安芸の宮島散歩
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厳島神社の大鳥居(広島県廿日市市宮島町)
<水面に浮かぶ鳥居>
広辞苑によれば、鳥居は「神社の参道入口に立てて神域を示す門」とあり、人間が住む俗界から神域に入る門をいうようである。確かに鳥居をくぐって神社の参道に入ると、何となく神聖な区域に入ったような感覚が生じ、改まった気持ちになる。
その威力は、立ちションされそうな所に鳥居のマークを描いたり貼ったりしておくと、罰が当たるという心理が働き有効な防止対策になることでも分かる。しかし近年は人間より飼い犬の立ちションの方が問題なので、あまり効き目がないのかも知れない。
鳥居はしばしば水の上に立っていることがある。このウェブログでも「湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る-」で琵琶湖の白髭神社の大鳥居に、「対馬の道-雨森芳洲と司馬遼太郎の足跡-」で対馬市豊玉町の和多都美(わたづみ)神社の海中鳥居に、「続・新幹線の車窓から」で浜名湖の弁天島の水中鳥居に触れた。
神社の参道といえば普通は鳥居から神殿に続く道をイメージするので、参道のない水中の鳥居を見ると何となく不思議な気がする。しかし海岸や湖畔に住んだ古代人にとっては交通手段はむしろ舟であったろうから、神社付近の水域に鳥居を立て、舟で鳥居をくぐって神社にお参りするのは当たり前の話だったのかもしれない。水面が参道というわけである。
このような水面に浮かぶ鳥居としては冒頭写真に掲げた宮島の厳島神社の大鳥居が最も有名であろう。琵琶湖の白髭神社は近江の厳島と呼ばれるので、全国的な知名度は厳島が上である。ただ歴史的には白髭神社の創建は1世紀の垂仁天皇時代と社伝にあるらしく、6世紀末の厳島の創建よりは古いようであり、滋賀県民としては些か誇れるものの定かではない。
2010年3月のお彼岸に広島に用事ができたので、駄洒落になるが、春なのに安芸の宮島を訪れた。
<宮島へ>
3月21日の朝は中国大陸からの黄砂の飛来がひどく、滋賀県大津市の我家を出発する時は晴れてはいるものの太陽がどんよりと曇って見えたので、瀬戸内海も黄砂の影響があるのではないかと心配していたが、宮島は快晴であった。
宮島は厳島(いつくしま)の通称である。1889(明治22)年の町村制発足で厳島町になった厳島全島は、1950(昭和25)年に宮島町に町名変更された。1996(平成8)年には厳島神社が原爆ドームとともにユネスコの世界遺産に登録された。廿日市市と合併したのは2005(平成17)年のことである。
厳島は古代から自然崇拝の対象として神聖視されたため、鉄の農具を土に対して使用する耕作や、女性の仕事とされた機織は禁止されて来たという。このため島の生活者のために鎌倉時代から対岸に市が立ち、廿日市として発展したらしい。そういう事情から平成の市町村合併時に、宮島は廿日市市との合併を受け入れたのかも知れないが知識がない。
また島全体が神域なので、血や死といった穢れの忌避の風習があり、死者は対岸に葬り島には現在も1基も墓がないし、出産時の風習も独特であるとウィキペディアには出ている。今もそうなのかは全く知識がないが、弥山(みせん)を抱く厳島は現在も瀬戸内海国立公園の一角として保護され、自然が豊富に残る貴重な場所であることは間違いない。
<宮島のお勧め場所>
宮島には47年前の1963(昭和38)年頃に一度来たことがあるが、雨で厳島神社が霞んで見えた記憶しかない。今回は行く前に宮島育ちの友人にお勧め処を聞いて見た。史蹟は厳島神社、大聖寺、大願寺、食べ物は焼き牡蠣、あなご飯という返事で、友人の幼馴染の店も教えて貰った。
大願寺は、幕末、勝 海舟が第2次長州戦争の終戦を長州の使者と談判した場所であり、海舟ファンとしては行って見たい処である。ではと、昼前に宮島着、焼き牡蠣で昼食、史蹟見物、あなご飯で夕食というプランを立て、宮島に宿泊しようと思ったが、3連休のど真ん中なので全島満員であり、翌日のことも考え広島へ戻ることにした。
従って宮島へ到着早々、他の観光客が海岸沿いに厳島神社へ向うのを尻目に、まず表参道商店街の友人の幼馴染の焼き牡蠣屋さんへ直行した。上の写真の大きな名入りの垂幕のお店である。有名な広島牡蠣の焼き牡蠣4個セットに何故か5個入っていて友人に感謝! 宮島の地図も頂いて同じく友人の幼馴染のあなご飯屋さんの位置まで教えて下さった。
牡蠣腹を抱えて有の浦海岸の遊歩道を厳島神社の方向へ歩いて行くと鹿が寄ってくる。宮島の鹿は野生で古来神鹿として大事にされて来たが、太平洋戦争後に厳島がGHQに撤収された時、GHQの兵士がハンティングの対象として撃ったため絶滅したという。現在見かける鹿はGHQ撤退後に奈良公園から移入されたものであるとウィキペディアに出ている。
<厳島神社>
有の浦を過ぎて御笠浜という入江に達すると大鳥居が間近になり、厳島神社の威容が見えてくる。厳島神社の創建は593(推古1)年頃とされるが、島全体が神の島として崇められていたので、陸地ではなく干満のある海岸に社が建てられたのであろうという。
御祭神は天照大神の娘である3人の女神、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)で、福岡県の宗像大社に祀られる玄界灘の海上交通の平安を守護する宗像(むなかた)3女神と同じである。厳島神社も瀬戸内海の海上交通の安全を願って海人族が宗像3女神を祀ったのが起源かも知れない。
入場券には海から見た厳島神社の姿がプリントされているので、その威容が良く分かる。現在の威容がほぼ整ったのは、平清盛が安芸の守に任ぜられて以降の1168(仁安3)年頃と、入場券の裏に説明されている。世界文化遺産と書かれた参拝入口から朱塗りの回廊に入り、海面に浮かぶ壮麗な平安絵巻といった感じのする厳島神社を見て回った。
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寝殿造が神社建築に持ち込まれた厳島神社(参拝入場券)
客(まろうど)神社と五重塔 枡形(ますがた)
高舞台と御本社 拝殿から大鳥居を望む
平 清盛という人は平安時代の人物としては、因習に囚われない国際感覚が傑出していた人であった。若き日の清盛は、以前のウェブログ「志賀の都探訪」で触れたように、当時恐れられていた叡山日吉神社の僧兵が担ぐ神輿に矢を射掛けて都人の度肝を抜いて平家興隆の基礎を築き、日宋貿易を推進して財力を蓄えた。このため交易船の航海安全のため瀬戸内海航路の要衝であった厳島を厚く信仰したと思われる。
平家滅亡後の鎌倉時代から戦国時代にかけて一時期荒廃したものの、1555(弘治1)年の厳島合戦で毛利元就が陶氏を破って勢力を拡大し、厳島神社を厚く崇敬して大鳥居や社殿の復興・保護に努めた。神社の中にある天神社、反橋(そりばし)、能舞台などは毛利氏が創設・復興したという。
毛利元就・隆元父子が再建した反橋 鹿と人間が歩く西松原からの厳島神社
通常、歴史のある古い神社にお参りすると、こんもりとした森に囲まれ、外界と途絶したひっそりとした空間に渋い色合いを味わうことが多いが、ここ厳島神社は、海上の解放感のある空間にある上、朱色を基調とした明るい色合いなので、神社の常識とは随分違った感じを受ける。清盛の造営した当時の姿を良く伝えているといわれるので、平安時代の人々はまさに極楽浄土と感じたことであろう。
<大願寺(だいがんじ)>
厳島神社の参拝を終え出口から広場へ出ると、山門がポツンと建っている。ちょうど後ろから来た団体見物客のガイドさんの説明が聞こえたが、これが大願寺の山門で、前方に見えるのが伊藤博文公お手植えの九本松ですが、数えても9本ないかもしれませんので数えないで下さい、との説明で笑わせていた。
大願寺山門には大願寺の表札と、厳島弁財天の提灯が掛かっている。水辺に祀られる弁天様(弁財天)は元はインドのインダス川の女神であることは、以前のウェブログ「上野の森の三重、京都、滋賀」で触れた。806(大同1)年に唐から帰国した弘法大師(空海)が宮島に立ち寄った時に弁財天を勧請し、厳島弁財天として厳島神社に祀られていたが、明治維新の神仏分離令で大願寺に移されたという。
大願寺は室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、普請奉行として厳島諸寺院の建造や復旧にあたった。職人団をも抱えた大寺院で、箱崎宮や宇佐八幡宮など他国の寺院の修理造営も行ったらしい。かつては大願寺を中心に境内の諸堂宇、五重塔、千畳閣、多宝塔を厳島伽藍と称していたという。
勝海舟と木戸孝允会見の間
大願寺で貰ったパンフレットには勝海舟・木戸孝允会見の間の写真が載っている。1866(慶応2)年、勝 海舟が、ここ大願寺で、長州側の使者であった広沢兵助(後の木戸孝允)、井上聞多(後の井上 馨)、伊藤博文たちと第2次長州征討停戦を談判した。談判は成就したが、徳川慶喜は停戦の勅命引き出しを行い、海舟がまとめた和議は台無しになってしまった。
勝 海舟は氷川清話の中で会合の場所は大慈院と言っているから、当時はここは大慈院と呼ばれていたのかも知れない。海舟は使命を果たした後、短刀を厳島神社に奉納しようとしたが、神官がどこの馬の骨かと思ったと見えて容易に納めてくれなかったので、金子10両を添えたらやっと納めてくれたと述懐している。
<大聖院(だいしょういん)>
地図を見ると、大願寺から少し山手へ入ると多宝塔があり眺めが良いとある。さらに自然散策道を行くと大聖院に至るので、そこへ向った。多宝塔付近は春分の日とあって桜がチラホラ咲きであった。宮島は桜の季節は大変美しいらしいが混むのであろう。多宝塔付近からは瀬戸内海が遠望できる。
大聖院は宮島では最古の歴史を持つ寺で、806(大同1)年に空海が来島し、弥山(みせん)で修行し開基したと伝えられるが、空海と宮島の結びつきは史実としては確認できないとウィキペディアに出ている。以前のウェブログ「尾道と林芙美子」で触れた尾道の千光寺も、同じ806年に空海が開基したと伝えられているので、唐から帰国した空海はこの時期山陽道に来たのかもしれない。
大聖院境内には、仁王門、御成門、勅願堂、観音堂、魔尼殿、大師堂などの多くの堂宇があるが、こちらに知識がないので、屋根の軒下の肘木に特徴がある魔尼殿が目についたり、我が通勤路にある滋賀の立木観音や尾道の千光寺でも見た弘法大師の旅姿の像に、またお会いしましたね、と挨拶するくらいである。
あちこち見て回ったので歩き疲れて休憩していると、観音堂の横にある小さな池にアオサギが飛んできて石の上にとまった。側に小さな祠があり、アオサギがまるで祠に向ってお参りしているかのような姿が可愛らしく、暫く見入ってしまった。
弥山本坊大聖院御成門 肘木の形が複雑で面白い魔尼殿
旅姿の弘法大師(修行大師) アオサギが祠にお参り?
大聖院の観音堂には、チベット密教砂マンダラという看板が立ててあり、ご自由にお入り下さい、とあった。何故真言密教の大聖院にチベット密教が?と疑問に思い覗いてみた。そういえば御成門のところにダライラマ法王開眼チベット弥勒菩薩と書いた幟が立っていたので、それと関係するらしかった。
観音堂の一角にチベットコーナーが設けられていて、2006(平成18)年11月1日から3日にかけてダライラマ14世が訪れて、ここで弥勒菩薩の開眼法要をされた記録が展示してあり、弥勒菩薩の下に美しい砂マンダラがあった。またダライラマ14世の写真とともに、チベットの学堂基金協賛募金もしていた。
帰宅してから、存じているチベット学の先生にお伺いしたところ、大聖院のご住職は熱心なチベット僧院のサポーターです、とのお返事を頂いた。1950(昭和25)年に中国共産党に武力侵攻され、1959(昭和34)年以降インドに亡命しているダライラマ14世を始めとするチベット難民を支援する、フリーチベット運動の推進者であるとのことで、納得がいった。
観音堂の中のチベットコーナー チベット密教で使用される砂マンダラ
<宮島の町>
ということで友人お勧めの半日観光コースを楽しく巡り、後はあなご飯を残すのみとなった。もちろん紅葉谷公園まで行き、ロープウェイで弥山の山頂へ行って瀬戸内海の眺望を楽しむコースもあるのだが、今回は宮島の町を見たかったので、あなご飯の前に町中散歩をすることにした。
大聖院から滝小路という通りをぶらぶら歩いて行くと、上卿(しょうけい)屋敷(林家住宅)がある。ちょうど対馬の武家屋敷と同様立派な石垣の屋敷である。案内板には、林家は古くから厳島神社の神官で、朝廷の使いの代参をつとめて上卿と呼ばれていたとある。元禄時代の建築という。この通りには神官の居宅や古い屋敷がある宮島で一番古い町と地図に記載してある。
さらに歩いて紅葉谷川に至ると、咲き始めた桜の下の河原に何頭もの鹿が寝そべって日向ぼっこをしている場所に遭遇した。鹿と共生している宮島の人々の優しさが感じられるような風景であった。
しかし宮島には随所に、鹿に餌をやらないでください、と記した看板が立っている。野生の鹿なので増え過ぎると観光客に被害を与える恐れがあり、廿日市市や地元住民は餌をやらない方針をとっているが、生息数調整に反対する動物愛護団体が入島して餌をやり続けていて、問題は混迷を深めているとウィキペディアには出ている。鹿と人間の共生にも悩みがあるらしい。
宮島散歩の仕上げはもちろん友人お勧めのあなご飯である。上の写真に示した厳島神社の出口付近のあなご飯屋さんに入り、宮島名物のあなご飯を頂いた。わりと小ぶりのあなごで、軟らかく、色も狐色をしていてマイルドな感じがし、なかなか良い味である。東京で食べる深川名物の大きくて濃い茶色のあなごとは随分違った感じがした。ここでも友人割引?があり、友人と宮島の人々の人情に感謝しながら帰途についた。
宮島のどこからも良く見える五重塔と、豊臣秀吉が安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて作らせたが、秀吉の死により未完成に終わった千畳閣にも立ち寄って、半日ではあるが色々楽しませてくれた宮島を後にした。
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