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2009.07.29

北海道神宮

Hokkaidojingu_2(クリックで拡大)
    北海道神宮本殿(札幌市円山公園)

<円山公園>
ここ数年、北海道に毎年来るようになり、この2009年3月25日も札幌に一泊した。翌朝、仕事の約束時間まで3時間ほどあるので、札幌駅からあまり遠くないところで見る所はないかと市内観光地図で探したら、円山公園の中に北海道神宮があると出ているので、どんなところか知りたくなり向った。

以前のウェブログ「小樽運河」でも触れたが、大学1回生であった昭和36(1961)年に初めて北海道を旅行した。札幌では円山公園のユースホステルに泊まったような気もするが、もはや記憶が定かでない。

  • 小樽運河

    50年近く経った今の札幌は地下鉄網が発達し、札幌駅から南北線で大通駅まで行き、東西線に乗り換えれば円山公園まで30分もかからない。札幌の円山公園は、京都祇園の円山公園と名前が同じなので、京都育ちには何となく親近感がある。両円山公園とも桜の名所である。

    地下鉄円山公園駅で降りて地上に出た付近にはビルが林立しているが、円山公園の入口付近にはカントリー風の洋館もあって、北海道らしい雰囲気になり、公園内に入ると未だ桜ならぬ一面の銀世界であった。今年は雪が少なく暖冬異変とのことであったが、やはり北海道であることが実感される。

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         円山公園入口付近の洋館           北海道神宮風致地区

    <開拓神社>
    北海道神宮風致地区の標識がある林間を抜けていくと、鳥居があり北海道神宮への参道になっている。今年も滋賀県は暖冬のため、スタッドレスタイヤが全く役に立たなかったことなど思い浮かべながら、雪の中の参道を進んでいくと、いくつかの小さなお宮がある中に、北海道神宮末社開拓神社という標識と質素な造りの拝殿が目についた。

    そうか、ここは北海道開拓に貢献した人たちを祀る神社か、と納得して、蝦夷地開拓の先人達に敬意を表してお参りした。このウェブログの「湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る」で触れた近藤重蔵や高田屋嘉兵衛、「伊能忠敬と間宮林蔵」で触れたお2人も、蝦夷地開拓の先人である。

  • 湖西のみち-滋賀・高島の湖岸を辿る-   伊能忠敬と間宮林蔵

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       公園から北海道神宮への参道        末社の一つ、穂多木神社
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          北海道神宮末社開拓神社          開拓神社に祀られる37柱

    開拓神社の入口に案内板が立っている。由緒には、開道70周年にあたり北海道開拓に偉大な功績のあった物故開拓功労者の御霊を祀るという趣旨で、時の北海道長官石黒英彦が提唱して、昭和13(1938)年に鎮座し、50年後の昭和63(1988)年に拝殿が造営されたとある。

    御祭神として北海道開拓の功労者37名が、それぞれ命(みこと)となって祀られている。北海道開拓史に詳しい人には全員がそれぞれの功績とともに思い出されるのであろうが、当方には知らない名前が多い。それでも江戸時代の北方探検家として知られる最上徳内や、上述の近藤重蔵、高田屋嘉兵衛、伊能忠敬、間宮林蔵の名前も出ており、未だ蝦夷地と呼んでいた未開の時代の活躍にご苦労様でしたといいたくなる。

    以前のウェブログ「函館五稜郭拝見」で触れたが、維新の箱館戦争で敗れた好漢榎本武揚を助命して、その後の明治新政府に仕官させた薩摩人の黒田清隆も祀られている。

  • 函館五稜郭拝見

    <北海道神宮本殿>
    円山公園からの参道は、第2鳥居から通じる参道と合流して、北海道神宮の本殿に通じている。両側の木立は北海道なのでエゾ杉か何かであろうか、手入れの行き届いた見事な並木道である。本殿入口の階段を上って中へ入ると、冒頭写真に掲げた北海道神宮の本殿に至る。

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         北海道神宮の本殿入口            第2鳥居からの参道

    案内板によると、明治2(1869)年に明治天皇の詔によって北海道開拓の守護神として、大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の開拓3神が東京神祇官で祀られ、明治4(1871)年に札幌神社として、ここ円山の地に鎮座し、昭和39(1964)年に明治天皇も祭神に加えて、北海道神宮に改称されたとある。

    とすると昭和36(1961)年に円山に来た時は、未だ札幌神社の時代ということになるが、当時は神社には何の関心もない学生であったから当然お参りもしていない。旅行する土地の歴史をあらかじめ少しは頭に入れておこうなどの気持になったのは、ネットで簡単に調べられるようになってからである。

    <「街道をゆく」の札幌>
    司馬遼太郎は、「街道をゆく 第15巻 北海道の諸道」で札幌のことに触れている。昭和50年代後半の紀行であるが、昭和30年代の初めに来た時とは別の町になってしまっていて、「市電がありませんね」と地元の運転手さんにきいても、市電があったことも知らないようであったとの記載がある。確かに昭和36年には市電に乗った記憶がある。

    この巻では、明治初年の北海道は暮らしから農業、牧畜のはしばしに至るまで開拓使庁が指導し、その基本構想は、開拓使次官の黒田清隆とお雇い顧問の米国人ケプロンがつくったと述べられている。ケプロンは北海道に欧米が数千年かかってつくりあげた文明を根付かせようと大構想を立案した。

    それには数学、物理学、化学のような基礎学や、鉄道、石炭採掘ができるような機械学も必要で、黒田清隆は最初は本気で教育からとりかかろうとした。しかしその実現には明治政府に無限の財力があることと、日本社会が一定の水準に到達していなければ無理ということを悟り、実施可能な計画に大修正したという。

    しかし黒田とケプロンのコンビは、北海道という寒冷地における住居と暖房については随分貢献し、ケプロンが持ち込んだストーブを普及させ、ガラス窓を使った洋館を日本の中では早くから導入したということらしい。北海道から来た人に、「本州は寒いですね」とよくいわれることがあるが、この辺に源があるのかもしれない。

    司馬遼太郎はこの時、めがねをあつらえるために札幌の眼鏡屋に入り、その清潔感や検眼技術の高さに感じ入り、大阪からは少なくとも眼鏡屋に関する限り札幌に見習いにきたほうがいいのではないかと思ったと、感想が述べてある。

    それから25年後の今回は、札幌駅構内で朝9時前というのに人がずらっと並んでいた。何だろうと思ってのぞくと、花畑牧場と看板の出ている店に行列ができている。生キャラメルの店なので、帰りの空港で買ってお土産にしたら、家内の説明では、花畑牧場は田中 義剛というタレントが経営していて、今人気が出ているとのことであった。

    <蝦夷地を目指していた坂本竜馬>
    北海道生まれのノンフィクション作家合田一道氏によると、坂本龍馬の師匠である勝海舟の日記に、龍馬が京摂津の過激輩を連れて、蝦夷地を開発しに行くことを、御所も幕府老中も了承している、という記載があるという。

    つまり坂本龍馬は、勝海舟がつくった神戸海軍操練所の塾生の中で、幕府から睨まれていた過激な浪士たちを蝦夷地開発に携わらせれば、日本国のためでもあると考えた。しかし江戸まで航海したところ、池田屋事件が起こったので、海舟に迷惑がかかると直感して中止したという。案の定神戸海軍操練所は閉鎖、海舟は江戸に召還された。

    しかしその後も龍馬は、機を伺っては蝦夷地へ行こうとしたが果たせず、暗殺されてしまう。合田氏は龍馬の企てが成功して、もし蝦夷地開拓に携わっていればもっと違った北海道開拓になったろうと仰る。

    歴史は巡り、やはり勝海舟を師と仰いでいた榎本武揚が、新政府に反抗して北の大地に新しい共和国制国家を作ろうとしたが失敗して捕えられたものの、開拓使次官であった黒田清隆に惚れ込まれ助命されて、出所後北海道開拓に力を尽くすということになる。上記の「函館五稜郭拝見」で、このことも触れた。

    幕末、ただ一人日本というレベルで国を見ていた勝海舟の薫陶をうけ、薩長連合や海援隊のような斬新な企画を生み出した坂本龍馬が、蝦夷地開拓の企てにも成功して、士族のエネルギーを向けることが出来ていたとしたら、確かに面白かっただろうと思うが、歴史にたら話はない。

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