藍色のベンチャー:幻の湖東焼
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湖東焼窯場跡の案内板(滋賀県彦根市佐和山山麓餅木谷)
<湖東焼>
焼物のことである。以前のウェブログ「ラスター彩遊記」で触れたように、自分自身は全くの焼物音痴であって焼物の良し悪しは分からないし、あまり関心がない。しかし素晴らしい焼物作りに精魂を傾けるという、人間活動には大変心を打たれる。ラスター彩復元に後半生を捧げた故加藤卓男人間国宝は、そういう意味で尊敬できる存在であった。
焼物に精魂を傾ける人間活動は何も陶工や職人に限ったことではない。まだ土物(陶器)が一般的で、石物(磁器)が一部地域でしか焼かれていなかった江戸時代には、石物の素晴らしさに魅せられて自分で窯を起こしその経営を志した商人や、もっと高い政治的立場から一国の産業として焼物を育成しようとした政治家もいた。
冒頭写真に掲げた湖東焼は、説明文にあるように、彦根の古着商であった絹屋半兵衛が創始し、彦根藩が藩窯として召上げて国産産業として湖東焼の名の下で育成し、井伊直弼の代に最盛期を迎えたものの、桜田門外の変で直弼が暗殺された後、懸命の存続努力も空しく、明治28年には終焉を迎えてしまった幻の焼物として知られている。
<藍色のベンチャー>
滋賀県湖東出身の作家、幸田真音(こうだ まいん)さんが、この湖東焼を始めた絹屋半兵衛を主人公とし、一からの絹屋窯の創業、若き日の井伊直弼との交遊、彦根藩による窯の召上げ、桜田事変による激動と窯場の衰退、を描いた「藍色のベンチャー」(新潮社)という著書を2003年に発刊された。この本はその後文庫本化され、この時、「あきんど 絹屋半兵衛」(新潮文庫)に改題されている。
幸田真音さんは日本経済新聞のコラム記事や、テレビの経済番組でよくお見受けすることから、経済評論家だとばっかり思っていたが、「ザ・ヘッジ回避」、「日本国債」など数々の経済小説を発表されている作家である。幸田真音さんが何故湖東焼をテーマとした時代小説を?、と少し意外に思うが、あとがきを読むと氷解する。
昔、古い陶磁器を収集されていた兄君から、一枚の不思議な藍色の世界を作り上げている皿を見せられ、湖東焼の説明を受けたことがきっかけとなって、自分の故郷の直ぐ近くで焼かれていた湖東焼に魅せられ、関係資料を集め出したという。作家になられるずっと以前の話で、自分はいつか湖東焼の物語を書くために作家になったのではないかと思えるほどだ、と仰っている。
つまり幸田真音さんも、藍色が基調の湖東焼という地元の焼物と、この焼物を一から創業し、その育成に精魂を傾けた絹屋半兵衛の人間活動に対して、まさに藍色のベンチャーというイメージをもたれたのであろう。自分で思っていたよりずっと早くこの物語が書けたのは、イメージを膨らませる色々な資料に出会うという幸運が重なり、半兵衛や直弼の導きがあったのではないかと思えるほどだったと述懐されている。
特に桜田事変を告げる一通の書状を見たことが直弼の存在を一層身近に感じた瞬間であったとも仰る。前編の「湖東の近江商人郷土館」で触れた丁吟の屋敷に展示されていたあの書状のことである。
巻末に、この物語を書くために参考にされた文献や取材先が挙げてあるが、まるで学術論文並みの夥しい資料が並んでいる。湖東焼関連、彦根藩関連、時代背景関連、近江商人関連、その他資料から、きめ細かな考証をされたことが良くわかる。岐阜県多治見市市之倉の、あのラスター彩の加藤卓男人間国宝のご子息、7代目加藤幸兵衛氏にも取材されている。
以下、幸田本で湖東焼を追って見よう。
<絹屋窯の創始>
絹屋半兵衛は彦根の呉服古着商の2代目で、京都で古着を買付けて港町彦根で売るという商売で家業を発展させてきた。商人として優れた才覚をもっていた半兵衛は、買付先の京都で流行っていた薄い石物(磁器)の茶碗や皿に魅入られ、自らが窯元となってもっと高い品質の彦根産の焼物を作り、将来はその販売で彦根から領外へ進出したいという夢をもっていた。
絹屋は現在も彦根にあると知って先日訪れてみた。JR彦根駅からさほど離れていない船町の交差点の角に、かれこれ200年近く経っているのであろうか、品格のある落ちついた佇まいを見せている。玄関には今も絹屋と表示がある。
半兵衛は、京都に流れて来ていた有田焼の陶工の昌吉と知り合い、彦根に呼んで、1829(文化12)年に芹川土手の晒山に登窯を築いた。京都や瀬戸からも腕の良い職人を集め、試行錯誤の末、そこそこの焼物が焼けるようになった頃、焼物に関心の高かった彦根藩主、井伊直亮(なおあき)の知るところとなり、藩主が直々に窯を見にくるということにもなり、藩主からの注文も受けることになった。
因みに芹川沿いには、以前のウェブログ「彦根城界隈」で触れたように彦根藩の足軽屋敷が置かれていた。晒山の窯はこれらの屋敷よりもう少し琵琶湖岸に近いところにあったようである。
しかし半兵衛は、将来を展望した陶工の昌吉の意見を入れ、窯を芹川晒山から水はけの良い佐和山山麓の餅木谷へ移転する。餅木谷の窯がその後の湖東焼の本拠地となった。先日ここも訪れてみたが、現在は窯場のあった山麓は樹木に覆われ、往時を偲ぶよすがは石垣くらいしかないが、冒頭写真に示した湖東焼窯場跡を説明する案内板が立っている。
窯場跡へ向かう道(背後が佐和山) 案内板と往時を偲ばせる石垣
移転後、製品の品質も上がり、職人の仲間意識も上がって順調に進むかに見えたが、窯の破裂事故で棟梁の昌吉が再起不能となる不幸が起こる。しかし彦根出身の喜平が代わりを務め何とか危機を乗り越えたものの、問題は歩留まりが悪いことと、販路開拓が思うように進まないことであった。このため半兵衛は彦根藩から借金を重ねざるを得なくなり、焼物を国産産業に育成しようという彦根藩の思惑も絡んで、1842(天保13)年に藩窯として召上げとなった。
<若き日の井伊直弼との交遊>
半兵衛が窯を移転して品質も上がり始めていた1831(天保2)年の夏、清涼寺の境内で一人の青年と出会う。若き日の井伊直弼(なおすけ)、当時は17歳の鉄三郎であった。第11代藩主井伊直中の14男で、第12代藩主直亮の弟になる。この出会いをきっかけに鉄三郎は餅木谷の絹屋窯へ出入りすることになり、半兵衛と焼物について語らう仲になる。
鉄三郎は17歳で父を失い、藩の掟で自分では埋木舎(うもれぎのや)と呼んでいた北の屋敷に住む部屋住みの身であった。生れ育った槻(けやき)御殿とのあまりもの落差に失意を覚えていた鉄三郎であったが、半兵衛との語らいで前向きな生き方を学び、その後、藩主になった時の直弼の湖東焼の経営に、この交遊は大いに寄与することになる。
このような半兵衛と鉄三郎の気楽な交遊は、1834(天保5)年に鉄三郎が藩主直亮から養子の話で江戸出府を命じられるまで続く。しかし養子話は成就せず鉄三郎は1年後に埋木舎へ戻ったが餅木谷を訪れる機会はなくなり、この間、鉄三郎は国学者長野主膳と師弟関係を結び、半兵衛の窯は彦根藩による召上げとなる。
しかし半兵衛は窯が召上げとなった翌1843(天保14)年に埋木舎に鉄三郎を訪ね、絹屋窯で焼いた最後の記念の急須を献上し、今は藩窯で産出される近江の焼物の生みの親として、湖東の名を残して欲しいとの気持ちを伝える。この希望は叶えられその後の湖東焼には「湖東」の銘が刻まれた。
その後、1846(弘化2)年2月に鉄三郎は埋木舎を出て江戸へ向い藩主直亮の養子となり、直亮が死去した1850(嘉永3)年に井伊家第13代藩主、直弼となる。
<埋木舎>
井伊直弼が17歳から32歳まで過ごした埋木舎(うもれぎのや)は彦根城の中濠に面しており、現在では国指定特別史跡になっている。絹屋から歩いて10分程度の距離である。ここも先日訪れてみた。
埋木舎は庭から建物と部屋を覗けるような見学路になっており、表座敷、茶室、居間と奥座敷が開放されて、直弼ゆかりの書、絵画、文物、写真などが展示されている。客間の縁側に湖東焼も展示されていて、冒頭写真の案内板と同様の説明がされている。
埋木舎玄関 庭から居間と奥座敷を覗く
茶室「澍露軒」 藍色の湖東焼も展示してある
ともかく直弼は文武両道に秀でた人物で、茶道、和歌、能は達人の域に達し、国学、書、禅、湖東焼、楽焼などの他、武術、馬術、柔術、弓術、居合術などにも、1日4時間の睡眠で足りるといって、15年間の埋木舎時代に修練に励んだらしい。このような人格形成があったればこそ、幕府の大老職として命をかけて国難を救う大器量が発揮されたのだろうと、埋木舎で貰ったパンフレットに記してある。
<藩窯の時代>
半兵衛が起こした窯は14年の歳月を経て1842(天保13)年に彦根藩の窯となり、時の12代藩主直亮の彦根藩は新しく陶器方を設置して国産産業として経営にあたった。京都、九谷、瀬戸から多くの陶工が招かれ、幸斎(こうさい)のような当時図抜けた腕前の絵付師も客分待遇として迎えられた。1844(天保15・弘化1)年には、彦根藩は京と大阪に陶器売捌会所を設けて販売促進を開始した。
窯は半兵衛の手を離れたが、喜平と喜三郎父子が時々半兵衛を訪れてはその後の藩窯の様子を話して行くので、半兵衛も、湖東焼が職人の間でも次第に評判になり、幸斎が去った後、鳴鳳(めいほう)のような名絵付師が来たり、京の名工も訪れて京焼の手本にさえなっているとの状況も知ることが出来た。
湖東焼は素地の色がほのかに藍色がかかっていて、染付品は独特の上品な透明な藍色となるのが特徴であった。しかし赤絵の場合は素地が純白の方が格段に美しくみえるので、焼物にも目の高い直弼は藩主になる前からこの点を指摘し、2代目喜平となる喜三郎は赤絵のための純白素地作りに色々苦労したらしい。幸斎や鳴鳳の絵付による赤絵湖東焼は名品が今も残っている。
藍色の湖東焼染付品 (彦根城博物館展示品) 鳴鳳絵付の赤絵の湖東焼
1850(嘉永3)年に第13代藩主となった直弼は、大老になるまでの8年間のうち彦根在城は3年間であったが、9回に渡って領内をあまねく回った。餅木谷の藩窯も訪れて湖東焼を天下一の焼物に育成する意を示し、さらに半兵衛のここまで育成した苦労と、窯を藩に捧げた功績を思いやり、伊藤姓の苗字を許したという。
直弼のこの方針に従い、彦根藩は各地から優れた職人を招聘し、藩窯への増資や拡張を続け、1855-60(安政2-7)年頃に湖東焼は黄金期を迎えた。自然斎、赤水、床山、賢友といった民間の絵付師が藩窯の素地を仕入れて民窯赤絵湖東焼も始めた。直弼は窯を公家や大名への贈答品として活用する一方、殖産興業も目的としていたので、民間に焼付窯元権を付与する策をとったことによる。
<桜田門外の変と藩窯の廃止>
このまま時代が推移していけば、湖東焼は半兵衛や直弼の願い通り、京焼、有田焼、九谷焼、瀬戸焼などの全国区の焼物を凌駕する位置付になったかもしれないが、1860(安政7)年3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が殺害されたことが、餅木谷の窯場を直撃した。
城下は混乱に陥り、窯を去る職人が続出した。窯の存廃も議論されたが技術を惜しんで一旦は継続となり、1861(文久1)年の皇女和宮の降嫁の時には公家、諸家への湖東焼贈進も行われた。しかし翌1862(文久2)年彦根藩の一部の領地召上げもあり、お家存続のため藩窯は廃止と決定され、2代目喜平ら地元職人4人が払い下げを受けることとなった。
喜平はのちに山口喜平となり、民窯湖東焼「山口窯」として細々と窯を存続させたが、1895(明治28)年の喜平の死により湖東焼は終焉を告げた。これより前、1869(明治2)年に彦根藩知事井伊直憲が復興した藩窯による圓山湖東焼や、西村杏翁が1866(慶応2)年に長浜に築いた窯による長浜湖東焼も出現したが、いずれも明治の初期に廃止された。このような歴史を辿ったことが「幻の湖東焼」と言われる所以である。
<伊藤半兵衛を支えた留津>
半兵衛と留津
幸田真音さんはあとがきの中で、江戸時代の商人の妻が重要な役割を担っていたのはたしかなのに、分厚い過去帳を見ても女や妻女の文字ばかりで、名前すら残されていないと残念がっておられる。そこで幸田真音さんは、半兵衛の妻に留津(るつ)という女性を配し、2人で力を合わせて湖東焼を育成していく物語に仕立て上げられた。
伊藤姓を許された半兵衛は、1860(安政7)年の衝撃の春が過ぎ万延元年と改まった6月に、留津に見守られてその生涯を閉じる。直弼の死と引続く半兵衛の死で、2人の果てしない情熱と熱い思いがこもった本当の意味での湖東焼は、ここで終焉を迎えたのかもしれない。
<京焼に生かされた湖東焼の技>
直弼の死後、彦根の窯を去った職人達はほとんど京都へ出たという。喜平と並ぶ存在であった市四郎と傳七は京都において湖東焼の技法を踏襲して、京都にはなかった大きな古窯を築いて京都に湖東焼を再現させた。のちの京焼の高級磁器に繋がっていったという。
このような歴史を知ってみると、半兵衛と直弼の湖東焼の精神を守り、2人が悲願としていた湖東焼の技法による名品作りの思想は、むしろ湖東焼の技術の高さを知り抜いていた傳七(のちに乾山傳七)たちによって京焼に継承されたともいえるようである。
<彦根に残る湖東焼と再興湖東焼>
幸田真音さんはこの作品を読まれたら一度彦根を訪れ、彦根城博物館に収蔵されている湖東焼の美しさを実際に見て頂きたいと、あとがきで締めくくられている。10月の3連休の時に行ってみたが、ちょうど井伊直弼と開国150周年の記念展示が主体で、湖東焼の展示は数点しかなかった。湖東焼を見るのなら常設展示の時のほうが良さそうである。
埋木舎の管理人の方からお菓子のたねやが美濠(みほり)美術館を開いていて、湖東焼を常設展示していますよ、と教えて頂いたので、中濠沿いに歩いて覗いてみた。ここでは、絹屋窯の時代から直亮藩主の時代、さらに全盛期の直弼藩主の時代の数々の湖東焼の見事な名品が見られる。しかも学芸員のような専門家が気軽に説明して下さるので焼物音痴の当方には有り難かった。
たねやは、京都の菓子舗「亀末」で修行した山本久吉氏が1872(明治5)年に近江八幡に創業した「種屋」が起源の老舗である。まさに近江商人の「三方よし」の理念を経営理念としている会社なので、創業家が明治に入って消滅しようとしていた地元の焼物、湖東焼の名品を蒐集し、後世に伝えようとしたのであろう。
彦根藩 湖東焼 、美濠美術館(たねや) 一志郎窯(彦根市芹川)
また彦根市には、幻の湖東焼を再興しようとしてNPO法人を作り活動をされている陶芸家もおられる。狸の焼物で有名な信楽出身の中川一志郎氏は、湖東焼に魅せられ彦根に移り住んで、彦根の至宝・湖東焼を再興させるべく窯を彦根の芹川右岸に建ててその再興に尽力されている。
前述したように芹川土手は絹屋半兵衛が最初に窯を築いた場所であるが、一志郎窯は奇しくも以前のウェブログ「彦根城界隈」で触れた我が友人の実家である彦根藩足軽屋敷の林家住宅のちょうどお向かいである。一志郎窯は彦根市内に店舗もあり、湖東焼を体験できるようになっている。
余談であるが、たねやグループのホームページを見ると、たねやはクラブハリエという洋菓子バウムクーヘンの店も開いている。CEOの山本徳次氏によると、1903(明治38)年にヴォーリズが偶々たねやの近所に住むこととなり、戦後間もなくこのヴォーリズの勧めで洋菓子の製造販売を始め、今日のクラブハリエになったと仰っている。そういえば近江八幡の日牟禮ビレッジ・クラブハリエはヴォーリズ建築であった。
幻の焼物、湖東焼をテーマにした人間活動を少し探訪したところ、幸兵衛窯、井伊直弼、近江商人、足軽屋敷、ヴォーリズなど、既にこのウェブログで触れたテーマに次々繋がってくることに些か驚いている。人間活動とは繋がりをもつ活動(ネットワーク活動)であることを示しているようである。
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