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2009.12.12

安曇川と鯖街道

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     薄、紅葉、杉が織りなす3色の美(滋賀県安曇川沿いの鯖街道で)

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、琵琶湖の西岸を走る「湖西のみち」から始まる。志賀・高島の湖岸を辿る湖西の道については、このウェブログでも触れた。

  • 湖西の道-志賀・高島の湖岸を辿る-

    <鯖街道(若狭街道)>Map_2
    司馬遼太郎の「湖西のみち」は、安曇川(あどがわ)に沿って西へ向い、朽木(くつき)渓谷を経て若狭街道に入り、南下して朽木岩瀬興聖寺(こうしょうじ)に至っている。朽木の章では織田信長の敦賀からの撤退のことや、流寓の足利将軍のことが述べられている。

    安曇川沿いに走る若狭街道は、若狭の小浜と京都を結ぶ古来からの物流路で、通称「鯖(さば)街道」として知られ、現在は国道367号線となっている。この鯖街道と、琵琶湖の西岸を走る湖西の道はほぼ並行して走っており、その間を比良山地が隔てている。

    安曇川(あどがわ)は、京都市東北部の百井峠に源を発して滋賀県に入り、大津市の花折峠、葛川を通って北流し、高島市の朽木から東流して、安曇川町で琵琶湖に注いでいる。安曇川町は近江聖人と呼ばれた中江藤樹の古里であり、以前のウェブログで触れた。

  • 中江藤樹と雨森芳洲

    今回は、司馬遼太郎が湖西のみちで辿った安曇川町から朽木興聖寺までの街道と、さらに朽木から京都大原までの鯖街道を辿ってみた。冒頭の写真は、安曇川沿いに南下する鯖街道(国道367号線)から2008年11月2日に撮影したものである。

    <中江藤樹はひねくれ者の子孫?>
    上記のウェブログで触れたように、滋賀県高島市安曇川町は中江藤樹の生誕地なので、道の駅も「藤樹の里あどがわ」という名である。2008年11月2日に訪れた時はちょうど中江藤樹生誕400年祭の最中で、道の駅の向いに記念タワーが立っていた。道の駅の広場には、伊予大洲藩を脱藩してまで母に孝養を尽くした中江藤樹を偲んで藤樹先生孝養像が建っている。

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           中江藤樹生誕400年祭             藤樹先生孝養像

    安曇(あど)という地名については司馬遼太郎が説明している。安曇はふつうアズミと読み、古代の倭(わ)の奴(な)の国の種族が安曇族であり、海人族であった。熱海、渥美もアズミであり、海人族は通常は海辺に住みつくのに、この琵琶湖の西岸にやってきた安曇族は、ひょっとすると方々の海岸の同族と喧嘩して、しぶしぶ内陸の湖岸に住みついたひねくれ者ぞろいだったかも知れない、との司馬氏の説である。

    「きっとそうに違いありませんよ」と司馬氏が言うと、同行の編集者のH氏が振り返って司馬氏の顔を不安そうに見つめたのに閉口したとあり、気が確かかと心配してくれたのだろう、というくだりがある。司馬説が本当なら、近江聖人と慕われる中江藤樹もひねくれ者の安曇族の子孫であることになる。

    <朽木渓谷>
    安曇川町から朽木までは10kmと道標にあり、安曇川町の美しい田園の中を進んでいくと、途中から安曇川が右に左に顔をみせてくれる。河口に近い安曇川町では穏やかだった安曇川の光景が、朽木に入ると次第に渓谷らしくなってくる。このあたりは朽木渓谷と呼ばれている。

    Kutsukikeikoku2
        朽木に入った辺りの安曇川           渓谷らしくなった安曇川

    司馬遼太郎は朽木渓谷の章で、織田信長の魅力の最大なものの一つは、1570(元亀1)年にこの街道を猛烈な勢いで退却したことにあるのではないか、と述べている。信長の面白さは桶狭間の奇襲や長篠の戦の火力戦創案に象徴されても良いが、それだけでは信長の凄味がわかりにくい。この天才の凄味はむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるであろう、と仰る。

    朝倉攻めで敦賀まで進軍したが、浅井長政の寝返りで窮地に陥った織田信長は、当時麾下にいた松永久秀の進言を容れて、朽木越えの間道で京都に入る道を選び、まるで蒸発したかのように退却した。松永久秀はかつて足利将軍義輝を殺した戦国きっての悪党といわれた人物であるが、その久秀がこの時信長を助け、後に信長に滅ぼされるという皮肉な結果になった。この強運を司馬氏は凄味と見たのかも知れない。

    当時の朽木谷の領主、朽木元綱は信長を朽木館に迎え、その後織田家に直属し、さらに紆余曲折はあったものの豊臣、徳川の時代を生き抜き、今もその子孫が朽木に住んでおられるという。朽木館は江戸時代に朽木陣屋となり、その遺跡が朽木野尻というところにある。ここも明治維新後に建物が取り除かれたと説明板にある。

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        江戸時代末期の朽木陣屋古図(高島市朽木野尻)

    <くつき新本陣>
    野尻を過ぎると国道367号線に至るので、ここからは鯖街道となり南下する。暫く行くと広い駐車場のある道の駅「くつき新本陣」が現れる。ここは市場(いちば)という地名で、15世紀の室町時代には早くも朽木地域の物資の集散地としての市庭(いちば)が成立し、商人が活躍した場所であるらしい。

    広場の一角に、鯖街道・「市場町」案内図という看板があり、京都の葵祭や祇園祭に欠かせない鯖鮨(さばずし)の材料がもたらされる道として、都人から「鯖の道」と呼ばれ、朽木城が朽木陣屋に改築された江戸時代には、この市場の町並も徳川式町割に整備され、複雑に屈曲した街路や用水路に昔日の面影を偲ぶことができるとある。

    訪れた2008年11月2日には、この道の駅の広場に舞台ができていて、第16回朽木鯖街道「鯖・美・庵!」祭り 主催:朽木・群・ひとネットワークという看板の下で、ハッピ姿のお兄さんが餅を投げていた。毎年、朽木や若狭の特産品を特売して、地域の活性化を図っているらしい。餅が一袋飛んできたので有り難く頂いた。またここの日曜朝市も賑わっているらしい。

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        第16回「鯖・美・庵!」祭り           朽木新本陣の日曜朝市       

    司馬遼太郎はこの市場のところで、「朽木の杣(そま)」に触れている。杣というのは雑木山ではなく、植林された山とそこから伐採された木のことで、杣木を伐採する木こりを杣人(そまびと)という。市場の周囲は四方が急な山になっていて、その四方の山坂がこの市場の村に集まっているので、杣人がみなここへ降りてきた。「だから町を成したのでしょうな」と同行した須田剋太画伯が納得されたらしい。

    <興聖寺と旧秀隣寺足利庭園>
    市場からさらに南下した岩瀬というところに、関西花の寺「第14番」老椿と冠される曹洞宗・興聖寺(こうしょうじ)がある。司馬遼太郎の「湖西のみち」の終点である。かつての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞禅の巨刹として栄えたらしいが、今は本堂と庫裏、それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない、と述べてあるが、その時からさらに30年経った現在も全くその通りである。

    この地域は冬季は豪雪地帯であるから、本堂は手入れされて美しく保たれているものの、鐘楼などは色は褪せ、木材もボロボロで、いかにも風雪に耐えて来たという風情である。京都の寺院と違って観光客も多くないだろうから改修もままならないのかも知れないが、観光ずれしてないのが却って良い。

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         優美な姿の興聖寺本堂        老朽化しているが風情のある鐘楼

    興聖寺は最初、朽木の指月谷に建てられた。1237(嘉禎3)年、当時の朽木の領主、佐々木信綱が承久の変で戦死した一族の供養を、宋から京都へ帰洛した曹洞宗開祖の道元に依頼した。道元は越前下向のおり朽木に立ち寄り、山谷の光景が伏見深草の興聖寺に似ていると喜び、同じ山号を与えて建立を奨めたという。

    1240(仁治1)年には七堂伽藍が完成し、1243(寛元1)年には永平寺の直末寺となって、近江八十八ヶ寺の総禄所の任を果たしたというから、司馬遼太郎の、かつては近江における曹洞禅の巨刹として栄えたという記述は、このことを指していると思われる。

    一方、1528(享禄1)年に足利12代将軍義晴が三好松永の乱を避け、朽木稙綱(たねつな)を頼って朽木に滞在した頃、朽木稙綱はここ岩瀬の地に館を建て、当時の管領細川高国が京都銀閣寺の庭園を模して作庭献上し、義晴を慰めたという。息子の13代将軍義輝もここに6年余り滞在したが、後に松永久秀に殺されたことは先に触れた。

    その後1606(慶長11)年に朽木宣綱が亡き妻のためにこの館を寺として秀隣寺と号したが、秀隣寺は1729(享保14)年に野尻へ移転し、ここ岩瀬の跡地に興聖寺が移されたという。従ってこの庭園は、現在は旧秀隣寺足利庭園と呼ばれ、1935(昭和10)年に国の名勝に指定されている。江戸初期に訪れた小堀遠州が桂離宮作庭の参考にしたと伝えられる。

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       470年の歴史を刻む足利庭園の跡       足利庭園から本堂を望む

    司馬遼太郎は初めて興聖寺を訪れた時、境内に続く一角に一群の岩石が散らばっているのを見て、ここは足利義晴の流寓地だったのではないかと衝撃を感じたそうである。村の人がくぼう様のお庭ですと教えてくれ、子供の遊び場になっているのが、室町末期の将軍の荒涼たる生涯を偲ぶのにこれほどふさわしい光景はないだろうと思ったと、述懐している。

    京都の高名な造庭家の重森三玲氏も、このお庭ばかりは飽きが来ないと言って毎年一度は見に来たとか、石組みの石は地元の石を使っているとの住職のご母堂の話を紹介し、当時の室町貴族が庭石を諸国から曳いてきたのに比べ、流寓の将軍としては精一杯であったのだろう、しかし、はかないことに庭の名は伝わっていない、と結ばれている。

    つまり30年前に司馬遼太郎が来た時も、庭は健在であり、時間による風化のまま素直に荒れていて、観光という人工が加わっておらず、そのことに須田画伯が感動したと述べてあるので、「旧秀隣寺足利庭園」という立派な名前の看板などは、どこにもなかったのかも知れない。しかし、そのような雰囲気は平成の今も保たれている。

    興聖寺には昨年の11月2日と、今年の11月29日の二度訪れた。今年は本堂にも入れたので、本尊の釈迦如来坐像の前でご住職のお話も聞けた。平安時代後期の仏像で国・重要文化財に指定されている。本堂の奥に道元の像もあると伺ったので早速拝見した。想像していたより柔和な顔であるが、当方に知識がないので有り難く拝顔して本堂を辞した。

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       興聖寺本尊の釈迦如来坐像          曹洞宗の開祖、道元禅師

    興聖寺の裏側は墓地になっており、相当古い墓標もあるので朽木一族のお墓もあるのかと思ったら、垣根越しに昭和49年3月朽木広綱建立という比較的新しい墓標が目についた。司馬遼太郎が、朽木氏は今も子孫が朽木に住んでおられると記しているその朽木氏のお墓であるらしい。

    興聖寺から坂道を下っていくと視界が開け、いかにも朽木の里といった穏やかな山里の光景が現れる。田園を貫くまっすぐな街道が鯖街道(国道367号線)で、京都へ向っている。

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        今に続く朽木氏            京都へ向う鯖街道(朽木岩瀬の里)

    <鯖街道を京都へ向かう>
    2009年11月29日の朽木からの帰りは、興聖寺を出て鯖街道を京都へ向かった。鯖街道を京都方面へ向うときは、北から南へ向かうので南下なのであるが、並行して流れる安曇川は実は南から北へ流れている。車は川とともに南下しているように感じるので、途中で河原へ降りて水の流れを見ると、あれ、川が逆に流れているという錯覚を起こしてしまう。

    朽木から京都大原までは30数kmの距離である。興聖寺を出ると直ぐ桑野橋で安曇川を渡り、あとは安曇川の東岸沿いに南下して行く。暫くはまだ高島市朽木区域であるが、村井、栃生を過ぎると大津市の葛川区域に入る。高島市の間は人家も少なく、車を停めて安曇川の清流を間近に眺めて楽しむのも良い。

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      桑野橋から下流(朽木方面)を望む    安曇川は北へ流れる(左から右へ)
    Adogawa2
     村井付近から上流(京都方面)を望む      葛川町居町付近の安曇川

    大津市葛川区域に入ると町居、坊村、葛川といった昔からの集落を通り抜けていくが、このあたりは民家の三角屋根に目を奪われる。急傾斜で軒の深い屋根の民家が道沿いに点在しているのである。この地域は冬季は豪雪地帯なので、おそらく飛騨の民家と同様、昔は傾斜の深い茅葺屋根であったと想像できる。今は茅葺屋根からトタン屋根に変わったのであろう。

    日本の民家の屋根の美しさには心を奪われる方なので、この鯖街道沿いの三角屋根を始めてみた時は、ちょうど山陽新幹線で広島県や山口県を通過するときに赤瓦屋根の民家を見た時と同様の興奮を覚えた。以前のウェブログ「山陽新幹線の車窓から」で触れたように、赤瓦屋根には立派なシャチホコがついているが、ここ葛川の三角屋根の天辺付近には家紋や水という印が刻んであり、滋賀県の民家に特有の風景である。

  • 山陽新幹線の車窓から

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             鯖街道沿いに見られる三角屋根の民家(大津市葛川)    

    葛川を抜けると鯖街道は山間地帯に入り、坂下トンネル、行者山トンネル、牛の鼻トンネルをくぐって、大津市伊香立途中町の花折に至る。鯖街道は花折トンネルをくぐって南下を続けるが、安曇川はこのあたりから西上して京都市へ入り百井川となって安曇川源流となる。

    <途中の喫茶店>
    花折トンネルを抜けると花折峠の曲がりくねった坂を下り、途中トンネルを抜けて京都市大原地区に入るのであるが、花折峠の曲がりくねった坂の途中で紅葉に囲まれた喫茶店が目についたので、こんな人里離れた所にと興味をそそられ立ち寄ってみた。住所も途中町である。

    喫茶「庵 観月(いおりかんげつ)」という名前のお店で、以前は京都にお住まいだったご夫婦がここでお店を開き、自然を相手に楽しんでおられるような雰囲気の喫茶店である。石灯籠や石塔が一杯運び込まれ、重機まで置いてあるので、ご自分で庭を作られているらしかった。紅葉も自分達で植えたのですよと仰っていた。

    お店を辞する時に「鹿が来ていますよ」と言われてお店の背後に回ると、紅葉が色づいている谷の方から鹿がこちらを見上げていた。まさに花札に描かれた鹿に紅葉の世界である。

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       喫茶「庵 観月」(伊香立途中町)          まさに鹿に紅葉!

    <大原の里>
    喫茶「庵 観月」を出て花折峠の坂を下りきると途中(とちゅう:地名)である。ここで左折して琵琶湖の堅田へ向う477号線と、そのまま途中トンネルを抜けて京都大原へ向う鯖街道が分岐する。大津市の我家へ帰るには477号線で良いのであるが、本日は鯖街道走破が目的なのでそのまま有料の途中トンネルに向う。

    1988(昭和63)年までは途中トンネルはなかったので、京都から小浜へ鯖街道を通って海水浴に行くには、途中越の峠道をくるくる回っていったような記憶がある。今も旧道は残っているので、トンネルをくぐるだけで150円の料金は高いと思う人や地元の人は旧道を利用しているようである。

    途中トンネルを抜けて、昔、たまに行ったことのある京都大原パブリックコースゴルフ場がある古知谷を過ぎると、三千院や寂光院のある大原の里である。もう11月の終わりなのでそれほど車も多くないが、沿道では駐車場の客引きさんが熱心に誘っている。先週くらいまでの紅葉の見頃には、この街道は交通渋滞がおきていたと思う。

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            鯖街道から京都大原の里を望む

    <鯖街道の終点はどこ?>
    ということで朽木から大原までの鯖街道を南下して来たが、鯖街道の終点は本当はどこなのかは知らないのである。ウィキペディアを見ると、鯖街道は現在の福井県小浜市から京都市左京区出町柳までの区間を指すとあるので、冒頭に掲げた地図の出町までであるらしい。

    昔、小中大学時代は、出町柳から出ている京福叡山電鉄の沿線に住んでいたので、大原から出町柳までは自分の庭みたいなものであったが、鯖街道に住んでいたという認識は全くなかった。鯖鮨を食べた時くらい、こういう歴史的な街道筋にいると知っていたら面白かったなあ、と思っても後の祭りである。

    ウィキペディアによれば、往時の鯖街道は、現在の国道367号線ではなく、大見尾根を経由する山道であったという。また、小浜市から京都市(左京区出町柳)までを、当時のルートで走り通す「鯖街道マウンテンマラソン」(距離:76km)が毎年開催されているとある。京都トライアスロンクラブと小浜観光協会が実行委員会らしい。

    2008年5月18日開催の第13回鯖街道マウンテンマラソンの募集要領を見ると、Aコースが小浜出発で出町柳までの76km、Bコースが梅ノ木出発で出町柳までの42kmとなっている。参加資格は、Aコースは過去に12時間以内の完走者か、フルマラソン4時間半以内の完走者で、Bコースでもフルマラソン5時間半以内の完走者となっている。

    車での手伝いはさせて頂きませんので、自信のない方は申込をご遠慮下さい、と、何とも凄まじいマラソンであるが、鯖街道の終点は当方にも馴染み深い出町柳であることが判明し、何やら嬉しい気持になった。

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              出町柳の鯖街道口の碑


       

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