湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説
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草津市下物町から琵琶湖越しに比叡山を望む
<琵琶湖の湖南>
住んでいる土地のことを少しは知っておきたいという動機から、2006年6月に湖南の草津界隈を廻り、このウェブログ「湖南の草津界隈」で古社が多いことに触れた。この時、ぶらり近江のみちというウェブサイトの第17回の記事から、湖南の常盤(ときわ)と呼ばれる学区には、白鳳時代に栄華を極めた寺院跡が7箇所もあり、一辺が150m~200mに及ぶ大伽藍がこの狭い地域に7軒も美しい甍を競っていたことを知った。
現在この地区には、琵琶湖博物館や蓮の群生地があって人気スポットになっている烏丸半島のある下物(おろしも)、湖周街道沿いの下寺、志那(しな)、志那中、浜街道沿いの片岡、穴村、北大萱、芦浦、長束(なつか)、上寺の各町があって、草津市北部を構成しているが、以前は常盤村であったので、今でも常盤地区と呼ばれている。
草津市史には、芦浦町の観音寺廃寺跡、下物町の花摘寺廃寺跡、下寺町の観音堂廃寺跡、片岡町の片岡廃寺跡、志那中町の大般若寺跡、北大萱町の宝光寺跡、長束町の長束廃寺跡の7箇所が常盤地区の白鳳寺院跡として記載されており、さらに隣接する笠縫地区の、上の笠堂跡、下の笠堂跡、笠寺廃寺跡の3箇所の白鳳寺院跡も記載されている。
白鳳時代とは天武期を中心とする、大化改新後の650年頃から平城遷都の710年頃までの約60年間である。草津市史には、近江の白鳳寺院跡の数は当時の日本文化の中心地であった大和地方に匹敵し、とりわけ湖南のこれだけ狭い地域にこれほど多くの仏教寺院の建立をみた所は、大和の飛鳥地域を除いては他に存在しないのではないだろうか、との記述がある。
ただし飛鳥には、白鳳以前の飛鳥時代に建立された飛鳥寺のような寺院があるが、近江には飛鳥寺院跡は皆無で、白鳳時代に入って爆発的に建立されたようである。これは天智天皇が667年に大津に近江朝を開いたことと関係すると思われる。蒲生野の狩場や湖東地域への交通の要衝地として、志那(しな)や下物(おろしも)に港があった常盤地区が重要視されたのであろう。
2007年5月5日にも、聖徳太子発願と伝わる観音寺廃寺跡の芦浦観音寺を訪れた。その帰りにやはり聖徳太子が開基と伝わる下物の花摘寺跡にも立ち寄った。帰宅後、撮ってきた写真の中に下物(おろしも)という地名の由来や、聖徳太子堂の存在を記載した案内板があるのに気付き、再訪したいと思ったことは「再び湖南の芦浦観音寺」で触れた。
常盤小6年生の書いた案内板によれば、下物(おろしも)という地名は聖徳太子が物を下ろしたことに由来し、天満宮には聖徳太子堂があるという。この地と聖徳太子はどんな関わりがあるのだろうと思っていたので、それから3年経ったこの2010年5月の連休に、再び花摘寺跡のある下物天満宮や常盤地区の白鳳寺院跡を探訪した。
<下物の聖徳太子堂>
下物天満宮の入口にある清めの手洗い所(洗心水)の柱にくくり付けてある、常盤小6年生の手になる「聖徳太子」と書かれた案内板を今度はしっかり見たところ、3年前より一部の字が消えかかっているが、「下物天満宮には、聖徳太子堂があって屋根に聖徳太子と書かれています。瓦の先にも聖とかかれています。」と確かに記載されている。
灯台もと暗しで、聖徳太子堂は天満宮入口の鳥居の左側にある建物がそれであった。道路側からは単なる木の側壁しか見えなかったので、前回訪問時にはこの建物を物置か何かと勘違いし、お堂とは気付かなかったのであった。花摘寺跡の案内板がある一角と鳥居を挟んで向かい合って建っている。
聖徳太子の案内板と洗心水 下物の聖徳太子堂
瓦の先に聖とかかれている 屋根頭頂部に聖徳太子の文字
常盤小6年生の手書きの案内板にある通り、屋根の瓦の先には「聖」という字があり、頭頂部には「聖徳太子」の文字が4面を覆っている。聖徳太子を祀る太子堂はここ下物だけでなく日本各地にあると思うが、それらの瓦にはすべて聖や聖徳太子の文字が入っているのだろうか、あるいはここの太子堂に特有のものだろうか、という疑問が生まれたが知識がない。
この日は天満宮の境内に小学生と思しき僕達が5、6人たむろしていた。「常盤小の人?」と尋ねると、「そうです」との返事。「学校ではここの歴史を習うの?」と聞くと、「習うけど難しい。だけどとても古いんや。」と皆顔を見合わせてニヤニヤ。変なオッさんと思ったであろうが、1人は「そこの穴の開いた大きな石は、昔、塔に使われていたんや。」と、重要事項を教えてくれた。
境内の入口には古の花摘寺に由来するとされる礎石が10数個転がっているが、その向かいの洗心水の石碑の横にも、中央が丸くくり抜かれた大きな方形の石盤がある。草津市史には、塔の露盤であったと考えられている1.8m四方の石造遺物が地表に現れており、壮大な寺院があったことを偲ばせる、とあり、この露盤の写真も出ている。彼はそのことを常盤小学校で習ったのであろう。
僕達と別れて入口に戻ると、聖徳太子堂の側壁のところで年配の女性がお2人で日向ぼっこをされていたので、太子堂のことを伺ってみた。耳が遠いのでと断りながら、このお堂をお守りするのは10人の年寄りの仕事なのですよ、と仰る。毎月22日の命日には開帳して太子像にお参りしたり掃除をするので、その時いらっしゃいとも言われた。
さらに、ここの地区のものは45歳までは天満宮のお世話をし、45歳を過ぎると観音さんのお世話をします、とも仰った。つまり下物地区には、天満宮、観音堂、聖徳太子堂があって、それぞれの祭事やお世話を年齢によって分担されているらしい。そのうち天満宮と聖徳太子堂がここ花摘寺廃寺跡に建っているわけである。
下物観音堂はここではなく、琵琶湖博物館の傍にあると伺ったので、それではとお礼を述べてまずは琵琶湖博物館を目指した。ここ天満宮や人家のある集落から、琵琶湖博物館のある烏丸半島の間は見渡す限りの広大な田園地帯であるが、同じ下物町である。下物町の田園からは、冒頭写真のように琵琶湖越しに比叡山が望めるし、振り返ると三上山(近江富士)が望める。
<下物観音堂を探す>
観音堂のことは琵琶湖博物館で聞けばすぐにわかるだろうと簡単に考え、早速入館して受付で聞いてみた。ところが、確かに観音さんがあったのですが、博物館が建つときになくなったのでは、と仰る。でも土地の人は今でもお世話されていると聞いたのですが、と言うと、それではそのあたりに詳しい学芸員の方に聞いてみましょうと、受付の方が電話して下さった。
暫く待っていたら、学芸員の方が地図を持ってこられ、烏丸半島の入口から田園のほうに行くと観音堂があります、と教えて下さった。博物館のスタッフの親切に感謝し、せめてものお礼にと館内を見学、食事した後湖周道路に戻り、教えてもらった道を進むと、のどかな田園の中に下物観音堂と手書きした道標があった。
田園の中の観音堂(遠くに比叡山) 下物観音堂(左に烏丸半島の風車や塔)
広々とした田園の中に木立に囲まれた下物観音堂があった。案内板が立っているが字の色が薄くなって殆ど読めない。わずかに判読できた部分からは、この浦が夜な夜な光ったので、浦人が網で引き上げたところ石仏の観世音が現れ、横に聖徳太子御作とあったので、波打ち際に祀り信仰した、というような記載がある。後半は全く読めない。つまりこの観音仏も聖徳太子信仰に繋がるようである。
観音堂の反対側は琵琶湖の入江になっているが、湖周道路が通っているため、一見内湖のように見える。入江ではモーターボートに引っ張られた水上スキーのお兄さんが、何度もジャンプの練習をしていて初夏の日ののどかな光景であった。
<湖南の聖徳太子伝説をもつ寺院>
草津市史は、聖徳太子開基伝説をもつ白鳳寺院がこの一帯に多いことに注目している。すでに訪れた芦浦町の観音寺廃寺は聖徳太子が開基で、渡来人の秦河勝が建立したとの寺伝をもち、下物町の花摘寺も聖徳太子創建と伝えられ、上述のように跡地には聖徳太子堂があり、湖岸の下物観音も太子作と伝わっている。
下物町の天満宮近辺の町域に足を踏み入れてみると、人家が密集した狭い地域なのに寺院がいくつもある。古街道を思わせる道の両側に、浄土真宗本願寺派の花摘山最乗寺、勝嶌山圓徳寺、究竟山圓正寺と、3つの寺院が軒を並べている。花摘山という山号はこの一帯が花摘寺の寺域であったことから名づけられたのかも知れないと想像してみる。
勝嶌山 圓徳寺 下物町 花摘山 最乗寺
このうち圓徳寺については、前述の白鳳寺院のリストには出ていないが草津市史の記述の中に、聖徳太子の創立と伝えられ、昔は聖徳寺と呼ばれていた円徳寺が下物町にある、と出ているので、ここのことと思われ、聖徳太子伝説をもつ寺院らしい。表札は難しい字体の圓徳寺になっている。
さらに、草津市史の白鳳寺院リストには、聖徳太子開基伝説をもつ下寺町の観音堂廃寺跡が挙がっているので、湖岸の農道沿いに下物町の隣に位置する下寺町へ向かい、常教寺付近に所在するという下寺の観音堂を目指した。
<下寺の観音堂廃寺跡>
下物町から下寺町へ続く農道沿いの田園では、早くも田植えが始まっていた。田圃越しに遠くに見える人家集落の屋根の甍を見ていて、寺院らしき大屋根が見えるところでそちらへ向う。途中で会った男性に観音堂の場所を聞いたら、向いに見える木立を指してあそこだよ、車は入れんから、寺の横に停めると良いよ、と教えてくれた。
常教寺はすぐわかり、寺から少し歩いたところに観音堂があった。下物天満宮と同様の、常盤小6年生の手になる案内板が立っている。大きく観音堂と書かれ、「この観音堂は聖徳太子がたてたという説がある。昔、織田信長のいくさでやけのこったのがこの観音堂です。」と説明してあって、上手なスケッチも添えてある。
常小6年生が書いた案内板 聖徳太子伝説をもつ観音堂(下寺町)
草津市教育委員会の手になる「国指定重要文化財(常教寺)木造聖観音立像1体」という説明板も立っていて、「奈良時代の古寺跡下寺の観音堂にまつられていたもので、草津市最古の仏像と言える。」とある。つまりこの観音堂は、白鳳寺院であった観音堂廃寺跡に建っていて、当時の観音像を祀り、今は常教寺が管理しているものと思われた。
草津市史には、芦浦の地で仏法を説いた聖徳太子は、「下の寺」「下のもの」と勅宣して仏像を安置したと伝えられ、この時の仏像が下寺の観音堂の本尊聖観世音菩薩とされる、とある。「下の寺」は下寺町の観音堂廃寺をさし、「下のもの」は下物町の花摘寺廃寺をさすという。
<聖徳太子開基伝説の由来>
芦浦町、下物町、下寺町に所在する白鳳期に創建され栄えたとされる各廃寺は、このように聖徳太子開基説を伝えており、これら3つの町は常盤地区の中でも隣り合った町で、一つのまとまりを示している。
草津市史は芦浦の太子伝説を紹介している。それによると仏教の伝来当初、聖徳太子と物部守屋の間で崇仏・排仏をめぐる確執が起こり、草津矢倉の合戦で敗北した聖徳太子が芦浦に落ち延びた時、農夫に穴を掘って貰って隠れ、上に菜種を蒔くとたちどころに菜が生じ太子は無事であった。この勲功で農夫は菜生(なさま)姓を貰ったという。
このような奇蹟話は、後世になってから作られた伝説の類と思われるが、草津北部と守山市にまたがるこの地域は、古の栗太郡物部郷と呼ばれた地域であり、物部氏所領から太子に関係する法隆寺領になったための太子信仰ではないかと、草津市史は推論している。747(天平19)年の法隆寺資材帳から、この地は法隆寺の所領地であったことが分かるそうである。
そこで滋賀県立図書館に行って、1926(大正15)年に発刊された滋賀縣栗太郡志を紐解いて見ると、当時の栗太郡の地図があり、常盤村の東隣は物部村になっている。つまり今は物部村域は守山市に編入されているが、栗太郡の頃は常盤地区と同じ管轄地域であったことが分かる。上代は一帯が物部郷であったのだろう。
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滋賀縣栗太郡地図(大正15年なので地名は右から読み)
またこの栗太郡志には寺社公卿領の荘園の記載がある。荘園志には、「当郡の地は聖徳太子の建立されし大和法隆寺に物部郷を施入されしを最初とする。」とあり、法隆寺領物部郷の章では、737(天平10)年に聖武天皇が播磨国を法隆寺領に施入した時にこの地も加えたとある。栗太郡における荘園分布図が示してあり、物部庄に法隆寺領が記載されている。
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滋賀縣栗太郡の荘園分布図(栗太郡志から)
ただ、この地が法隆寺領だったとしても、聖徳太子は飛鳥時代の人なので、太子の時代に常盤の白鳳寺院が創建されたとはいえず、草津市史は、上宮王家(太子一族)が滅んだ後、法隆寺が再興された時代に、この地域が異常な活況を呈したのだろうと推定している。梅原猛先生の「隠された十字架」に書かれた法隆寺論に従えば、藤原氏が太子鎮魂のために、ここの法隆寺領にも白鳳寺院をいくつか建てて、太子伝説を作ったのかも知れないと、ふと思った。
ということで、この地区に聖徳太子伝説をもつ白鳳寺院が多いのは何故だろう、という我が素人的疑問は、上記のような草津市史の推論に従って、まあまあ収まることとなった。ただ、この地区には、聖徳太子伝説をもたない宝光寺跡、大般若寺跡、片岡廃寺跡、長束廃寺跡の白鳳寺院跡もあるので、これらの寺院跡も巡ってみた。
<宝光寺>
この中、宝光寺跡は天武天皇の勅願による定恵開基と伝わる白鳳寺院であるが、現在の地図にも宝光寺の名前が載っている。浜街道の北大萱の交差点に宝光寺を示す標識があったので、立ち寄ってみた。境内に入ると、お馴染みになった常盤小6年生の手書きの案内板が迎えてくれ、宝光寺と大書され、「宝光寺について、天武天皇が建てた寺、675年にたてられた」と書いてある。
本尊は、国指定重要文化財(宝光寺)木像薬師如来立像一体で、「当寺は白鳳4年(675)天武天皇の勅願により僧定恵が創建したと伝えられる極めて古い由緒ある寺である。」との草津市教育委員会の説明板も立っている。境内には天武天皇御剃髪塔があるが、案内板が見当たらなかったので由来は不明である。
定恵は「湖南の草津界隈」の三大神社のところで触れたように、藤原鎌足の長男である。天武天皇は藤原氏を干していたといわれるので、勅願を貰うというのは疑わしいとも思ったが、定恵は出家の身であり政治には無縁だったろうから、天武天皇に信頼されていたのかもしれない。
天武天皇の勅願で定恵が創建したとされるもう一つの白鳳寺院である大般若寺跡が近くの志那中町にあり、さらに片岡町に片岡廃寺跡もあると草津市史に出ているので、近辺を探訪してみたがこれという史蹟が不明だったので詮索は諦めた。
<長束町>
残る一つの白鳳寺院跡は長束(なつか)町の長束廃寺跡である。草津市史ではここも墓地になっているとのことで、詮索しても仕方がないのであるが、以前の「湖南の草津界隈」で訪れた印岐志呂神社のある志那街道を進めば長束町に至るので、土地勘もあり行ってみた。
長束廃寺跡があるという墓地の所在は良く分からなかったのであっさり詮索を諦めたが、長束町内を探訪しているうちに、この地出身で豊臣政権の5奉行の一人であった長束正家の菩提所である阿弥陀寺を見つけた。長束正家は経理能力に秀でた有能な官僚といわれ1595(文禄4)年から水口城主を務めたが、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦で石田三成側につき敗れて自刃した。
<白鳳時代の栄華跡>
白鳳時代に7つもの寺院が甍を並べて栄華を誇っていたといわれる常盤地区を巡っても、今は全くの田園地帯でありその面影を感じることは出来ない。この地帯は近江太郎と呼ばれる野洲川がもたらした沖積平野なので、古来洪水のたびに新しい土壌が堆積し、白鳳寺院の殆どは地下に眠っているのであろう。
古代には栗太郡であったこの地域は、葦占(あしうら)氏、物部氏、笠(りゅう)氏などの古代豪族が勢力をもっていたとされる歴史のある土地である。天皇家の屯倉もあったこの地には、飛鳥時代には聖徳太子も実際に来たかも知れない。その後、天智天皇が近江朝を開いたため交通の要衝地となったこの地に、藤原氏のような新興勢力や有力寺社勢力が社や寺院を競って建設し、栄華を誇ったのかも知れない、などと想像した。
長束町は常盤地区の東端に位置するので、ここから琵琶湖方面を望むと、広大な田園の中に印岐志呂神社のこんもりとした森が見え、その向こうに比叡山が望める。「湖南の草津界隈」で触れた志那神社、三大神社、印岐志呂神社などの古社に加え、今回の白鳳時代の寺院が林立していたとされる常盤地区であるが、まさに古の栄華の跡を見ている印象をうける。
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