石州赤瓦屋根の町並み
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日本海を望む赤瓦屋根の集落(島根県江津市波子)
<石州赤瓦>
赤瓦屋根のことである。山陽新幹線で東広島付近を通過するときに、車窓から見える点在する殆どの民家の屋根が美しい赤瓦であることに驚いたことは以前のウェブログ「山陽新幹線の車窓から」で触れた。調べたところ東広島の赤瓦は西条の赤土に近隣の田万里で採れる釉薬を施した西条瓦であって、江戸時代に石州(石見地方:島根県西部)の瓦職人が移住して広めたものということであった。
山陽新幹線からは広島県や山口県でこのような赤瓦屋根の集落が見られるが、そのルーツは直ぐ北に接している島根県の石州瓦である。島根県西部の石見地方の良質な陶土を1300℃という高温で焼成し、出雲地方で採れる来待(きまち)石の釉薬を施して出来る独特の赤色を呈する石州瓦は、寒さや凍てに強い釉薬瓦として江戸時代初期に開発された。
石州瓦は北前船によって冬季寒冷な気候の日本海沿岸の津々浦々に広まり、江戸時代中期から明治にかけて温暖な太平洋側はいぶし瓦を用いた銀黒系の町並みで、寒さ厳しい日本海側は石州瓦を用いた赤系の町並みが形成されたという。石見銀山の大森や温泉津(ゆのつ)の町並みは世界遺産にも登録されている。
もちろん日本海側でも早くから瓦を用いることを許されたお城や武家屋敷のある城下町はいぶし瓦の町並みなので、一概には言えないらしいが。また内陸の冬季寒冷な地方に石州瓦職人が移住して、そこで石州瓦の品質を保持した赤瓦を作り、赤瓦の町並みが形成されたところもある。西条や備中吹屋の赤瓦の町並みはこの事例という。
というような知識を、石州瓦工業組合が公開している「屋根の学校」というホームページ等から仕入れていたので、一度石州瓦に覆われた本場の赤瓦屋根の町並みを見たいものと思っていた。
<石見行を決行>
そこで今年の正月休みを利用して12月30日から1月2日まで山陰石見地方を訪れることにした。山陰に行くというと、いいですねえ、どこの温泉ですか?とは聞かれるが、正直に目的を言うと、え、赤屋根ですか?と不審がられる動機である。口の悪い奴は、雪が積もると白屋根しか見えませんね、と意地悪を言うが、能天気な性格なので赤屋根が見えると信じ込んで決行を決める。
大津市の我家から石見地方へ行くには、時間節約のため新幹線で岡山まで行き、伯備線で米子から山陰本線に入ることにした。石見地方は、島根県の県庁所在地である松江市や神話の地、出雲市を通り過ぎた、島根県西部の大田市、江津市、浜田市、益田市、津和野町辺りをいう。
山陰本線は出雲市を過ぎると海岸沿いを走っていくので、初日に車窓から景色を眺めながら益田市まで行き、良さそうなところに翌日引き返して途中下車するという作戦を考えた。
<山陰本線から望む赤瓦屋根景観>
年末から寒くなり、伯備線で中国山脈の分水嶺を越える付近は雪景色であったので、やはり白屋根を見にいくことになるかと多少心配したが、米子から山陰本線に入り松江まで来ると小雨であったのでひとまず安心する。松江で新山口まで行く特急スーパーおきに乗り換え益田まで目指した。まずは車窓から赤瓦屋根を探訪することとする。
<松江、出雲の赤瓦屋根>
鳥取県の米子から島根県の松江付近は大山・隠岐国立公園になっている景勝地であるが、松江の手前の大橋川という美しい川沿いの対岸に赤瓦屋根の民家が散見され、雨に煙って墨絵のようであった。松江からは宍道湖沿いに出雲市へ向うが、その間に来待(きまち)という駅を通過する。石州瓦の釉薬に用いる来待石が採れる地であろう。
モニュメント・ミュージアム来待ストーンというウェブサイトには、宍道町来待地区には、1400万年前に形成された凝灰質砂岩、いわゆる「来待石」と呼ばれる良質の石材が産出され、国指定の伝統的工芸品、出雲石灯ろうの原材料として広く知られており、古墳時代の石棺、中世石塔、石仏、近世釉薬(石州瓦の上薬)、建材、灯ろう、石臼、かまど、棟石、墓石などに使用されるとある。
大橋川沿いの赤瓦屋根民家(松江) 宍道湖沿いの赤瓦屋根民家
来待駅付近の赤瓦屋根 出雲市は黒瓦が優勢?
宍道湖から出雲市までの山陰本線沿線にも石州赤瓦の民家が散見されるが、町全体が赤瓦屋根という景観を期待している我が目には少し物足りない。出雲市に入るとむしろ黒瓦屋根が優勢のような感を受ける。もっとも出雲市は相当古い町であろうから、早くから瓦屋根が発達し銀黒系の町を形成していたのかもしれない。
出雲市駅を出てから西出雲あたりで見事なシャチホコが聳える赤瓦屋根の民家が現れた。無断撮影をお詫びしながらシャッターを切る。手入れされた松や庭から家主の人柄が伝わってくるようである。また暫くすると赤瓦と黒瓦の両方を用いた屋根が現れた。老朽化か破損した赤瓦の一部を黒瓦で応急修理をしたのかも知れない。ここの家主はスタンダールを意識したのだろうか?
「屋根の学校」の石州瓦製品情報というページを見ると、かつては石州瓦の代名詞とも言える赤褐色の来待瓦だけだった石州瓦も、今は時代が求める瓦を造って提供しているとのことで、黒の釉薬を用いた瓦の種類が圧倒的に多い。昔は赤の和瓦が全てだった石州瓦も様変わりして黒系の需要が増え、赤瓦の景観が減少しているのかも知れない。
<石見の赤瓦屋根集落>
というようなことを考えているうちに、スーパーおきは出雲市域を抜けて大田(おおだ)市域に入る。石見地方の始まりである。出雲市から大田市の間の田儀や波根のあたりは、山陰本線は海岸線を走るので車窓からは日本海の絶景が続き、その絶景の中に時折赤瓦屋根の集落が姿を見せるので、いよいよ石見へ来たのだという実感が湧く。
大田市を出ると石見銀山の銀の積出港で温泉もある温泉津(ゆのつ)を経て、黒松から江津(ごうつ)市に入る。この辺りも温泉津湾の入江や日本海に面した赤瓦屋根の集落が車窓から見える。「屋根の学校」によると江津市は北前船の寄港地として江戸時代に栄えた町で、今でも江津本町には豪商の土蔵など歴史的建造物が残っているらしい。
江津を過ぎると、石州瓦の生産地であった都野津(つのづ)、次いで石州瓦を全国に広めた問屋や仲買人を輩出した波子(はし)である。この一帯がいわば石州瓦の発祥の地である。波子(はし)の手前では車窓からきれいな赤屋根の集落が見え、スーパーおきの停車駅であったので、明日は引き返してここで降りて町並みを見ようと決める。
この間、赤瓦屋根を見ると車窓からデジカメでパチパチやるわけであるが、何せ動いている特急列車からであるからなかなかタイミングが合わず、気に入った構図や期待した美しい集落の写真にならない。それでも江津市波子までの間で撮った赤瓦屋根の写真を列挙する。
山陰本線車窓からの日本海と赤瓦屋根の民家(出雲市-大田市間)
日本海に浮かぶ赤瓦屋根民家の集落(大田市波根付近)
大田市温泉津湾付近 江津市に入った黒松あたり
波子駅手前の赤瓦屋根集落(江津市) 暮れ行く日本海(浜田市-益田市間)
波子を出て暫く走ると昔、石見国の国府があった城下町の浜田に至り、さらに益田市に向けてスーパーおきは走って行くが、この頃から夕暮れが迫り写真撮影はお開きとする。しかし松江は雨であったが江津あたりから雨はやみ、浜田市を過ぎてからは雲の切れ間から日本海に薄日がさすようになり、夕暮れの美しい日本海を見ることが出来た。
写真撮影をお開きにしたら、隣に座っていた男性から「色々撮っておられましたね」と声をかけられた。こちらが物珍しそうにパチパチやっていたので他所者と思われたのだろう。「島根県は初めてなので」と答え、益田までの30分間ほど四方山話になった。名刺を頂いたら、何と島根県庁広報課の企画員の方であった。当方が島根県の何に関心があるのかと思われたはずである。
「実は、」と山陽新幹線以来のいきさつをお話し、石州瓦の本場の赤瓦屋根を見にきました、と申し上げたら、さすが県庁の方である。お礼を言われて「シマネスク」という広報課発行の島根PR情報誌を下さった。普段は松江の県庁にお勤めで、正月休みで実家のある益田市に帰省されるところであった。益田でご一緒に下車し、我が泊まるホテルもあれですよと教えて頂いた。
<波子(はし)の町並み>
大晦日の益田の朝は大荒れであった。夜中から風の音が凄いなと感じていたが、遅い夜明けとともに外を見ると吹雪である。昼頃の列車で波子に向うつもりであったが、駅では出雲市と大田市の間は降雪で運転ストップとのアナウンスもあるので、午前中の特急で波子に向った。この朝の短い時間の益田市内探訪記はこの後のウェブログ「石見の柿本人麿ゆかりの地」で触れた。
10時半くらいの特急に乗ったところが浜田駅のポイントが故障で手前の駅で停まってしまった。結局運転再開まで1時間半待ったが、乗客は極めて冷静でおとなしく待っていることに感心した。直ぐに切れて車掌を詰問する都会とはえらい違いである。冬季の山陰本線は何が起こってもおかしくないのだろうが、人情も豊かなのだろう。
風はやんだが雪がちらつく中、波子に着いたので、次の列車が来るかどうか少し心配ではあったが、ままよと下車した。下車して驚いた。特急停車駅なのに無人駅なのである。もちろん売店や荷物預かりもない。駅舎の外へ出た途端また驚いた。波子駅は少し小高い位置にあるので眼下に冒頭写真に示した石州赤瓦の町並みが広がっている。目の前の民家も見事な赤瓦のお家である。町並みの向こうに日本海が広がっている。頭に描いていた町並みのイメージであった。
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JR波子駅前の美しい赤瓦の民家(江津市波子)
JR波子駅も石州赤瓦の屋根 黒瓦の屋根も散見される町並み
眼下に見えたAquas(しまね海洋館)まで行って昼食の後、また波子駅に戻ってきたが次の列車がいつ来るか分からない。地元の人らしい年配の女性が待っていたのでいずれ来るだろうと会釈して待つことにしたら、話が始まった。波子の赤瓦の町並みを見に来ましたというと、日本海に夕日が沈む時は本当に綺麗ですよ、と仰っていた。車だともっと高所から見られるらしいがタクシーがいる駅ではないので諦める。
江津へ行くというこの女性はここ波子の赤瓦屋根のお家に住んでおられる。やはり景観を大事にするという意識が住民に強いとのこと。殆どが縁続きなので同じ名前が多いとか。江津から来た私は今でも他所者なんですよ、と笑っておられた。ここの海岸はウインドサーフィンができるので広島から若い人が良く来るらしいが、赤瓦の町並みに魅かれて来るのではなさそうである。
この夜は温泉津(ゆのつ)泊まりを予定しているので、遅れてきた列車で江津までご一緒した。途中の都野津(つのづ)駅の傍にアメックスという看板が見えたが、最近この会社がここの石州瓦の製造工場を買収したと仰っていた。線路の向こうの建物にアメックス協販研修センター、新石州、軽量防火瓦とあったので、石州瓦の新製品を開発しているのだろう。
<温泉津(ゆのつ)で新年を迎える>
JRのダイヤも乱れており時折雪もちらつくので、そのままこの列車で温泉津まで行き、早めに旅館吉田屋に到着した。大正時代からの建物で築81年、伝統的建造物指定を受けている。3年前に70代の経営者が後継者を求めていたのに応じて、20代の若女将をリーダーに農家出身の若い学士ばかりで週末営業という形態で起業し、立派に営業しているという。
近くに1300年前に怪我をした狸がつかっていたことがきっかけで開湯したという伝説のある元湯「泉薬湯」があり、山陰で温泉に行ってきたという言い訳をするためつかって来た。桶と腰掛しかない伝統的な鄙びた湯治場である。温泉津温泉街は国重要伝統的建造物群保存地に指定されており、800mほどの狭い街筋に石州赤瓦の景観が続く。
温泉津一帯は世界遺産の石見銀山遺跡の一角をなしている。温泉津港から温泉街へ入る入口に、右へ行くと温泉街、左へ行くと沖泊という案内板が石州赤瓦屋根の民家の壁につけてあるが、いずれも世界遺産と冠してある。地元の人にとっては誇り高いことであろう。
かくして2010年の元旦は島根県大田市温泉津で迎えることとなった。昨年の元旦は対馬で海の女神、豊玉姫を祀る和多都美神社と海神神社にお参りして孫娘のご利益を願ったが、今年の元旦は、ここ温泉津にも豊玉姫を祀る龍御前(たつのごぜん)神社があったので、早速お参りして孫娘の成長を願った。
温泉津港は、戦国時代は毛利水軍の拠点であり、江戸時代は北前船の寄港地で石見銀山の銀の積出港として賑わったので、対馬と同じように古くから海上安全や漁業の神様が祀られているのであろう。龍御前神社の背後の山には旧本殿があるので、参道を登ってそこにもお参りしたところ、温泉津温泉街と温泉津港が一望でき、石州赤瓦屋根の景観も見られた。
この日は石見銀山の大森の町に行くつもりなので、温泉街から温泉津駅まで歩いていたら、駅近くに妙好人、浅原才市(さいち)の家と看板が出た赤瓦屋根の旧屋があった。妙好人とは浄土真宗の篤信者をいい、司馬遼太郎によれば仏教的な悟りに似た境地にある一般人を指すという。つまりその言動が周囲に仏教的な影響力を与える市井の人というようなことらしい。
浅原才市はここ温泉津で生まれ船大工として修行した後、明治37年からここで下駄職人を始め、仕事の合い間に心に浮かぶ信心の境地をかんな屑に書き綴り、ノートに清書したとある。通りに面したガラス戸から中を覗けるようになっているので中を見ると、造りかけの下駄や焼物の皿が飾ってあった。
才市の名前を知ったのは、泊まった旅館吉田屋の部屋に掛っていた水上勉の色紙からで、水上勉がこの部屋に泊まったのかな、とその色紙の歌とともに印象に残っていたからである。水上勉は1989年に「才市」という著書を講談社から出版している。
「はるばると石見ゆのつへ来てみたが才市の舊屋に雨がふる」 1984年6月17日 水上勉
<白屋根の大森の町>
石州赤瓦探訪の旅の最後は世界遺産の大森の町である。温泉津が銀の積出港であるから銀山街道を逆に行けば大森に通じるのであるが、そのようなルートを通るバスはないのでJRで温泉津から仁万(にま)まで行き、そこからバスで大森へ行くことにした。
仁万で世界遺産センター行の石見交通バスに乗って大森代官所跡まで行く。運転手さんに大森の赤瓦の町並みを見に行くというと、赤瓦屋根がそんなに珍しいのかと聞かれる。「屋根の学校」から仕入れた石州瓦の知識を少し披露すると逆に感心され、自分も最近地元に家を建てたが屋根はやっぱり黒が良いということになり黒瓦にしたよ、と仰った。今は石州瓦といえども赤か黒を選ぶ時代らしい。
乗客は私一人だったので瓦談義は続き、阪神大震災後の復旧で瓦の修理が急増した時、黒(赤)を求めるお客さんには赤(黒)しか在庫がないと言い、後でもう一度同色に葺き替えることで儲けた瓦屋もいたそうだよ、と仰る。出雲市で見たスタンダールの屋根瓦のお宅はひょっとしたらそういうことなのかな、と、ふと思い出すうちに雪が降る中、大森代官所跡に到着した。
ウィキペディアによれば、石見銀山の発見は鎌倉時代末期(1309)頃とされ、本格的には1526年頃に領主大内氏の支援を得て博多商人が開発したという。その後大内氏と小笠原氏、さらには尼子氏の間で争奪争いがあり、その後毛利氏と尼子氏の争いとなって、1562(永禄5)年に最終的に毛利氏が手中におさめた。1584(天正12)年には毛利氏が豊臣秀吉に服属し秀吉の勢力下になった。
関ヶ原で勝利した徳川家康は1600(慶長5)年にこの地域を幕府直轄の天領とし、ここ大森の町に奉行所を置いて、大久保長安を初代銀山奉行として銀山開発を進めた。銀の産出量が減少し出した江戸中期、1675(延宝3)年からは大森代官所となり、江戸末期には深く掘らないと産出できなくなり採算がとれなくなっていったらしい。
石見銀山一帯の歴史的な建造物や町並みは2007年6月に世界文化遺産に登録された。しかし5月の時点では登録延期が適当とのUNESCO勧告だったらしい。そこで石見銀山は山を崩したり森林の伐採無しに採掘するという環境に配慮した生産方式であることを強調して反論したところ、21世紀が必要としている環境への配慮が既に行われていた点が委員の反響を呼び、登録が決定したという。
大森の町は、大森銀山伝統的重要建造物群保存地区として世界遺産の登録対象になっている。大森の町並みの美しい赤瓦屋根の景観も大いに貢献したに違いない。前述したように温泉津伝統的重要建造物保存地区も登録の対象である。しかしこの日は大森の町には無情にも雪が降り注ぎ、白屋根になるぞとの嫌味が実現してしまった。
浄土真宗西性寺 赤瓦屋根の寺院も白屋根に(2010年1月1日) 曹洞宗榮泉寺
大森の町は江戸時代の初め、銀の産出が豊富な時期には人口20万人にもなったという。しかし1800(寛政12)年の大火で町はほとんど焼失し、現在の町並みはその後建替えられたものというが、それでも200年余り経過している。1800年頃には石州赤瓦は既に産地形成しており、民家への瓦の使用も防火の観点から推奨された時期なので、その頃から石州瓦が用いられたのであろう。
上の写真の道標の傍から、約1kmに渡って落ち着いた古い民家の町並みが続き、雪で白屋根になりかけてはいるが典型的な赤瓦景観の町である。町並み沿いの西性寺と榮泉寺の2つの寺院の大屋根も石州赤瓦で覆われている。晴れていれば見事な赤瓦の大屋根が見られるのであろう。しかし雪で少し白くなった屋根も風情があって良いではないかと自らを慰める。
町並みの途中に雰囲気の良い和菓子屋さんがあった。かなり歴史がありそうな店なので中へ入って見る。有馬光栄堂というその老舗の年配の女性に、この店の名産のお土産を推薦してもらったら、「銀山あめ」と「げたのは」を教えてくれたので両方買う。女性はこの店は築100年を越えていますと仰っていた。
銀山あめの袋には、「武士と銀山の人夫達はこの飴を食しながら作業をしていました。造りかたは昔のままの製法です。ご賞味下さい。」と書いてあるので、暗い坑道で飴をなめながら銀を掘る鉱夫の姿が何となく浮かんでくるような気がして、1ヶ月経った今もまだ未開封のままである。
世界遺産登録の大森の町並み 銀山飴を買った有馬光栄堂
郷宿(公用人の宿)だった金森家 榮泉寺から望む大森の町
この町並みのところどころに外壁を漆喰で塗りこめた立派な民家建築がある。古くから石見銀山の経営に携わったり、町役人を勤めたり、公用の役人の指定宿(郷宿)を勤めたりした役人や豪商の遺宅である。重要文化財の熊谷家住宅、県指定史跡の金森家などの案内板が表に立っている。金森家は寛政の大火での消失を免れたので町並みの中で最も古い建物と解説してある。
有馬光栄堂も熊谷家も金森家も、見事な石州赤瓦を屋根や庇に使ってある。またいつの日か晴れた日に赤瓦の景観を見たいものと思って、大森の町を後にした。
<景観維持と環境保護>
かくして島根県石見地方の赤瓦の町並み探訪の旅は終わった。京都の町家、滋賀の近江商人屋敷、飛騨高山の茅葺民家集落などの歴史ある日本の民家の町並みを見ると、心が洗われるような感じを受けるが、東広島やここ本場の島根石見地方の赤瓦屋根の民家の町並みも同じであった。室町時代の書院造りを原点とする日本の民家の良さが分かる感覚が我々のDNAに組み込まれているのであろうか。
しかし今回の探訪では、昔は赤一色だったといわれる石州瓦の町並みにも黒瓦が混じってきているように思えた。また都市部では新しい屋根材も増加しているので、石州瓦の生産量は10年前の2億枚から1億枚に減少しているらしい。我々他所者は、景観や歴史を感じるという意味で赤瓦一色の町並みの方が良いように思うが、やはり時代の流れなのかも知れない。地元でも赤瓦景観保護が模索されているようである。
「屋根の学校」からは、島根県では補助金制度があって石州瓦の利用促進を図っていることがわかる。しかし県全体のレベルでは赤瓦に限ってはいないようである。江津市と益田市はむしろ積極的に赤瓦の町並み景観を保全するため、石州の赤瓦を用いることを条件に独自の補助金制度を作っている。島根県の支援制度と併用も出来るとある。
ヨーロッパでは、特にドイツのローテンブルグに代表されるように中世の町並み景観を今でも頑固に守り続けている都市がある。石造が多く木造のように火事が頻発しないこともあろうが、行政が強制的に景観保護を推進し、窓に飾る花も各戸に支給する制度になっているので、そこまでやらないと都市規模の景観保護は難しいということであろう。もっとも住民の景観に対する意識がそれを決めているのであろうが。
石見銀山の世界遺産登録にあたって、環境保護を時代に先駆けて実施していたことが決め手になったということも、この問題と無縁ではないように感じる。江戸時代はお上のいうことには逆らえず封建的であったには違いなく、許可なく木を切れば死刑という話も聞いているが、逆にそれくらい森林の重要性を認識し守っていたということである。
出典は忘れてしまったが、日本海沿岸の松の防風林は、江戸時代の役人が苦心惨憺して砂地に松を根付かせることを模索し、苦労の末出来たということを何かで読んだことがある。昭和の建設省はそんなことはお構いなく防風林を破壊して北陸自動車道を作ってしまった。我々はその恩恵を蒙っているが、防風という点からはどうなったのであろうか。
景観の維持や環境保護について考えさせられる正月であった。
<石州赤瓦の波及>
「屋根の学校」によると、石州赤瓦やその技術は北前船により日本海沿岸に波及していったとある。それを実感したのが、この1年後に訪れた現在の石川県南部の加賀地方であった。訪問記をこの後のウェブログ「加賀の赤瓦屋根」、および「続・加賀の赤瓦屋根-橋立、東谷-」にアップロードした。
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