るという国策に深く関与していたのだろうと水野先生は推定されている。つまりこの一帯の青銅器文化の担い手は安氏であったのかも知れない。ただし水野先生は倭国の中枢は大和と考えられており伊勢遺跡説ではない。息長、和邇両氏は大和で倭王を補佐し、安氏は近江のクニを管掌していたとの考えである。

    安氏という豪族はあまり馴染みがなかったので、司馬遼太郎が「歴史を紀行する」の中で、地方史の名著とされると太鼓判を押している昭和3年刊行の「滋賀県史」を、滋賀県立図書館で紐解いて見た。

    それによると13代天皇である成務天皇が、大津京よりもっと前に湖西にあったとされる志賀高穴穂宮で国郡を分けた時に、近江は所管を2分され、淡海安国造と近淡海国造に支配させたことになっているとある。つまり安国造(やすのくにのみやつこ)という安の国の長官ができ、安氏はそのような役目に任命された豪族であったらしい。

    「野洲町史」を紐解くと、安の国には「近江富士」でも触れた御神(三上)神社があり、農業や鍛冶金工の神が祀られていた。当初は広大な所領であったが、湖辺地域は兵主(ひょうず)神社の支配下に入ったので、安氏と御神神社の支配権は次第にせばめられ、その後裔はこの土地を出て中央政府に仕えたとの記載がある。一方、神官であった御上祝(みかみのはふり)は、後から来た豪族と混じってこの地に継承され、三上氏として現代にまで及んでいるという。

    兵主神社は浜街道を湖岸に沿って野洲川を越えた、前述の守山市立埋蔵文化財センターにほど近い野洲市五条にある。以前は中主(ちゅうず)町と何となく謂れのありそうな町名がついていたが、今はなくなっている。広大な敷地の神社で案内板には兵主大社と表示してあった。華麗な楼門がありスケールの大きい神社である。

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             楼門     兵主大社(滋賀県野洲市五条)    拝殿 

    ということで、古代においては安氏がこの一帯を支配した豪族であったが、いつの頃からか勢力が減じ、歴史から消えてしまったようである。物部氏との関係も今ひとつ分らなかったので、「滋賀県史」をさらに紐解いてみた。

    <物部氏と近江>
    滋賀県史は、「古典に見えた近江関係の神々とその子孫」として、記紀に出てくる古代氏族のことを述べている。11代目天皇である垂仁天皇の御代に天日槍(あめのひぼこ)が渡来して近江に入りその一部が定住するとともに、神々の子孫もまた各地に勢力を占め、湖東から湖北の諸郡にかけて物部氏の一族が繁殖したとある。

    さらに大和、河内を本拠とした物部氏は、宇麻志麻治(うましまじ:饒速日の息子)の子、彦湯支(ひこゆき)以来、近江に勢力があって一族繁盛し、甲賀、栗太、神崎、伊香の各郡にその所領を有している、とあり、栗太郡物部神社はその祖神を祭っていることも記してある。また栗太郡田上(たなかみ)にも縁故の尾張氏が来たともある。

    つまり祖神の饒速日の孫である彦湯支(ひこゆき)の時代には、物部氏は栗太郡に勢力をもっていたと思われ、近江の所管が2分され安の国ができた時に、栗太郡と物部郷という郡名と郷名が出来たのかも知れない。ということで、何故近江のこの一帯に中央豪族の物部氏の名前を冠する郷があったのだろう、という我が下らない疑問は、滋賀県史を読めば直ぐに解消したのにという結末に終わった。

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              野洲川から望む近江富士(三上山)

    しかし邪馬台国近江説の後藤聡一氏は、伊勢遺跡の存在する物部郷と物部氏についてはさらに進んだ考察を加えておられる。特に民俗学者の谷川健一氏の主張を紹介されている。弥生時代の銅鐸に代表される青銅器文化は渡来勢力が中心になって広めたと考えられている。前述の天日槍の渡来はその代名詞ともいえる。

    この渡来勢力の中心に物部氏がいて、銅鐸に代表される青銅器文化を広めていったと主張されているのが谷川氏である。物部氏族ははじめ近江から出て、美濃、三河、遠江、駿河などの土着の豪族と結びついて勢力を伸ばしていった。尾張、美濃、近江、丹波、備前、淡路、土佐など物部郷があった地は、いずれも銅鐸文化圏の周辺に位置しているのがその証拠であるという。

    すなわち後藤氏の邪馬台国近江説と、谷川氏の物部氏の広がりは近江からという主張は、ぴったり符号するのであろう。物部氏は大和の中央豪族というより、近江の邪馬台国に起源をもつ中央豪族であったので、当然近江に地盤があって然るべしという考えである。つまりこの地に物部郷はあるべくしてあったのかもしれない、というわけである。

    <邪馬台国の終焉>
    後藤本は、卑弥呼と台与(とよ)の2人の女王時代、邪馬台国の首都は守山の伊勢遺跡群だったと考える。遺跡の出土品の年代から、卑弥呼時代の中心は伊勢遺跡にあり、台与の時代には下長遺跡に遷ったと考えられる。台与の後、権力闘争で河内の土着勢力であった長髄彦(ながすねひこ)が邪馬台国の王位につく。

    長髄彦は日本書紀の神武紀に出ていて、神武の東征を河内の生駒山で阻んだ人物である。長髄彦は饒速日(にぎはやひ)と邪馬台国連合政権を組んでおり、饒速日は長髄彦の妹を娶っていたので長髄彦の義弟であった。しかし何故か饒速日は長髄彦を殺して神武のヤマト王権成立を助けた。

    その裏には、卑弥呼、神武、饒速日は同じ祖先をもつ所謂天孫族(アマテラスの子孫)であったが、長髄彦は土着の縄文系の人物であるという血縁の戦いがあり、饒速日が神武を天孫系の正当な主権者と認めたが、長髄彦が従いそうにないので、これを殺して神武に投降したというのが東征記のあらすじである。

    従って後藤氏は邪馬台国が進化してヤマト政権に遷ったのではなく、邪馬台国は神武東征の結果滅亡してヤマト政権が出来たとする。その後の国造りに饒速日を始めとする物部氏のような同族の存在が役立ったはずであるという論旨を展開されて、伊勢遺跡の早期国指定史蹟の認定や、物証を重視した意味のある邪馬台国論争を訴えておられる。

    <近江説の今後は?>
    白鳳寺院が林立していた草津の常盤地区や、古代の豪族や古墳の多い守山、栗東、野洲地区を巡っていて、なぜこの一帯が物部郷だったのだろうという単純な疑問が、邪馬台国近江説にまで遡ってしまった。

    邪馬台国近江説が今後古代歴史学界や日本社会に受け入れられていくのか、大変興味のあるところであるが、「石見の柿本人麿ゆかりの地」で垣間見えたように、古代に関する新しい仮説が直ぐに受け入れられるのは難しいようである。しかし物証に基く仮説は真剣に議論されて、説得性があれば受け入れていくという合理的な世界であって欲しいと願う。

  • 石見の柿本人麿ゆかりの地

    <伊勢遺跡が国の指定史跡に!>
    2012年1月になって伊勢遺跡が国の史跡に指定されたというニュースを聞いた。この状況については後のウェブログ「湖南の野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!」で触れた。

  • 湖南の野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!

    <続編をアップ>
    邪馬台国をめぐる論争について続編をアップした。

  • 続・邪馬台国は近江にあった?

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