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2009.06.06

彦根城界隈

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   玄宮園庭園から望む彦根城(滋賀県彦根市)

<友人の屋敷が彦根市文化財に!>
1964(昭和39)年の夏にお邪魔したことのある大学時代の友人の実家の屋敷が、昨年、彦根市の指定文化財になったと聞いて、滋賀県在住者としては是非拝見に行かねばと機会を窺っていたが、この連休の2009年5月5日に訪れることができた。

訪問翌年の1965(昭和40)年に大津市に所在する会社に入社し、当時の滋賀県では未だマイナースポーツであったテニスに熱を上げ、彦根城の中にある滋賀大学のテニスコートへも良く通ったので、彦根は懐かしい地である。以来、彦根城にも何度か訪れ天守閣にも登ったが、ここ35年間はまったくご無沙汰であった。

<彦根藩善利(せり)組足軽屋敷>
友人の実家は、1617(元和1)年に設置された善利(せり)組という由緒ある彦根藩足軽の流れをくみ、屋敷は1787(天明7)年に建てられたものというから、もう220年も経っているという旧宅である。芹(せり)川のほとりにあったことから善利(せり)組という名前になったらしい。

友人から紹介された善利組足軽倶楽部(改訂版)というホームページを拝見すると、彦根藩にはその後1629(寛永6)年に切通上・下組や大雲寺組が設置されて、彦根城を取り巻く三層の濠の外に位置し、彦根城とその城下町を守護したとある。幕末期には東西750m、南北300mの広大な区画に善利組屋敷が700戸ほどあったという。現在の芹橋地区になる。

ホームページと芹橋地区の番地情報を頼りに、大津市の我家から彦根の芹川を目指した。名神高速彦根ICからも行けるが、高速道路1000円の日で渋滞に巻き込まれるのも嫌なので、景色の良い琵琶湖東岸の湖周道路で北上し、芹川に至るとこの時期、素晴らしい新緑であった。

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      新緑のトンネル(芹川)        芹川の土手から彦根城が見える

芹川の土手からは住宅越しに彦根城が見える。我が友人の実家は土手を降りた路地の角にあった。既に玄関や入口に彦根市指定文化財林家住宅という看板が架かっているものと想像していたのだが何も表示がなく、友人から聞いていた番地表示がなければ分からないところであった。彦根市の文化財には昨年指定されたとのことなので、今年度から整備されるのであろう。

そういえば45年前にお邪魔したとき、直ぐそばに芹川の土手があったことを思い出した。友人に一報したら、以前は土塀であったが1959(昭和34)年の伊勢湾台風のとき崩れたので、板塀になったとのこと。芹川の土手に向うこの路地には土塀の残っている家もあり、なかなか良い雰囲気なので、昔は彦根藩士の風格ある屋敷であっただろうと想像できる。
     
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     未だ整備前の林家住宅         土塀があって雰囲気のある路地

善利組足軽倶楽部のホームページにもこの路地が足軽屋敷界隈として紹介されているし、林家住宅からは天明7年の墨札が確認され、この界隈で最も古い屋敷であるとも紹介されている。同じ滋賀県の膳所にある杉浦重剛の旧宅は、以前のウェブログで触れたように、大津市の所有になってから膳所藩士邸形式の門や塀が設けられたというから、ここ最古の足軽屋敷も彦根市によって土塀の復元などされれば良いのになどと思った。

  • 杉浦重剛誕生の地-大津市膳所-

    <彦根城>
    彦根城は明治政府の愚挙であった廃城令に伴う破却を免れて、全国に12しか残っていない、お城の建物が廃城時の位置にそのまま残っている現存天守に分類されることは、以前のウェブログ「房総のお城」でも触れた。しかも天守閣が国宝に指定されている国宝4城の一つである。彦根城の破却をやめるよう上申したのは、大隈重信ということになっているらしい。

  • 房総のお城

    1600(慶長5)年の関ヶ原の戦で活躍した徳川四天王の一人井伊直政が、石田三成の居城であった佐和山城に入って移築を構想したものの2年後に死去し、直政の遺臣がその意志を継いで1603(慶長8)年に彦根山に築城を開始したのが始まりとされる。天守は大津城から、櫓や門類は佐和山城、長浜城、小谷城、観音寺城などから移築したといわれる。長浜城については以前のウェブログ「湖北散見」で触れた。

  • 湖北散見

    この日は連休中で、しかも高速道路1000円を利用した他府県の車が彦根城方向に殺到していたので、彦根城に行くのは諦め、お濠端を逆行して未だ行ったことがなかった玄宮園に向った。

    <玄宮園と楽々園>
    玄宮(げんきゅう)園は、井伊家第4代藩主井伊直興(なおおき)が、隣接する楽々園という彦根藩下屋敷とともに、1677(延宝5)年に造営を開始し1679(延宝7)年に完成した江戸初期の大名庭園で、江戸時代には槻(けやき)御殿と呼ばれたという。現在は庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称している。幕末の大老として有名な井伊直弼(なおすけ)もここ楽々園で生れている。

    玄宮園は彦根城の内濠に沿って建てられており、お濠と玄宮園の土塀に沿って散策すると、土塀と濠が絶妙に調和した見事な眺めで心が洗われるような感じがする。土塀越に大きなケヤキの枝が突き出ているが、鳥が枝の一部を利用して丸い巣を作っているのが見え、野鳥の天国にもなっているようである。

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            玄宮園の入口            ケヤキの枝に鳥の巣が見える

    玄宮園の中は回遊式庭園になっていて、入口で200円納めて入場する。中国唐時代の玄宗皇帝の離宮をなぞらえて命名されたといわれ、中国洞庭湖の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんだ近江八景を模し、竹生島や沖の白石を表現するために樹木や岩石も配置されて作庭されたという。

    池に臨んで、臨池閣(後に八景亭とも)や凰翔台(ほうしょうだい)といった建物が設けられ、彦根城を借景とする江戸時代初期の名園である。ここから望んだ彦根城は冒頭写真にも掲げたように落ち着いた雰囲気である。映画「大奥」のロケにも使用され、出演した仲間由紀恵さんなど有名女優さんたちが訪れたこともあるらしい。

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              彦根城を借景とした玄宮園庭園

    楽々園は、玄宮園の庭からも行ける配置になっているが一応ロープで仕切ってあり、玄宮園の西口を一旦出てから入場するようになっている。井伊直興の造営時より正式には槻(けやき)御殿と呼ばれるが、12代藩主井伊直亮が文化年間(1804~1817)に楽々之間を増築したので、楽々園の名の方が有名になったと案内板にある。

    往時は能舞台も備えた広大な建物であったが、現在は書院やお茶座敷(地震の間)、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。11代藩主井伊直中の退隠時には、現在のおよそ10倍もの規模であったらしい。お茶座敷にはわざわざ「地震の間」という案内板が立っていて、人工の岩組で地盤を強化し、柱を固定せず、天井裏に綱が張ってあるなど、明らかに地震時に逃げ込むことを想定した耐震建築になっていると説明してある。

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         楽々園(槻御殿)の書院         地震の間(御茶座敷)と案内板

    もともとこのあたりには松原内湖という琵琶湖の内湖があって、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意味から楽々とつけられたのであろうと案内板に説明してある。以前のウェブログで触れたように、多数の内湖があった湖東の安土や近江八幡界隈と同じく、ここ彦根も太平洋戦争の戦後の食糧増産の掛け声により、松原内湖が埋立てられて景色が全く変わってしまったわけである。

  • 安土散策      湖東の近江八幡-八幡掘界隈とヴォーリズ-

    <第1回大河ドラマ「花の生涯」と井伊直弼>
    楽々園の案内板には、開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生れた、とある。後世の歴史家によって井伊直弼の評価はまちまちでも、彦根市民にとっては何といっても幕末の日本の開国を断行した彦根藩出身の英傑である。

    今やNHKには町おこしのため、大河ドラマに取り上げて欲しいという依頼が全国から殺到しているらしいが、彦根は、1963(昭和38)年に井伊直弼を主人公とする「花の生涯」で大河ドラマの第1回に取り上げられた。原作は船橋聖一で、井伊直弼が尾上松緑、長野主膳が佐田啓二で、嵐寛寿郎、芦田伸介、淡島千景、八千草薫、香川京子など、年配組にとっては馴染みのある当時の名優が出演した。

    我が家はまだ白黒テレビであったので、親父がこれはカラーテレビで見るときれいだろうな、と呟いていたことを覚えている。しかしこれがきっかけでカラーテレビに変えたということはなく、帰省してもずっと白黒であった記憶しかない。

      井伊直弼の銅像
    Iinaosuke_3玄宮園の近くの金亀児童公園に井伊直弼の銅像があり、側に開国150年祭の幟も立っている。井伊直弼は14男であったが、運命のいたずらとやらで1850(嘉永3)年に第13代藩主になった。彦根藩主時代は藩政改革を行って、名君の誉れが高かったようである。

    1858(安政5)年に大老に就任し、勅許なしで日米和親条約を締結したことで一面では不忠者呼ばわりされたわけであるが、当時の天皇家が世界情勢を見て開国の是非を判断出来る訳はなく、開国せねば日本が立ち行かないと考える為政者の立場からは、勅許なしでも致し方なしという決断であったのだろう。

    彼は開国を断行したのでその重要さは理解していたようにも思える。しかし川路聖護や岩瀬忠震のような開国に貢献した有能な実務官僚を、慶喜擁立派ということでその後左遷したので、彼の開国の信念がどこまで本物だったのだろうとの疑問も浮かぶ。単に大藩の幕政への介入を防ぎ、幕府の威信回復を目指したスタンドプレーに過ぎない感じがしないでもない。

    昨年の大河ドラマ「篤姫」もまさにこの時代に重なっており、井伊直弼の安政の大獄を、天璋院となった篤姫が糾問したが、幕府の復権を目指すのが自分の役割との直弼の言に納得し、直弼のたてた茶を誉めるシーンがあった。雌伏していた埋木舎(うもれぎのや)時代に茶人として大成したことは事実らしい。

  • 天璋院篤姫雑感

    井伊直弼は雌伏時代に多芸を極めたといわれ、彦根産の焼物である湖東焼の庇護者でもあった。湖東焼については後のウェブログ「藍色のベンチャー:幻の湖東焼」で触れた。

  • 藍色のベンチャー:幻の湖東焼

    <宿敵の水戸との和解を取り持ったお濠の黒スワン>
    玄宮園入口から彦根城お堀巡りの屋形船が出ている。50分かけて内濠をゆっくりと遊覧し、ガイドさんから色々説明も聞けるというので、これは良い機会と乗り込んでみた。乗船切符にはNPO法人小江戸彦根と書いてある。このNPO法人のボランティアであろうか、彦根のことを良く勉強していると感じられる女性ガイドさんの説明が面白かった。

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         女性ガイドの熱心な説明            お濠から見える彦根城

    井伊直弼は1860(安政7)年に江戸城桜田門外の変で、水戸浪士に暗殺された。さらに1862(文久2)年には安政の大獄を行ったことを罪とされて、彦根藩は10万石が減封された。以来、水戸と彦根は宿敵の間柄となったが、1968(昭和43)年に至り、明治100年を契機に彦根市と水戸市は歴史的わだかまりを超えて、親善都市提携を結んだ。この時期の彦根市長は井伊家16代の井伊直愛(なおよし)氏であったと記憶している。

    彦根城のお濠には昔から白鳥が住み着いているが、この親善都市提携を機に、水戸市からブラックスワン(コクチョウ)が贈られたという。なるほど屋形船から白鳥に混じってブラックスワンが泳いでいるのが見える。女性ガイドさんからこの話を聞いて、以前2003年に訪れたことのある水戸市の千波湖のブラックスワンのことに違いないと思った。このウェブログ「茨城県あちこち」でも触れた。

  • 茨城県あちこち

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        彦根城お濠の人気者の白鳥        水戸市から贈られた黒スワン

    水戸の千波湖では、昨年4月にハクチョウやコクチョウが市内の中学生によって撲殺されるというとんでもない事件が起こり、ニュースで知って何ともいえない嫌な気持ちになったのだが、彦根城のお濠でその仲間が元気で泳いでいることを知って、何となくホッとした気持ちになった。彦根城のお濠でそのようなことが起こらないよう祈りたい。

    彦根市のホームページを見ると、明治維新100年を機に彦根市と水戸市が、敦賀市の仲介により親善都市提携を行った、とある。敦賀は、幕末1865年に武田耕雲斎率いる水戸の天狗党が悲惨な最期を遂げた場所である。同じく100年を機に敦賀市と水戸市の姉妹都市提携が行われたことは知っていたが、天狗党と彦根との関係は知識がない。幕末の内戦の怨念を現代にひきずらないよう、敦賀市が音頭をとったのかもしれない。

          

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