湖東の近江商人郷土館
(クリックで拡大)
近江商人郷土館-旧丁吟本家-(滋賀県東近江市小田刈)
前々編の「彦根城界隈」を読んだ高校の同級生から、母の実家が東近江の旧丁吟(ちょうぎん)本家で、今は近江商人郷土館になっていて、桜田門外の変を報せた書状もあるそうですよ、とのお知らせを頂いたので、2009年9月6日に東近江市小田刈の近江商人郷土館に出かけた。
丁吟(ちょうぎん)は、江戸時代に丁子屋(ちょうじや)を創業した近江商人の小林吟右衛門家の代々の通称である。彦根藩主より苗字帯刀も許された彦根藩御用達の豪商で、現在もチョーギン株式会社として子供服や紳士用品の販売やホテル経営をしている。1979(昭和54)年に湖東町の本家、小林邸を公開し近江商人郷土館とした。
幕末に彦根藩出身の大老井伊直弼が水戸浪士に襲われた桜田門外の変の時は、丁吟江戸店から京都店や近江本家への報せが、彦根藩の江戸藩邸から彦根城への報せより早かったらしく、当時の近江商人のネットワークの力をあらわす好例となっている。その歴史的な書状も展示してあるとのことらしい。
<近江商人郷土館>
大津市の我家からは国道8号線で近江八幡市に入り、国道421号線(八風街道)から東近江市に入って八日市の大凧街道を行けば、愛知川(えちがわ)を渡って直ぐ小田刈である。中山道と八風街道を通るこのルートには、以前のウェブログで触れた、額田王ゆかりの鏡の里や万葉の森のある蒲生野がある。
小田刈の交差点の傍に、冒頭写真に掲げたのどかな雰囲気の近江商人郷土館がある。財団法人近江商人郷土館の表札がかかった門は未だ開いてなかったが、呼び鈴を押すと中から年配の男性が現れ、どうぞどうぞと迎えて頂いた。門を入った左手に小林家の母屋があり、右手に資料館の入口がある。
資料館の入口で入場料500円を払って中へ入ると、店舗を模した第1室には箪笥や丁吟と箱書きされた千両箱などの商用具の数々が展示されていて、江戸時代へタイムスリップした感じを受ける。道中合羽や行商時の携行品も色々展示してあって近江商人の活動様式が彷彿される。壁には小林家当主の商訓が貼ってあり、達筆なので全部は読めないが、一つは辛抱とある。
近江商人郷土館入口 旧小林邸母屋、右手が資料館
江戸時代の丁吟店舗の様子 行商時の携行品
<桜田門外の変を伝える書状>
奥の資料展示室へ進むと、当主が蒐集したものであろうか、見事な絵画や蒔絵の箱などが展示してある。中には井伊家拝領と書いた蒔絵の弁当箱や重箱もあるので、彦根藩の御用達を務めていた丁吟には、藩主からの下され物が多かったのであろう。部屋の中央の陳列台には丁吟の商売に関わる書状などの資料が展示してある。
その中に我が同級生から聞いていた、「桜田事変と丁吟」と題された説明文があり、「丁吟は彦根藩の勘定奉行方を勤めていたので、1860(万延元)年3月3日朝に突発した桜田門外の変はまさに青天の霹靂でした。江戸店ではこの事件を3日半という特急飛脚便で京店へ伝え、京店から同日中にここ江州本店へ転送されたものがこの資料です。・・・・・」とある。
その横に、二つ折された紙3枚の両面に書かれた、江戸店から丁子京御店様と御本家御主君様と書かれた書状が展示されている。当方にはもちろん読めないが、その下に現代語による訳文がある。要はお殿様のお駕籠を取り巻き斬りつけ、お駕籠の中へ抜身三本ばかり突き込み、シテヤッタリと鬨の声を上げた」というような内容で、直弼の生死は不明ながら重大な異変のあったことを伝えている。
書状の後半には、今後どうなるか分からないので、これまで注文したものはこちらから指図のあるまで発送を見合わせるように、ともある。大事件の極秘の報せで、急を告げる中でも商人らしい冷静な判断も見て取れる。この書状は3月7日の正午に丁吟に届いたが、当事者の彦根藩江戸藩邸から彦根城への報せが届いたのは7日夜半だったという。
<300年以上続く小林家の家系図に我が同級生が!>
2階には、明治以降の近江鉄道の創設や、紡績、金融、鉱山への進出に関する展示があり、見終わって降りると、先ほどの年配の男性が小林家の家系図をもって来られていた。というのは、小林家に縁のある同級生の紹介で来ました、と言ったので同級生のことを確認されたかったらしい。
初代小林吟右衛門のお父上から始まる家系図であるから、もう300年以上続いている立派な家系図である。探された結果、この立派な家系図に我が同級生がしっかり載っていることを確認されたようであった。この後、自分も小林家に縁があると仰るこの男性(Mさん)に、旧小林邸母屋であった本館を案内頂いた。
<井伊直弼も宿泊した本館>
本館はブルーの絨毯が敷き詰められた広々とした展示室になっていて、歴代当主が蒐集したと思われる書画骨董が随所に飾ってある。湖東地方の名産である湖東焼も陳列してある。湖東焼は湖東の彦根の商人が創始し、彦根藩が国産産業として育成したので小林家とも関わりが深いのであろう。
湖東焼の盛衰についてはこの後のウェブログ「藍色のベンチャー:幻の湖東焼」で触れた。
広間の一角に歴代近江商人の写真や業績を紹介したコーナーがある。以前のウェブログ「てんびんの里」で触れた、外村宇兵衛、藤井彦四郎、中江正次、塚本定右衛門、中井源左衛門、西川甚五郎など、五個荘や近江八幡の近江商人も紹介されていて、さしずめ近江商人ライオンズクラブといった感がある。
ちょうどここ本館では、特別展「近江商人の生涯学習」という企画展示をやっていて、近江商人が教養を身につけるため学んだ書物類が展示してあった。史記、四書、四書大全、十八史略、荘子など中国の古典も見える。案内して頂いたMさんのお話では、毎年テーマを変えて企画展示をしていて、今年は第22回になります、と仰っていた。
丁吟こと小林家は、藩主の領地巡回の時は本陣となるほど井伊家との関わりが強かったらしく、この母屋に藩主が宿泊したこともあったらしい。同級生が小林家の血筋ということで、Mさんが当方にも敬意を払ってくれたのか、井伊直弼が宿泊したという奥の部屋を特別に見せて頂いた。普段は非公開だそうで同級生の小林さんに感謝!
資料館の方に別の見学者が来たらしく、Mさんはそちらへ応対に行かれたので、その後は順路に沿って見て回った。
<隠居後はお蔵入り?>
小林邸の母屋には、大蔵、小蔵、川戸蔵、隠居蔵などと表示されたいくつかの蔵が隣接している。大蔵は井伊家からの拝領物や重要な書画骨董を収納する蔵で、今も展示室兼用になっている。小蔵は日用道具や食器類が収納され、川戸蔵は地下室も設けられ食品などの貯蔵を行ったらしい。
面白いのは隠居蔵である。名前の通り家督を譲ったご隠居さんがここへ入るのであるが、決して楽隠居するわけではない。隠居蔵には重要書類や帳簿類が保管され、出店からの報告や情報が集まる商家の中枢であり、隠居はここで本家支配人とともに事務や経理の処理にあたったという。
隠居蔵の窓からは人の出入りや家人の動きが良く見えるようになっているとのことで、おそらく人事評価も隠居が実権を握っていたのだろう。現代でも社長の座を後継者に譲ったものの、会長や相談役として実権を握っているオーナー経営者がいるが、近江商人の隠居はそういう存在であったらしい。
大蔵(今は展示室になっている) 母屋に隣接した小蔵
隠居蔵(実は商家の中枢) 隠居の執務机
本館を見終わって資料館に戻り、Mさんにお礼を言って近江商人郷土館を後にした。帰途も、国道421号線を戻ったが、現在は東近江市になっているこのあたりの標識には、それ以前の愛知(えち)郡、神崎郡、八日市、蒲生郡、五個荘町、日野町、さらには近江八幡といった近江商人の輩出地の名前が残っている。
<近江泥棒、伊勢乞食>
映画やテレビドラマの時代劇には、「近江屋」と「伊勢屋」の屋号を掲げた店舗や商人が必ずと言っていいほど登場する。江戸時代に二大商人集団として全国規模で活躍した近江商人と伊勢商人の代表的屋号であり、両者は良きライバルであった。
当時は「近江泥棒、伊勢乞食」という、その繁盛振りをねたんだ流行り言葉が流れたほど、両者の才覚は際立っていたらしい。百貨店の元祖白木屋は近江商人の大村彦太郎が始祖であり、三越と松坂屋は、伊勢商人の三井高利と伊藤祐寿が始祖である。高島屋、大丸、西武も近江商人が始祖である。近江も伊勢も、「近江牛」と「松坂牛」と呼ばれるブランド牛の産地であるが、両商人がその全国ネットワークを使って名声を確立したともいえる。
<湖東の近江商人は繊維産業の貢献者>
滋賀県には当然のことながら近江商人ゆかりの史蹟が方々にあり、今も町並みが保存されていたり、資料館や記念館として残されている近江商人の旧宅が多い。このウェブログでも、前述の「てんびんの里」で五個荘(ごかしょう)の近江商人史蹟を、「湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-」で八幡商人の史蹟を、「湖東の渡来人」で、司馬遼太郎の近江商人渡来人説に触れた。
天びんの里で触れたように、近江商人は、湖西の高島から発した高島商人、近江八幡から発した八幡商人、蒲生氏郷の城下町日野から発した日野商人、彦根藩のお膝元であった東近江から発した湖東商人に大別される。この中、湖東商人は五個荘、愛知川(えちがわ)、豊郷(とよさと)、彦根といった湖東の麻織物産地から発し、市田、ツカモト、外与(とのよ)、チョーギン、東洋紡、伊藤忠商事、丸紅などの繊維会社に繋がっているので、日本の近代繊維産業興隆の貢献者ともいえる。
江戸時代の湖東商人は麻布原料の青苧(からむし)を東北から近江に持ち帰り、麻織物の生産を湖東の地場産業として発展させたので、近江麻布(まふ)と呼ばれる麻織物の行商から身を起こして豪商になったものが多いという。湖東地方を統治していた彦根藩は、農業の余業としての麻布生産を積極的に振興する政策をとって支援したので、当然彦根藩の財政を湖東商人が支えるようになった。
その豪商の一人が1798(寛政10)年に丁子屋を創業したこの小林吟右衛門である。通称丁吟(ちょうぎん)と呼ばれ、1831(天保2)年に2代目が江戸日本橋堀留町に店を開いた。現在も子供服や紳士用品を扱っているチョーギン株式会社として同じ場所に本社がある。京都烏丸御池にギンモンドというホテルがある。ホテル内に丁子屋という店がありどこかで聞いた名前だと思っていたが、ホテルギンモンドはチョーギンの子会社と分かって合点が行った。
<近江商人の家訓「三方よし」は現代企業のCSRの原点>
近江商人の色々な家訓は、日本的経営の基礎を築いたことでも有名であるが、代表的な家訓が「三方よし=売り手よし、買い手よし、世間よし」である。つまり企業が持続的発展を続けるために、社会の良き一員であることを最重要の価値観と見る考え方で、現代の企業のCSR(社会的責任)の源流として注目されているという。
行商から身を起こして大成した近江商人は、自らの教養を高めるとともに文化芸術のパトロンともなったり、飢饉の際の地域住民の雇用創出、植林などの治水事業、土木普請などの公共事業に私財を投げ出した例は枚挙にいとまがない。
勝海舟は氷川清話の中で、近江商人の塚本定次(2代目塚本定右衛門:ツカモトの始祖)を褒めている。
「江州の塚本定次という男は実に珍しい人物だ。数万の財産を持っておりながら自分の身に奉ずることは極めて薄く、いつも二子のはおりと同じ着物でいて、ちょっと見たところでは、ただ田舎の文盲なおやじとしか思われない。」
という印象を述べてから、積立金が思いがけず貯まったから、その使途として一半を学校の資本に寄付し、一半を番頭や手代に分けるという考え方をしたり、貧民はなかなか花見や紅葉狩りに行けないから、持っている土地にサクラやカエデの植林をしたところ、今は村の快楽の場所としての公園になったが、人間はこんな無形な快楽もないといけないので、地代をとるよりこの方がためになると思う、という考え方をした定次にいたく感心している。
滋賀経済同友会では、この「三方よし」の考え方を、さまざまな問題を抱える現代企業が、より高い倫理観と透明性を伴った経営の見直しを図る際の歴史的財産として捉え、「滋賀CSRモデル」として発表しているという。政権交代して新しく出発した民主党政権も、企業ではないが、こういう「三方よし」の精神でやって欲しいものである。
参考図書:NPO法人三方よし研究所 渕上清二,「近江商人ものしり帖」改訂版,サンライズ出版(2008年)
The comments to this entry are closed.
Comments